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|タイトル=新九郎、奔る!
|タイトル=新九郎、奔る!
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== 概要 ==
== 概要 ==
著者のゆうきは、伊勢新九郎盛時を題材とした漫画について昔から執筆の意図があり、2016年頃から資料を集めていたという<ref>{{Cite tweet|title = ゆうき まさみ on Twitter|date = 2018-1-31|user = masyuuki|number = 958544841855590401|accessdate = 2022-2-13|ref=harv}}</ref>。その構想を練る中で、新九郎について過去に抱いていたイメージが塗り替えられ、新九郎の少年時代から物語を始めるしかないと決意したとしている<ref>{{Cite tweet|title = ゆうき まさみ on Twitter|date = 2018-1-31|user = masyuuki|number = 958819390014697472|accessdate = 2022-2-13|ref=harv}}</ref>。また2022年のインタビューでは、物語の根底にある考え方として、応仁の乱などの戦乱も「自分が生き延びるための最適解を(それぞれが)一生懸命に求めた末に起こった」「誰もが悪人や愚か者になりえる時代だったはず」とし、「主人公を持ち上げるための(一方的な)愚か者や悪人は描かない」「現代社会が新九郎の生きた室町時代と変わらない」とている<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/576287 |title=中日新聞 乱世を真面目に生き抜く姿に共感 「北条早雲」主人公の漫画『新九郎、奔る!』が人気 作者ゆうきまさみさん背景を読み解く 2022年11月4日 |accessdate=2023-01-29}}</ref>。
著者のゆうきは、伊勢新九郎盛時を題材とした漫画について昔から執筆の意図があり、2016年頃から資料を集めていたという<ref>{{Cite tweet|title = ゆうき まさみ on Twitter|date = 2018-1-31|user = masyuuki|number = 958544841855590401|accessdate = 2022-2-13|ref=harv}}</ref>。その構想を練る中で、新九郎について過去に抱いていたイメージが塗り替えられ、新九郎の少年時代から物語を始めるしかないと決意したとしている<ref>{{Cite tweet|title = ゆうき まさみ on Twitter|date = 2018-1-31|user = masyuuki|number = 958819390014697472|accessdate = 2022-2-13|ref=harv}}</ref>。また2022年のインタビューでは、物語の根底にある考え方として、応仁の乱などの戦乱も「自分が生き延びるための最適解を(それぞれが)一生懸命に求めた末に起こった」「誰もが悪人や愚か者になりえる時代だったはず」とし、「主人公を持ち上げるための(一方的な)愚か者や悪人は描かない」「現代社会が新九郎の生きた室町時代と変わらない」と語っている<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/576287 |title=中日新聞 乱世を真面目に生き抜く姿に共感 「北条早雲」主人公の漫画『新九郎、奔る!』が人気 作者ゆうきまさみさん背景を読み解く 2022年11月4日 |accessdate=2023-01-29}}</ref>。


歴史を題材とした作品では、史実として諸説ある人物・出来事をどのように表現するか作品により大きく異なるが、本作品では基本的に近年の歴史学で主流となっている説を採用しつつ、物語を作るに足りない部分に創作を導入し、そのための考証協力者には中世史家の[[本郷和人]]<ref>第1集 210p、第2集 202p</ref>、[[黒田基樹]]<ref>第9集奥書</ref>がクレジットされるなど本格的な歴史描写に取り組んだ作品となってている。一方で軽妙なギャグ表現も多数描かれ、「(装備品の)最新モデルのカタログ」<ref>第7集 39p</ref>「[[同人誌]]」<ref>第8集 149p</ref> 「JR西日本のチケット」<ref>「新九郎、奔る!」第11集第66話 P6</ref>といった当時存在しない現代用語を用いて笑いを取るような表現も、歴史作品としてのストーリーを崩さない程度に抑えてではあるがなされている。
歴史を題材とした作品では、史実として諸説ある人物・出来事をどのように表現するか作品により大きく異なるが、本作品では基本的に近年の歴史学で主流となっている説を採用しつつ、物語を作るに足りない部分に創作を導入し、そのための考証協力者には中世史家の[[本郷和人]]<ref>第1集 210p、第2集 202p</ref>、[[黒田基樹]]<ref>第9集奥書</ref>がクレジットされるなど本格的な歴史描写に取り組んだ作品となってている。一方で軽妙なギャグ表現も多数描かれ、「(装備品の)最新モデルのカタログ」<ref>第7集 39p</ref>「[[同人誌]]」<ref>第8集 149p</ref> 「JR西日本のチケット」<ref>「新九郎、奔る!」第11集第66話 P6</ref>といった当時存在しない現代用語を用いて笑いを取るような表現も、歴史作品としてのストーリーを崩さない程度に抑えてではあるがなされている。
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== あらすじ ==
== あらすじ ==
時は[[明応]]2年([[1493年]])、[[伊豆国]]・[[堀越公方|堀越御所]]に手勢を率いて討ち入る一人の男がいた。その名は'''[[北条早雲|伊勢新九郎盛時]]'''。[[室町幕府]][[奉公衆]]として、幕命により[[足利茶々丸]]の首を獲りに来た新九郎だが、その心中では一つの決意を固めていた。「明日から、俺の主は俺だ!」
: 過去に記載された「あらすじ」については、「[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E6%96%B0%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%81%E5%A5%94%E3%82%8B!&oldid=94459988 こちらのリンク]」から参照ねがいます。<!--2023年4月より半年ほど、「過去のあらすじ」へのリンクを掲載するものとします。その後は撤去をお願いします。-->

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時は[[明応]]2年([[1493年]])、[[伊豆国]]・[[堀越公方|堀越御所]]に手勢を率いて討ち入る1人の男がいた。その名は'''[[北条早雲|伊勢新九郎盛時]]'''。[[室町幕府]][[奉公衆]]として、幕命により[[足利茶々丸]]の首を獲りに来た新九郎だが、その心中では1つの決意を固めていた。「明日から、俺の主は俺だ!」


=== 第1章「応仁の乱 編」(第1集 - 第3集) ===
=== 第1章「応仁の乱 編」(第1集 - 第3集) ===
遡ること27年前、文正元年(1466年)8月。室町幕府官僚の父・[[伊勢盛定|伊勢備前守盛定]]の被官で傅(もり)役の大道寺右馬介に山城国宇治の館で育てられていた当年11歳の伊勢千代丸(のちの伊勢新九郎盛時)は、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため、京の都の将軍御所に隣接する伊勢一門の宗家・伊勢伊勢守家の邸に住む父・盛定の手許に戻り、父の一家・伊勢備前守家と暮らすことになる。
遡ること27年前、[[文正]]元年([[1466]] )8月。室町幕府官僚の父・[[伊勢盛定|伊勢備前守盛定]]の被官で傅(もり)役の[[大道寺氏|大道寺右馬介]][[山城国]][[宇治郡|宇治]]の館で育てられていた当年11歳の伊勢千代丸(のちの[[伊勢宗瑞|伊勢新九郎盛時]])は、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため、[[京都|京の都]][[花の御所|将軍御所]]に隣接する伊勢一門の宗家・[[伊勢氏#宗家|伊勢伊勢守家]]の邸に住む父・盛定の手許に戻り、父の一家・伊勢備前守家と暮らすことになる。


伊勢一門の宗家当主・[[伊勢貞親|伊勢伊勢守貞親]]は、妹・須磨と結婚し婿となった盛定の義兄であり、室町幕府ではその財政を司る政所のトップである政所執事を務め、将軍・[[足利義政]]の元服前に傅(もり)役であった縁で義政からは側近として深い信任を得、有力大名の家督にも介入する強大な権力を握っていた。また貞親は自分の[[嫡子]]・[[伊勢貞宗|伊勢兵庫助貞宗]]にも将軍・義政の嫡子・[[足利義尚|春王]]の傅役を務めさせ、春王が将来将軍になる際は伊勢家として引き続き権勢を得ることを目論む。
[[文正の政変]]により、伊勢一門の宗家当主・[[伊勢貞親|伊勢伊勢守貞親]]と盛定は近江国へ逃亡。貞親の嫡子・[[伊勢貞宗|伊勢兵庫助貞宗]]が貞親に代わり伊勢伊勢守家当主および政所執事として幕府に出仕しその座を継承、伊勢家は諸大名との関係の改善を図りつつ政務をこなし、その中で千代丸も幕府重鎮の大名・[[細川勝元]]、[[山名宗全]]らから知遇を得る。


将軍・足利義政にまだ嫡子がいなかった頃、義政は弟・[[足利義視|足利義視(今出川殿)]]を僧侶から[[還俗]]させ将軍[[後継|継嗣]]とした。しかし義政に嫡子・春王が生まれたことで義視の立場は微妙となる。義視は依然、将来義政の後を継ぎ将軍職に就くとされたが、その座は一代限りで、その後は成長した義政の子・春王に将軍の座を譲ることとされた。しかし伊勢貞親は義視の激しい性格を見て、義視が一度将軍の座に就き権力を掌握すると、約束は反故にされその座は春王に譲られず義視の子へ継承されてしまい、春王の傅役としての伊勢家の権勢が失われると危惧し、義視の排除を企てる。
やがて[[応仁の乱]]で京都を東西に二分する戦火の最中、千代丸は12歳で元服し、名も伊勢新九郎盛時と改める。戦況が東軍に不利になると、将軍・[[足利義政]]の弟で東軍総大将に担ぎ上げられていた[[足利義視]]は総大将にもかかわらず伊勢国へ逃亡。義視に仕えていた新九郎の兄・八郎もこれに付き従う。一方、伊勢貞親と新九郎の父・盛定は義政に呼び戻され復権し京都へと帰還する。そして新九郎の姉・[[北川殿|伊都]]は将軍御所警備の名目で上洛し東軍に属する駿河国守護・[[今川義忠|今川治部大輔義忠]]のもとへ嫁ぐことになった。


[[文正]]元年(1466年)9月、伊勢貞親は将軍・足利義政に、[[斯波氏|斯波家]]の家督争いで[[斯波義敏]]に敗れた[[斯波義廉]]が兵を集めるのを義政の弟・足利義視が支援しており、騒乱を煽ろうとする義視に謀反の疑いありと訴えた。これに将軍・義政は激怒、明日義視に切腹を命じようと息巻いたが、義視はすぐに邸を脱出し[[細川勝元|細川]]邸次いで[[山名宗全|山名]]邸へ逃げ込み、[[山名宗全]]を中心とする反伊勢貞親派の大名達は今出川殿(義視)御謀叛というのは伊勢貞親による誣告(ぶこく)であり、貞親とその右腕である千代丸の父・盛定が切腹すべきと将軍・義政に迫った。その日義政は伊勢貞親と盛定への切腹命令を下さず奥へ引き込んだものの、流されやすい性格の義政が切腹命令を出すのは時間の問題と思われた。これにより伊勢伊勢守邸は貞親と盛定への切腹命令を確実に実行させようとする反伊勢貞親派の大名の兵に取り囲まれるが、切腹命令が出る前、邸を取り囲む兵が減ったその日の夜に貞親と盛定は共に近江国へ逃亡、貞親は政所執事、盛定は申次衆の座を失い失脚した。また伊勢貞親に同調し権勢を得ていた[[斯波義敏]]、[[赤松政則]]、[[季瓊真蘂]]らも逃亡、失脚した([[文正の政変]])。貞親と盛定が都を去ると、貞親の嫡子・[[伊勢貞宗|伊勢兵庫助貞宗]]が貞親に代わり伊勢伊勢守家当主および政所執事として幕府に出仕しその座を継承、伊勢家は諸大名との関係の改善を図りつつ政務をこなし、その中で千代丸も幕府重鎮の大名・[[細川勝元]]、[[山名宗全]]らから知遇を得る。
応仁の乱勃発から1年、東軍総大将にも関わらず逃亡した足利義視が都へ帰還。伊勢一門は八郎に伊勢家に戻るよう命じるが、逃亡の旅で主君である義視への厚い忠誠心を抱くようになった八郎は、義視こそが「次の将軍に相応しい」と貞親や盛定への怒りをあらわにし反発する。


文正の政変後、協調関係にあった細川勝元と山名宗全だったが、幕政の主導権をめぐって次第に対立。[[応仁]]元年(1467年)、畠山家の家督争いへの加担を皮切りに京都を東西に二分する「[[応仁の乱]]」へと発展する。当初将軍・[[足利義政]]は両者に停戦命令を出すなど中立を保ち大名たちの私戦との位置づけであったが、細川勝元が将軍御所を囲い込むことで将軍と幕府は細川方となり、将軍に近侍する伊勢家も細川方に属することとなる。ここに至って主に[[堀川 (京都府)|堀川]]を挟んで東側に陣を布いた細川方が東軍、西側に陣を布いた山名方が西軍と呼ばれることとなり、戦乱は泥沼化していった。戦火の最中、千代丸は12歳で元服し、名も'''伊勢新九郎盛時'''と改める。戦況が東軍に不利になると将軍・足利義政の弟で東軍総大将に担ぎ上げられていた[[足利義視]]は総大将にも関わらず[[伊勢国]]へ逃亡。足利義視に仕えていた新九郎の兄・八郎もこれに付き従う。一方、伊勢貞親と新九郎の父・盛定は将軍・足利義政に呼び戻され復権し京都へと帰還する。そして新九郎の姉・[[北川殿|伊都]]は将軍御所警備の名目で上洛し東軍に属する[[駿河国]][[守護]]・[[今川義忠|今川治部大輔義忠]]のもとへ嫁ぐことになった。
応仁2年(1468年)11月、新九郎の姉・伊都の輿入れの準備で伊勢家が忙しい最中、幕府内で孤立していた義視が失踪し、義視に仕える八郎も姿を消す。新九郎と伊勢備前守家の家人達は出奔を阻止すべく捜索を行い、比叡山目指して鴨川の河原で川を渡ろうとしていた義視の一行を発見。新九郎は八郎に伊勢家に戻るよう説得するが、八郎は聞く耳を持たない。


応仁の乱勃発から一年、東軍総大将にも関わらず逃亡した将軍弟・[[足利義視]]が都へ帰還するが、幕府内での立場を失い、約束されていたはずの次期将軍の地位も危うくなっていた。義視に利用価値が無くなったと判断した伊勢一門は八郎に伊勢家に戻るよう命じるが、伊勢国への逃亡の旅で主君である足利義視への厚い忠誠心を抱くようになった八郎は義視こそが「次の将軍に相応しい」と貞親や盛定への怒りをあらわにし反発する。そして悲劇が起きる。
新九郎達を尾行してきた幕府奉公衆の伯父・伊勢掃部助盛景一行が狙い放った矢は八郎に中たり、盛景が新九郎の目の前で八郎にとどめを刺し、八郎は落命する。伊勢一門から謀反人を出す訳にはいかないため、八郎の死は急な病死として扱うこととなった。新九郎はこの一門の決定に抗うことができない無力な自分にひとり泣いていたが、備前守家の若い家人達が「どうか明日から将来の備前守家の後継者として心構えを持って下さい」と励ます。


応仁2年(1468年)11月、新九郎の姉・[[北川殿|伊都]]の輿入れの準備で伊勢家が忙しい最中、幕府内で孤立していた将軍の弟・[[足利義視]]が失踪し、義視に仕える新九郎の兄・八郎も姿を消す。応仁の乱の東軍総大将である足利義視には西軍に通じている噂が絶えず、もし義視が西軍に向け出奔したならば幕府への謀反、それに従う八郎も同罪ということになるため、新九郎と伊勢備前守家の家人達は出奔を阻止すべく戦火で廃墟となった暗闇の夜の街で捜索を行う。新九郎は足利義視が安全に逃れる場所として[[延暦寺|比叡山]]に向かっていると考え、[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の河原で川を渡ろうとしていた義視の一行を発見するが、八郎が刀を抜いて新九郎達の前に立ちふさがり義視の一行を逃そうとする。新九郎は八郎に伊勢家に戻るよう説得するが、八郎は「(備前守家の)家督など新九郎にくれてやる」と聞く耳を持たない。八郎が義視の一行を追って立ち去ろうとしたその時、新九郎達同様に義視の一行を捜索していた幕府[[奉公衆]]の伯父・[[伊勢盛景|伊勢掃部助盛景]]の家人が放った矢は八郎に中たり、盛景が新九郎の目の前で八郎にとどめを刺し八郎は落命する。八郎の遺体は伊勢伊勢守家の邸に運び込まれるが、盛景は謀反人を身内で片付けたまでと開き直り、貞親や盛定、貞宗は伊勢一門から謀反人を出す訳にはいかないとして、八郎を殺害することで身内からの幕府への謀反を防いだ盛景に落ち度は無く、八郎の死を急な病死として扱うこととした。新九郎はこの一門の決定に抗うことが出来ない無力な自分に落胆し、雨が降る夜の邸の庭でひとり泣いていたが、備前守家の若い家人達が新九郎の前に集い「どうか明日から将来の備前守家の後継者として心構えを持って下さい」「我らが力を尽くしてお支えいたす」と新九郎を励ました。
== 登場人物 ==
{{内容過剰|date=2022年11月|Wikipedia:過剰な内容の整理/過剰な内容の整理|section=1}}


=== 第2章「領地経営 編」(第4集 - 第6集) ===
[[文明]]3年([[1471年]])2月、応仁の乱は京都での戦闘がほとんど無くなったが、地方へその余波が波及していた。新九郎の父・[[伊勢盛定|伊勢備前守盛定]]の所領の[[備中国]][[井原市#歴史|荏原郷]]では隣国[[備後国]]で続く争乱に対し備中国守護・[[細川勝久]]から兵糧提供の準備を求められ、また争乱の結果によっては敗残兵への備えが必要になることから、父・伊勢盛定は16歳になった新九郎に名代として荏原への下向を命じる。

3月、新九郎は伊勢備前守家の家臣、大道寺太郎、荒川又次郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に荏原郷に入る。荏原郷では父・盛定の伊勢備前守家と、父の次兄・[[伊勢盛景|伊勢掃部助盛景]]の伊勢掃部助家で、備中伊勢氏としての所領を東西に分割しており、備前守家の所領・東荏原はここ2年ほど年貢からの収入が大幅に減っていた。原因として掃部助家の所領・西荏原との土地の境目があいまいで、東西荏原の年貢を集めるため両家が設けた荏原政所の胸先三寸で備前守家の取り分が決まっていることを知らされる。地侍や農民も新九郎を領主として認識しておらず、荏原政所を頭人として取り仕切る父の三兄で新九郎の伯父・[[伊勢珠厳|珠厳]]も新九郎をすぐに[[京都|京の都]]へ帰る客扱いし、新九郎は荏原に来て早々に山積する問題に頭を抱える。同じころ荏原の北の戸倉から小菅を勢力範囲とし伊勢家に心服しない国人・[[那須氏|那須家]]の当主・[[那須資氏|那須修理亮資氏]]やその従妹で女性ながら男装の弓の達人・弦姫とも知り合うが、これが荏原の問題を解決していく思わぬ糸口となる。

応仁の乱の影響は地方に波及したしていたが、荏原では隣国備後国での騒乱と比べほぼ無風といってよいほど静かであった。しかしやがて細川家家臣で備中国[[守護代]]・[[庄氏#備中庄氏(荘氏)|庄伊豆守元資]]から備後国へ向かう東軍・[[山名是豊]]の軍勢の宿泊、通過{{Efn|現在の国道2号線のルートと異なり、荏原には当時の幹線である旧山陽道が通っていたため、騒乱が起こるとしばしば軍勢の往来があった。}}に対する支援を依頼されると、新九郎は領主名代としてこれにそつなく対応する。ほっとするのも束の間、新九郎は荏原の土地の台帳に基づき年貢が分けられるよう荏原政所頭人・[[伊勢珠厳|珠厳]]、掃部助家の[[伊勢盛頼|盛頼]]らに求め、台帳の確認や検田を行おうとするが、珠厳らはそれを快く思わない。

4月、新九郎は伯父の荏原政所頭人・珠厳から新九郎の荏原赴任を歓迎する酒宴に招かれた。酒宴には新九郎と家人たちに加え、珠厳、盛頼の弟で珠厳に仕える珠龍、そして掃部助家から盛頼が参加することになっていたが、盛頼は到着が遅れていた。しかし酒宴の席に着いた新九郎は何かおかしい雰囲気を感じ、腹痛を理由に帰ろうとしたところ、これを押し留めようとする荏原政所の給仕と揉め、板戸が倒れると隣の部屋に武装した侍たちがおり酒宴で新九郎たちを殺害しようとしていたことが明らかになる。珠厳は盛頼一行が到着後、盛頼に殺害を実行させるつもりだったが、盛頼到着前に新九郎たちに発覚してしまった以上自ら実行する覚悟を決め、武装した侍たちが新九郎たちを取り囲む。新九郎たちは酒宴の席に着く前に[[太刀]]を預けてあり、[[脇差|腰刀]]だけでは相手にならず斬死を覚悟する絶体絶命の状況となったが、そこに盛頼とその家人たちが遅れて到着する。珠厳は盛頼に「待ちかねていたぞ」と言い、盛頼が珠厳に加勢と思われたその時、盛頼は珠厳を取り押さえると、珠厳が荏原政所頭人として東西荏原の採れ高を不正に操作し自らの懐を潤していたことを明らかにし、珠厳は病を得て執務ができないため今日を限りに退任、代わって盛頼の弟の珠龍が荏原政所の頭人になることを宣言した{{Efn|盛頼は、弟・珠龍からの内通で、叔父の荏原政所頭人・珠厳が東荏原に加え、掃部助家の所領・西荏原の年貢もかすめ取り不正蓄財をしていたことを知った。盛頼は珠厳に「俺は優しいから叔父上(珠厳)を殺そうとまでは思わない(が、盛頼の父で掃部助家当主・盛景が知ったらそれでは済まない)」「叔父上が病を得て執務出来なくなり退任ということにするから同意せよ(さもなければ父・盛景に通報し殺されかねない事態になるぞ)」と反論を許さない圧力を掛け、珠厳を荏原政所頭人から強制退任させた。}}。盛頼は新九郎を助けるつもりでクーデターを起こした訳ではなかったが、新九郎は自分に敵対的と思っていた盛頼に絶体絶命の状況から救われることになった。

4月28日、[[京都|京の都]]では将軍・[[足利義政]]が珍しく伊勢伊勢守家の邸に[[伊勢貞親]]を「私用」として訪ねた。義政は元服前に傅(もり)役の貞親に養育されたため、しばらく昔話をしていたが、話を改め貞親が将軍側近・[[日野勝光]]を失脚させようとしていたこと、および義政の将軍位退位と義政の嫡子・[[足利義尚|春王]]の将軍就任の裏工作を行っていることを証人と共に突き付けた。義政は自分を育ててくれた礼と共に涙ながらに貞親を本日を以て幕府政所執事から解任し無役とし、貞親の嫡子・[[伊勢貞宗|貞宗]]を代わりに任命することを申し付けた。これにより貞親は[[文正の政変]]に続く2回目の失脚で、出家の上、近江国へ出奔することとなった{{Efn|将軍の名のもと権力をふるっていた貞親は、同時に諸大名から恨みもかっており、権力者の立場を解任され警護も薄くなると命を狙われかねず、それ故に公には行き先を隠し地方へ出奔した。}}。また貞親と一連託生の新九郎の父・[[伊勢盛定|盛定]]も出仕停止、出奔こそしなかったものの蟄居となった{{Efn|[[文正の政変]]の時と同様、盛定は貞親の工作を支える活動をしていた。今回盛定は将軍・義政から直接咎められた訳ではないが、貞親に下った沙汰からそれを支える活動をした盛定も当面謹慎するよう、新たに宗家・伊勢伊勢守家当主となった貞宗に申し付けられ蟄居することとなった。}}。将軍の命で貞宗が政所執事職を継いだい伊勢伊勢守家はともかく、盛定の伊勢備前守家は家自体が無役ということになると、役目の対価で与えられて所領のいる東所領も取り上げられる可能性が出てきた。荏原にいる新九郎はこの事態を手紙で知るも様子を見守るしか出来ず落ち着かない日々を過ごすのであった。

5月、新たに荏原政所の頭人となった盛頼弟・珠龍と、盛頼、そして新九郎による話し合いが持たれた。新九郎はこれに加えて荏原の北の山間部に住む[[国人]]の那須家当主・那須修理亮資氏を呼び、西荏原・伊勢掃部助家、東荏原・伊勢備前守家、那須家の3家による年貢の取扱いの監視の仕組みを導入することでの珠厳の不正蓄財のような事件の防止を提案する。荏原は掃部助家にしか取りまとめられないと思っている盛頼はたじろぐが、那須資氏が面白うござると合意したことで盛頼も合意せざるを得ず、この監視の仕組みは動き出すこととなった{{Efn|珠厳の不正により、西荏原・伊勢掃部助家と東荏原・伊勢備前守家は程度の差こそあれ年貢を掠め取られ、また備前守家や那須家は納めたはずの年貢が足りないとケチを付けられ追加で収めなければならなかったことがあり、不正の再発は困るというのが三家共通の認識となっていた。盛頼には掃部助家こそが荏原全体の領主という感覚がありお互いを対等に監視する新九郎の提案には内心腹立たしかったが、那須修理亮資氏や備前守家宿老の笠原まであんな不正はもうまっぴら御免でござると抗議する状況に、不正監視の仕組みをやってみようと合意せざるを得なかった。一方、新九郎にはこの仕組みが機能すれば東荏原・伊備前守家の収入を台帳通りに回復出来るとの考えがあった。}}。

新九郎は新たに幕府[[政所#室町時代の政所|政所]]執事となった兵庫助あらため[[伊勢貞宗|伊勢伊勢守貞宗]]に呼ばれ上洛。そこで父・伊勢盛定が剃髪し蟄居状態であることを知る。新九郎は貞宗や[[細川勝元]]に依頼し将軍・[[足利義政]]に会う約束を取り付け、嫌がる盛定を連れ義政に謁見、盛定は貞親の不正工作に加担した謝罪と、自らの隠居、出家により家督を新九郎に譲ることを願い出る。将軍・義政は鷹揚な表情ではあるものの、自分を将軍から退位させ嫡子・春王に譲らせようと工作した伊勢貞親、盛定らへの怒りは大きく、盛定の隠居と出家によりとばっちりを受ける形となった新九郎には、家督と所領を相続こそ認めたが、余の瞳が黒いうちは幕府の役目への任官{{Efn|申次衆や奉公衆、奉行衆といった幕府の役目への任官。}}は無く、無位無官{{Efn|幕府での職位に応じて与えられる朝廷の官位・官途。室町時代にはもはや朝廷の官位・官途に仕事の実態は無く事実上の名誉職で、新九郎の父・盛定の場合は隠居、出家するまで従五位下・備前守だった。}}の地方領主として日々を送れと申し付けた。これにより新九郎は無位無官、幕府に無役の状態で伊勢新九郎家とでもいうべき家督と東荏原の所領を相続し、新九郎は東荏原の領主「名代」から正式な「領主」となった。

5月30日、新九郎が荏原に戻ると、伊勢掃部助家と那須家が戦の一歩手前の一触即発の状態になっていた。争いの原因は土地の台帳を厳格に適応するようになり代々那須家に仕える沼之井という者が耕す土地が台帳では掃部助家の土地とされ、台帳の通り今後年貢の取りまとめを掃部助家が行うことを沼之井に伝えに行くと沼之井が拒否し乱闘に至り、掃部助家に死人が出て沼之井は那須家に保護を求め逃げ込んだと言い、おまけに那須家は狩り小屋との名目で砦を建て、掃部助家による見分も拒否しているという。新九郎はまず盛頼が[[甲冑|具足]]姿で今にも那須家に攻めかかろうとしていたのを押し留め、次に那須家の砦がある場所が[[法泉寺 (井原市)|法泉寺]]の背後の山であることが分かると、東荏原の領主として法泉寺の寺域での争いを禁止する「禁制」(法泉寺の平盛時禁制){{Efn|当時、公的文書などへの格式張った署名として[[本姓]]で記すことがあった。この場合、伊勢家は平氏の末裔を自認しているので、新九郎は平盛時となる。}}<ref name="tairanomoritokikinnsei">{{Cite web|url=http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/detail_b.php?id2=21&map=s|title=井原市の文化財 法泉寺文書 附 伊勢盛時禁制札|accessdate=2021-08-09}}</ref> を発行し、弦姫を介して資氏に対し東荏原領主として法泉寺の寺域に禁制を発行したこと、東荏原は西荏原の側に付き那須家と戦う意思が無いことを説明、那須家に話し合いの席に着くことを説得し、那須の砦を解体させることに成功する。さらに掃部助家と那須家両方が納得する仲裁者として、新九郎が元服前に細川家への使い走りをしていたことからの顔見知りである細川家家臣の備中国[[守護代]]・[[庄氏#備中庄氏(荘氏)|庄伊豆守元資]]に仲裁を依頼、掃部助家と那須家は他ならぬ守護代による仲裁ということで話し合いの席に着くことになった。ほどなく法泉寺で行われた話し合いでは仲裁役の庄元資が取りまとめ、沼之井の年貢はこれまで通り那須家が扱うが、那須家は掃部助家に埋め合わせをするということで詳細を詰める事となった。

新九郎は領主になったと言えども16歳の男子。那須の弦姫に初めて会った時から女性ながらその凛々しい姿に憧れを抱いていたが、一緒に鷹狩りや馬の遠乗りに出かけるうちに憧れの気持ちは恋心へ変わっていった。那須家が山中に築いた砦の解体に立ち会った際には、新九郎は河原で半裸で汗を拭う弦姫を見てしまい、妄想に頭を悩まる日々を過ごすのであった。

6月、[[伊勢盛頼|盛頼]]は、新九郎に東荏原の代替わりのお披露目の祝宴を開き、近隣の主だった国人たちも招いて美味しい酒など景気よく振る舞えば領主がましくなるだろうと言う。新九郎がこれを笠原や平井ら宿老に相談すると、宿老たちは新九郎の父・盛定が酒宴や贈答にかなりの金を使ってしまったため{{Efn|幕府申次衆の仕事の初歩は将軍や幕府上層部への単なる伝奏だが、熟練すると将軍・幕府の意に沿った結論に落としたり、または意を汲んで関係者の説得や調整を行うため、場合によっては自らの判断で贈答品や賄賂を使い承諾させることもあり、その費用は申次の自腹で賄われることがほとんどで、出費が多い役目という側面もあった。}}、城の整備、家人らの俸禄、備えの更新などで借銭の域に達しておりとても祝宴など開ける状況ではないという。新九郎は一旦祝宴を諦めるが、宿老たちは代替わりのお披露目もして差し上げられないようでは宿老として名折れだとして、その年の年貢の一部を質に入れることで借銭をしお披露目の祝宴を開くこととなった。

6月24日、祝宴の当日。東荏原・高越山麓の城主館に次々招待客がやってくる。盛頼や、しばらく前に荏原に下向してきていた盛頼の父で新九郎の伯父の伊勢掃部助盛景、備中国[[守護代]]・庄伊豆守元資、国人・那須修理亮資氏とその従妹の弦姫も到着。弦姫は普段の男装ではなく女性らしい[[打掛]]姿で現れ、新九郎の目は釘付けとなる。途中、庄元資、盛景、資氏らが和解の仕上げをすると別室へ移動するが、しばらく後で和解が成立したとして戻ってきた。

祝宴も終わり招待客は三々五々帰っていく。盛景は盛頼に弦姫を那須家の館がある戸倉まで送っていくよう申し付け自分は先に帰っていったが、先程まで祝宴の席にいた弦姫が見当たらない。新九郎と家人たちは弦姫を探すが、新九郎は馬房で馬を眺めていた弦姫を見つける。弦姫は祝宴での男たちの自慢話が退屈で仕方無かった、もう少し新九郎と話したいという。新九郎は我慢していたものが切れてしまい、貴女に惹かれているようだと言ってしまう。弦姫は自分が一度政略結婚をし男女の機敏など知らぬまま子も産まずに帰ってきた女だが、今まで殿方からそのようなことを言われたことは無く、新九郎を何とかわゆいお方だという。ふたりは人が来ない敷地内の工房に移動し、結ばれる。そして弦姫は夜のうちに戸倉に帰って行った。

翌朝このことはほどなく新九郎の家人たちにも知れることとなった。家人たちの会話では在竹三郎がこれを機に那須と結ぶのも手かと問うが、荒川又次郎は遊びなら構わんだろうが殿の立場と前途を考えると正室は京都でしかるべき家から迎えなければならないだろうと言う。新九郎は盛頼に呼ばれ外出するが、そこで何も知らない盛頼から備中国守護代・庄元資を呼び込んでの仲裁をお膳立てした礼と共に、昨日の祝宴の合間に行った会談で掃部助家と那須家の和解の総仕上げとして那須の弦姫が側室として盛頼に嫁ぐことが決まったと知らされ、新九郎は凍りつくのだった。

=== 第3章「凶の都 編」(第7集 - 第8集) ===
弦が盛頼の側室になる話を聞き、弦に恋心を抱いていた新九郎はもぬけの殻のようになった。かと思えば荒れて[[高越城|高越山]]麓の城主館裏の竹林で大声で刀を振り回したりと躁鬱をくりかえしていたが、ほどなく良い家来たちの前でいじけていては罰があたると思い直し、次第に平静を取り戻していった。一方、弦を側室に迎える盛頼{{Efn|第7集第38話で、盛頼には京都に正室(正妻)と嫡男(長男)がいると説明されており、弦は側室で荏原での「現地妻」となる。}}は、父・盛景と那須修理亮資氏が本人たちの承諾なしにこの結婚を決めたのはひどい話だが、弦は一本芯の通った女なので、幕府[[奉公衆]]の役目で荏原を離れ[[上洛]]する間も父・盛景や荏原政所などに目を光らせてくれる弦ならば安心して背中を任せられると言う。数日後、弦は掃部助家に輿入れし、これに合わせ盛頼の父・盛景は正式に隠居し、盛頼は西荏原の領主と掃部助家の家督を継いだ。

文明3年(1471年)7月、[[京都|京の都]]では死病の[[疱瘡]]が流行っていた。衛生環境が悪く日々の食事にも困る生活困窮者ほど感染率も死亡率も高く、市中には遺体があふれていた。疱瘡は経験則で一度罹り死なずに回復すると二度と罹らない病として知られていたため、疱瘡の罹患経験がある[[侍所]]の者が指揮を取り被差別民{{Efn|[[犬神人]]または坂非人は[[大社]]に属し河原に住む人々とされ、もともとは大社境内で死んだ鳥獣や行き倒れの人間の遺体の処理と清掃などの死穢の除去に始まり、室町時代は葬送法師として京都市中の遺体の搬送と火葬を行ったとされる。}}が遺体の搬送と火葬の処理を行った。新九郎の一家が住む伊勢伊勢守家の邸では新九郎の弟・[[伊勢弥次郎|弥次郎]]が高熱で動けなくなるが、疱瘡とは異なる発疹が出て[[はしか]]の様相を示した。義母・須磨が懸命に看病するが、須磨もはしかに感染し亡くなってしまう。疫病の大流行に対し、将軍・[[足利義政|義政]]は疱瘡・はしかの罹患経験がある侍所の者を現場の指揮に出す他は、祈祷以外の根本的な対策を行うことが出来ず、天皇からはこの状況を諌める漢詩を贈られ、妻・[[日野富子]]とは大喧嘩、将軍家は家庭内別居状態になった。

7月下旬、荏原にいる新九郎の元に、義母・須磨が亡くなったので上洛するようにとの知らせが到着する。急ぎ京都へ向かい、市中に入ると疫病で亡くなった躯(むくろ)を運ぶ多数の荷車を見かける。新九郎が伊勢守家の邸に着くと、弥次郎ははしかから回復していたが、須磨の葬儀は死因が疫病だったためやむを得ず一門で手早く済ませ終わっていた。新九郎は義母の位牌に手を合わせた。須磨が亡くなったことで新九郎の父・[[伊勢盛定|盛定]](備前入道)はひどく落胆しており、幕府の役目から隠居・引退後も実質的にこなしてきた[[申次衆]]の仕事が出来る状態ではなくなっていた。新九郎はすぐにも荏原に戻りたかったが、新九郎の義従兄で幕府[[政所#室町時代の政所|政所]]執事となった[[伊勢貞宗|伊勢伊勢守貞宗]]は、宗家当主として一門の新九郎に対し、父・盛定に代わり滞っている申次衆の仕事をこなすよう命じ、新九郎が幕府の仕事に慣れるように仕向けるのであった。

8月。伊勢伊勢守家の邸の敷地内にある別棟・北小路第(きたこうじてい)には将軍・[[足利義政]]の嫡子・[[足利義尚|春王]]が住み、伊勢一門の宗家当主・[[伊勢貞宗|伊勢伊勢守貞宗]]が春王の傅(もり)役を務めている。その春王に呼ばれ新九郎が北小路第を訪ねると、春王は新九郎が数年前に献上した竹馬が壊れてしまい直して欲しいという。新九郎がこの竹馬を直しふたたび献上すると、直した新九郎を余の股肱(ここう)で恃み(たのみ)にする、明日も明後日も訪ねて参れという。子供だが次期将軍を約束された春王から好かれることは新九郎にとって将来の栄達の道が開かれたも同然と貞宗や盛定、笠原や大道寺右馬助など周囲は喜ぶが、早く荏原に戻り所領の差配をしなければならない新九郎は内心困り果てた。

8月末、応仁の乱は5年目を迎え膠着状態で落とし所が見えなかった。新九郎は細川勝元の正室で西軍・山名宗全の娘(養女)・亜々子が齢70近い宗全の身を心配していると聞き、新九郎は自分が乱の終結に何らか貢献出来ないかと考えていたが、幕府方・東軍の[[伊勢貞宗]]が西軍に属する貞宗の叔父・[[伊勢貞藤]]と極秘に連絡を取り合っていたことを知ると{{Efn|京都市中は応仁の乱の大規模な戦闘は収まったものの小規模な小競り合いは依然発生しかねない状態で、東軍西軍それぞれ関を設け通行する者を監視していたので、東軍・伊勢伊勢守邸と西軍・伊勢貞藤邸の両方に出入りし伊勢家が信頼出来る商人などに内密な手紙の受け渡しを頼んだり、商人一行に紛れ行き来したと思われる。}}、新九郎は貞宗の許しを得て下人に扮し西軍・貞藤の屋敷に潜り込む。新九郎の生母で貞藤と再婚した浅茅がいる貞藤の屋敷では、貞藤と浅茅は新九郎が下人に扮して潜り込んできたことに驚くものの、新九郎を歓迎する。そこで新九郎は「[[山名宗全|(山名)宗全]]入道にお会いすることは出来ないでしょうか」「囲碁の勝負がまだ付いていないとお伝え頂ければ分かるはず」{{Efn|第1集第4、5話で、伊勢伊勢守家(伊勢宗家)と細川京兆家(細川宗家)の間の使い走りをしていた元服前の千代丸(新九郎)が、細川邸にて勝元正室で宗全の娘(養女)の亜々子を訪ねてきた宗全と碁を打つことになったが、この時は対局の途中で終了となり勝負が付かなかったものの、宗全は物怖じしない千代丸を気に入ったようだった。}}と貞藤に依頼し、その夜新九郎は貞藤と共に山名宗全邸を訪ねた。現れた宗全は驚いたことに[[中風]]で半身不随、言葉もろれつが回らなくなっていたが、意識や思考は明瞭なようで、「敵地に乗り込んで勝負に挑もうとは見上げた根性」とぶっきらぼうなことを言いつつ新九郎を歓迎した。ところがここに西軍の乱の急先鋒・[[畠山義就]]と[[大内政弘]]が囲碁を観戦に現れると場の雰囲気は一気に緊張したが、新九郎を東軍の[[間者]]とみなす畠山義就が厳しい言葉を浴びせようとするのを宗全は西軍の首領として諭し、囲碁の勝負は進んだ。新九郎は宗全から細川家と山名家を和睦交渉に向かわせる言葉を引き出し細川勝元に伝えたかったが、応仁の乱の継続を望む畠山義就と大内政弘{{Efn|応仁の乱の西軍・山名宗全は細川勝元との幕府内での勢力争いで応仁の乱を引き起こしたため、勝元や細川家との間で合意が出来れば乱を終わりにしても構わなかったが、畠山義就は畠山政長と畠山家の家督争いをしていたところ山名宗全から加担された経緯があり、家督争いで政長に勝つまでは乱を止める訳には行かなかった。また大内政弘は10年におよぶ大軍を引き連れての畿内への滞在で博多商人から莫大な戦の資金や兵糧の支援を受けており、明との貿易や瀬戸内海交易で博多商人と争う堺の商人が支援する細川勝元の勢力を挫くまでは戦を止めれない状態で(止めれば幕府管領の勝元から政治的な制裁や圧力を受けることになる)、宗全、義就、政弘が三者異なる目的で乱に参加し、東軍と停戦のための共通の落とし所を見出だせなかったことが乱を長引かせる原因となっていた。}}が厳しい視線を投げかける中、新九郎は宗全からそのような言葉を引き出すことは出来ず、囲碁も中風ながら局面が進むたびに頭脳が冴え渡ってくる宗全の勝利に終わった。

翌朝、貞藤は東軍・伊勢伊勢守家の邸に帰る新九郎に、畠山義就などはそなたを東軍の間者と疑っており斬りに来かねんので[[下京]]に帰る大工・人足たちに混じって帰ると良いと言い、新九郎はそれに従い再び下人に扮した格好で人足一行と共に屋敷を出発した。しかしほどなく西軍の[[足軽#平安・鎌倉・室町時代|足軽]]{{Efn|本作品では第2集で東軍の足軽・[[骨皮道賢]]が描かれたが、ここではこの西軍の足軽がどのような者か書かれていない。しかし例えば西軍の足軽としては山城国の地侍出身とされ[[畠山義就]]に仕官した御厨子某(みずし なにがし)などが知られており、この場面でも西軍の足軽たちのリーダーは下級の地侍風の様相で畠山義就の命令で動いたと考えられ、御厨子某を意識したと思われる描き方がされている。}}たちが新九郎が混じる人足一行の行手を阻み、伊勢新九郎というガキがいたら出せ、さもなくば片っ端から斬るという。人足がそれを拒んだところ斬り合いが始まり、新九郎も自分を襲ってくる足軽を人生で初めて真剣で斬ったが{{Efn|第4集第23話の那須の弦姫との流鏑馬対決以降、新九郎は家臣たちと毎朝武芸の稽古をしてきており、第7集第43話の西軍の足軽に襲撃される場面でも新九郎は「毎日鍛錬してきているのだ...こんな酒くさい(足軽)連中に...(負けてたまるか)」と心の中でつぶやき、人を斬るのは初めてながら一人目の足軽は落ち着いて対処している。}}、別の足軽に押し倒されやられると思ったその瞬間、人足の頭(かしら)が新九郎を押し倒した足軽を槍で刺殺し、新九郎は間一髪のところで危機から救われるのだった。人足たちは実は侍で、その頭は横井掃部助の家人で新九郎の生母・浅茅に仕える多米権兵衛。もともと貞藤と浅茅が多米権兵衛に命じて新九郎を守るために人足を装ったものであった。

東軍・伊勢伊勢守家の邸に戻ると、新九郎は山名宗全に会うと思っていなかった貞宗から西軍にこちらの手の内を見せたとこっぴどく叱られるが、貞宗はしょげる新九郎に早く下人の格好から着替えよと促した。新九郎には荏原から書状が届いており、荏原が洪水で被害に遭っているという。将軍嫡子・春王からいとまを請い急ぎ荏原に戻ると、夏前半の日照りに対し夏後半は雨が続き洪水となり、堤が切れて田がやられていた。宿老の平井は今年の収入は東荏原300貫のうち150貫程度になるのではないかと予想するが、借銭の返済もあり、新九郎は頭を抱えた。新九郎には荏原での領主に加え、京都では盛定に代わっての申次衆の仕事や、春王への伺候があり、しばらくの間一月ごとに荏原と京都の行き来に忙殺される生活を送るのであった。

文明4年(1472年)、応仁の乱の膠着状態は変わらず、翌文明5年(1473年)、それまで時代を動かしてきた大物が立て続けに死去する世代交代の年であった。まず1月、前幕府政所執事で新九郎の伯父の伊勢貞親が蟄居していた若狭国で享年57歳で亡くなる。将軍・義政の育ての親として権勢を振るい、幕府奉行衆、奉公衆を意のままに動かした天下の佞臣の寂しい最期だった。3月、応仁の乱の西軍の実質的なリーダー山名宗全は中風を患っていた上に前年の切腹未遂事件以降寝たきりであったが3月18日享年70歳で亡くなる。5月、東軍の実質的なリーダーで前幕府管領の細川勝元が数日前には将軍・義政との酒宴に出席していたにも関わらず享年42歳で急死。応仁の乱の東軍・西軍それぞれの中心である細川家、山名家で当主が死去し、和平を望む後継者に代替わりすることで乱の終結に向けた前提が整っていくのであった。

文明5年(1473年)秋、新九郎の姉・[[北川殿|伊都]]が正室として嫁いだ[[駿河国]][[守護]]・[[今川義忠|今川上総介義忠]]との間に待望の嫡男が誕生、[[今川氏親|龍王丸]]と名付けられ今川家は喜びに沸いていた。伊都の実家である伊勢新九郎家でも駿河を訪問し祝いの言葉を述べるべきであったが、所領の東荏原が一昨年、昨年と2年続きの不作で借銭続きの新九郎家では、祝いの品を用意するのも駿河までの旅の路銀も捻出が難しく、祝いのために駿河訪問は難しい状況であった。ところが政所執事として幕府の政策の中枢にいる貞宗から、駿河国へ行き今川家の内情を調べてきてくれないかという命を受ける。義忠は幕府からの関東出兵命令をいい加減に扱いながらもかつて今川家が守護職を務めた隣国・[[遠江国]]の守護職への復帰をしつこくねだるため、将軍の御教書を出し義忠を将軍御料地の遠江国[[掛川市|懸革(かけかわ)庄]]の代官に任ずるので義忠がどう動くか内偵してきて欲しいという裏があった。

文明5年(1473年)12月、新九郎18歳。荒川又次郎を留守役として荏原に残し、大道寺太郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に伊勢から駿河へ向かう船にあった。船酔いで伏せるも富士の山は聞きしに勝る美しさで、一行は[[焼津漁港|小川湊(焼津)]]に上陸しほどなく[[駿府]]に到着する。義忠への挨拶と祝いの言葉を述べた後、義忠の正室となった姉・伊都にも面会するが、新九郎がした昔話に伊都は亡くなった兄・八郎や母・須磨を思い出したようで、寂しい思いをさせたのではと詫びるが、伊都はこちらで家族を作っている戦いの最中なので泣き暮らしてなどいられないと気丈に応えた。今川家では幕府から下された懸革庄の代官任官の御教書に対し義忠は遠江国に並々ならぬ関心を抱いているというが、新九郎が義忠に細かく聞こうとするとごまかされてしまった。新九郎がふと関東に興味があることを漏らすと、義忠は関東のことなら今川一門で従弟の[[小鹿範満|小鹿新五郎範満]]に聞けという。範満はここまで参られたなら伊豆へ足を伸ばしてみてはと誘い、新九郎一行は[[伊豆国]]を訪れ[[堀越公方]]・[[足利政知]]に謁見することとなった。

明けて文明6年(1474年)1月2日、小鹿新五郎範満に伴われ駿府を発った新九郎一行は伊豆国へ入った。[[堀越公方]]は幕府が廃した[[古河公方]]{{Efn|室町幕府は京都の幕府に反乱を起こした[[足利成氏]]を幕府の関東支配の出先機関・鎌倉府の長官・[[鎌倉公方]]から解任したが、成氏は鎌倉から下総国・古河へ移り勝手に古河公方を名乗り、幕府から廃されたことなど知らぬとばかり北関東の支配地域で君臨し、幕府方の鎌倉府ナンバーツーの[[関東管領]]・[[上杉氏|上杉家]](および幕府が新たに任命した鎌倉公方である[[堀越公方]]・[[足利政知]])との戦いを継続するのであった}}に代わり幕府が公式に認める「[[鎌倉公方]]」であり、正月の諸行事は京都の将軍家に準じて行われ、正月三賀日は伊豆の堀越御所にて関東管領や関東周辺国の守護(の代理)との対面の儀となる。新九郎は1月4日に対面と決まり、空いた時間に修善寺の温泉を訪れた。修善寺の湯に浸かりながら川を挟んで山が連なる風景がなんとはなしに荏原に似ていると評していたが、新九郎の西国訛りにどちらからおいでになられたと声を掛けてくる御仁がおり、自らを武蔵国の住人源六左衛門、六左とでもお呼び下されと名乗った。新九郎は正式な名乗りはしなくて良いと解釈し[[京都|京の都]]より富士山見たさに下ってきた新九郎と名乗ったが、六左は新九郎を品骨卑しからずいずれ貴顕に交わることもござろうと言い、歌は詠まれるかと聞き「[[太田道灌#逸話|蓑の代わりに山吹を差し出された話]]」をし、新九郎は話題豊富な六左に感心するのであった。

1月4日、新九郎は[[堀越公方]]・[[足利政知]]に謁見する。政知は顔が弟で将軍を継いだ[[足利義政]]に似ているが、義政に比べ疲れたような顔をしていた。というのも政知は15年前伊豆国に送り込まれたが、自ら「鎌倉公方」として[[古河公方]]・[[足利成氏]]と戦おうとすると義政から「粗忽の企て」と叱られてしまい、関東の国人への調略や命令も京都の義政と幕府から直接行われる。「鎌倉公方」とは名ばかりで公方としての働きも己の意思では許されず、関東管領からは鎌倉は危険だから来ないでくれと言われ伊豆から動くことも出来ず{{Efn|実は関東管領は自分に命令を下す存在の「鎌倉公方」は不要と思っており、言葉と裏腹に鎌倉に入らせずに伊豆に足止めしていたに等しい状況であった}}、ふてくされざるを得ないためであった。そんな政知は将軍家の一員として京都に生まれ[[天龍寺]]の僧侶として京都に暮らした人物であり、新九郎の京なまりの言葉や伊勢家の名を懐かしい京の香りがすると言い、新九郎が話す女金貸しの話、疫病流行の際の将軍家の話や、細川家の相続の話など[[京都|京の都]]の話を喜ぶのであった。1月末、新九郎は京都に戻り、幕府政所執事の貞宗に今川上総介義忠が遠江に並々ならぬ執着を抱いていることを報告し、2月には荏原に戻った。

8月、駿河国守護・今川義忠は斯波家が守護を務める隣国・遠江国に出陣。目的は応仁の乱の西軍・[[斯波義廉]]の遠江国内の勢力の掃討であったが、今川一門の[[堀越貞延]]を[[袋井市|堀越郷(袋井)]]に入部させ、河匂・[[浜松市|浜松荘]]の代官・巨海新左衛門尉を追討、[[見付宿|見附]]の守護所に立てこもる斯波氏被官・狩野宮内少輔を自死に追い込むなど、遠江国内で新たな守護にでもなり斯波家の勢力を追い出すかのような振る舞いを始めた。

文明7年(1475年)2月、幕府は斯波家の東軍勢力である[[甲斐敏光]]を[[守護代]]として遠江国に送り込ませ、遠江国は一転し東軍の領国となった。ところが義忠が堀越郷に入部させた堀越貞延が国人勢力の横地・勝田に襲われ討死にすると、7月、義忠は報復のため遠江国に攻め込み、勝田氏の本拠地[[勝間田城]]を攻め落とし、続けて見附の守護所を守る斯波家の守護代・甲斐敏光を追放。返す刀で横地氏の本拠地[[横地城]]に攻めかかった。文明8年(1476年)2月、義忠の軍は横地城を落城させるが、その日の夜、今川方の勢力がいる遠江国[[相良町|相良]]へ[[撤退|撤収]]中、横地の残党から襲撃を受け、流れ矢が義忠に中たり戦死した。義忠の戦死により、今川家では家督の継承をめぐり争いが発生し、これに関わることとなる新九郎の運命が変転を始める事となる。

=== 第4章「駿河動乱 編」(第9集 - 第10集) ===
文明8年(1476年)2月、[[駿河国]][[駿府]]の[[今川氏|今川家]]・[[駿府城#今川館時代|駿府館(すんぷやかた)]]では、隣国・[[遠江国]]攻めでの当主・[[今川義忠]]戦死の報がもたらされ、重臣達は困惑の中で今後の対応を話し合っていた。今川家では、かつて[[守護]]を務めた遠江国を[[斯波氏|斯波家]]から取り戻したい下心があったとは言え、[[応仁の乱]]・西軍勢力を追討する目的で行った遠江攻略が、いつの間にか斯波家の西軍勢力は遠江国から居なくなり、斯波家の幕府方・東軍勢力を攻め滅ぼしてしまうこととなった失態に、幕府への恭順の姿勢を示さなくては幕府への謀反になってしまうとの結論に至った。ここで義忠の死による今川家の家督継承は、順当であれば義忠と正室・[[北川殿|伊都]]の嫡子で4歳の[[今川氏親|龍王丸]]であるが、4歳の当主では幼すぎるのと、幕府の意向に反した先代当主の嫡子が家督を継承しては恭順の姿勢を示すことにならず、龍王丸以外で血統的に義忠に最も近い義忠の従弟・[[小鹿範満|小鹿新五郎範満]]が就くべきとの意見が出たが、範満は2、3日考えさせて下されと申し出てその場を収めた。しかしその後、義忠の小姓だった者が範満に斬りかかり逆に成敗されるなど騒動が大きくなり、遠江に権益を持つ[[堀越氏#堀越氏(遠江今川氏)|堀越]]、新野などの今川一門と主に駿河国西側に所領があり遠江攻略に動員された[[朝比奈氏|朝比奈丹波守]]、[[岡部氏 (藤原南家)|岡部]]、[[矢部氏|矢部]]など譜代の家臣が龍王丸支持に、これに対し主に駿河国東側に所領がある[[三浦氏#北条氏による滅亡|三浦]]、福嶋、[[朝比奈氏|朝比奈肥後守]]、[[由比町|由比]]、[[庵原郡|庵原]]などの家臣や多くの国人衆などが小鹿支持に回り、今川家中は分裂した。

2月下旬、京都の伊勢家では、幕府[[政所#室町時代の政所|政所]]執事で伊勢宗家当主の[[伊勢貞宗]]、[[北川殿|伊都]]・[[伊勢盛時|新九郎]]・[[伊勢弥次郎|弥次郎]]の父・備前入道正鎮(隠居・出家した[[伊勢盛定]])、新九郎の弟・[[伊勢弥次郎|弥次郎]]、および[[伊勢盛時|新九郎]]らが集まり、[[今川義忠]]に嫁いだ[[北川殿|伊都]]からの手紙を元に駿河の情勢が話し合われていた。幕閣の中枢にいる貞宗は、今川義忠が遠江国の幕府方・東軍の斯波家勢力を攻め討ち取ったのは暴挙であるが、応仁の乱が終わっていない幕府にも、[[斯波義敏]]・[[斯波義寛|義良]]親子と[[斯波義廉]]の間で家督争いが続く[[斯波氏#武衛家|斯波武衛家]]にも今川家を討伐する余裕は無く、今回は譴責で済みそうという。しかし今川家中では謹慎の姿勢を示すため伊都と龍王丸を排除しようという動きがあり、義忠の討死を奇貨として家督を奪おうとする者により、一触即発の騒動が起こり死人も出ているという。伊勢家としては一門の血縁の者が有力守護大名家の当主になるのを支援したい中で、新九郎は2年前駿河を訪れた自分が姉を助けるのに適任として貞宗に願い出て、幕府から今川家の家督争いの調停のため駿河に派遣されることとなった。

4月、新九郎、21歳。家臣の荒川又次郎、在竹三郎、大道寺太郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に海路から駿河国[[焼津漁港|小川湊(焼津)]]に上陸し、湊近くの林雙院<ref name="rinso-in">{{Cite web|url=http://www.rinso-in.com/history.html|title=曹洞宗 高草山 林叟院 沿革|accessdate=2022-04-10}}</ref>に入った。若輩の新九郎は駿河の調停では幕府[[評定衆#室町幕府の評定衆|評定衆]]の高官で駿河国[[益津郡|益頭庄]]に所領を持つ[[摂津之親|摂津修理大夫之親]]に従うよう貞宗から命じられており、新九郎が益頭庄の摂津之親を訪ねると、之親はここから駿府までの道中、今川家臣達の各所領でそれぞれ関を設け龍王丸か小鹿かどちらに付くかを問われ返答次第では命が無く、駿府でも騒乱状態で駿府へ行く気が失せたといい、新九郎も足止めを命じられじりじりとした日々を過ごす。月が明けた5月、新九郎は海から[[安倍川]]を遡り駿府へたどり着くことを摂津之親に願い出、之親は新九郎一行だけでの駿府入りを許可する。翌朝新九郎一行は小川湊から漁師の船で安倍川河口に上陸し、最初に小鹿範満の館を訪ねた。範満は2年前新九郎と一緒に伊豆の堀越御所へ旅をし旧知の仲であったが、龍王丸派と思っていた新九郎が訪ねてきたことに驚きつつ歓迎した。しかし騒動で弟が龍王丸派に討たれ謀反人として首を晒されたことについては怒りを示し、和睦のための三つの条件を提示した。次に新九郎は駿府館に向かい今川義忠[[未亡人|後室(こうしつ)]]で龍王丸の母である姉・伊都を訪ねた。伊都は、三つの条件は小鹿範満が家督に就く前提でいずれも受け入れられないと言う。

翌日、[[関東管領]]配下の[[扇谷上杉家]][[家宰]]・[[太田道灌]]の使者が駿府館を訪れ、道灌が小鹿方の交渉代理人を務めるので、龍王丸方からも交渉代理人を出して頂き談合をしたいという。今川義忠後室として龍王丸方の実質的なトップである姉・伊都の命で新九郎は龍王丸方の交渉代理人を務めることとなり、駿府・八幡山麓の栽松寺へ向かった。交渉の部屋に入った瞬間、新九郎は正面に座る交渉相手から味わったこともないほどの圧を感じたが、改めてよく見ると相手は小柄で、しかも初対面ではなく2年前に伊豆の[[修善寺温泉|修善寺の湯]]で会った人物で{{Efn|第8集第49話、50話。2年前の正月、小鹿範満が駿府を訪れていた新九郎を連れ今川義忠名代として新年の挨拶に伊豆の堀越御所を訪問した際、新九郎は空いた時間に修善寺の湯に立ち寄った。太田道灌については作中に伊豆訪問理由の記述は無かったが、関東管領の新年の挨拶が山内上杉家重臣で伊豆国守護代の寺尾礼春を名代として行われたことが描かれており、道灌は扇谷上杉家の名代として新年の挨拶に堀越御所を訪問したと思われる。その際新九郎と道灌は修善寺の湯で顔を合わせ会話をしたが、お互い正式に名乗らなず身元を知らないままであった。}}、これが太田道灌その人であった。

談合は1回実施後に双方の家中での意見調整を経て5日後の再開を繰り返す形を取る。談合が始まると道灌は小鹿方が求める三つの条件を改めて問うが、新九郎はすべて拒否。しかし新九郎は交渉で道灌に揺さぶりを掛けようと試みるも、道灌にはすべて見破られてしまう。新九郎は駿府の街で鎧の商いをしていた狐に再会し、狐は関東で見聞きしてきた情報として、関東管領配下の[[長尾景春]]が反乱を起こし太田道灌は反乱への対応のため駿府に長く滞在できないはずとの関東情勢を新九郎に伝える。次の談合で新九郎は、道灌は交渉が長引けば龍王丸方に有利な条件でも諦めて応じるだろうと考え交渉の引き伸ばしを試みるが、老練な道灌は新九郎の意図を見抜き、2、3ヶ月かかる覚悟をしており問題無いが、お若い方がおかしな駆け引きなど考えず真面目にやって下されよとクギをさした。新九郎は小手先の交渉術では八方塞がりになりつつあった。

7月、新九郎は熟考の結果、龍王丸が家督に就くのは血筋的な筋目としては正しいが、まだ4歳の当主が自らの指針で動けるはずもなく、亡父・義忠に従い遠江に侵攻した取り巻きの後見を受けると見做されれば将軍や幕府の支持を得られない。また小鹿方には今川家家臣諸将の兵に加え道灌が関東から連れてきた精鋭と堀越公方の兵が臨戦態勢で備えており、もし戦になれば兵数が大きく上回る小鹿方に龍王丸方は敵わず、龍王丸の身に危険がおよんだ挙げ句に家督を強奪される、であれば一旦範満に家督代行に就いてもらい、龍王丸に有利な条件を確保した上で将来の復権を目指すのが現実的、との結論に至り、伊都や、[[堀越氏#堀越氏(遠江今川氏)|堀越]]、新野、[[朝比奈氏|朝比奈丹波守]]、[[岡部氏 (藤原南家)|岡部]]、矢部など龍王丸方諸将を説得をした。新九郎は談合で、範満は家督代行に就き駿府館に入り、後室(伊都)と龍王丸は館から退去する、ただし小鹿方の和睦のための三条件にある人質同然での小鹿館入りは受け入れず龍王丸方諸将の所領がある駿河国の山西(やまにし)地区に引きこもる、という条件での終結を提示{{Efn|小鹿方は今後の争いの芽を摘むべく龍王丸とその母・伊都の身柄を確保しようとしており、仮に龍王丸方と小鹿方が戦になり龍王丸方が負けた後では小鹿方に囚われの身となるのを拒めないため、戦いにならない段階で小鹿方の希望をかなる譲歩をしつつ、龍王丸と伊都が復権を目指す活動の自由を確保することが重要であった。}}。道灌もこれならばと受け入れる姿勢を見せるが、これは道灌が落とし所として以前から考えていた結論と同じであることが分かり、新九郎は道灌の掌の上で転がされていたような気分になり愕然とした。また小鹿方では後室(伊都)と龍王丸の身柄を確保できない条件を不安視する意見も出たが、道灌はそれを言い張ればまとまり掛けた和談が決裂しますぞと抑え込んだ。

8月、談合により和議は整った。小鹿(今川)新五郎範満が今川家の家督代行に就任することが決まり、伊都と龍王丸らが駿府館を退去し駿河国山西地区へ向かう日、新九郎は太田道灌を挨拶に訪れた。道灌は新九郎にお若い身でよく頑張られたと言いつつ、この調停はお手前のお手柄ではなく幕府や政所の威光が成さしめたものと嫌味を言い放ち、新九郎は交渉で翻弄されたことを思い出しながらいつかこのひと(道灌)に勝ちたいと心に誓うのであった。

続いて新九郎は今川家の当主代行となった[[小鹿範満|今川(小鹿)新五郎範満]]を挨拶に訪れた。範満は前夜の当主代行就任の酒宴で二日酔いだというが、[[今川氏親|龍王丸]]に一方的に肩入れせず公正に家督相続の調停を行って頂き骨折り誠にかたじけのうござったと新九郎に礼を述べた{{Efn|新九郎は龍王丸の交渉代理人として調停に望んだが、最後は駿河国のためとして小鹿範満が当主代行とする結論を認めたため、範満は新九郎が公正に調停を行ってくれたという印象を持っていた。}}。新九郎は以前、範満と伊豆国堀越御所へ旅をし範満の実直な人柄を分かっており、今後龍王丸を家督に就けるため範満と争うことになると思うと気が重くなるのであった。

新九郎が伊都と龍王丸らから遅れ駿河国山西地区・[[焼津漁港|小川湊]]へ移動した翌日、龍王丸方では小川湊の代官・[[長谷川正宣|長谷川次郎左衛門]]の屋敷で労をねぎらう宴が開かれた。[[朝比奈泰煕|朝比奈丹波守]]ら今川家臣諸将は酒も入り龍王丸が家督に就けなかった敗北への鬱憤を爆発させたが、伊都は将来龍王丸を家督に就けるためにも今は自重して欲しいと演説し血気はやる諸将らを言いくるめた。ところがその深夜、長谷川次郎左衛門の屋敷は数人の覆面の男たちの襲撃を受ける。新九郎は賊たちが「(狙うは)四歳の男子とその母親」と話すのを聞き、襲撃は伊都と龍王丸の命を狙ったもののようであったが、新九郎とその家臣、宴の後で屋敷に宿泊していた龍王丸方今川家臣諸将らの奮戦もあり賊をその場で撃退し討ち漏らした者は逃走していった。龍王丸方家臣諸将らはこれが小鹿方家臣らの仕業ではないかと考えたが、今後も龍王丸が家督に就ける年齢になるまで数年間山西地区に安全に留まることが難しいのは明らかだった。夜が明けてから新九郎は駿府の小鹿方に襲撃を指示したか詰問しその動きを牽制、また伊都と龍王丸らの身の安全を図るため彼らを京都に上洛させ、幕府政所執事である伊勢家の力を使い御所([[足利義尚]])や大御所([[足利義政]])に謁見してもらい、今川家の家督は龍王丸のものとの承認が得られればという思惑を伊都や龍王丸方家臣諸将に話し、旗頭が一時的に駿河国から居なくなることを説得した。新九郎は伊都や亀、龍王丸らに加えて彼らに従う奥の女房らも連れ[[焼津漁港|小川湊(焼津)]]から船旅で伊勢国へ移動、そこで京からの伊勢家の兵の到着を待ち、兵に護られ11月に京に上洛した。

幕府では将軍・[[足利義政]]の嫡子・春王が文明5年(1473年)暮れに9歳で元服、[[足利義尚]]を名乗り、義尚は新たな御所として将軍職に就くと共に父の義政は将軍を引退し大御所と呼ばれるようになっており、文明9年(1477年)、御所・[[足利義尚]]は将軍就任4年目であったが、実権は依然大御所の父・[[足利義政]]が握っていた。これは新九郎にも悪い影響を与えており、幼年期に傅役の伊勢家で養育された義尚はかつて竹馬を作ってくれたり修理してくれた新九郎のことを慕い、御所(将軍)となった今は新九郎を申次衆として自らの側近に登用したい希望を持っていたが、6年前新九郎の父・[[伊勢盛定|盛定]]の隠居、出家の経緯で大御所・足利義政から睨まれている新九郎{{Efn|第5集第29話、30話。当時の将軍・義政の機嫌を損ねたのは盛定であるが、怒りの矛先はその家督を相続する新九郎へと向かい、義政は新九郎に所領・東荏原の相続は認めたが一生無役でいることを命じた。}}を登用することは出来ず、新九郎は幕府で無役の状態が続いた。また新九郎は幕府政所執事の[[伊勢貞宗]]の力を借りて駿河国守護だった故・[[今川義忠]]の後室である姉・伊都を大御所・義政に謁見させようとするも、結果として幕府に命令違反し戦死となった今川義忠に未だに腹を立てている義政は貞宗からの要請を聞き流し謁見はなかなか実現しなかった。

一方、11年に渡り続いている[[応仁の乱]]は、幕府・東軍による数年越しの西軍とその傀儡政権「西幕府」への切り崩し工作が功を奏し、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])西軍・[[斯波義廉]]の重臣・[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]が、また文明7年(1475年)には同じく義廉の重臣・[[甲斐敏光]]が東軍へ寝返りそれにより義廉は没落、また文明6年(1474年)[[山名宗全]]死去後の[[山名氏|山名家]]の東軍への帰順などで西軍諸将は浮足立つようになった。西軍最大勢力の[[大内政弘]]は「自分の分国が心配」と東軍からの説得工作に応じ、幕府が政弘の西軍参加を罪に問わない確約と朝廷から新たな官位を得て自らの分国に帰国、同じく西軍の主力・[[畠山義就]]も京を退去し畠山家の家督争いを続けるため河内国へ移動することとなった。文明9年(1477年)11月、もはや西幕府と西軍の解散は決定的で、西幕府将軍の今出川殿・[[足利義視]]は[[美濃国]]守護・[[土岐成頼]]を頼って美濃へ、他の西軍諸将もそれぞれの分国に退去することとなる。11月11日、西軍の陣を出た義視は美濃の軍兵と共に京都の街を東へ向かい、鴨川に差し掛かったところで最後にもう一度都を見ておきたいと軍兵を止めさせ駕籠の窓から川を眺めた。するとやじうまの群衆の中から新九郎が大声で「この川を渡る時に思い出すことがござりませんか」と問いかけた。この場所は10年前新九郎の兄・八郎が義視に従い命を落とした場所だったが、義視は新九郎の方をちらりと見ただけで駕籠の窓を閉め軍兵を出させその場から去っていき、新九郎はやるせない気持ちでこれを見送った。義視の京都からの退去により11年に渡り続いた応仁の乱は終結した(第10集第64話)。

=== 第5章「家督の行方 編」(第11集 - ) ===
文明10年(1478年)、新九郎は23歳となる。幕府では時々単発で[[御供衆]]としての将軍随行役や幕府の式典警護の命を受けるようにはなったものの、公式には依然無役で、[[京都市|京]]と所領・[[備中国]][[井原市|東荏原]]の往復と、甥の[[今川氏親|今川龍王丸]]を幕府から[[今川家]]家督継承者として認めてもらう活動に明け暮れていたが、東荏原は数年続きの不作で借銭は膨らみ、龍王丸の家督承認も芳しい成果はなかった。新九郎は荏原を訪れた際、領内の国人領主・那須掃部助資氏から屋敷に招かれ、そこで話には聞いていたが見ることが無かった那須家の先祖・[[那須与一]]が[[治承・寿永の乱|源平合戦]]の恩賞で[[源頼朝]]公から荏原の地を賜った証という頼朝公直筆の下文を披露された。しかし歴史オタクの新九郎は下文の那須与一の[[諱|諱(いみな)]]が間違っていること、また流人生活が長く多数の写経をこなしていたはずの頼朝の直筆にしては字が下手過ぎることから、件の下文は後世の偽作と考えたが、自信満々に自慢する資氏の面子を潰さぬようそのことは黙ったいた。新九郎は、家督や所領とはそんな不正をしてまで守りぬきたいもので、大事なものを守るためには正直に生きているだけでは済まされないと思い知るのであった(第11集第68話)。

新九郎が京に戻ると、今川家家督代行に就任した[[小鹿範満|今川(小鹿)新五郎範満]]が[[駿河国]][[守護職]]への補任願いを幕府に提出しようと活動中であることを知る。範満が正式に守護職に補任されてしまうと龍王丸が家督に就く可能性はまず無くなってしまうため、補任願いへの審査は幕府政所の伊勢家の力を使い幕府内で後回しにさせ時間を稼ぐこととしたが、範満がすでに駿河国守護職相当の働きをしているのは事実であり、まだ子供の龍王丸は亡くなった先代当主・[[今川義忠]]が龍王丸に家督を譲るという生前の[[譲状]]や[[遺言状]]でもあればともかく、義忠の嫡子というだけでは範満を家督から外し龍王丸の家督就任を認めさせる強力な論拠とはならなかった。新九郎は内輪の酒の場で那須の頼朝公下文のように[[今川義忠|上総介殿(今川義忠)]]の[[譲状]]を偽造しちゃいますかと漏らすと、幕府政所執事の[[伊勢貞宗]]、新九郎の父・[[伊勢盛定|備前入道(伊勢盛定)]]、従兄の伊勢盛頼らからそれだと言われ、良心の呵責にどきどきしながらも覚悟を決め元々在りもしない今川義忠の譲状を偽造することとなった(第11集第70話)。

しばし苦闘ののち、新九郎が偽造した今川義忠の譲状は、義忠嫡子である[[今川氏親|今川龍王丸]]の家督承認願いと共に幕府に提出された。譲状と家督承認願いはしばらく棚晒しになっていたが、あるとき大御所(前将軍)・[[足利義政]]は暗殺され亡くなった父・[[足利義教|普広院(第6代将軍・足利義教)]]が夢枕に立ち父から怒られる夢を見た。義政はこれを志半ばで亡くなった父・[[足利義教|普広院]]の事績をなえがしろにするな、との声と解釈し、父の事績を帳消しにするような事案が無いか幕府[[奉行衆]]に命じ調べさせた。すると永享5年(1433年)今川家の家督争いに父・普広院が裁定を下し[[今川範忠]]に家督を継がせた事案があり、しかし現在はその裁定に反し、今川範忠と家督を争った今川(小鹿)範頼の子・[[小鹿範満|今川(小鹿)範満]]が今川家家督代行に就いており、しかも普広院が家督を認めた今川範忠の孫・今川龍王丸から譲状と共に家督承認願いが出ていることを知る。大御所・義政は今川(小鹿)範頼派だった今川家臣とその子らが父・普広院の裁定に意趣返しをしたと考えこれに立腹。文明11年(1479年)12月、大御所・足利義政は龍王丸の今川家家督を認め、今川上総介義忠の遺領はすべて譲状通り今川龍王丸が相続すべきものとするが、幼童ゆえ龍王丸の守護職補任は保留、とする[[御内書]]を出すこととした(第12集第73話)。

== 登場人物 ==
本作品では年齢は[[数え年|数え]]で表記するため、満年齢より1、2歳上となっている点は注意が必要である{{Efn|例えば第4集で新九郎が荏原に下向した数えでの16歳は、満年齢では14〜15歳であり、現代の中学校3年生に相当する。}}。
本作品では年齢は[[数え年|数え]]で表記するため、満年齢より1、2歳上となっている点は注意が必要である{{Efn|例えば第4集で新九郎が荏原に下向した数えでの16歳は、満年齢では14〜15歳であり、現代の中学校3年生に相当する。}}。


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2023年4月7日 (金) 09:52時点における版

新九郎、奔る!
ジャンル 歴史漫画
漫画
作者 ゆうきまさみ
出版社 小学館
掲載誌 月刊!スピリッツ
週刊ビッグコミックスピリッツ
レーベル ビッグコミックススペシャル
発表号 月刊スピリッツ:2018年3月号 - 2019年12月号
週刊スピリッツ:2020年7号 - 連載中(隔週)
巻数 既刊12巻(2023年1月12日現在)
テンプレート - ノート
プロジェクト 漫画
ポータル 漫画

新九郎、奔る!』(しんくろう、はしる)は、ゆうきまさみによる日本歴史漫画

月刊!スピリッツ』(小学館)にて、2018年3月号(2018年1月27日発売)から2019年12月号(2019年10月27日発売)[1][2]まで連載された後、『週刊ビッグコミックスピリッツ』(同社刊)へ移籍して、2020年7号から隔週で連載中。

室町時代から戦国時代前期の人物で、後世「北条早雲」の名で知られる伊勢新九郎盛時(出家後の名として伊勢宗瑞)を主人公とし、「一介の素浪人からのし上がり下克上伊豆国相模国を奪った悪知恵に長じた英雄」という従来の北条早雲像とは異なり、歴史学での最新の見解をもとに室町幕府の体制と共に生きる「名門伊勢家の一員」として育ち、応仁の乱など「仁義なき戦い」を権力者らの間近で見て自身の理想との矛盾に葛藤しながら現実の政治のありようを学んでいき、やがて戦国大名へと転身していくその生涯を描く[1][2][3]

概要

著者のゆうきは、伊勢新九郎盛時を題材とした漫画について昔から執筆の意図があり、2016年頃から資料を集めていたという[4]。その構想を練る中で、新九郎について過去に抱いていたイメージが塗り替えられ、新九郎の少年時代から物語を始めるしかないと決意したとしている[5]。また2022年のインタビューでは、物語の根底にある考え方として、応仁の乱などの戦乱も「自分が生き延びるための最適解を(それぞれが)一生懸命に求めた末に起こった」「誰もが悪人や愚か者になりえる時代だったはず」とし、「主人公を持ち上げるための(一方的な)愚か者や悪人は描かない」「現代社会が新九郎の生きた室町時代と変わらない」と語っている[6]

歴史を題材とした作品では、史実として諸説ある人物・出来事をどのように表現するか作品により大きく異なるが、本作品では基本的に近年の歴史学で主流となっている説を採用しつつ、物語を作るに足りない部分に創作を導入し、そのための考証協力者には中世史家の本郷和人[7]黒田基樹[8]がクレジットされるなど本格的な歴史描写に取り組んだ作品となってている。一方で軽妙なギャグ表現も多数描かれ、「(装備品の)最新モデルのカタログ」[9]同人誌[10] 「JR西日本のチケット」[11]といった当時存在しない現代用語を用いて笑いを取るような表現も、歴史作品としてのストーリーを崩さない程度に抑えてではあるがなされている。

主人公である北条早雲こと伊勢新九郎盛時は出自・生年について諸説ある人物であるが、本作品では近年の歴史学で主流となっている伊勢氏支流・備中伊勢家の出自で康正2年(1456年)生まれの享年64歳説(応仁の乱開戦時に12歳、伊豆国・堀越御所討入時に38歳)を採用している。またこの説に従い父は室町幕府官僚で幕府申次衆伊勢盛定とするが、母はこの説の盛定正室(伊勢宗家当主・伊勢貞国の娘)ではなく、『北条五代記』に準じ盛定の側室で尾張国国衆・横井掃部助の娘を生母とする[注釈 1]。また新九郎の生誕の地は父の所領がある備中国荏原郷ではなく、将軍に直接仕える父とその一家が暮らす京都とし、少年期に傅(もり)役・乳母夫の大道寺右馬助が代官を務める山城国宇治で育ち、元服後に父の名代として荏原に下向したとして話を構成している。

本作品では、登場人物が呼称される場合には実名を呼ばないという当時の慣習に従い、朝廷の官途名・受領名(伊勢守、備前守、掃部助、新左衛門尉など)、幕府の役職名(御所、公方、関東管領など)、仮名(新九郎、太郎など)等で呼ばれるが、実名の読み仮名をルビを振り表記されることが多い。一例では今川義忠は今川家家臣からは大名家当主と意味する「御屋形様」、幕府や他家からは官途名・受領名で「治部大輔(殿)」「上総介(殿)」と吹出しの台詞として書かれるが、これに「よしただ」というルビを振って表記される。

あらすじ

時は明応2年(1493年)、伊豆国堀越御所に手勢を率いて討ち入る一人の男がいた。その名は伊勢新九郎盛時室町幕府奉公衆として、幕命により足利茶々丸の首を獲りに来た新九郎だが、その心中では一つの決意を固めていた。「明日から、俺の主は俺だ!」

第1章「応仁の乱 編」(第1集 - 第3集)

遡ること27年前、文正元年(1466年 )8月。室町幕府官僚の父・伊勢備前守盛定の被官で傅(もり)役の大道寺右馬介山城国宇治の館で育てられていた当年11歳の伊勢千代丸(のちの伊勢新九郎盛時)は、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため、京の都将軍御所に隣接する伊勢一門の宗家・伊勢伊勢守家の邸に住む父・盛定の手許に戻り、父の一家・伊勢備前守家と暮らすことになる。

伊勢一門の宗家当主・伊勢伊勢守貞親は、妹・須磨と結婚し婿となった盛定の義兄であり、室町幕府ではその財政を司る政所のトップである政所執事を務め、将軍・足利義政の元服前に傅(もり)役であった縁で義政からは側近として深い信任を得、有力大名の家督にも介入する強大な権力を握っていた。また貞親は自分の嫡子伊勢兵庫助貞宗にも将軍・義政の嫡子・春王の傅役を務めさせ、春王が将来将軍になる際は伊勢家として引き続き権勢を得ることを目論む。

将軍・足利義政にまだ嫡子がいなかった頃、義政は弟・足利義視(今出川殿)を僧侶から還俗させ将軍継嗣とした。しかし義政に嫡子・春王が生まれたことで義視の立場は微妙となる。義視は依然、将来義政の後を継ぎ将軍職に就くとされたが、その座は一代限りで、その後は成長した義政の子・春王に将軍の座を譲ることとされた。しかし伊勢貞親は義視の激しい性格を見て、義視が一度将軍の座に就き権力を掌握すると、約束は反故にされその座は春王に譲られず義視の子へ継承されてしまい、春王の傅役としての伊勢家の権勢が失われると危惧し、義視の排除を企てる。

文正元年(1466年)9月、伊勢貞親は将軍・足利義政に、斯波家の家督争いで斯波義敏に敗れた斯波義廉が兵を集めるのを義政の弟・足利義視が支援しており、騒乱を煽ろうとする義視に謀反の疑いありと訴えた。これに将軍・義政は激怒、明日義視に切腹を命じようと息巻いたが、義視はすぐに邸を脱出し細川邸次いで山名邸へ逃げ込み、山名宗全を中心とする反伊勢貞親派の大名達は今出川殿(義視)御謀叛というのは伊勢貞親による誣告(ぶこく)であり、貞親とその右腕である千代丸の父・盛定が切腹すべきと将軍・義政に迫った。その日義政は伊勢貞親と盛定への切腹命令を下さず奥へ引き込んだものの、流されやすい性格の義政が切腹命令を出すのは時間の問題と思われた。これにより伊勢伊勢守邸は貞親と盛定への切腹命令を確実に実行させようとする反伊勢貞親派の大名の兵に取り囲まれるが、切腹命令が出る前、邸を取り囲む兵が減ったその日の夜に貞親と盛定は共に近江国へ逃亡、貞親は政所執事、盛定は申次衆の座を失い失脚した。また伊勢貞親に同調し権勢を得ていた斯波義敏赤松政則季瓊真蘂らも逃亡、失脚した(文正の政変)。貞親と盛定が都を去ると、貞親の嫡子・伊勢兵庫助貞宗が貞親に代わり伊勢伊勢守家当主および政所執事として幕府に出仕しその座を継承、伊勢家は諸大名との関係の改善を図りつつ政務をこなし、その中で千代丸も幕府重鎮の大名・細川勝元山名宗全らから知遇を得る。

文正の政変後、協調関係にあった細川勝元と山名宗全だったが、幕政の主導権をめぐって次第に対立。応仁元年(1467年)、畠山家の家督争いへの加担を皮切りに京都を東西に二分する「応仁の乱」へと発展する。当初将軍・足利義政は両者に停戦命令を出すなど中立を保ち大名たちの私戦との位置づけであったが、細川勝元が将軍御所を囲い込むことで将軍と幕府は細川方となり、将軍に近侍する伊勢家も細川方に属することとなる。ここに至って主に堀川を挟んで東側に陣を布いた細川方が東軍、西側に陣を布いた山名方が西軍と呼ばれることとなり、戦乱は泥沼化していった。戦火の最中、千代丸は12歳で元服し、名も伊勢新九郎盛時と改める。戦況が東軍に不利になると将軍・足利義政の弟で東軍総大将に担ぎ上げられていた足利義視は総大将にも関わらず伊勢国へ逃亡。足利義視に仕えていた新九郎の兄・八郎もこれに付き従う。一方、伊勢貞親と新九郎の父・盛定は将軍・足利義政に呼び戻され復権し京都へと帰還する。そして新九郎の姉・伊都は将軍御所警備の名目で上洛し東軍に属する駿河国守護今川治部大輔義忠のもとへ嫁ぐことになった。

応仁の乱勃発から一年、東軍総大将にも関わらず逃亡した将軍弟・足利義視が都へ帰還するが、幕府内での立場を失い、約束されていたはずの次期将軍の地位も危うくなっていた。義視に利用価値が無くなったと判断した伊勢一門は八郎に伊勢家に戻るよう命じるが、伊勢国への逃亡の旅で主君である足利義視への厚い忠誠心を抱くようになった八郎は義視こそが「次の将軍に相応しい」と貞親や盛定への怒りをあらわにし反発する。そして悲劇が起きる。

応仁2年(1468年)11月、新九郎の姉・伊都の輿入れの準備で伊勢家が忙しい最中、幕府内で孤立していた将軍の弟・足利義視が失踪し、義視に仕える新九郎の兄・八郎も姿を消す。応仁の乱の東軍総大将である足利義視には西軍に通じている噂が絶えず、もし義視が西軍に向け出奔したならば幕府への謀反、それに従う八郎も同罪ということになるため、新九郎と伊勢備前守家の家人達は出奔を阻止すべく戦火で廃墟となった暗闇の夜の街で捜索を行う。新九郎は足利義視が安全に逃れる場所として比叡山に向かっていると考え、鴨川の河原で川を渡ろうとしていた義視の一行を発見するが、八郎が刀を抜いて新九郎達の前に立ちふさがり義視の一行を逃そうとする。新九郎は八郎に伊勢家に戻るよう説得するが、八郎は「(備前守家の)家督など新九郎にくれてやる」と聞く耳を持たない。八郎が義視の一行を追って立ち去ろうとしたその時、新九郎達同様に義視の一行を捜索していた幕府奉公衆の伯父・伊勢掃部助盛景の家人が放った矢は八郎に中たり、盛景が新九郎の目の前で八郎にとどめを刺し八郎は落命する。八郎の遺体は伊勢伊勢守家の邸に運び込まれるが、盛景は謀反人を身内で片付けたまでと開き直り、貞親や盛定、貞宗は伊勢一門から謀反人を出す訳にはいかないとして、八郎を殺害することで身内からの幕府への謀反を防いだ盛景に落ち度は無く、八郎の死を急な病死として扱うこととした。新九郎はこの一門の決定に抗うことが出来ない無力な自分に落胆し、雨が降る夜の邸の庭でひとり泣いていたが、備前守家の若い家人達が新九郎の前に集い「どうか明日から将来の備前守家の後継者として心構えを持って下さい」「我らが力を尽くしてお支えいたす」と新九郎を励ました。

第2章「領地経営 編」(第4集 - 第6集)

文明3年(1471年)2月、応仁の乱は京都での戦闘がほとんど無くなったが、地方へその余波が波及していた。新九郎の父・伊勢備前守盛定の所領の備中国荏原郷では隣国備後国で続く争乱に対し備中国守護・細川勝久から兵糧提供の準備を求められ、また争乱の結果によっては敗残兵への備えが必要になることから、父・伊勢盛定は16歳になった新九郎に名代として荏原への下向を命じる。

3月、新九郎は伊勢備前守家の家臣、大道寺太郎、荒川又次郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に荏原郷に入る。荏原郷では父・盛定の伊勢備前守家と、父の次兄・伊勢掃部助盛景の伊勢掃部助家で、備中伊勢氏としての所領を東西に分割しており、備前守家の所領・東荏原はここ2年ほど年貢からの収入が大幅に減っていた。原因として掃部助家の所領・西荏原との土地の境目があいまいで、東西荏原の年貢を集めるため両家が設けた荏原政所の胸先三寸で備前守家の取り分が決まっていることを知らされる。地侍や農民も新九郎を領主として認識しておらず、荏原政所を頭人として取り仕切る父の三兄で新九郎の伯父・珠厳も新九郎をすぐに京の都へ帰る客扱いし、新九郎は荏原に来て早々に山積する問題に頭を抱える。同じころ荏原の北の戸倉から小菅を勢力範囲とし伊勢家に心服しない国人・那須家の当主・那須修理亮資氏やその従妹で女性ながら男装の弓の達人・弦姫とも知り合うが、これが荏原の問題を解決していく思わぬ糸口となる。

応仁の乱の影響は地方に波及したしていたが、荏原では隣国備後国での騒乱と比べほぼ無風といってよいほど静かであった。しかしやがて細川家家臣で備中国守護代庄伊豆守元資から備後国へ向かう東軍・山名是豊の軍勢の宿泊、通過[注釈 2]に対する支援を依頼されると、新九郎は領主名代としてこれにそつなく対応する。ほっとするのも束の間、新九郎は荏原の土地の台帳に基づき年貢が分けられるよう荏原政所頭人・珠厳、掃部助家の盛頼らに求め、台帳の確認や検田を行おうとするが、珠厳らはそれを快く思わない。

4月、新九郎は伯父の荏原政所頭人・珠厳から新九郎の荏原赴任を歓迎する酒宴に招かれた。酒宴には新九郎と家人たちに加え、珠厳、盛頼の弟で珠厳に仕える珠龍、そして掃部助家から盛頼が参加することになっていたが、盛頼は到着が遅れていた。しかし酒宴の席に着いた新九郎は何かおかしい雰囲気を感じ、腹痛を理由に帰ろうとしたところ、これを押し留めようとする荏原政所の給仕と揉め、板戸が倒れると隣の部屋に武装した侍たちがおり酒宴で新九郎たちを殺害しようとしていたことが明らかになる。珠厳は盛頼一行が到着後、盛頼に殺害を実行させるつもりだったが、盛頼到着前に新九郎たちに発覚してしまった以上自ら実行する覚悟を決め、武装した侍たちが新九郎たちを取り囲む。新九郎たちは酒宴の席に着く前に太刀を預けてあり、腰刀だけでは相手にならず斬死を覚悟する絶体絶命の状況となったが、そこに盛頼とその家人たちが遅れて到着する。珠厳は盛頼に「待ちかねていたぞ」と言い、盛頼が珠厳に加勢と思われたその時、盛頼は珠厳を取り押さえると、珠厳が荏原政所頭人として東西荏原の採れ高を不正に操作し自らの懐を潤していたことを明らかにし、珠厳は病を得て執務ができないため今日を限りに退任、代わって盛頼の弟の珠龍が荏原政所の頭人になることを宣言した[注釈 3]。盛頼は新九郎を助けるつもりでクーデターを起こした訳ではなかったが、新九郎は自分に敵対的と思っていた盛頼に絶体絶命の状況から救われることになった。

4月28日、京の都では将軍・足利義政が珍しく伊勢伊勢守家の邸に伊勢貞親を「私用」として訪ねた。義政は元服前に傅(もり)役の貞親に養育されたため、しばらく昔話をしていたが、話を改め貞親が将軍側近・日野勝光を失脚させようとしていたこと、および義政の将軍位退位と義政の嫡子・春王の将軍就任の裏工作を行っていることを証人と共に突き付けた。義政は自分を育ててくれた礼と共に涙ながらに貞親を本日を以て幕府政所執事から解任し無役とし、貞親の嫡子・貞宗を代わりに任命することを申し付けた。これにより貞親は文正の政変に続く2回目の失脚で、出家の上、近江国へ出奔することとなった[注釈 4]。また貞親と一連託生の新九郎の父・盛定も出仕停止、出奔こそしなかったものの蟄居となった[注釈 5]。将軍の命で貞宗が政所執事職を継いだい伊勢伊勢守家はともかく、盛定の伊勢備前守家は家自体が無役ということになると、役目の対価で与えられて所領のいる東所領も取り上げられる可能性が出てきた。荏原にいる新九郎はこの事態を手紙で知るも様子を見守るしか出来ず落ち着かない日々を過ごすのであった。

5月、新たに荏原政所の頭人となった盛頼弟・珠龍と、盛頼、そして新九郎による話し合いが持たれた。新九郎はこれに加えて荏原の北の山間部に住む国人の那須家当主・那須修理亮資氏を呼び、西荏原・伊勢掃部助家、東荏原・伊勢備前守家、那須家の3家による年貢の取扱いの監視の仕組みを導入することでの珠厳の不正蓄財のような事件の防止を提案する。荏原は掃部助家にしか取りまとめられないと思っている盛頼はたじろぐが、那須資氏が面白うござると合意したことで盛頼も合意せざるを得ず、この監視の仕組みは動き出すこととなった[注釈 6]

新九郎は新たに幕府政所執事となった兵庫助あらため伊勢伊勢守貞宗に呼ばれ上洛。そこで父・伊勢盛定が剃髪し蟄居状態であることを知る。新九郎は貞宗や細川勝元に依頼し将軍・足利義政に会う約束を取り付け、嫌がる盛定を連れ義政に謁見、盛定は貞親の不正工作に加担した謝罪と、自らの隠居、出家により家督を新九郎に譲ることを願い出る。将軍・義政は鷹揚な表情ではあるものの、自分を将軍から退位させ嫡子・春王に譲らせようと工作した伊勢貞親、盛定らへの怒りは大きく、盛定の隠居と出家によりとばっちりを受ける形となった新九郎には、家督と所領を相続こそ認めたが、余の瞳が黒いうちは幕府の役目への任官[注釈 7]は無く、無位無官[注釈 8]の地方領主として日々を送れと申し付けた。これにより新九郎は無位無官、幕府に無役の状態で伊勢新九郎家とでもいうべき家督と東荏原の所領を相続し、新九郎は東荏原の領主「名代」から正式な「領主」となった。

5月30日、新九郎が荏原に戻ると、伊勢掃部助家と那須家が戦の一歩手前の一触即発の状態になっていた。争いの原因は土地の台帳を厳格に適応するようになり代々那須家に仕える沼之井という者が耕す土地が台帳では掃部助家の土地とされ、台帳の通り今後年貢の取りまとめを掃部助家が行うことを沼之井に伝えに行くと沼之井が拒否し乱闘に至り、掃部助家に死人が出て沼之井は那須家に保護を求め逃げ込んだと言い、おまけに那須家は狩り小屋との名目で砦を建て、掃部助家による見分も拒否しているという。新九郎はまず盛頼が具足姿で今にも那須家に攻めかかろうとしていたのを押し留め、次に那須家の砦がある場所が法泉寺の背後の山であることが分かると、東荏原の領主として法泉寺の寺域での争いを禁止する「禁制」(法泉寺の平盛時禁制)[注釈 9][12] を発行し、弦姫を介して資氏に対し東荏原領主として法泉寺の寺域に禁制を発行したこと、東荏原は西荏原の側に付き那須家と戦う意思が無いことを説明、那須家に話し合いの席に着くことを説得し、那須の砦を解体させることに成功する。さらに掃部助家と那須家両方が納得する仲裁者として、新九郎が元服前に細川家への使い走りをしていたことからの顔見知りである細川家家臣の備中国守護代庄伊豆守元資に仲裁を依頼、掃部助家と那須家は他ならぬ守護代による仲裁ということで話し合いの席に着くことになった。ほどなく法泉寺で行われた話し合いでは仲裁役の庄元資が取りまとめ、沼之井の年貢はこれまで通り那須家が扱うが、那須家は掃部助家に埋め合わせをするということで詳細を詰める事となった。

新九郎は領主になったと言えども16歳の男子。那須の弦姫に初めて会った時から女性ながらその凛々しい姿に憧れを抱いていたが、一緒に鷹狩りや馬の遠乗りに出かけるうちに憧れの気持ちは恋心へ変わっていった。那須家が山中に築いた砦の解体に立ち会った際には、新九郎は河原で半裸で汗を拭う弦姫を見てしまい、妄想に頭を悩まる日々を過ごすのであった。

6月、盛頼は、新九郎に東荏原の代替わりのお披露目の祝宴を開き、近隣の主だった国人たちも招いて美味しい酒など景気よく振る舞えば領主がましくなるだろうと言う。新九郎がこれを笠原や平井ら宿老に相談すると、宿老たちは新九郎の父・盛定が酒宴や贈答にかなりの金を使ってしまったため[注釈 10]、城の整備、家人らの俸禄、備えの更新などで借銭の域に達しておりとても祝宴など開ける状況ではないという。新九郎は一旦祝宴を諦めるが、宿老たちは代替わりのお披露目もして差し上げられないようでは宿老として名折れだとして、その年の年貢の一部を質に入れることで借銭をしお披露目の祝宴を開くこととなった。

6月24日、祝宴の当日。東荏原・高越山麓の城主館に次々招待客がやってくる。盛頼や、しばらく前に荏原に下向してきていた盛頼の父で新九郎の伯父の伊勢掃部助盛景、備中国守護代・庄伊豆守元資、国人・那須修理亮資氏とその従妹の弦姫も到着。弦姫は普段の男装ではなく女性らしい打掛姿で現れ、新九郎の目は釘付けとなる。途中、庄元資、盛景、資氏らが和解の仕上げをすると別室へ移動するが、しばらく後で和解が成立したとして戻ってきた。

祝宴も終わり招待客は三々五々帰っていく。盛景は盛頼に弦姫を那須家の館がある戸倉まで送っていくよう申し付け自分は先に帰っていったが、先程まで祝宴の席にいた弦姫が見当たらない。新九郎と家人たちは弦姫を探すが、新九郎は馬房で馬を眺めていた弦姫を見つける。弦姫は祝宴での男たちの自慢話が退屈で仕方無かった、もう少し新九郎と話したいという。新九郎は我慢していたものが切れてしまい、貴女に惹かれているようだと言ってしまう。弦姫は自分が一度政略結婚をし男女の機敏など知らぬまま子も産まずに帰ってきた女だが、今まで殿方からそのようなことを言われたことは無く、新九郎を何とかわゆいお方だという。ふたりは人が来ない敷地内の工房に移動し、結ばれる。そして弦姫は夜のうちに戸倉に帰って行った。

翌朝このことはほどなく新九郎の家人たちにも知れることとなった。家人たちの会話では在竹三郎がこれを機に那須と結ぶのも手かと問うが、荒川又次郎は遊びなら構わんだろうが殿の立場と前途を考えると正室は京都でしかるべき家から迎えなければならないだろうと言う。新九郎は盛頼に呼ばれ外出するが、そこで何も知らない盛頼から備中国守護代・庄元資を呼び込んでの仲裁をお膳立てした礼と共に、昨日の祝宴の合間に行った会談で掃部助家と那須家の和解の総仕上げとして那須の弦姫が側室として盛頼に嫁ぐことが決まったと知らされ、新九郎は凍りつくのだった。

第3章「凶の都 編」(第7集 - 第8集)

弦が盛頼の側室になる話を聞き、弦に恋心を抱いていた新九郎はもぬけの殻のようになった。かと思えば荒れて高越山麓の城主館裏の竹林で大声で刀を振り回したりと躁鬱をくりかえしていたが、ほどなく良い家来たちの前でいじけていては罰があたると思い直し、次第に平静を取り戻していった。一方、弦を側室に迎える盛頼[注釈 11]は、父・盛景と那須修理亮資氏が本人たちの承諾なしにこの結婚を決めたのはひどい話だが、弦は一本芯の通った女なので、幕府奉公衆の役目で荏原を離れ上洛する間も父・盛景や荏原政所などに目を光らせてくれる弦ならば安心して背中を任せられると言う。数日後、弦は掃部助家に輿入れし、これに合わせ盛頼の父・盛景は正式に隠居し、盛頼は西荏原の領主と掃部助家の家督を継いだ。

文明3年(1471年)7月、京の都では死病の疱瘡が流行っていた。衛生環境が悪く日々の食事にも困る生活困窮者ほど感染率も死亡率も高く、市中には遺体があふれていた。疱瘡は経験則で一度罹り死なずに回復すると二度と罹らない病として知られていたため、疱瘡の罹患経験がある侍所の者が指揮を取り被差別民[注釈 12]が遺体の搬送と火葬の処理を行った。新九郎の一家が住む伊勢伊勢守家の邸では新九郎の弟・弥次郎が高熱で動けなくなるが、疱瘡とは異なる発疹が出てはしかの様相を示した。義母・須磨が懸命に看病するが、須磨もはしかに感染し亡くなってしまう。疫病の大流行に対し、将軍・義政は疱瘡・はしかの罹患経験がある侍所の者を現場の指揮に出す他は、祈祷以外の根本的な対策を行うことが出来ず、天皇からはこの状況を諌める漢詩を贈られ、妻・日野富子とは大喧嘩、将軍家は家庭内別居状態になった。

7月下旬、荏原にいる新九郎の元に、義母・須磨が亡くなったので上洛するようにとの知らせが到着する。急ぎ京都へ向かい、市中に入ると疫病で亡くなった躯(むくろ)を運ぶ多数の荷車を見かける。新九郎が伊勢守家の邸に着くと、弥次郎ははしかから回復していたが、須磨の葬儀は死因が疫病だったためやむを得ず一門で手早く済ませ終わっていた。新九郎は義母の位牌に手を合わせた。須磨が亡くなったことで新九郎の父・盛定(備前入道)はひどく落胆しており、幕府の役目から隠居・引退後も実質的にこなしてきた申次衆の仕事が出来る状態ではなくなっていた。新九郎はすぐにも荏原に戻りたかったが、新九郎の義従兄で幕府政所執事となった伊勢伊勢守貞宗は、宗家当主として一門の新九郎に対し、父・盛定に代わり滞っている申次衆の仕事をこなすよう命じ、新九郎が幕府の仕事に慣れるように仕向けるのであった。

8月。伊勢伊勢守家の邸の敷地内にある別棟・北小路第(きたこうじてい)には将軍・足利義政の嫡子・春王が住み、伊勢一門の宗家当主・伊勢伊勢守貞宗が春王の傅(もり)役を務めている。その春王に呼ばれ新九郎が北小路第を訪ねると、春王は新九郎が数年前に献上した竹馬が壊れてしまい直して欲しいという。新九郎がこの竹馬を直しふたたび献上すると、直した新九郎を余の股肱(ここう)で恃み(たのみ)にする、明日も明後日も訪ねて参れという。子供だが次期将軍を約束された春王から好かれることは新九郎にとって将来の栄達の道が開かれたも同然と貞宗や盛定、笠原や大道寺右馬助など周囲は喜ぶが、早く荏原に戻り所領の差配をしなければならない新九郎は内心困り果てた。

8月末、応仁の乱は5年目を迎え膠着状態で落とし所が見えなかった。新九郎は細川勝元の正室で西軍・山名宗全の娘(養女)・亜々子が齢70近い宗全の身を心配していると聞き、新九郎は自分が乱の終結に何らか貢献出来ないかと考えていたが、幕府方・東軍の伊勢貞宗が西軍に属する貞宗の叔父・伊勢貞藤と極秘に連絡を取り合っていたことを知ると[注釈 13]、新九郎は貞宗の許しを得て下人に扮し西軍・貞藤の屋敷に潜り込む。新九郎の生母で貞藤と再婚した浅茅がいる貞藤の屋敷では、貞藤と浅茅は新九郎が下人に扮して潜り込んできたことに驚くものの、新九郎を歓迎する。そこで新九郎は「(山名)宗全入道にお会いすることは出来ないでしょうか」「囲碁の勝負がまだ付いていないとお伝え頂ければ分かるはず」[注釈 14]と貞藤に依頼し、その夜新九郎は貞藤と共に山名宗全邸を訪ねた。現れた宗全は驚いたことに中風で半身不随、言葉もろれつが回らなくなっていたが、意識や思考は明瞭なようで、「敵地に乗り込んで勝負に挑もうとは見上げた根性」とぶっきらぼうなことを言いつつ新九郎を歓迎した。ところがここに西軍の乱の急先鋒・畠山義就大内政弘が囲碁を観戦に現れると場の雰囲気は一気に緊張したが、新九郎を東軍の間者とみなす畠山義就が厳しい言葉を浴びせようとするのを宗全は西軍の首領として諭し、囲碁の勝負は進んだ。新九郎は宗全から細川家と山名家を和睦交渉に向かわせる言葉を引き出し細川勝元に伝えたかったが、応仁の乱の継続を望む畠山義就と大内政弘[注釈 15]が厳しい視線を投げかける中、新九郎は宗全からそのような言葉を引き出すことは出来ず、囲碁も中風ながら局面が進むたびに頭脳が冴え渡ってくる宗全の勝利に終わった。

翌朝、貞藤は東軍・伊勢伊勢守家の邸に帰る新九郎に、畠山義就などはそなたを東軍の間者と疑っており斬りに来かねんので下京に帰る大工・人足たちに混じって帰ると良いと言い、新九郎はそれに従い再び下人に扮した格好で人足一行と共に屋敷を出発した。しかしほどなく西軍の足軽[注釈 16]たちが新九郎が混じる人足一行の行手を阻み、伊勢新九郎というガキがいたら出せ、さもなくば片っ端から斬るという。人足がそれを拒んだところ斬り合いが始まり、新九郎も自分を襲ってくる足軽を人生で初めて真剣で斬ったが[注釈 17]、別の足軽に押し倒されやられると思ったその瞬間、人足の頭(かしら)が新九郎を押し倒した足軽を槍で刺殺し、新九郎は間一髪のところで危機から救われるのだった。人足たちは実は侍で、その頭は横井掃部助の家人で新九郎の生母・浅茅に仕える多米権兵衛。もともと貞藤と浅茅が多米権兵衛に命じて新九郎を守るために人足を装ったものであった。

東軍・伊勢伊勢守家の邸に戻ると、新九郎は山名宗全に会うと思っていなかった貞宗から西軍にこちらの手の内を見せたとこっぴどく叱られるが、貞宗はしょげる新九郎に早く下人の格好から着替えよと促した。新九郎には荏原から書状が届いており、荏原が洪水で被害に遭っているという。将軍嫡子・春王からいとまを請い急ぎ荏原に戻ると、夏前半の日照りに対し夏後半は雨が続き洪水となり、堤が切れて田がやられていた。宿老の平井は今年の収入は東荏原300貫のうち150貫程度になるのではないかと予想するが、借銭の返済もあり、新九郎は頭を抱えた。新九郎には荏原での領主に加え、京都では盛定に代わっての申次衆の仕事や、春王への伺候があり、しばらくの間一月ごとに荏原と京都の行き来に忙殺される生活を送るのであった。

文明4年(1472年)、応仁の乱の膠着状態は変わらず、翌文明5年(1473年)、それまで時代を動かしてきた大物が立て続けに死去する世代交代の年であった。まず1月、前幕府政所執事で新九郎の伯父の伊勢貞親が蟄居していた若狭国で享年57歳で亡くなる。将軍・義政の育ての親として権勢を振るい、幕府奉行衆、奉公衆を意のままに動かした天下の佞臣の寂しい最期だった。3月、応仁の乱の西軍の実質的なリーダー山名宗全は中風を患っていた上に前年の切腹未遂事件以降寝たきりであったが3月18日享年70歳で亡くなる。5月、東軍の実質的なリーダーで前幕府管領の細川勝元が数日前には将軍・義政との酒宴に出席していたにも関わらず享年42歳で急死。応仁の乱の東軍・西軍それぞれの中心である細川家、山名家で当主が死去し、和平を望む後継者に代替わりすることで乱の終結に向けた前提が整っていくのであった。

文明5年(1473年)秋、新九郎の姉・伊都が正室として嫁いだ駿河国守護今川上総介義忠との間に待望の嫡男が誕生、龍王丸と名付けられ今川家は喜びに沸いていた。伊都の実家である伊勢新九郎家でも駿河を訪問し祝いの言葉を述べるべきであったが、所領の東荏原が一昨年、昨年と2年続きの不作で借銭続きの新九郎家では、祝いの品を用意するのも駿河までの旅の路銀も捻出が難しく、祝いのために駿河訪問は難しい状況であった。ところが政所執事として幕府の政策の中枢にいる貞宗から、駿河国へ行き今川家の内情を調べてきてくれないかという命を受ける。義忠は幕府からの関東出兵命令をいい加減に扱いながらもかつて今川家が守護職を務めた隣国・遠江国の守護職への復帰をしつこくねだるため、将軍の御教書を出し義忠を将軍御料地の遠江国懸革(かけかわ)庄の代官に任ずるので義忠がどう動くか内偵してきて欲しいという裏があった。

文明5年(1473年)12月、新九郎18歳。荒川又次郎を留守役として荏原に残し、大道寺太郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に伊勢から駿河へ向かう船にあった。船酔いで伏せるも富士の山は聞きしに勝る美しさで、一行は小川湊(焼津)に上陸しほどなく駿府に到着する。義忠への挨拶と祝いの言葉を述べた後、義忠の正室となった姉・伊都にも面会するが、新九郎がした昔話に伊都は亡くなった兄・八郎や母・須磨を思い出したようで、寂しい思いをさせたのではと詫びるが、伊都はこちらで家族を作っている戦いの最中なので泣き暮らしてなどいられないと気丈に応えた。今川家では幕府から下された懸革庄の代官任官の御教書に対し義忠は遠江国に並々ならぬ関心を抱いているというが、新九郎が義忠に細かく聞こうとするとごまかされてしまった。新九郎がふと関東に興味があることを漏らすと、義忠は関東のことなら今川一門で従弟の小鹿新五郎範満に聞けという。範満はここまで参られたなら伊豆へ足を伸ばしてみてはと誘い、新九郎一行は伊豆国を訪れ堀越公方足利政知に謁見することとなった。

明けて文明6年(1474年)1月2日、小鹿新五郎範満に伴われ駿府を発った新九郎一行は伊豆国へ入った。堀越公方は幕府が廃した古河公方[注釈 18]に代わり幕府が公式に認める「鎌倉公方」であり、正月の諸行事は京都の将軍家に準じて行われ、正月三賀日は伊豆の堀越御所にて関東管領や関東周辺国の守護(の代理)との対面の儀となる。新九郎は1月4日に対面と決まり、空いた時間に修善寺の温泉を訪れた。修善寺の湯に浸かりながら川を挟んで山が連なる風景がなんとはなしに荏原に似ていると評していたが、新九郎の西国訛りにどちらからおいでになられたと声を掛けてくる御仁がおり、自らを武蔵国の住人源六左衛門、六左とでもお呼び下されと名乗った。新九郎は正式な名乗りはしなくて良いと解釈し京の都より富士山見たさに下ってきた新九郎と名乗ったが、六左は新九郎を品骨卑しからずいずれ貴顕に交わることもござろうと言い、歌は詠まれるかと聞き「蓑の代わりに山吹を差し出された話」をし、新九郎は話題豊富な六左に感心するのであった。

1月4日、新九郎は堀越公方足利政知に謁見する。政知は顔が弟で将軍を継いだ足利義政に似ているが、義政に比べ疲れたような顔をしていた。というのも政知は15年前伊豆国に送り込まれたが、自ら「鎌倉公方」として古河公方足利成氏と戦おうとすると義政から「粗忽の企て」と叱られてしまい、関東の国人への調略や命令も京都の義政と幕府から直接行われる。「鎌倉公方」とは名ばかりで公方としての働きも己の意思では許されず、関東管領からは鎌倉は危険だから来ないでくれと言われ伊豆から動くことも出来ず[注釈 19]、ふてくされざるを得ないためであった。そんな政知は将軍家の一員として京都に生まれ天龍寺の僧侶として京都に暮らした人物であり、新九郎の京なまりの言葉や伊勢家の名を懐かしい京の香りがすると言い、新九郎が話す女金貸しの話、疫病流行の際の将軍家の話や、細川家の相続の話など京の都の話を喜ぶのであった。1月末、新九郎は京都に戻り、幕府政所執事の貞宗に今川上総介義忠が遠江に並々ならぬ執着を抱いていることを報告し、2月には荏原に戻った。

8月、駿河国守護・今川義忠は斯波家が守護を務める隣国・遠江国に出陣。目的は応仁の乱の西軍・斯波義廉の遠江国内の勢力の掃討であったが、今川一門の堀越貞延堀越郷(袋井)に入部させ、河匂・浜松荘の代官・巨海新左衛門尉を追討、見附の守護所に立てこもる斯波氏被官・狩野宮内少輔を自死に追い込むなど、遠江国内で新たな守護にでもなり斯波家の勢力を追い出すかのような振る舞いを始めた。

文明7年(1475年)2月、幕府は斯波家の東軍勢力である甲斐敏光守護代として遠江国に送り込ませ、遠江国は一転し東軍の領国となった。ところが義忠が堀越郷に入部させた堀越貞延が国人勢力の横地・勝田に襲われ討死にすると、7月、義忠は報復のため遠江国に攻め込み、勝田氏の本拠地勝間田城を攻め落とし、続けて見附の守護所を守る斯波家の守護代・甲斐敏光を追放。返す刀で横地氏の本拠地横地城に攻めかかった。文明8年(1476年)2月、義忠の軍は横地城を落城させるが、その日の夜、今川方の勢力がいる遠江国相良撤収中、横地の残党から襲撃を受け、流れ矢が義忠に中たり戦死した。義忠の戦死により、今川家では家督の継承をめぐり争いが発生し、これに関わることとなる新九郎の運命が変転を始める事となる。

第4章「駿河動乱 編」(第9集 - 第10集)

文明8年(1476年)2月、駿河国駿府今川家駿府館(すんぷやかた)では、隣国・遠江国攻めでの当主・今川義忠戦死の報がもたらされ、重臣達は困惑の中で今後の対応を話し合っていた。今川家では、かつて守護を務めた遠江国を斯波家から取り戻したい下心があったとは言え、応仁の乱・西軍勢力を追討する目的で行った遠江攻略が、いつの間にか斯波家の西軍勢力は遠江国から居なくなり、斯波家の幕府方・東軍勢力を攻め滅ぼしてしまうこととなった失態に、幕府への恭順の姿勢を示さなくては幕府への謀反になってしまうとの結論に至った。ここで義忠の死による今川家の家督継承は、順当であれば義忠と正室・伊都の嫡子で4歳の龍王丸であるが、4歳の当主では幼すぎるのと、幕府の意向に反した先代当主の嫡子が家督を継承しては恭順の姿勢を示すことにならず、龍王丸以外で血統的に義忠に最も近い義忠の従弟・小鹿新五郎範満が就くべきとの意見が出たが、範満は2、3日考えさせて下されと申し出てその場を収めた。しかしその後、義忠の小姓だった者が範満に斬りかかり逆に成敗されるなど騒動が大きくなり、遠江に権益を持つ堀越、新野などの今川一門と主に駿河国西側に所領があり遠江攻略に動員された朝比奈丹波守岡部矢部など譜代の家臣が龍王丸支持に、これに対し主に駿河国東側に所領がある三浦、福嶋、朝比奈肥後守由比庵原などの家臣や多くの国人衆などが小鹿支持に回り、今川家中は分裂した。

2月下旬、京都の伊勢家では、幕府政所執事で伊勢宗家当主の伊勢貞宗伊都新九郎弥次郎の父・備前入道正鎮(隠居・出家した伊勢盛定)、新九郎の弟・弥次郎、および新九郎らが集まり、今川義忠に嫁いだ伊都からの手紙を元に駿河の情勢が話し合われていた。幕閣の中枢にいる貞宗は、今川義忠が遠江国の幕府方・東軍の斯波家勢力を攻め討ち取ったのは暴挙であるが、応仁の乱が終わっていない幕府にも、斯波義敏義良親子と斯波義廉の間で家督争いが続く斯波武衛家にも今川家を討伐する余裕は無く、今回は譴責で済みそうという。しかし今川家中では謹慎の姿勢を示すため伊都と龍王丸を排除しようという動きがあり、義忠の討死を奇貨として家督を奪おうとする者により、一触即発の騒動が起こり死人も出ているという。伊勢家としては一門の血縁の者が有力守護大名家の当主になるのを支援したい中で、新九郎は2年前駿河を訪れた自分が姉を助けるのに適任として貞宗に願い出て、幕府から今川家の家督争いの調停のため駿河に派遣されることとなった。

4月、新九郎、21歳。家臣の荒川又次郎、在竹三郎、大道寺太郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に海路から駿河国小川湊(焼津)に上陸し、湊近くの林雙院[13]に入った。若輩の新九郎は駿河の調停では幕府評定衆の高官で駿河国益頭庄に所領を持つ摂津修理大夫之親に従うよう貞宗から命じられており、新九郎が益頭庄の摂津之親を訪ねると、之親はここから駿府までの道中、今川家臣達の各所領でそれぞれ関を設け龍王丸か小鹿かどちらに付くかを問われ返答次第では命が無く、駿府でも騒乱状態で駿府へ行く気が失せたといい、新九郎も足止めを命じられじりじりとした日々を過ごす。月が明けた5月、新九郎は海から安倍川を遡り駿府へたどり着くことを摂津之親に願い出、之親は新九郎一行だけでの駿府入りを許可する。翌朝新九郎一行は小川湊から漁師の船で安倍川河口に上陸し、最初に小鹿範満の館を訪ねた。範満は2年前新九郎と一緒に伊豆の堀越御所へ旅をし旧知の仲であったが、龍王丸派と思っていた新九郎が訪ねてきたことに驚きつつ歓迎した。しかし騒動で弟が龍王丸派に討たれ謀反人として首を晒されたことについては怒りを示し、和睦のための三つの条件を提示した。次に新九郎は駿府館に向かい今川義忠後室(こうしつ)で龍王丸の母である姉・伊都を訪ねた。伊都は、三つの条件は小鹿範満が家督に就く前提でいずれも受け入れられないと言う。

翌日、関東管領配下の扇谷上杉家家宰太田道灌の使者が駿府館を訪れ、道灌が小鹿方の交渉代理人を務めるので、龍王丸方からも交渉代理人を出して頂き談合をしたいという。今川義忠後室として龍王丸方の実質的なトップである姉・伊都の命で新九郎は龍王丸方の交渉代理人を務めることとなり、駿府・八幡山麓の栽松寺へ向かった。交渉の部屋に入った瞬間、新九郎は正面に座る交渉相手から味わったこともないほどの圧を感じたが、改めてよく見ると相手は小柄で、しかも初対面ではなく2年前に伊豆の修善寺の湯で会った人物で[注釈 20]、これが太田道灌その人であった。

談合は1回実施後に双方の家中での意見調整を経て5日後の再開を繰り返す形を取る。談合が始まると道灌は小鹿方が求める三つの条件を改めて問うが、新九郎はすべて拒否。しかし新九郎は交渉で道灌に揺さぶりを掛けようと試みるも、道灌にはすべて見破られてしまう。新九郎は駿府の街で鎧の商いをしていた狐に再会し、狐は関東で見聞きしてきた情報として、関東管領配下の長尾景春が反乱を起こし太田道灌は反乱への対応のため駿府に長く滞在できないはずとの関東情勢を新九郎に伝える。次の談合で新九郎は、道灌は交渉が長引けば龍王丸方に有利な条件でも諦めて応じるだろうと考え交渉の引き伸ばしを試みるが、老練な道灌は新九郎の意図を見抜き、2、3ヶ月かかる覚悟をしており問題無いが、お若い方がおかしな駆け引きなど考えず真面目にやって下されよとクギをさした。新九郎は小手先の交渉術では八方塞がりになりつつあった。

7月、新九郎は熟考の結果、龍王丸が家督に就くのは血筋的な筋目としては正しいが、まだ4歳の当主が自らの指針で動けるはずもなく、亡父・義忠に従い遠江に侵攻した取り巻きの後見を受けると見做されれば将軍や幕府の支持を得られない。また小鹿方には今川家家臣諸将の兵に加え道灌が関東から連れてきた精鋭と堀越公方の兵が臨戦態勢で備えており、もし戦になれば兵数が大きく上回る小鹿方に龍王丸方は敵わず、龍王丸の身に危険がおよんだ挙げ句に家督を強奪される、であれば一旦範満に家督代行に就いてもらい、龍王丸に有利な条件を確保した上で将来の復権を目指すのが現実的、との結論に至り、伊都や、堀越、新野、朝比奈丹波守岡部、矢部など龍王丸方諸将を説得をした。新九郎は談合で、範満は家督代行に就き駿府館に入り、後室(伊都)と龍王丸は館から退去する、ただし小鹿方の和睦のための三条件にある人質同然での小鹿館入りは受け入れず龍王丸方諸将の所領がある駿河国の山西(やまにし)地区に引きこもる、という条件での終結を提示[注釈 21]。道灌もこれならばと受け入れる姿勢を見せるが、これは道灌が落とし所として以前から考えていた結論と同じであることが分かり、新九郎は道灌の掌の上で転がされていたような気分になり愕然とした。また小鹿方では後室(伊都)と龍王丸の身柄を確保できない条件を不安視する意見も出たが、道灌はそれを言い張ればまとまり掛けた和談が決裂しますぞと抑え込んだ。

8月、談合により和議は整った。小鹿(今川)新五郎範満が今川家の家督代行に就任することが決まり、伊都と龍王丸らが駿府館を退去し駿河国山西地区へ向かう日、新九郎は太田道灌を挨拶に訪れた。道灌は新九郎にお若い身でよく頑張られたと言いつつ、この調停はお手前のお手柄ではなく幕府や政所の威光が成さしめたものと嫌味を言い放ち、新九郎は交渉で翻弄されたことを思い出しながらいつかこのひと(道灌)に勝ちたいと心に誓うのであった。

続いて新九郎は今川家の当主代行となった今川(小鹿)新五郎範満を挨拶に訪れた。範満は前夜の当主代行就任の酒宴で二日酔いだというが、龍王丸に一方的に肩入れせず公正に家督相続の調停を行って頂き骨折り誠にかたじけのうござったと新九郎に礼を述べた[注釈 22]。新九郎は以前、範満と伊豆国堀越御所へ旅をし範満の実直な人柄を分かっており、今後龍王丸を家督に就けるため範満と争うことになると思うと気が重くなるのであった。

新九郎が伊都と龍王丸らから遅れ駿河国山西地区・小川湊へ移動した翌日、龍王丸方では小川湊の代官・長谷川次郎左衛門の屋敷で労をねぎらう宴が開かれた。朝比奈丹波守ら今川家臣諸将は酒も入り龍王丸が家督に就けなかった敗北への鬱憤を爆発させたが、伊都は将来龍王丸を家督に就けるためにも今は自重して欲しいと演説し血気はやる諸将らを言いくるめた。ところがその深夜、長谷川次郎左衛門の屋敷は数人の覆面の男たちの襲撃を受ける。新九郎は賊たちが「(狙うは)四歳の男子とその母親」と話すのを聞き、襲撃は伊都と龍王丸の命を狙ったもののようであったが、新九郎とその家臣、宴の後で屋敷に宿泊していた龍王丸方今川家臣諸将らの奮戦もあり賊をその場で撃退し討ち漏らした者は逃走していった。龍王丸方家臣諸将らはこれが小鹿方家臣らの仕業ではないかと考えたが、今後も龍王丸が家督に就ける年齢になるまで数年間山西地区に安全に留まることが難しいのは明らかだった。夜が明けてから新九郎は駿府の小鹿方に襲撃を指示したか詰問しその動きを牽制、また伊都と龍王丸らの身の安全を図るため彼らを京都に上洛させ、幕府政所執事である伊勢家の力を使い御所(足利義尚)や大御所(足利義政)に謁見してもらい、今川家の家督は龍王丸のものとの承認が得られればという思惑を伊都や龍王丸方家臣諸将に話し、旗頭が一時的に駿河国から居なくなることを説得した。新九郎は伊都や亀、龍王丸らに加えて彼らに従う奥の女房らも連れ小川湊(焼津)から船旅で伊勢国へ移動、そこで京からの伊勢家の兵の到着を待ち、兵に護られ11月に京に上洛した。

幕府では将軍・足利義政の嫡子・春王が文明5年(1473年)暮れに9歳で元服、足利義尚を名乗り、義尚は新たな御所として将軍職に就くと共に父の義政は将軍を引退し大御所と呼ばれるようになっており、文明9年(1477年)、御所・足利義尚は将軍就任4年目であったが、実権は依然大御所の父・足利義政が握っていた。これは新九郎にも悪い影響を与えており、幼年期に傅役の伊勢家で養育された義尚はかつて竹馬を作ってくれたり修理してくれた新九郎のことを慕い、御所(将軍)となった今は新九郎を申次衆として自らの側近に登用したい希望を持っていたが、6年前新九郎の父・盛定の隠居、出家の経緯で大御所・足利義政から睨まれている新九郎[注釈 23]を登用することは出来ず、新九郎は幕府で無役の状態が続いた。また新九郎は幕府政所執事の伊勢貞宗の力を借りて駿河国守護だった故・今川義忠の後室である姉・伊都を大御所・義政に謁見させようとするも、結果として幕府に命令違反し戦死となった今川義忠に未だに腹を立てている義政は貞宗からの要請を聞き流し謁見はなかなか実現しなかった。

一方、11年に渡り続いている応仁の乱は、幕府・東軍による数年越しの西軍とその傀儡政権「西幕府」への切り崩し工作が功を奏し、文明3年(1471年)西軍・斯波義廉の重臣・朝倉孝景が、また文明7年(1475年)には同じく義廉の重臣・甲斐敏光が東軍へ寝返りそれにより義廉は没落、また文明6年(1474年)山名宗全死去後の山名家の東軍への帰順などで西軍諸将は浮足立つようになった。西軍最大勢力の大内政弘は「自分の分国が心配」と東軍からの説得工作に応じ、幕府が政弘の西軍参加を罪に問わない確約と朝廷から新たな官位を得て自らの分国に帰国、同じく西軍の主力・畠山義就も京を退去し畠山家の家督争いを続けるため河内国へ移動することとなった。文明9年(1477年)11月、もはや西幕府と西軍の解散は決定的で、西幕府将軍の今出川殿・足利義視美濃国守護・土岐成頼を頼って美濃へ、他の西軍諸将もそれぞれの分国に退去することとなる。11月11日、西軍の陣を出た義視は美濃の軍兵と共に京都の街を東へ向かい、鴨川に差し掛かったところで最後にもう一度都を見ておきたいと軍兵を止めさせ駕籠の窓から川を眺めた。するとやじうまの群衆の中から新九郎が大声で「この川を渡る時に思い出すことがござりませんか」と問いかけた。この場所は10年前新九郎の兄・八郎が義視に従い命を落とした場所だったが、義視は新九郎の方をちらりと見ただけで駕籠の窓を閉め軍兵を出させその場から去っていき、新九郎はやるせない気持ちでこれを見送った。義視の京都からの退去により11年に渡り続いた応仁の乱は終結した(第10集第64話)。

第5章「家督の行方 編」(第11集 - )

文明10年(1478年)、新九郎は23歳となる。幕府では時々単発で御供衆としての将軍随行役や幕府の式典警護の命を受けるようにはなったものの、公式には依然無役で、と所領・備中国東荏原の往復と、甥の今川龍王丸を幕府から今川家家督継承者として認めてもらう活動に明け暮れていたが、東荏原は数年続きの不作で借銭は膨らみ、龍王丸の家督承認も芳しい成果はなかった。新九郎は荏原を訪れた際、領内の国人領主・那須掃部助資氏から屋敷に招かれ、そこで話には聞いていたが見ることが無かった那須家の先祖・那須与一源平合戦の恩賞で源頼朝公から荏原の地を賜った証という頼朝公直筆の下文を披露された。しかし歴史オタクの新九郎は下文の那須与一の諱(いみな)が間違っていること、また流人生活が長く多数の写経をこなしていたはずの頼朝の直筆にしては字が下手過ぎることから、件の下文は後世の偽作と考えたが、自信満々に自慢する資氏の面子を潰さぬようそのことは黙ったいた。新九郎は、家督や所領とはそんな不正をしてまで守りぬきたいもので、大事なものを守るためには正直に生きているだけでは済まされないと思い知るのであった(第11集第68話)。

新九郎が京に戻ると、今川家家督代行に就任した今川(小鹿)新五郎範満駿河国守護職への補任願いを幕府に提出しようと活動中であることを知る。範満が正式に守護職に補任されてしまうと龍王丸が家督に就く可能性はまず無くなってしまうため、補任願いへの審査は幕府政所の伊勢家の力を使い幕府内で後回しにさせ時間を稼ぐこととしたが、範満がすでに駿河国守護職相当の働きをしているのは事実であり、まだ子供の龍王丸は亡くなった先代当主・今川義忠が龍王丸に家督を譲るという生前の譲状遺言状でもあればともかく、義忠の嫡子というだけでは範満を家督から外し龍王丸の家督就任を認めさせる強力な論拠とはならなかった。新九郎は内輪の酒の場で那須の頼朝公下文のように上総介殿(今川義忠)譲状を偽造しちゃいますかと漏らすと、幕府政所執事の伊勢貞宗、新九郎の父・備前入道(伊勢盛定)、従兄の伊勢盛頼らからそれだと言われ、良心の呵責にどきどきしながらも覚悟を決め元々在りもしない今川義忠の譲状を偽造することとなった(第11集第70話)。

しばし苦闘ののち、新九郎が偽造した今川義忠の譲状は、義忠嫡子である今川龍王丸の家督承認願いと共に幕府に提出された。譲状と家督承認願いはしばらく棚晒しになっていたが、あるとき大御所(前将軍)・足利義政は暗殺され亡くなった父・普広院(第6代将軍・足利義教)が夢枕に立ち父から怒られる夢を見た。義政はこれを志半ばで亡くなった父・普広院の事績をなえがしろにするな、との声と解釈し、父の事績を帳消しにするような事案が無いか幕府奉行衆に命じ調べさせた。すると永享5年(1433年)今川家の家督争いに父・普広院が裁定を下し今川範忠に家督を継がせた事案があり、しかし現在はその裁定に反し、今川範忠と家督を争った今川(小鹿)範頼の子・今川(小鹿)範満が今川家家督代行に就いており、しかも普広院が家督を認めた今川範忠の孫・今川龍王丸から譲状と共に家督承認願いが出ていることを知る。大御所・義政は今川(小鹿)範頼派だった今川家臣とその子らが父・普広院の裁定に意趣返しをしたと考えこれに立腹。文明11年(1479年)12月、大御所・足利義政は龍王丸の今川家家督を認め、今川上総介義忠の遺領はすべて譲状通り今川龍王丸が相続すべきものとするが、幼童ゆえ龍王丸の守護職補任は保留、とする御内書を出すこととした(第12集第73話)。

登場人物

本作品では年齢は数えで表記するため、満年齢より1、2歳上となっている点は注意が必要である[注釈 24]

伊勢一門

伊勢氏は平安時代末期に源平の合戦で都落ちし壇ノ浦で滅んだ平家と先祖を共通にする伊勢平氏の支流[注釈 25]室町幕府では初代将軍足利尊氏に仕え深く信頼されたことでその後一門から幕府の政所申次衆奉公衆などの重要な地位に多数の人材を輩出し[注釈 26]、伊勢家一門がいなければ幕府の政(まつりごと)が立ち行かなくなると作中で細川勝元に言わしめた[注釈 27]。家事として故事や武家礼法(伊勢流)に詳しく、また将軍の藩屏として弓馬を得意とする文武両道の家柄である。

伊勢備前守家(伊勢新九郎家)

伊勢氏支流の備中伊勢家に生まれた新九郎の父・伊勢盛定が、宗家・伊勢伊勢守家の娘・須磨を娶り、宗家の婿養子の立場で興した家である(第3集外伝「新左衛門、励む!」)。盛定が幕府申次衆の役目と共に従五位下・備前守を任官[注釈 28]したため伊勢備前守家と呼ばれる。新九郎の生家であり、兄・八郎が早世したため父・盛定の隠居により新九郎が当主となった。

伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)
(伊勢千代丸→伊勢新九郎盛時)
本作品の主人公。後世「北条早雲」の名で知られる人物。父は室町幕府高官で申次衆伊勢備前守盛定、生母は盛定の側室で尾張国国衆・横井掃部助の娘・浅芽。盛定の次男として康正2年(1456年)生まれる。幼名は千代丸(ちよまる)[注釈 29]。元服後の仮名(けみょう)新九郎
正義感が強く、理屈や正論を好む。幕府高官の父・盛定を敬愛している。父の被官で傅(もり)役の大道寺右馬介は千代丸について、置かれた環境と修行によってひとかどの武士にも立派な学識僧にも名のある職人にも容易になりそうだが、気の利いたことは言えないので商人になるのは難しそうだと評している。手先ぐ器用で趣味は造り(伊勢氏の家職でもあり宗家・伊勢守家の邸内に工房がある)で、自作のデザインを書き留めた帳面を持ち歩いている。
文正元年(1466年)8月、当年11歳。傅役・大道寺右馬介の山城国宇治の館で暮らしていたが、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため[注釈 30]、父に呼ばれ京都の伊勢宗家である伊勢伊勢守家邸に住む父の一家・伊勢備前守家と暮らすことになる(第1集第1話)。
文正元年(1466年)9月、文正の政変では父・盛定が幕府政所執事の伊勢伊勢守貞親と共に、将軍・足利義政が切腹命令を出す前に逃亡(第1集第2、3話)。貞親に代わり宗家・伊勢伊勢守家当主を継いだ伊勢兵庫助貞宗の命で、千代丸は伊勢家と幕府重鎮・細川勝元の間の使い走りをすることになる。勝元は礼法の伊勢家で教育され頭も良い千代丸を気に入り、千代丸は身重の勝元正室の話し相手を任されるようになった[注釈 31]。有力大名の山名宗全が酒宴のため細川邸を訪ねた際は、千代丸は宗全と碁を打つこととなり(第1集第4、5話)[注釈 32]、細川勝元、山名宗全というふたりの大物から知遇を得ることとなった。
応仁元年(1467年)夏、応仁の乱の最中に12歳で元服。伊勢新九郎盛時と名乗る(第2集第7話)。「盛時」という諱(いみな)は、「盛」定の子であることを示すとともに、母方の祖父・横井「時」任が一字をくれたもの。元服後は将軍直臣の盛定の子ということで将軍・足利義政に御目通りし、幕府奉公衆の役目に就いた(第2集第8話)[注釈 33]
応仁2年(1468年)11月、今出川殿(足利義視)が失踪、義視に仕える新九郎の兄・八郎もこれに従い姿を消す。義視は幕府方・東軍の総大将ながら密かに西軍に通じている噂があり、もし義視が西軍に向け出奔したならば幕府に対する謀反、それに従う八郎も同罪となるため、新九郎と伊勢備前守家の家人達は出奔を阻止すべく捜索を行なう。すると鴨川の河原で逃亡中の義視の一行を発見するが、八郎が刀を抜いて立ち塞がり義視の一行を逃そうとし、八郎は新九郎同様に義視を捜索していた幕府奉公衆の伯父・伊勢掃部助盛景に討ち取られ落命してしまう。悲しみの中で次男坊の新九郎が将来父・盛定の後継者として備前守家を背負うこととなった。
文明3年(1471年)3月、16歳になった新九郎は父・盛定の名代(代理)として備中国の所領の荏原郷・東荏原へ下ることになる(第4集第17話)。初めての領地に心躍らせる新九郎だったが、到着してみると山積する問題に頭を抱える。5月、伊勢宗家当主および幕府政所執事に復帰していた伊勢貞親が幕府の役目から解任され、文正の政変に続く2回目の失脚となると(第5集第27話)、貞親の右腕として活躍し一蓮托生と見られていた父・盛定も幕府の役目を外れ隠居し出家せざるを得なくなる。将軍・足利義政の怒りは激しく、盛定の隠居に伴いその嫡子・新九郎には家督と所領の相続を認めたものの一生幕府の役目に就かず無役でいろと命じ、父のとばっちりを受けた新九郎は従五位下・備前守など官位官職を名乗ることや幕府で申次衆奉公衆などの役目に就くことを認められず無位無官無役の状態[注釈 34]で伊勢新九郎家とでもいうべき家督と東荏原の所領を相続した。
文明8年(1476年)2月、駿河国守護大名今川家へ嫁いだ姉・伊都の夫で今川家当主・今川義忠が幕府の意向に反し遠江国に攻め込みながら当地で戦死すると(第7集第51話)、今川家では家督争いが勃発、義忠の嫡子で伊都の長男・龍王丸を支持する派閥と、幕府の意向に反したことに対し恭順の意を示すためとして義忠嫡子の龍王丸ではなく義忠従弟の小鹿(今川)新五郎範満を支持する派閥に分裂し騒乱状態となる。新九郎は伊勢貞宗の命じられ幕命として駿河国に下向しその調停に立ち会うことになり、小鹿方から範満を支持する関東管領の意を受けた太田道灌が交渉代理人として出てくると、新九郎は義忠後室で龍王丸方の実質的なトップの姉・伊都の命で龍王丸方の交渉代理人として談合に臨んだ。しかし龍王丸方の状況は不利で、百戦錬磨の太田道灌に交渉で翻弄される中、最終的に新九郎は範満が今川新五郎範満として家督代行に就任するのを認めるも、成長した龍王丸が将来家督に就く道筋を残し、小鹿方の要求にあったような龍王丸とその母・伊都が小鹿方の実質的な人質にならず復権を目指せる状況を確保して交渉を終結させた(第8集第58話)。
文明15年(1483年)、将軍職を引退した後も長らく権力を手放さなかった大御所・足利義政が、義政の嫡子で将軍・御所となった足利義尚に権限を大幅に譲り東山に籠ることになると、新九郎もいよいよ幕府申次衆として幕府の職に登用され無役を返上することとなった(第86話)。
伊勢備前守盛定(いせ びぜんのかみ もりさだ)
新九郎の父。官途名は新左衛門尉→備中守→備前守。
第1話より千代丸(新九郎)の父として登場するが、第3集では1話読み切りの外伝「新左衛門、励む!」の主人公として、千代丸が生まれる前、盛定が若い頃の出世物語が描かれている。
伊勢氏支流で備中国に所領を持つ備中伊勢家当主・伊勢肥前守盛綱の四男として生まれ。京都で伊勢宗家である伊勢伊勢守家に出仕し、室町幕府政所のトップである執事の先代伊勢守・伊勢貞国に気に入られその娘・須磨を娶る。その際、実家の備中伊勢家より備中国荏原郷の東半分、東荏原を与えられる。幕府の外交官的役割を果たす申次衆を務め、新たに伊勢宗家当主となった義兄で幕府政所執事の伊勢伊勢守貞親の右腕として働き、伊勢宗家でトップの貞親に次ぐナンバーツーの扱いを受けるが、文正元年(1466年)文正の政変では将軍弟の足利義視を誣告(ぶこく)した貞親と同罪と見なされ、将軍・足利義政が切腹命令を出す前に貞親と共に近江国へ逃亡し失脚する。応仁元年(1467年)応仁の乱が起こり貞親が将軍・義政から呼び戻されると、貞親とは別れ駿河へ行っていた盛定は今川義忠の軍勢に守られて上洛し、間もなく貞親と共に正式に赦免される。文明3年(1471年)5月、貞親が2回目の失脚により出奔すると、貞親と一蓮托生とみられていた盛定は出奔こそしなかったものの出仕停止で無役となり、新九郎に家督を譲り出家、備前入道正鎮と名乗った。
盛定は申次衆在任中、幕府上層部などに説明や報告を行う際「盛定スクリーン」と呼ばれる現代のプレゼンテーション風の垂れ幕を用いる本作品特有のパロディ表現が描かれているが、隠居し新九郎に家督を譲ると「盛定スクリーンも付けるから」とこれを家督と共に引き渡している。
盛定は申次の役目や貞親の右腕としての活躍とは裏腹に、所領である東荏原の経営は被官に任せきりで東荏原に赴くことも無く、そのため領民は盛定の顔すら知らない。それがやがて伊勢備前守家の財政に影響を与えることになる。また申次の役目には借銭をしてかかる費用や交際費を捻出しており[注釈 35]、金銭的なやりくりの中で正室・須磨にも化粧料から補填してもらっていたが[注釈 36]、隠居後も当主を譲った新九郎が借銭に悩む中で新九郎に断りなしに連歌の会を主催し交際費を使ったり、それでいて弥次郎に文を書かせて駿河今川家に嫁いだ伊都に銭を無心し、無駄遣いを諫める新九郎をケチ臭いと言うなど、仕事が出来る優秀な申次衆であったのとは裏腹に金銭に無頓着な面が描かれている。また仕事人で家庭を顧みなかったためか孫の子守りは得意ではなく、今川家の家督争いに敗れ一時的に京都の実家・伊勢家に逗留する娘の伊都に孫の龍王丸の世話を頼まれるも孫の好きにさせてしまい、娘から苦言を呈されるのであった。
伊勢八郎貞興(いせ はちろう さだおき)
新九郎の5歳年上の兄。父は伊勢盛定、母は盛定正室の須磨。盛定の長男、嫡子で伊勢備前守家の惣領。幼名は福徳丸(ふくとくまる)[注釈 37]。仮名は八郎。
文正の政変後、将軍・足利義政の実弟で次期将軍の足利義視(今出川様、殿)に仕える。応仁の乱が起こると東軍総大将に担ぎ上げられた義視は東軍に不利な状況に不安を感じ伊勢国へ逃亡、八郎もこれに付き従う。翌年義視の復帰とともには八郎も帰京するが、人相が変わるほどの大きな刀傷を負っていた。義視の逃亡の旅に付き従う中で、八郎は義視に厚い忠誠心を抱くようになり、伊勢家に戻れとの一門の命に反して義視の二度目の出奔に付き従う。八郎は義視を追う新九郎たちの前に刀を抜いて立ち塞がるが、実の伯父である伊勢掃部助盛景によって討ち取られた。義視の「謀反」に従った事実を隠すため、その死は「病死」とされた。八郎の死により、父・盛定の備前守家は新九郎が家督を継ぎ後継者となることが決まった[注釈 38]
伊都(いと)
新九郎の3歳年上の姉。父は伊勢盛定、母は盛定正室の須磨。盛定の長女。生母が異なる新九郎、弥次郎ら弟たちをとても可愛がっており、生母が側室のため立場の弱い新九郎に代わって父・盛定に厳しく意見することもある。応仁2年(1468年)駿河国守護・今川義忠に正室として嫁ぐこととなり、駿河国駿府へ向かった。後世、駿河今川家では北川殿の名で知られる。
文明2年(1470年)義忠との間に女児(亀、のちの正親町三条実望の室)、文明5年(1473年)男児(龍王丸、のちの今川氏親)を出産した。
文明8年(1476年)2月、夫・今川義忠が駿河国隣国の遠江国を攻略中に流れ矢に中たり戦死。今川家中では義忠による遠江国攻略は幕命に反するものだったとして幕府に恭順の姿勢を示すため義忠の嫡子・龍王丸を家督から外し従弟の小鹿新五郎を家督に据えるべきとの騒動が起きる。夫との遺児・龍王丸を今川家家督に就けるため小鹿範満と対抗するが、家臣団が分裂し駿河が壊れていく様相を目の当たりにし、新九郎の調停に従い駿河館を小鹿方に引き渡し駿河国山西へ退去する。しかしそこも刺客に襲撃され、一旦は身の安全を確保するため新九郎と共に京都の実家の伊勢家へ移動するが、龍王丸を家督に就ける強い志を持ち続けての隠遁であった。
伊都はまだ幼い娘の亀と息子の龍王丸を連れ京都へ上洛後、しばらくの間は髪を下ろさずにいたが、今川義忠後室として再婚の意志は無く嫡男・龍王丸を今川家の家督に就けたい熱意を幕府に示すため、髪を下ろし落飾した[注釈 39]
須磨(すま)
盛定の正室。伊勢宗家・伊勢伊勢守家の先代当主・伊勢貞国の娘。貞親の妹。貞興と伊都の生母で、生母が側室・浅茅の新九郎にとっては義母。家に迎えられた新九郎との間は少々ぎこちない。またしつけにも厳しく廊下を走る子供たちを叱ったりする。
文正元年(1466年)文正の政変で夫・盛定が失脚、近江国へ出奔・逃亡した際には同行し、悲観するどころか夫の逃避行への同行にまんざらでもない様子であった。盛定の帰京時には同行しておらず、しばらく近江の朽木家に預けられていたが、伊都の婚礼を前に都に帰還した。
文明3年(1471年)7月、都で流行した麻疹に罹り命を落とした。その直前には、盛定から家督を継ぎ備中国荏原の所領に下向した新九郎が金策に苦しんでいるのを知り、自らの化粧料から当座の銭と割符を荏原にいる新九郎に送った。義理の息子であっても新九郎の窮状を助け一家の安泰を願いながらの死であった。
伊勢弥次郎盛興(いせ やじろう もりおき)
新九郎の8歳年下の弟。父は伊勢盛定、生母は新九郎と同じく盛定側室の浅芽。盛定の三男。幼い頃は新九郎に「なんだかモヤっとしている」と言われてしまうほど特徴のない顔立ちだった。
生後しばらくの間生母・浅茅の手許の横井家で育てられていたが、浅茅が伊勢貞藤と再婚し、貞藤の失脚により浅茅が貞藤の都落ちに同行することになると、新九郎の願いで父・盛定の正室で義母にあたる須磨の許である伊勢備前守家に引き取られ育てられることとなった。
少年期になるとモヤっとしていた幼少の頃とは一転いろいろなことに気が廻る少年に成長し、新九郎とは違って義母・須磨との関係も良好である。また将軍・足利義政の嫡子・春王(後の第9代将軍・足利義尚)の遊び相手を伊勢貞宗の嫡子・福寿丸(後の幕府政所執事・伊勢貞陸)と共に務め、頭は切れるが気分屋で難しい細川聡明丸(後の幕府管領・細川政元)との関係も良好で、すぐに理屈っぽいことを語りたがる新九郎は、弟ながら相手に合わせスマートに対応する弥次郎を「世慣れてる」と評した。
文明11年(1479年)、大御所・足利義政が出した御教書の件で新九郎が駿河国を訪問している間に15歳で元服、伊勢弥次郎盛興と名乗った(第77話)[注釈 40]。そのままであれば弥次郎は家人(けにん)として新九郎の下で働く予定であったが、弥次郎自身は兄・新九郎が幕府で無役の上に数年に渡る所領の不作で借銭に苦しんでおり、兄に仕えることで兄の懐の負担を増やすことを気に懸けていた。そこでタイミング良く伊勢一門で跡取りがいなかった伊勢加賀守貞綱に請われたことで、加賀守家に養子入りし新九郎の元を離れることとなった(第80話)[注釈 41]

伊勢伊勢守家(伊勢宗家)

伊勢一門の宗家であり、代々の当主が室町幕府の財政を司る政所の長官である執事を歴任し、官途名「伊勢守」を名乗る。その邸は伊勢伊勢守家の人々の住まいであると共に幕府政所の政庁を兼ね、将軍の住まいである室町御所(花の御所)に隣接している[注釈 42]

伊勢伊勢守貞親(いせ いせのかみ さだちか)
伊勢一門の宗家・伊勢伊勢守家の当主。新九郎の義伯父[注釈 43]。仮名は七郎。官途名は兵庫助→備中守→伊勢守。幕府政所執事を務め、斯波家の家督争いに介入するなど絶大な権勢を誇る。将軍・足利義政が幼少のころ傅(もり)役を務めた育ての親でありその縁で将軍就任後も側近。義政に振り回される一方で愛着を持っている。先妻(兵庫助貞宗の生母)は越前の甲斐氏出身であったが、離縁して若い夫人(その姉が斯波義敏の妾)を娶る。将軍側近として大権力者、豪腕政治家である一方で、人に教えるのが好きで、元服前でまだ体が細い千代丸(新九郎)に弓を教え「お前は元々筋がいい」と褒めるようなところもある。
貞親が将軍・義政の傅役を務めたのと同様、貞親は嫡子・貞宗にも義政の嫡子・春王の傅役を務めさせ、春王が将来将軍になる際は伊勢家として引き続き権勢を得ることを目論む。
以前将軍・義政にまだ嫡子がいなかった頃、義政は弟・義視(今出川殿)を僧侶から還俗させ将軍継嗣としたが、義政に嫡子・春王が生まれたことで義視の将軍位は一代限りで、その後は成長した春王に将軍位が譲られるとされた。しかし貞親は義視の苛烈な性格を見て将来将軍位が義視から義視の子へ継承されてしまい、義政の子・春王への継承が反故にされかねず傅役としての伊勢氏の権勢が失われると危惧し、義視の排除を企てる。文正元年(1466年)9月貞親は将軍・義政に、斯波義敏との斯波家の家督争いに敗れた斯波義廉が兵を集めるのを弟・義視(今出川殿)が支援しており、今出川殿に謀反の疑いありと訴えた。これに義政は激怒、明日義視に切腹を命じようと息巻いたが、義視はすぐに邸を脱出し一旦細川邸次いで山名邸へ逃げ込み、山名宗全を中心とする反伊勢貞親派の大名達は今出川殿御謀叛というのは貞親による誣告(ぶこく)であり、貞親とその右腕で裏工作を行った千代丸(新九郎)の父・盛定が切腹すべきと義政に迫った。その日義政は貞親と盛定への切腹命令を下さず奥へ引き込んだものの、流されやすい性格の義政が切腹命令を出すのは時間の問題と思われた。これにより伊勢伊勢守家の邸は反伊勢貞親派の大名の兵に取り囲まれるが、貞親と盛定に切腹命令が出る前、邸を取り囲む兵が減ったその日の夜に貞親と盛定は近江国へ逃亡し、貞親は政所執事、盛定は申次衆の座を失い失脚した[注釈 44]。また貞親に同調し権勢を得ていた斯波義敏赤松政則季瓊真蘂らも逃亡、失脚した(文正の政変)(第1集第3話)。
応仁の乱が起こると将軍・義政に呼び戻され、政所執事および将軍の側近に復権する。
文明3年(1471年)4月、将軍・義政の義兄で側近の公家日野勝光の追い落とし工作をしていたところ義政に発覚、責任を取らされ幕府政所執事を解任され失脚、出家のうえ再度出奔した[注釈 45]。幕府政所執事は嫡子の貞宗が継いだ(第5集第27話)。
文明5年(1473年)1月、出奔先の若狭国から再度上洛しようとしていたところ病で死去した(第8集第45話)。
伊勢兵庫助貞宗(いせ ひょうごのすけ さだむね)
伊勢宗家当主・伊勢伊勢守貞親の嫡子。新九郎の義従兄。仮名は父・貞親と同じ七郎。官途名は兵庫助(→兵庫頭)→伊勢守。将軍・義政の嫡子・春王の傳役。
伊勢伊勢守家の嫡子が代々名乗る官途名の伊勢兵庫助貞宗を名乗る。宗家の跡取りとして、大政治家で大物の父からのプレッシャーも大きいが、貞宗はこの立場を淡々とこなす。文正の政変(1466年)や文明3年(1471年)に貞親が失脚・出奔すると当主と政所執事職を継ぎ伊勢伊勢守貞宗を名乗る。
文正の政変の際、反伊勢貞親派の大名達が貞親無き伊勢一門全体を幕政から排除しようとした一門の危機では、貞親とは犬猿の仲だった細川勝元と結ぶことで危機を脱する機敏な情勢判断と柔和な交渉力を持つ[注釈 46](が、父・貞親からはいつになっても「まだまだ頼りない」「貞宗はアテにならん」と言われる)。
また千代丸が元服する際には彼に乞われて烏帽子親を務めた。
文正の政変後、父・貞親が将軍・足利義政に呼び戻され幕府で復権すると当主と政所執事の座を貞親に返上するが、文明3年(1471年)貞親の2度目の失脚で出家、出奔した際には、改めて宗家・伊勢伊勢守家の当主と幕府政所執事職を受け継いだ。
ハンサムな顔立ちで従妹の伊都は結婚するなら兵庫助様よりいい男でなければ嫌と言い、盛定は「兵庫助殿が今でこそ女房子供がいて取りすました顔をしているが若いころは」と陰口を言うことで伊都を諭した。
貞宗が主の伊勢伊勢守家の邸には伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の盛定・新九郎一家も住んでおり、新九郎とその父・盛定、弟・弥次郎たちが会話をしている部屋の障子の外から貞宗が「話は聞いたよ」と入ってくるシーンが多い。また成長した新九郎が盛定から家督を相続した後はしばしば新九郎とふたりで酒を酌み交わし、幕政の中心にいる立場から義従弟の新九郎に最新の政治情勢を教えることもある。
伊勢七郎貞陸(いせ しちろう さだみち)
伊勢一門・宗家当主となった貞宗の嫡子。貞親の嫡孫。幼名は福寿丸(ふくじゅまる)。仮名は祖父・貞親や父・貞宗と同じ七郎。弥二郎の1歳上。元服前は貞宗に預けられている将軍足利義政の嫡子・春王の遊び相手だった。
文明9年(1477年)8月、元服し大御所(前将軍)・足利義政への御目通りを行った。前年に室町御所が焼失し、御所(将軍)・足利義尚や室町御所に仮住まいしていた天皇までもが伊勢伊勢守家の邸の敷地内に一時避難のため住む中で、当主・貞宗の嫡子・貞陸の元服により邸内に貞陸の部屋を作らねばならなくなり、同じ伊勢伊勢守家邸に住む新九郎らは部屋のやりくりで苦労をするのであった(第10集第64話)。
伊勢備中守貞藤(いせ びっちゅうのかみ さだふじ)
伊勢宗家当主・伊勢貞親の実弟で須磨の兄。新九郎の義伯父。仮名は八郎、官途名は兵庫助→備中守。幕府申次衆。
幕府で政所執事を務める兄・貞親とは異なる独自の立場を幕府内で築いており、貞親が将軍による大名の家督争いへの介入で大名の力を削ぐことを推し進める立場であるのに対し、貞藤はその弟ながらそれら大名に融和的な姿勢を保っていた。その結果として反伊勢派大名とも良好な関係を持ち、伊勢一門を幕府の要職から追放しようと勃った文正の政変後も京都に留まり幕府要職を維持する。しかし応仁の乱が起こると、幕府・東軍からは西軍に通じたという謀反の嫌疑をかけられ京都から追放されるが、その後西軍が足利義視を迎え「西幕府」を設立すると帰京し西幕府の政所執事となった。その際、貞親が健在であるにも関わらず伊勢宗家当主を意味する「伊勢伊勢守」を自称する手紙を貞宗に送り貞親を憤慨させた(第3集第16話、P128-129)。
先妻を失っており、文正の政変で伊勢盛定が失脚すると、その側室だった新九郎の生母・浅茅を正室(継室)として迎えたいと申し出をし、浅芽はそれを受け入れ盛定と離縁、貞藤は浅芽と再婚することとなった[注釈 47][15]
浅茅(あさじ)
新九郎の生母。堀越公方被官で尾張国国衆横井掃部助時任の娘。夫である伊勢盛定が横井家の幕府への取次を務めた縁で盛定の側室になるが、盛定正室の須磨が側室の浅芽のことを快く思わず同じ邸に住むことを嫌ったため[注釈 48]、浅茅は実家の横井家に住み続けることとなり、盛定はしばしば横井の邸に通い新九郎と弥次郎が生まれた。
しかし浅茅には実家の横井家に住み続けることは盛定側室というよりは実質的に妾に近い冷遇であり、文正の政変で盛定が失脚、幕府高官の立場を失い横井家に取って利用価値が無くなると、同じ伊勢一門で先妻を亡くしていた伊勢貞藤から正室(継室)として迎えたいと望まれたことから、応仁の乱勃発後、浅茅は盛定の元を離れ貞藤と再婚することとなった。盛定は貞藤に浅茅をとられたことを悔しがっているが、一方で横井家を守るための戦をしていると行動を理解している。貞藤が謀反の疑いで幕府(東幕府)から追放された際は、貞藤と行動をともにし京から出奔した。貞藤が応仁の乱・西軍で西幕府の政所執事に収まると西軍の陣内の屋敷に貞藤と住むことになる。
第7集第42、43話では、下人に身をやつし西軍・貞藤の屋敷にやってきた新九郎に貞藤と共に驚くが歓迎する様子が描かれている。
のちに新九郎の家臣となる多米権兵衛はもともと浅茅の実家・横井家の家人で、浅茅に付けられ西軍の伊勢貞藤の屋敷で仕えていた。
伊勢八郎貞職(いせ はちろう さだもと)
貞藤の嫡子。生母は貞藤の亡くなった先妻で、父・貞藤が再婚した浅茅は継母となる。新九郎の義母・須磨を介しては新九郎の義従兄であるが、浅茅を介しては義兄である。
西幕府で西幕府将軍・義視の申次を務める。下人に身をやつし西軍の貞藤の屋敷にやってきた新九郎に驚いた[注釈 49]
伊勢伊勢守貞国(いせ いせのかみ さだくに)
外伝「新左衛門、励む!」に登場。貞親、貞藤、須磨らの父で先代の幕府政所執事、伊勢守。
若き日の盛定(新左衛門)を気に入り、娘の須磨と娶せて婿とする。昨日会ったばかりの須磨のことを「息災か?」と盛定に尋ねるほど娘を溺愛している。また「早く孫の顔が見たい」と盛定をせっつき、福徳丸(八郎)が生まれると、「今度は女の子が欲しい」と再びせっついていた。待望の孫娘・伊都が生まれた翌年に死去。臨終の床で盛定に「もう一人、男子がいた方がいいぞ」と遺言を残した。

備中伊勢家

伊勢氏の支流で代々備中国の所領を継承し、室町幕府では奉公衆などを務めている。新九郎の父・盛定の実家。

伊勢掃部助盛景(いせ かもんのすけ もりかげ)
備中伊勢家・伊勢肥前守盛綱の次男、新九郎の伯父(盛定の次兄で異母兄)[注釈 50]。仮名は九郎。官途名は掃部助。幕府奉公衆。父・伊勢肥前守盛綱の所領の中で、備中国荏原郷の西半分の西荏原を継承し、自らが当主として伊勢掃部助家を興す。
本来、自分が荏原郷全体を相続するはずだったのに東半分が弟の盛定に与えられたため盛定の伊勢備前守家を嫌っている。
足利義視(今出川殿)が結果として東軍を離反し西軍入りする2回目の出奔の際には盛景は奉公衆として今出川邸の警備に当たっていたが、邸に出入りする雑人の格好に扮した義視に気づかず外出させてしまったのは盛景の失態であり、それを挽回しようと新九郎たちを尾行して鴨川の河原で義視一行に追いつき、義視を逃そうとする新九郎の兄・八郎を討ち取った。盛定の後継者の八郎を殺害することで備前守家を弱らせようという裏の意図もあった(第3集第15、16話)。
一方所領の経営では、盛定が東荏原の所領経営を被官に任せきりにし領民は盛定の顔すら知らないのに対し、盛景は京での奉公衆の役目の合間にこまめに西荏原に帰り所領の経営に心を砕いており、荏原は東西とも盛景の所領であると思っている領民すらいる状況である。
那須の弦姫を側室に娶った嫡子の盛頼に家督を譲り正式に隠居した(第7集第38話)。
伊勢九郎盛頼(いせ くろう もりより)
伊勢掃部助家・伊勢掃部助盛景の嫡子、新九郎の従兄。仮名は九郎。幕府奉公衆。新九郎が盛定の領主名代として備中荏原郷に下向した際には、先に京都を出立し荏原で新九郎一行を出迎え荏原の主が誰か思い知らせてやると意気込んだ。新九郎の領主名代としての活動に立ちふさがる存在となる。
所領の経営では、父・盛景と同様京都での奉公衆の役目の合間にこまめに西荏原に帰り所領の経営に心を砕いている。備中伊勢家と言えども将軍に仕える役目は京都での仕事であるが、盛頼は子供に頃からほぼ半分荏原で育っており[注釈 51]荏原に親しみが大きい。そのため父同様、東荏原の伊勢備前守家の盛定と新九郎を邪魔だと思っており、盛景からは「東荏原を盗ってしまえ」とも言われているが(第5集第27話)、盛定と新九郎は伊勢宗家である伊勢伊勢守家の貞親や貞宗との関係が深く、うかつに手を出せないことでバランスが保たれている。しかし新九郎が珠厳の不正蓄財のような事件の再発防止に伊勢掃部助家、伊勢備前守家、備中那須家の三家での監視の仕組みを提案したり(第5集第28話)、伊勢掃部助家と備中那須家との諍いに庄元資の仲裁を呼び込んだことを「俺にはマネできん」と高く評価するようになり(第6集第37話)、その関係は改善しつつある。
しかし荏原の地侍や農民からは西荏原の掃部助家が荏原全体を領有しているという感覚はなかなか消えないようで、農民の子供は盛頼を「九郎(もりより)様」と様付けで呼び、新九郎を「新九郎」と呼び捨てにしていた(第8集第45話)。
盛頼には京都に正妻と嫡子がいる。
西荏原の所領の境界をめぐり伊勢掃部助家と那須家が戦になりかねない一触即発の状態になった時には、新九郎の奔走もあり備中国守護代・庄伊豆守元資の仲裁で那須家と和解に至ったが、和解の総仕上げとして盛景や那須資氏のお膳立てで那須の弦姫を側室として娶るとともに、父・盛景から伊勢掃部助家の家督を相続し、以後は伊勢掃部助盛頼を名乗る(第7集第38話)。
伊勢千々代丸(いせ せんちよまる)
文明4年(1472年)伊勢掃部助盛頼と、その側室になった弦との間に生まれる。新九郎から見ると従兄・盛頼の子で従甥(じゅうせい)である。盛頼の嫡子・長男は正室から生まれ京都におり、千々代丸は側室・弦から生まれた次男となる。祖父の盛景は千々代丸を早々に寺に入れ僧侶にする希望だが、弦はどうせ千々代丸が武士として伊勢掃部助家を継げないならば、那須修理亮資氏に養子入りしたものの体が弱い弦の実弟・那須弥三郎資頼の養子に千々代丸を入れ、千々代丸に那須家を継がせたい思いがあることを新九郎に明かした。また盛景の少々強引な依頼で新九郎は千々代丸に弓を教えた。容姿や性格は盛頼より新九郎に似ており、新九郎は驚いていたが、珠徹からは「従兄弟や再従兄弟には良う似たのが出るもんだ」と笑われた(第11集第66話)。
珠厳(しゅげん)
備中伊勢家・伊勢肥前守盛綱の三男、新九郎の伯父(盛定の三兄)。出家し僧形であると共に、盛景の西荏原・伊勢掃部助家、盛定の東荏原・伊勢備前守家が共同で東西荏原の年貢を集めるため設けた荏原政所の頭人である。
その立場を利用し東西荏原の年貢の一部をかすめ取り自らの不正蓄財をしていたが、新九郎が東荏原の収入が急に減った原因を探ろうと政所での帳簿確認や検田を始めようとしたことに焦り、荏原政所で新九郎のための宴席を偽り新九郎とその家臣たちを殺害しようと目論んだ。しかし殺害自体を盛頼にやらせ自分の手を汚さずに済ませようとしていたことを盛頼に見透かされ、また東荏原だけでなく西荏原の年貢にも手を付けていたことを盛頼が気づき、高齢で病のためとして荏原政所頭人の座を引退させられた(第5集第25話)。
珠龍(しゅりゅう)
伊勢掃部助家・伊勢掃部助盛景の次男、盛頼の弟、新九郎の従兄。出家し僧形。荏原政所で頭人を務める叔父の珠厳に仕えていたが、盛頼が珠厳を強制引退させたことに伴い荏原政所の頭人となる(第5集第25話)。
珠徹(しゅてつ)
備中伊勢家・伊勢肥前守盛綱の五男、新九郎の叔父(盛定の弟)。次兄・盛景と四兄・盛定は母が違うと本作品中で紹介されているが、珠徹は盛定と顔が似て描かれており、盛定の同母弟と思われる。出家し荏原の祥雲寺・住持を務める。新九郎の家督継承のお披露目の祝宴で「祥雲寺住持・珠徹」の名前が出ており、祝宴の最中に「京に行った折には兄盛定が面倒を見てくれての」と叔父らしい内容で新九郎に話しかけている(第6集第35話)。
また新九郎が所領・東荏原で毎年のように続く不作に対し年貢の取り扱いに悩み、西荏原・掃部助家居館の盛景に年貢の扱いの教えを請いに訪問した際は、盛景が新九郎のために内輪の酒宴を開きこれに珠徹、珠龍も参加している(第11集第66話)。
伊勢肥前守盛綱(いせ ひぜんのかみ もりつな)
備中伊勢家当主で新九郎の父方の祖父。盛富、盛景、珠厳、盛定、珠徹らの父。第3集に含まれる外伝「新左衛門、励む!」に登場。
伊勢宗家である伊勢伊勢守家の婿となり「出世した」四男の盛定に備中国荏原郷の半分を相続させ、間もなく隠居した(第3集「新左衛門、励む!」)。
伊勢八郎左衛門盛富(いせ はちろうざえもん もりとみ)
備中伊勢家・伊勢肥前守盛綱の長男・嫡子で盛定の長兄、新九郎の伯父。幕府申次衆。第3集に含まれる外伝「新左衛門、励む!」に登場。
父・盛綱から家督を相続し伊勢肥前守盛富を名乗る。父の所領の内、丹後国川上本庄を相続した(第3集「新左衛門、励む!」)。
貞親の法要に伊勢一門が集まった際に、隠居・出家した姿で一門の長老として振る舞う盛富(肥前入道)が描かれている[注釈 52]
伊勢肥前守盛種(いせ ひぜんのかみ もりたね)
伊勢肥前守家・伊勢肥前守盛富(隠居・出家後は肥前入道)の嫡子。新九郎の従兄。幕府申次衆。父・盛富の隠居・出家の際に所領と幕府申次衆の座を継いだ。文明10年(1478年)2月、大御所(前将軍)・足利義政、大御台・日野富子、第9代将軍で義政の嫡子の御所・足利義尚らが細川聡明丸が当主を務める細川京兆家御成(おなり)をした際、御供衆として同行した(第10集第65話)。
伊勢弾正忠貞固(いせ だんじょうちゅう さだかた)
伊勢肥前守家・伊勢肥前守盛富(隠居・出家後は肥前入道)の子で盛種の弟、新九郎の従兄。兄・盛種が伊勢肥前守家を継いでいるため、「貞」の字を通字とする伊勢伊勢守家に近い家に養子入りしたと考えられる[16]。文明10年(1478年)2月、大御所(前将軍)・足利義政、大御台・日野富子、第9代将軍で義政嫡子の御所・足利義尚らが細川聡明丸が当主を務める細川京兆家御成(おなり)をした際、兄・盛種、新九郎らと共に御供衆として随行した(第10集第65話)。また新九郎より3年早く文明12年(1481年)から幕府申次衆を務め、文明15年(1483年)から申次衆に加わった新九郎に従兄・先輩として厳しめのことを言うこともある。御所・足利義尚の寵愛を受け猿楽師から近衆に引き立てられた観世彦次郎(広沢尚正)が周囲にえばり散らす状況に対しては新九郎らの内輪の場で不満を露わにした(第87話)。

伊勢家被官

蜷川新右衛門親元(にながわ しんえもん ちかもと)
伊勢宗家である伊勢伊勢守家で家宰として貞親、貞宗に仕える。アニメ『一休さん』に登場する「新右衛門さん」の実子[注釈 53]
政所に執事をはじめ多数の事務官を担う伊勢守家の家宰の立場に恥じない抜群の記憶力と頭の回転の早さで、貞親の出奔時に伊勢平氏都落ちの故事や、盛定の初任官時のことを立ちどころに会話にする。
政務に関わっていた者の視点で書かれた親元日記の著者でありこれから室町時代の政務体制を詳しく知ることができる。その体で第1集から第3集の解説ページ「蜷川新右衛門の室町コラム」での解説役も担当する。時折秀吉など未来の事象まで口にするため新九郎から「いつの時代の人なんですか!?」と突っ込まれている。
大道寺右馬介重昌(だいどうじ うまのすけ しげまさ)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の傅(もり)役。妻が浅茅の妹のため、新九郎にとっては母方の叔父に当る。親身に新九郎の傅役を務めるが性格は武骨者。伊勢家の所領または将軍御料地で伊勢家が管理を預かる山城国宇治の館に住み、新九郎が11歳になるまでその地で預り武家の子供としての教育をした。
右馬介が管理していた宇治の所領は土一揆など何らかの紛争から守りきれず、右馬介は戦傷で左腕を失った姿で当主となった新九郎に詫びた(第7集第40話)。
大道寺太郎重時(だいどうじ たろう しげとき)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の家臣。大道寺右馬介の嫡子。新九郎と同年齢。母が浅茅の妹で新九郎の乳母のため、新九郎とは従兄弟であり乳兄弟である。山城国宇治の生まれ育ち。父・大道寺右馬介譲りで体が大きく腕っぷしも強い。
新九郎と前後して元服し、共に幕府奉公衆として出仕する。幼いころから新九郎と育ったため主君の新九郎に対してタメ口であり[17]、それをしばしば年長の在竹三郎にたしなめられる。また新九郎は手先が器用で木材から観音像を彫ってしまったりするが、それを知った大道寺太郎は「あいつ何になりたいんだ!?」とひとり疑問をつぶやいた(第4集第19話、P67)。
荒川又次郎(あらかわ またじろう)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の家臣。荒川又右衛門の次男。新九郎より6歳年上。備中国荏原郷の生まれ育ちで、幕府奉公衆のお役目のため荏原から上京してきた[注釈 54]。冷静沈着。
在竹三郎(ありたけ さぶろう)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の家臣。在竹兵衛尉の三男。新九郎より5歳年上。荏原郷の生まれ育ちで、又次郎とともに荏原から上京してきた。お調子者。父、長兄、次兄と顔が非常に似ており新九郎は初対面で親族であることを見破った。
荏原に父から与えられた「猫の額ほどの」田畑を持つ。三郎には百姓の爺さんが仕えているが、爺さんが腰を痛めた時には三郎自ら田畑を耕し自分の食い扶持となる農作物を育てる。三郎いわく「地侍の三男など百姓と変わりません」と語っている[注釈 55]
荒木彦次郎(あらき ひこじろう)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の家臣。新九郎と同年齢。口に葉っぱをくわえている。剣の達人。下戸で馴れ合いを好まない。新九郎の外出で警護が必要な際に同行することが多い。
剣は我流で、本人は考えると怖じ気づくため何も考えずに体が動くように鍛錬しているというが、多米権兵衛からはそれでは勢いにまかせ突出しすぎで主を守るどころか押し包まれていずれはなます、「匹夫の勇」の誹りは免れないと指摘された[注釈 56]
山中才四郎(やまなか さいしろう)
伊勢備前守家(伊勢新九郎家)の被官。新九郎の家臣。新九郎より5歳年下。幼名は駒若丸。本人は山城国生まれだが父が荏原出身[注釈 57]。新九郎の初の荏原下向時は元服前で駒若丸を名乗っていたが新九郎の身の回りの世話をする条件で新九郎の荏原下向への同行が許された。母を亡くしており、新九郎が彫った木彫りの観音像を母代わりに大事にし、懐に入れ持ち歩くと共に毎晩拝んでおり(第4集第19話)、これがのちに賊から矢を射掛けられる才四郎の命を守ることとなった(第10集第60話)。
荏原へ下向した新九郎の家臣で一番年下なこともあり、在竹三郎からは那須の弦姫への恋心に悩む新九郎を慰めるため殿の褥(しとね)に同衾(どうきん)せよとからかわれた(第6集第37話)。また16歳になり元服すると山中才四郎を名乗るようになるが、相変わらず在竹三郎から「烏帽子がずれているぞ、いや嘘だ」と再びからかわれた(第9集第53話)
笠原弥八郎(かさはら やはちろう)
備中伊勢家の被官。東荏原で高越山城代を務める笠原美作守の三男。荒川又次郎や在竹三郎と幼なじみ。荏原の情報に詳しく耳も早い。食いしん坊でいつも何か食べている。
笠原美作守(かさはら みまさかのかみ)
領主の盛定に代わり東荏原高越山城代を務める備中伊勢家の宿老。弥八郎の父。
平井安芸守(ひらい あきのかみ)
備中伊勢家の宿老。備中伊勢家に管理を任された将軍御料地の備後国志摩利荘で代官をしていたが、応仁の乱の争乱が備後国に波及するとやむを得ず荏原に戻ってきた[注釈 58]
井上飛騨守(いのうえ ひだのかみ)
備中伊勢家の宿老。
多米権兵衛元茂(ため ごんのひょうえ もとしげ)
尾張国蟹江郷の住人横井掃部助時利の家人。新九郎の生母の浅茅(時利の妹で横井家が実家)に従っており、浅茅の再婚相手で応仁の乱下で西軍に参加する伊勢貞藤の邸で仕えていたが、下人に身をやつし潜り込んできた新九郎を東軍・伊勢伊勢守邸へ安全に返すため、貞藤と浅茅の命で大工人足の頭を装い新九郎に同行し、西軍の足軽に襲撃される新九郎を危機から救った。戦慣れしている(第7集第43、44話)。
多米権兵衛が仕えていた横井家は、文明8年(1476年)に応仁の乱の一因である斯波家家督争いが斯波家分国の尾張国に波及した際、この騒乱で所領を荒らされ、多米の主人・横井掃部助は没落し行方知れずになった[注釈 59]。そのため以前、新九郎を西軍・伊勢貞藤邸から東軍・伊勢伊勢守邸まで送り届けた多米の働きを覚えていた邸の主・伊勢貞宗に許され、新九郎も同居する伊勢伊勢守邸で多米はしばらく居候をすることとなった(貞藤が貞宗に多米を依頼したとも)。多米は人柄も明るく話題豊富で他の家臣との関係も良く、また新九郎は自らの家臣に戦の修羅場に慣れた実戦経験者が少ないと考えていたことから多米を新たに家臣に加えることとし、最初の仕事として東国に下向し駿河今川家に影響を与える太田道灌の動向を見てくるよう命じた(第11集第68話)。

足利将軍家

鎌倉時代鎌倉幕府執権北条氏一族と代々姻戚関係にあった幕府有力御家人の足利家は、足利高氏(のちに改名し尊氏)が元弘の乱後醍醐天皇側に寝返ったことを一因として鎌倉幕府が滅びると、源氏の末裔としての由緒と鎌倉幕府有力者として政治の実務に関わってきた立場から建武の新政で武家の信頼を集め、やがて建武の新政を離反、皇室で後醍醐天皇とライバル関係にあった持明院統の皇族を担ぎ室町幕府を開く。足利将軍家はその尊氏の直系の子孫で代々室町幕府将軍の座を世襲した。

本作品では最新の研究に基づき、この時代室町幕府とその将軍は、初期の足利尊氏足利義満の頃と比べると将軍としてのカリスマ性は薄れるが、後の戦国時代に比べると大きな権威を持ち続け、奉公衆奉行衆を手足として政治や軍事においても一定の実力を有していたことが描かれている。

足利義政(あしかが よしまさ)[注釈 60]
室町幕府第8代将軍。将軍として周囲からは「御所(様)」と呼ばれている。第6代将軍足利義教の子。10歳で早世した第7代将軍足利義勝の同母弟。
生後公家の邸で育てられていたが、幕府政所執事・伊勢貞親が傅(もり)役となり貞親の伊勢伊勢守邸で武家のいろはから棟梁としてのふるまいまで教育を受けた[注釈 61]。8歳の時に兄が亡くなり後継者とされ、14歳で元服すると共に将軍職に就いた。
公家の日野家から富子を正室に迎えるが、義政になかなか跡取りの嫡子が生まれなかったため、仏門に入っていた異母弟・義視を還俗させ後継者としたが、そのとたん富子が懐妊し嫡子の春王が生まれ、後の文正の政変や応仁の乱の波乱の原因のひとつとなった。
将軍だった父が暗殺されたことで将軍の権威は地に堕ちていたが、祖父の第3代将軍足利義満のような威光、父・義教のような武威を室町殿に取り戻そうと、伊勢貞親や側近を重用し将軍親政を行なうため父同様に守護大名の家督相続に口を挟みその弱体化を画すが、いよいよのところで父が守護大名の反抗を受け暗殺された最期が脳裏をよぎり[注釈 62]、腰砕けになることもある。そのため前言を翻すことが多く、新九郎はそのことを嫌っている。また気まぐれな発言も多く、将軍直臣の新九郎の父・盛定が隠居を申し出た際には、新九郎が所領を相続することは認めたが官位や備前守を名乗ることは許さず、新九郎には無位無官かつ幕府に無役で父の家督を継ぐことを命じた[注釈 63][18]
文明5年(1473年)義政は将軍位を9歳の嫡子の春王(元服し義尚)に譲ることを決め、翌文明6年(1474年)から10歳になった新将軍・義尚の新体制へ移行したが(第8集第49話。これ以降、義尚が新たに「御所」(将軍)と呼ばれるのに対し、義政は「大御所」(前将軍)と呼ばれる)、この後も義政は権力を手放さず政治に口をはさみ続けることになる。
足利義視(あしかが よしみ)
将軍・足利義政の異母弟。今出川の邸に住んでいるため周囲からは「今出川(殿、様)」と呼ばれる。正義感が強く、苛烈な性格は「普広院様(父・足利義教)に似ている」と評される。
5歳で仏門に入り浄土寺門跡で義尋と名乗っていたが、当初子がいなかった兄・義政から次期将軍を約束され還俗し正式に将軍継嗣となった。しかし義政に嫡子・春王が生まれたことで微妙な立場となる。文正の政変の際に伊勢家が養育する春王を次期将軍にしたい伊勢貞親に謀反の疑いで讒訴され義政から切腹を命じられる危険があった経緯から伊勢家の人間を嫌っている。
応仁の乱が起こると細川勝元によって東軍の総大将に担がれるが、形勢が東軍不利に傾くと、大内政弘の数万の軍勢が西軍に加わるため京都に入洛した直後に東軍の総大将にも関わらず逃亡、失踪した。この際近江国田上荘で住民から落ち武者狩りに遭い、家臣4人を失い鎧と太刀を取られる屈辱を味わったが(義視に仕える新九郎の兄・八郎もここで顔に大きな刀傷を負った)、一年後義視を保護した伊勢国の北畠教具の軍勢に守られ上洛する際にはわざわざ田上荘に立ち寄り「恩返し」と称して同荘を焼き討ちした(第3集第13話)[注釈 64] [19]
帰京後、義政に日野勝光ら側近の排除を諫言したことで義政の怒りにふれ、また自分を切腹させようとした貞親の復権によって命の危険を感じ、幕府内および東軍での立場を失ったと思い込み再び逃亡し比叡山に逃れる。その後、山名宗全によって迎えられ、数日前まで東軍の総大将だった義視がここで西軍の総大将と西幕府の「御所」(将軍)になるという前代未聞の事態となった(第3集第16話)。またこの逃亡と寝返りにより義視は幕府(東幕府)の将軍継嗣の立場から正式に外され、春王が次期将軍に確定することとなった。
文明9年(1477年)11月、応仁の乱・西軍の主力、畠山義就大内政弘が京都から退去し「西幕府」の解散は決定的となり、西幕府将軍の今出川殿・足利義視は美濃国守護・土岐成頼を頼って美濃へ、他の西軍諸将もそれぞれの分国に退去することとなった。義視の京都からの退去により11年に渡り続いた応仁の乱は終結した(第10集第64話)。
足利義尚(あしかが よしひさ)
室町幕府第9代将軍。父は第8代将軍・足利義政、母は義政の正室・日野富子寛正6年(1465年)義政の嫡子として生まれる。幼名は春王[注釈 65]。本作品では第2集第10話の応仁元年(1467年)に数え3歳で初登場。
元服前は傳(もり)役の伊勢貞宗に伊勢伊勢守家邸で養育される。伊勢守家邸の敷地内にある北小路第を住まいとしていた頃は、貞宗の子の福寿丸や新九郎の弟の弥二郎を遊び相手にしていた。新九郎が作成し献上した竹馬を気に入り、壊れた竹馬を修理した新九郎を、余の股肱(ここう)で恃み(たのみ)にする、明日も明後日も参れという。子供だが次期将軍を約束された春王から好かれることは新九郎にとって将来の栄達の道が開かれたも同然と貞宗や盛定、笠原や大道寺右馬助など周囲は喜ぶが、荏原に戻り所領の差配をしなければならない新九郎は内心困り果てた(第7集第41話)。
文明5年(1473年)12月19日、9歳で元服すると共に将軍宣下を受け室町御所に移り翌年正月から10歳の第9代将軍となった(第8集第49話)。しかし将軍職を譲り大御所となったはずの父・義政は数年経っても権力を手放さない上に、義尚が将軍として職務に就くための御判始め(ごはんはじめ)の儀式すら許さず義尚の権限を制限し、義尚は義政や日野富子と大喧嘩をするたび御所を飛び出し元服前に過ごした伊勢伊勢守邸に籠もったり、また若年ながら次第に酒に溺れるようになる。文明12年(1480年)、16歳で従姉にあたる日野勝光の娘と結婚する(第78話)。
義尚は傅役・伊勢家での幼い頃の記憶から新九郎のことを慕っており、御所(将軍)となると新九郎を自らの側近に登用したい希望を持っていたが、義尚の権限は制限されており新九郎の父・伊勢盛定の隠居、出家の経緯で大御所・足利義政から睨まれている新九郎[注釈 66]を登用出来ないでいた。しかし文明15年(1483年)父・義政が義尚に大幅に権限を譲り東山に籠もることになると、いよいよ御所として政治に本格的に関わるとともに、新九郎を側近として申次衆に登用することとなった(第84、85話)。
日野富子(ひの とみこ)
第8代将軍・足利義政の正室で春王の生母。代々の室町将軍の正室を輩出する公家・日野家の出身。通説でしばしば語られる金の亡者で金儲けのために幕府を私物化したといった姿は第11集までのところ描かれていない。富子はその立場から夫・義政の政治にしばしば諫言したり、また子・春王が元服し義尚を名乗り将軍職に就くと、自分の希望を家来衆に押し付けようとする義尚に対し「家来衆にも事情があるのです」と無理強いをたしなめるなど、常識的な感覚を持ち夫・子に対し影響力を持つ妻・母として描かれている。春王の元服前には義政と夫婦喧嘩をした際に春王が住む伊勢伊勢守邸の敷地内の別棟「北小路第」に泊まることもあった。

守護大名家

細川家

細川家は鎌倉時代初期に足利家から分家した足利一門[注釈 67]。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え朝廷との交渉や鎌倉の掌握、四国の平定などで活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を斯波家、畠山家と交代で務める家柄である。本作品の時代、細川家では一門の結束が固く、斯波家や畠山家のような家督争いは発生しておらず、家督争いに介入することで守護大名の勢力を削ごうとする将軍の干渉を受けていない。また応仁の乱でも斯波家や畠山家、山名家など数多くの大名家が一族の間で東軍、西軍に別れ争ったが、細川家は一門がすべて東軍に属し結束を誇った。

細川右京大夫勝元(ほそかわ うきょうのだいぶ かつもと)
細川宗家である細川京兆家当主。官位は従四位下。官途名は右京大夫。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国5か国の守護。長年に渡り室町幕府管領に何度も就く重鎮で政情を左右する大物であるが、第3集に収録される外伝「新左衛門、励む!」では25歳の頃の勝元が「出ておいた方がいいかなーと思った」との理由で1シーンだけ描かれている。
第1集の文正元年(1466年)には将軍・足利義政の弟で後継者・足利義視の後見人を務めており、「文正の政変」では舅・山名宗全とともに、義視を切腹させようと讒訴した伊勢貞親の排斥に動いたが、政変後は貞親無き伊勢一門と手を結んだ。勝元は幕府の主導権を握ろうとする宗全と対立を深め「応仁の乱」へと発展していく。乱は文正2年(1467年)1月、畠山家の内紛を直接的な契機とした上御霊社戦いで開始され、大乱にしたくない御所(義政)は各勢力に畠山家の私闘への参戦を禁止する。しかし山名宗全や斯波義廉がこれを無視し公然と畠山義就を支援するのに対し、勝元は畠山政長を支援出来ず面目を失い、政長は戦いに破れるが、自害を装い逃亡した政長を勝元は密かに匿う。年号が変わり応仁元年(1467年)5月、勝元派(東軍)の武田信賢が宗全派(西軍)の一色義直を急襲し本格的な乱が始まる。勝元は中立を保とうとした御所を囲い込み、東軍の実質的なリーダーとなると共に次期将軍・義視を総大将に担ぐ。やがて戦局が東軍に不利になると発石木足軽の活用といった新機軸の戦術を導入し状況を打開していくが、その勝利のためには手段を択ばない姿勢に新九郎は恐れを抱く。また義視が東軍内で立場を失い追い詰められていくことを理解していながら、比叡山に出奔するとあっさりと見限っている。
文明3年(1471年)乱が膠着状態に陥ると、将軍・義政の命で犬猿の仲であるはずの伊勢貞親と協調し西軍の主力である斯波義廉の重臣朝倉孝景を東軍に寝返らせ、西軍を骨抜きにし東軍を優勢にする工作を行った。また関東政策では幕府に反抗した古河公方足利成氏に対し、幕府に従い古河公方と戦う関東管領側を支援する手立てを打つが、こちらは膠着状態が続いている。
勝元は武将として東軍を率いるリーダー、政治家として幕府の重鎮である一方で、食通で鯉を自ら調理し[注釈 68]、茶の湯を好み[注釈 69]、明の医学書を読み自ら薬を調合[注釈 70]など、超一流の文化人としても描かれている。
新九郎は元服前に従兄の伊勢貞宗の命で伊勢家と勝元の間の使い走りをしたが、勝元は礼法の伊勢家で教育され頭も良い千代丸(新九郎)を気に入り勝元正室・亜々子の話し相手を任せ、また新九郎の元服後も新九郎が荏原から上洛するたびに面会を許し助言など与えている。またこの縁で新九郎の弟弥次郎も細川家に出入りすることとなった。
勝元には長年嫡子がおらず、分家の細川下野守家(野州家)生まれの勝之を養子に取り継嗣とした。しかしその後、山名宗全の養女で山名の血を引く勝元の正室亜々子との間に男子が生まれ聡明丸と名付けると、勝元は自らの後継者をどちらにするか結論を先延ばしにした。文明4年(1472年)勝元は東軍のリーダーとして応仁の乱が収束しない責任を取り髷(まげ)を切り幕府管領職を辞任する騒動が起き、勝之を含む細川京兆家の一門、家臣も一斉にそれに続いて髷を切ったが、勝之が髷を切ったことで家督の継承権も放棄することとなり、後継者の座は聡明丸に転がり込むこととなった。
文明5年(1473年)5月、西軍のリーダー山名宗全が3月に死去したのに続き、勝元は数日前に義政との酒宴に出席していたにも関わらず、応仁の乱の終焉を見ずに42歳で急死した。
細川九郎政元(ほそかわ くろう まさもと)
細川勝元の嫡子。文正元年(1466年)生まれ(第1集第5話)。幼名は代々の細川京兆家嫡子が名乗る聡明丸。母は山名一門の生まれで山名宗全の養女であるため、名目上は宗全の外孫で、細川と山名両方の血を受け継ぐ。美しき神童。非常に目鼻立ちがはっきりしている。父・勝元にとっては待望の嫡子で、誕生の一報を聞いたときは普段「笑っていても目が笑わない」と言われる勝元が心からの笑顔を見せた[注釈 71]
成長し少年となった聡明丸は、細川家の女房達が美しい聡明丸をいじって遊ぼうとするのを煩わしく思い、父・勝元に女房たちが自分をあまり構わないよう申し付けてくれと依頼した(のちに妻帯せず修験道にのめり込む前振りが描かれている)[注釈 72]
父・勝元は長年男子がいなかったため分家の細川下野守家(野州家)から勝之を養子に取り継嗣としたが、その後に聡明丸が生まれ、これは家督争いになりかねなかった。しかし勝之が相続権を失ったことで聡明丸が嫡子となり京兆家の家督を継ぐことが決まった。
文明5年(1473年)、父・勝元の死により、細川一門の宗家・細川京兆家の当主となる。とは言えこの時点でまだ数えで8歳のため、一門の有力者・細川典厩家の細川右馬頭政国の後見・補佐を受ける(第8集第46話)。翌年文明6年(1474年)4月には応仁の乱・東軍の総帥であった父・勝元の後継者として、西軍総帥・山名宗全の後継者・山名政豊と乱の和睦交渉を行い、山名家を西軍から離脱させ東軍・幕府に帰参させ、西軍の弱体化を進めた(第8集第51話)。
文明10年(1478年)、13歳で元服、大御所・足利義政の偏諱を受け細川九郎政元を名乗る。翌文明11年暮れ、被官の一宮宮内大輔の所領をわずかな近衆のみと訪れたところを拉致・幽閉されるが翌年無事開放された(第77、78話)。
政元は幕府管領職に就くことが出来る細川京兆家当主とは言え幕府では依然後見人を伴った年少者だったが、父・勝元を彷彿とさせる抜群の頭のキレと神童ぶりを見せる。また政元はこの頃から修験道にのめり込んでおり、先の拉致事件の後も無事開放されたのは自らの信仰による神仏の御加護のためと言い、信仰の影響か当時の武家の成人男性としては異例の烏帽子を被らないスタイルを好んだ(第82話)[注釈 73]
亜々子(ああこ)
勝元の正室。聡明丸の母。山名宗全の養女。実父は嘉吉の乱の赤松邸で将軍足利義教と共に殺害された山名熙貴。宗全の養女として細川勝元に嫁いだ経緯が宗全の口から新九郎に語られている(第7集第43話)。
庄伊豆守元資(しょう いずのかみ もとすけ)
細川京兆家被官(内衆)。一族の所領は備中国荏原荘の東隣にある草壁荘猿掛城を備中での所領経営の拠点とする。
新九郎が元服前に伊勢家と細川京兆家の間の使い走りをしていた頃、元資は細川被官として京兆家の邸におり新九郎と顔見知りになった(話中での描写は無いが、第4集第23話で以前からの顔見知りとの台詞がある)。
西荏原の所領の境界をめぐり伊勢掃部助家と那須家が戦になりかけた際、新九郎の依頼で備中国守護代としてこれを仲裁した。仕切り屋で依頼主の新九郎に「よくぞ頼ってくださった。困り事があればまた相談してくだされよ」と今後の仲裁依頼をも歓迎した(第4集第33話)[注釈 74]
また本作品では新九郎が不作などにより所領・備中国東荏原の経営がうまくいかず借銭まみれになる様子が描かれているが、その借銭のひとつは、史実でも備中国の渡辺帯刀から借りた借銭に対し新九郎が幕府へ徳政令の適応を申請した件として記録に残っていおり、この渡辺帯刀は庄元資の被官である(第78話)。

山名家

山名家は足利家のライバル新田家から鎌倉時代初期に分家した新田一門であるが、早い時期から新田宗家を離れ、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱では新田宗家当主の新田義貞ではなく足利宗家当主の足利尊氏に従い、南朝方の勢力の根強い山陰地方の守護に任じられて最前線で戦い、山陰地方の各国の守護大名として大勢を張ると共に室町幕府から信任を得た。室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職に就くことが出来る足利一門の三家(細川家斯波家畠山家)より家格が下がるが侍所の長官(所司)職に就くことが出来る四家(赤松家一色家京極家山名家)の一角を占める家柄である。 本作品の時代、山陰地方の但馬国備後国安芸国石見国の守護大名であり、これに加え第6代将軍足利義教を暗殺した赤松家を滅ぼした功でかつての赤松家の領国備前国美作国播磨国の守護も一門で担い一大勢力を誇った。インテリな細川家と異なり、山名家は当主の山名宗全の性格とも相まみえ武闘派の家柄である。

山名宗全(やまな そうぜん)
山名家当主。出家し宗全を名乗るが、出家前の名は山名左衛門佑持豊(やまな さえもんのすけ もちとよ)。但馬国・備後国・安芸国・伊賀国4か国の守護。細川勝元正室の亜々子の養父。「赤入道」の異名で知られる。声の大きい人物として描かれ、殆どの台詞の末尾に「!」が付けられている。
嘉吉の乱平定で武功を挙げ、凋落していた山名家の勢威をかつて「六分の一殿」と呼ばれた時代に匹敵するまでに取り戻した大人物。また豪放磊落な性格のため人望も高い。
文正の政変では反伊勢派の大名たちの首領として伊勢貞親と新九郎の父・伊勢盛定を失脚させ、新九郎にとって宗全は「親の敵」であるが、文正の政変直後に細川邸で宗全と碁を打ち前述の性格を知った新九郎(千代丸)[注釈 75]は宗全への悪い感情を改めることとなった。また宗全も媚びを売らず頭の回転が早い新九郎を気に入り、改めて応仁の乱の最中の西軍山名邸で新九郎と碁を打つ申し出を承諾した[注釈 76]
当初は娘婿の細川勝元と協調路線をとっていたが、幕府の主導権をめぐって対立を深めて決裂。応仁の乱を引き起こし西軍の実質的なリーダーとなると、勝利のためなら武士の作法に外れた戦法も辞さない東軍の実質的なリーダー勝元に怒りを露にした(その後、西軍も同じ戦法をとったが)。また東軍が幕府と将軍・足利義政や皇室を囲いこみ正当性の面で優位に立つと、戦いに優勢でも権威が足りない西軍は将軍弟・足利義視を東軍から離反させ招き入れ、本来の幕府(東幕府)に対抗し西幕府を設立した。
乱が長引くことは豪放な性格で西軍のリーダーを務める宗全にも精神的に堪えたようで、大酒などの不摂生もたたり、晩年は中風で半身不随となり新九郎の前に現れる宗全が描かれている[注釈 77]。また文明4年(1472年)には切腹未遂を起こし以降寝たきりとなり、文明5年(1473年)3月乱の終わりを見ぬまま死去する。
山名左衛門佐政豊(やまな さえもんのすけ まさとよ)
第51話に登場。山名宗全の嫡孫で、父・教豊が早世していたため祖父・宗全の死去により山名家当主となる。細川聡明九郎(細川政元)と応仁の乱の和睦交渉を行う。

今川家

今川家は鎌倉時代初期に足利家から分家した吉良家のさらに分家で足利一門。南北朝の動乱では足利宗家の足利尊氏に従い戦い、中先代の乱では長男・頼国、次男・範満、三男・頼周が相次いで戦死、四男は出家していたため五男・範国が家督を継ぐこととなり、以降の今川家の男子は中興の祖・範国にあやかり長男次男関係無く○五郎(彦五郎、新五郎など)の仮名を名乗るようになった[注釈 78]。また範国は室町幕府から駿河国遠江国の二国を賜り守護大名となったが、その後応永11年(1404年)以降遠江国の守護職は斯波家のものとなり、本作品の時代今川家では遠江国の守護職と権益の奪還が悲願となっていた[注釈 79]

今川治部大輔義忠(いまがわ じぶのだゆう よしただ)
今川家当主。駿河国守護。仮名は彦五郎。官途名は治部大輔、上総介。新九郎の姉の伊都からは「黙っていれば、いい男」と評される性格の明るい若干お調子者の美男子。
享徳の乱では鎌倉を攻め落とした英雄。伊勢盛定に請われ、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468年)将軍御所警護を名目に上洛。その実は東軍に味方することで、かつて失われた分国・遠江国の守護職を今川家に取り戻すことにあった。
上洛の際に盛定の娘で新九郎の姉の伊都(のちの北川殿)を見初め、盛定の取りなしもあり正室に迎え結婚する。駿河へ帰国後の文明2年(1470年)女児(亀、のちの正親町三条実望の室)が、文明5年(1473年)男児(龍王丸、のちの今川氏親)が生まれた[注釈 80]
義忠は享徳の乱で鎌倉公方足利成氏の本拠地である鎌倉を攻め落とし(これにより成氏は本拠地を古河へ移し、古河公方と名乗るようになる)、鎌倉に5年駐留したが、成氏と関東管領・上杉氏は戦場を鎌倉周辺から武蔵国や関東北部へ移し戦いを継続した。そのため義忠の労に対し将軍・足利義政から感状と義忠元服の際の「義」の字の偏諱を賜るなどの褒美はあったものの実質的な恩賞があった訳では無く、まして享徳の乱が終わった訳でも無かった。そのため義忠はグダグダと戦いが続く関東情勢に加担することに非常に冷淡であり、幕府からの関東派兵命令には名代として今川一門の小鹿新五郎を派遣するに留まり、自らは今川家の宿願である遠江国の権益回復に関心を抱いていた。
文明5年(1473年)、幕府は将軍御料地である遠江国懸革(かけかわ)荘の代官に駿河国守護の義忠を任じ、併せて三河国守護・細川成之の支援を命じる。その実は関東派兵を軽視し遠江国の守護職をしつこくねだる義忠の真意を見届けようという裏があった。また斯波家が守護を務める遠江国では、応仁の乱の西軍に属する斯波義廉の勢力はこの時期ですでに没落し、幕府側の東軍に属する斯波義敏・義良親子の勢力圏となっていた。しかし義忠はこの代官任命に乗じて遠江国に点在する今川家の旧領の回復と残留している一門の保護を狙い遠江に派兵を行い、遠江守護所・見附の城に立てこもる斯波家の被官・狩野宮内少輔を攻め自害させるなど幕府の意に反する行動を行うようになった。また義忠が堀越郷に入部させた遠江今川氏の当主・堀越貞延が斯波家配下の国人・横地氏、勝田氏に攻められ敗死すると、文明7年(1475年)7月、義忠は報復のため遠江国に攻め込み、勝田氏の本拠地勝間田城を攻め落とし、続けて狩野宮内少輔に代わり見附の守護所を守る斯波家被官の甲斐敏光を追放。返す刀で横地氏の本拠地横地城に攻めかかった。
文明8年(1476年)2月18日、義忠の軍は横地城を落城させるが、その夜、今川方の勢力がいる遠江国相良撤収中、横地の残党からしつこい襲撃を受ける。横地城での勝ち戦の後で義忠が横地の残党を甘く見たこともあり、塩買坂の細い山道で受けた矢が義忠に中たる。矢は急所に中っており、義忠は開けた場所にある破れ寺を仮の陣として運び込まれ、夜明け頃まで息があったが間もなく息を引き取った。
義忠の戦死により、今川家では家督の継承をめぐり争いが発生し、嫡子の龍王丸とその母で義忠正室の伊都は、龍王丸が嫡子にも関わらず義忠従弟の小鹿範満と今川家家督を争うことになる。
今川亀(いまがわ かめ)
文明3年(1471年)生まれ。今川義忠とその正室・伊都(北川殿)の長女。龍王丸の姉、新九郎の姪にあたる。父・義忠の死により駿府館を退去後は母・伊都、弟・龍王丸と共に京都の母の実家・伊勢家へ身を寄せた[注釈 81]
今川龍王丸(いまがわ たつおうまる)
文明5年(1473年)生まれ。今川義忠とその正室・伊都(北川殿)の嫡子・長男。亀の弟、新九郎の甥にあたる。
4歳の時、今川家当主の父・義忠が遠江国攻略において戦死。今川家では遠江侵攻が幕命に反したものであったとして幕府に恭順の意を示すため、義忠の嫡子の龍王丸ではなく、義忠の従弟の小鹿新五郎範満を家督に据えるべきと主張する家臣達がおり、龍王丸は嫡子に生まれながら家督争いに巻き込まれることとなる。叔父・新九郎の交渉により一旦は家督争いから身を引くこととなり駿府館を退去、母・伊都、姉・亀と共に京都の母の実家・伊勢家へ身を寄せた。数え6歳になってもまともに口を利かず、身内ならずとも将来が不安になる子で、新九郎は子守りをする際には腰に紐を結んで行動範囲を狭めている。
小鹿(今川)新五郎範満(おしか(いまがわ) しんごろう のりみつ)
今川家の一門衆。義忠の従弟。扇谷上杉家と血縁がある。武勇に優れた人物。関東での関東管領古河公方戦いに対し、幕府は駿河国の今川家、甲斐国の武田家など周辺国の守護大名に関東管領を支援し出兵するよう命令していたが、今川家では義忠の命で範満が当主の名代として最前線の五十子陣に出陣した。また堀越公方への今川家としての新年の挨拶も、義忠に代わり範満が名代として伊豆国・堀越御所を訪問し行っている。
範満の父・範頼は、義忠の父・範忠と兄弟であるが、今川家当主の家督を争ったことがある。その因果か、義忠は範満の武勇は評価するものの、自分に楯突く人間であると評しており[注釈 82]、範満も心苦しいながら物事に楽天的過ぎる主君・義忠の考えに付いて行けないと思っている。
範満は「御屋形様(義忠)は遠江のこととなると気が早すぎ、かつての分国を取り戻したい気持ちは理解らぬではないが、現在遠江は斯波家の分国で、(応仁の乱・西軍の)斯波義廉の勢力を追い出せば、(幕府側の東軍の)斯波義敏殿か御子息(義良)の勢力に戻るだけ(なので今川家の介入が正当化される余地は無い)。大御所様(義政)は何を考えて懸革荘の代官職など御屋形様(義忠)に下さったのか、あれですっかり遠江を手に入れた気になっている」「(遠江が今川家に)転がり込んでくるならそれは嬉しうござるが、しかしそうではあるまい。自力で取り戻そうとすれば戦になる」との考えを新九郎に述べ、義忠とは正反対に遠江への介入に慎重な姿勢を示した。
文明8年(1476年)2月、遠江国横地城の戦で義忠が戦死すると、義忠による遠江国攻略は幕命に反したものであったこと、弔い合戦をするなら龍王丸が当主で構わないが幕府に恭順の意を示すためには義忠嫡子の龍王丸ではなく、龍王丸以外で義忠に近い血縁として従弟の小鹿範満を当主に立てるべきとの意見があり、当初範満にはその気が無かったが、龍王丸を推す派閥と範満を推す派閥で今川家中は分裂し家督争いが勃発。戦になりかけたが、幕府・堀越公方・関東管領がそれぞれ調停に介入し、新九郎と太田道灌が双方の代理人として談合を行い、範満が今川家家督代行に就任することとなった。ただし京都の幕府将軍が正式にこれを認め御教書を出すまではあくまで家督代行であり、太田道灌は「十年辛抱なされよ、今後十年の営為が御当主の座(への正式な承認)を保証すると思って精進なされよ」と範満にアドバイスした。
柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)
義忠の近習。
連歌や詩歌に長けており、応仁の乱で主君の今川義忠に従い上洛した際、伊勢家で新九郎の姉の伊都を見初めた義忠から伊都に贈るために一首詠んでくれと依頼されるが、それに対して宗長は「それは御自分で詠まなければ意味がありません」と義忠に自ら作ることを促した[注釈 83]
戦においても義忠近習として同行し、遠江国横地城からの撤兵戦で義忠の最期を看取ったことを伊都に語るところが描かれている[注釈 84]。義忠が戦死し今川家が騒乱状態になるとこれを嫌ったのか京都へ上り連歌を武器に公家や僧侶、上級の武家など社交界の人々と交流を持つが、ここで得た公家や幕府の動向を密かに駿河にいる伊都に手紙で伝えている。連歌においては宗祇、禅においては一休宗純の弟子として、新九郎に大徳寺住持春浦宗煕を紹介し、新九郎の大徳寺参禅の世話をした。
堀越源五郎義秀(ほりこし げんごろう よしひで)
今川家家臣、今川一門の遠江今川家。のちに瀬名郷を賜り瀬名一秀と名乗る。父は今川義忠の遠江侵攻の際、義忠の命で堀越郷に入部したものの遠江国の斯波家勢力に攻められ戦死した堀越貞延。義忠戦死による龍王丸と小鹿範満の家督争いでは龍王丸派として動く。
朝比奈丹波守(あさひな たんばのかみ)[注釈 85]
今川家家臣。応仁の乱で主君の今川義忠に従い上洛した際、義忠が新九郎の姉の伊都を娶ろうとしていることに対し、朝比奈丹波守は「(伊勢家とは言っても)宗家の姫君ではございませぬ」「御当家ならばもっと良い縁組もできようかと」と異議を申していたが、義忠は「家格の高い家が当家に何をしてくれる?」と返し家臣らを説得した[注釈 86]。義忠戦死による龍王丸と小鹿範満の家督争いでは龍王丸派として動く。
福嶋修理亮(くしま しゅうりのすけ)
今川家家臣。義忠戦死により今川家中が動揺する中、幕府の意向に反し遠江国攻めを行った挙げ句に戦死した義忠の行動に対し、幕府に恭順の意を示すならば義忠嫡子の龍王丸ではなく今川一門で龍王丸の他に義忠に一番近い血筋として従弟の小鹿新五郎範満が家督を相続すべきと一番最初に進言した。龍王丸と小鹿範満の家督争いでは小鹿派。
三浦左衛門入道(みうら さえもん にゅうどう)
老臣。今川家家臣であったが出家し入道姿となっている。駿河三浦氏・三浦次郎左衛門家の隠居した先代当主と思われる。義忠戦死による龍王丸と小鹿範満の家督争いでは小鹿派の中でも最強硬派である。
長谷川次郎左衛門(はせがわ じろうざえもん)
駿河国山西地域小川湊(現在の焼津市)の代官として今川家に従うが、自ら海運業を営む有徳人[注釈 87]で、裕福な富豪でもある。法永長者の別名がある。京都など上方や西国とも取引も行っており、幕府政所執事の伊勢家には幕府幹部政治家として(おそらくは賄賂的な物品の提供とそれに対する政治的な見返りを期待し)敬意を払い懇意にしている。そのため新九郎の姉・伊都(北川殿)が今川義忠に嫁ぐ際には伊都の輿入れの一行が今川家の駿府館(すんぷやかた)に入る前に世話をしたり、新九郎一行が龍王丸誕生の祝いの言葉を述べるため駿府を訪れた際は、一行を伊勢国から船に乗船させ小川湊に宿泊させたりした。
文明8年(1476年)、今川義忠戦死による家督争いに龍王丸とその母・伊都(北川殿)が敗れ駿府館から退去すると、龍王丸派が多い山西地域の長谷川次郎左衛門は龍王丸と伊都(北川殿)を龍王丸が元服するまで小川湊の自らの館に住まわせようとしたが、館を刺客に襲撃されたことで龍王丸と伊都(北川殿)は新九郎と共に京都へ向かうこととなる。
妙音寺法印(みょうおんじ ほういん)
駿河今川家の京都雑掌を務める京都の寺院・妙音寺の住持今川上総介義忠が当主の頃から駿河今川家の陳情など京都での政治的活動をしてきたが、家督争いの結果今川(小鹿)新五郎範満が今川家の当主代行に就くと、小鹿方と、京都の実家・伊勢家に逗留し龍王丸を当主に就ける希望を持ち続ける義忠後室で龍王丸母の伊都を股にかけ、双方に献金を要求した(第11集第67、68話)。

斯波家

斯波家は鎌倉時代中期に足利家から分家した足利一門。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え尊氏の最大の宿敵・新田義貞を越前国で討ち取り、奥州も平定するなど活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を細川家、畠山家と交代で務める家柄である。本作品の時代より少し前、斯波宗家である斯波武衛家では当主の早世が続き、享徳元年(1452年)当主の斯波義健に子がいない状態で18歳で死去すると分家の(斯波)大野家から斯波義敏が武衛家に養子入りしその家督を継ぐが、分家上がりの義敏と武衛家宿老の甲斐常治敏光親子は折り合いが悪かった。長禄3年(1459年)将軍・足利義政は関東の享徳の乱への対処のため自らの庶兄の堀越公方足利政知を伊豆国に送り込み、その支援のため斯波家や周辺国の守護大名に関東出兵命令を行ったが、強力な軍団を持ち関東に近い遠江国を分国とする斯波家は主力としての貢献を期待されながら、斯波家の越前国の内紛で義敏と甲斐親子が争い将軍の命に従えず、出兵が頓挫し面目を潰された将軍・義政は斯波義敏を家督から追放、義敏は周防国の大内教弘のもとへ落ちのびた。斯波家家督は一旦義敏の3歳の嫡子・松王丸が継いだが、寛正2年(1461年)将軍・義政は義敏の嫡子・松王丸を出家させた上で、斯波武衛家家督に堀越公方執事・渋川義鏡の子・義廉を養子入りさせ家督を継がせ、堀越公方と斯波家の連携を目論む。しかし奥州の斯波一門が渋川家出身の義廉に従わず、享徳の乱で幕府に反抗する古河公方足利成氏への北からの攻撃の目論見が難しくなり、また義廉の実父・渋川義鏡が関東管領・上杉氏と争い失脚、堀越公方と斯波家の連携構想は破綻し義廉の立場が悪くなると、義敏の評価も再考されるようになった。寛正4年(1463年)将軍・義政の生母日野重子の死去に伴う恩赦で義敏は赦免され、義廉は危機感から母が山名氏の娘であることを通じ山名宗全と手を結ぶが、義敏は妾の妹が伊勢貞親の継室になると将軍への口添などで伊勢貞親の支援を得ていった。

斯波左兵衛督義敏(しば さひょうえのかみ よしとし)
官途名は左兵衛督。越前国・尾張国・遠江国3か国の守護。
一度斯波家当主の座につきながら将軍・足利義政から追放され斯波義廉にその座を奪われていたが、義敏の妾の妹が伊勢貞親の継室になると将軍への口添など貞親の支援を得る。文正元年(1466年)7月斯波家当主の座に復帰するが、その直後9月文正の政変で身の危険を感じ伊勢貞親と同時期に逐電する。応仁の乱が始まり義廉が山名宗全と共に西軍に属すと、義敏は東軍に属し将軍・義政から赦免され、斯波家家督は義敏の嫡子・松王丸=元服後の義良(よしすけ)に返還された。
本作品では、伊勢貞親は義敏の家督復帰を支援したが、本音は義敏を家中をまとめられぬふつつか者と評している[注釈 88]
斯波左兵衛佐義廉(しば さひょうえのすけ よしかど)
官途名は治部大輔→左兵衛佐。幕府管領職も一時務める。斯波家と同じ足利一門・渋川家出身で、堀越公方の執事・渋川義鏡の実子。斯波家との血縁上の関係では曽祖母斯波義将の娘とされる。斯波家に養子入りし家督を斯波義敏と争う。
義敏の追放後、寛正2年(1461年)義廉は渋川家から養子入りし斯波家家督を継ぐ。義廉は母が山名氏の娘であることを通じ山名宗全と手を結ぶが、伊勢貞親と結んだ義敏の前に文正元年(1466年)7月家督を失う。9月の文正の政変で義敏の逐電により義廉が斯波家家督に復帰、幕府管領職にも就く。しかし再度関東政策で将軍・足利義政の怒りを買い[注釈 89]、応仁2年(1468年)7月義政から斯波家家督と管領職を剥奪されるが、応仁の乱で宗全とともに西軍に属し、西軍による傀儡の西幕府ではこれ以降も斯波家当主と西幕府の管領を名乗り続けた。
応仁の乱では畠山義就、大内政弘と共に西軍の主力として活躍するが、その軍事的原動力であった重臣で猛将の朝倉孝景が将軍・足利義政の指示のもと細川勝元や伊勢貞親からの調略を受け東軍に寝返ると、次第に軍事力と共に政治的立場も失った。

畠山家

畠山家(源姓畠山家)は鎌倉時代初期に足利家から分家した足利一門で、畠山重忠平姓畠山家滅亡時にこれを引続ぐ形で成立した[注釈 90]。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え畿内の平定などに活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を細川家、斯波家と交代で務める家柄である。本作品の時代の少し前、畠山宗家である畠山金吾家の先代当主畠山持国には嫡子がおらず、弟の持富を一旦後継者としたが、持国は文安5年(1448年)石清水八幡宮の社僧になる予定だった庶子だが実子で12歳の義就を新たに後継者とし、義就は将軍・足利義政から偏諱(「義」の字)を受けて元服、持国はまもなく死去した。しかし畠山の家臣の一部は義就の母の身分が低いことなどを理由に義就の家督相続に反対し、持富、持富死後は持富の子弥三郎政久、弥三郎死後はその弟の政長を支持し畠山家中は分裂、弥三郎政久・政長派は義就を襲撃し大和国で争乱となった。義就派は当初優勢であったが、義政の上意を偽っての大和国人の所領横領や細川勝元の山城国木津領を攻撃したことで義政の信頼を失い、長禄4年(1460年)義就は綸旨により朝敵とされ紀伊次いで吉野へ落ちのびた。一方政長は家督相続を公認され寛正5年(1464年)細川勝元に次いで幕府管領職に就いた。

畠山尾張守政長(はたけやま おわりのかみ まさなが)
官途名は尾張守、左衛門督。河内国、紀伊国、越中国、山城国の守護。幕府管領職も一時務める。
畠山家の家督とともに幕府管領の任を大過なく務めていたが、従兄弟の畠山義就が赦免され山名宗全と手を結び文正元年(1466年)上洛すると「強そうな方につく」将軍・義政に管領職を罷免され家督を剥奪された。文正2年(1467年)1月上御霊社の戦いに敗れ戦死したと思われていたが細川勝元に匿われていた。6月幕府から赦免され復帰、応仁の乱では勝元と共に東軍として戦った。
本作品の第1集第5話では義就が上洛したことが波乱のきっかけとなり、政長が義政に管領職と畠山の家督を剥奪されたことで自らの屋敷に火をつけ破却し上御領神社に布陣、これにより応仁の乱が始まるところを千代丸の伊勢家目線で描いている。また応仁元年(1467年)10月の相国寺の戦いに出撃する前の政長が伊勢貞宗を訪ね新九郎を交えて情勢を語らうシーンが描かれている[注釈 91]
畠山右衛門佐義就(はたけやま うえもんのすけ よしひろ)
政長の従兄弟。政長との家督争いに敗れて京都から追われていたが、寛正4年(1463年)将軍・義政の生母日野重子の死去に伴う恩赦で斯波義敏と共に赦免されると山名宗全と手を結び、文正元年(1466年)再び上洛し「強そうな方につく」義政に再度畠山家の家督を与えられた。応仁の乱では宗全と共に西軍として戦った。戦にはめっぽう強く、本作品で細川勝元は義就を襲いかかられてはたまらぬ猛犬と評し乱下で洛中の細川京兆家邸の要塞化を進めた。

大内家

大内家は平安時代の周防国在庁官人から鎌倉時代に鎌倉幕府御家人となり六波羅探題に出仕、南北朝時代には足利尊氏の九州下向を支え室町幕府から周防長門両国の守護職を得る。南北朝時代の九州では幕府方の九州探題、南朝の征西将軍懐良親王、足利尊氏の実子だが幕府に反抗する足利直冬などが入り乱れて抗争していたが、大内家は幕府方の九州探題を支援しこれに介入、九州探題、懐良親王、足利直冬がそれぞれが衰退し没落する中で大内家が北九州で勢力を広げ、博多、北九州、瀬戸内海西側を勢力下に置いた。また大内家は対馬国宗氏と並んで朝鮮半島と関係が深く、朝鮮半島や大陸と交易を行なっていた。だが幕府が日本を代表し明と勘合貿易を行うため他を規制する立場を取り、細川家は幕府管領の立場を利用し四国、瀬戸内海、堺を勢力下に置きながら細川家以外の交易を規制しようとしたため、大内家は幕府や細川家と利害が対立する関係にあった。

大内周防介政弘(おおうち すおうのすけ まさひろ)
官途名は周防介。周防国・長門国の守護だが最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し強勢を誇った。
母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘(細川勝元正室の姉)。しかし日明貿易(勘合貿易)などをめぐり細川勝元と対立し、応仁の乱には西軍側の主力として数万の軍勢を引き連れ参戦する。
文明5年(1473年)瀬戸内海や海外交易の権益で対立する細川勝元は死去し、また大内家でも数万の軍勢で数年に渡り京に滞在しての応仁の乱参戦は多大な負担となっていた。さらに幕府・東軍の切り崩し工作により西軍の斯波義廉の重臣・朝倉孝景が東軍に寝返り義廉が守護を務めていた越前国を分捕り、同じく義廉の重臣・甲斐敏光が東軍に寝返る事例が起こると、西軍諸将の足元は揺らぎ始め、文明9年(1477年)大内政弘も「自分の分国が心配」と東軍からの説得工作に応じ、幕府が政弘の西軍参加を罪に問わない確約と朝廷から新たな官位を得て自らの分国に帰国した。政弘の西軍からの離脱は、西軍が崩壊し応仁の乱が終結する大きな一因となった。

荏原

備中那須家

備中那須家は平安時代末期に源平の合戦屋島の戦いで波間に浮かぶ船上の扇を射落とした下野国那須の住人那須与一宗隆が鎌倉幕府から恩賞として備中国荏原荘を与えられ那須一族の一部が移住した子孫だが、年月を経て下野国の那須本家との関係は薄れ人の行き来も無くなった荏原に在地する国人武士団。源頼朝公直筆の下し文を持っていると吹聴している[注釈 92]。その後室町幕府から荏原を与えられた伊勢家に従う形となったが、プライドが高く伊勢家からすると扱いづらい存在。この時代には西荏原の戸倉に当主の資氏が居を構えそこから北の山間に永祥寺や小菅城を抱え込み一族の多くの者がそちらに住まい威をふるっている。荏原で生まれ育った新九郎家臣の在竹三郎は「あいつら鎌倉武士なんで野蛮なんです」と荒っぽい一族であることを新九郎に語った[注釈 93]

那須修理亮資氏(なす しゅうりのすけ すけうじ)
備中那須家当主。伊勢掃部助家の九郎盛頼は資氏を損得の計算が出来る男と評している。伊勢家に従わざるを得ない荏原で、西の領主の伊勢掃部助家と東の領主の伊勢備前守家を両天秤にかけることで那須家の存在感を高めようとしている[注釈 94]
那須家では先祖の那須与一が源平の合戦の恩賞で荏原の地を賜った際の頼朝公直筆の下し文を持っていることを以前から自慢していたが、菩提寺に奉納してあり門外不出との理由で周囲には誰も下し文を見たことがある者が居なかった。だが新九郎が当主・資氏とその資氏に養子入りした弦の弟・弥三郎資頼に面会に西荏原の那須家の館を訪問した際に、資氏は新九郎に件の下し文を見せて自慢した。しかし歴史オタクの新九郎[注釈 95]の認識では、下し文が発給された時期の那須与一の諱(いみな)は下し文に書かれているものとは異なるものだったはずで[注釈 96]、また流罪中に写経を多数こなしていたはずの頼朝の直筆にしては字があまりに稚拙であることから、内心それが頼朝の真筆ではなく後世の偽造と断定したが、自慢する資氏の面子を潰さぬよう口には出さなかった(第11集第68話)。
弦姫、弦(つるひめ、つる)
資氏の従妹。他家に嫁に行っていたことがあり[注釈 97]後家[注釈 98]として出戻ってきた。弦は前の夫との結婚で子が出来なかった自分を石女[注釈 99]と思いこみ、那須家に出戻ってきた後は落胆半分で気楽に生きていた。普段は男装で4歳のころから毎日稽古する弓馬を得意とし、伊勢家の者として弓馬に自信を持つ新九郎に流鏑馬で勝負し競い勝った[注釈 100]。新九郎は弦姫に次第に心を惹かれていく。
那須家が西荏原の所領の境界をめぐり伊勢掃部助家と戦になりかねない一触即発の状態になった際、新九郎の奔走もあり備中国守護代・庄伊豆守元資の仲裁で掃部助家と和解に至ったが、和解の総仕上げとして弦の従兄で那須家当主・那須修理亮資氏と伊勢掃部助家盛景の話し合いで、弦がその場に不在にも関わらず、彼らは弦が盛景の嫡子盛頼に側室として嫁ぐことを決めた。またこれで新九郎は弦に失恋することとなった。弦はこの結婚を受け入れる代わりに、この話を勝手に決めてきた那須家当主の資氏に対し、弦の弟を嫡子のいない資氏に養子入りさせ継嗣として次期那須家当主と認めさせるしたたかさを発揮した(第7集第38話)。
弦は政略結婚により夫となった伊勢盛頼の側室として夫には次男となる千々代丸を産むと、欲が出てきてどうせ次男の千々代丸が伊勢掃部助家を継げないならば、体が弱く子が出来そうにない自分の弟・弥三郎資頼に養子入りさせ、資氏、資頼の後を継いで千々代丸に那須家を継がせたいとの野望があることを新九郎に語った(第11集第66話)。なお盛頼に嫁ぐ前、新九郎と一夜を共にしており、新九郎は自身に瓜二つの千々代丸に驚くものの、周囲からは親戚だから似ているだけと言われており(上述、千々代丸の項も参照)、盛頼も自分の子であると強く主張しているため、真相は不明である。
那須弥三郎資頼(なす やざぶろう すけより)
弦の実弟。弦が伊勢盛頼に嫁ぐよう勝手に決めてきた備中那須家宗家当主の修理亮資氏に対し、弦はその交換条件に弟・資頼を子がいない資氏に養子入りさせ備中那須家宗家の跡取りとするよう求め、養子入りが実現した。しかし資頼は体が弱く、資氏は「蒲柳の質で、生命力は姉(弦)がすべて持っていったような」と評している(第11集第68話)。

関東

室町幕府の出先機関で関東と周辺国の12ヶ国を統治する鎌倉府は、長官の鎌倉公方を幕府初代将軍・足利尊氏の子で2代将軍・義詮の同母弟の基氏の子孫が継承、副長官の関東管領上杉家が継承していた。その後幕府と鎌倉公方が対立、関東管領は鎌倉公方を諫める立場であったが幕府に従ったため次第に鎌倉公方と関東管領の戦いとなり、鎌倉公方・足利成氏の北関東出陣中に幕府から命令を受けた駿河守護・今川範忠(実際はその名代で嫡子の今川義忠)が鎌倉を占領し成氏は鎌倉を放棄、上杉家に不信感を持つ北関東の諸侯の支持のもと水運が盛んな利根川渡良瀬川沿いで北関東の交通の要衝として栄える下総国古河に本拠地を移し、古河公方と名乗り関東管領との戦いを続けた。

上杉家

上杉顕定(うえすぎ あきさだ)
山内上杉家当主。関東管領。幼名は龍若(たつわか)。第1集で元服前の13歳の上杉龍若が、前管領の病死により将軍の指名で室町幕府の関東管領職を歴任する山内上杉家の家督を相続するところが挿話的に描かれており、後にほぼ同じ年齢の新九郎(早雲)と関わりを持つことが蜷川新右衛門による解説ページでメタフィクション的に指摘されている。その後元服し顕定を名乗り、16歳で関東管領に就任、古河公方との28年戦争享徳の乱を引き継いで戦っていくことになる。
顕定は生まれが山内上杉家の分家である越後上杉家で、山内上杉本家に養子入りの上、家督相続のため越後国から武蔵国五十子陣にやってきた。この時山内上杉家の家宰には長尾景信が就いており景信が若い顕定を補佐し支えていた。古河公方との戦いである享徳の乱では景信の嫡子・長尾景春が数々の戦功をあげているものの、顕定は奢ったふるまいや発言を見せる景春を信頼していなかった。そのため景信が病死した際、顕定は山内上杉家の家宰職を景信嫡子の景春に継がせず、景信弟の忠景に継がせたところ、景春が五十子陣への兵糧搬入の妨害などを開始、やがて大規模な反乱を起こし(長尾景春の乱)、顕定はその鎮圧に頭を悩ませることになる。
長尾左衛門尉景信(ながお さえもんのじょう かげのぶ)
山内上杉家の家宰。長尾景春の父。若き主君 上杉顕定を支え、享徳の乱では関東管領軍の総大将を務め、古河を包囲した際は古河公方足利成氏を取り逃がすなど失態はあったが[注釈 101]、総じて人望はあり優れた大将であった。が、文明5年(1473年)6月、五十子陣で病没[注釈 102]
長尾四郎左衛門尉景春(ながお しろう さえもんのじょう かげはる)
長尾景信の嫡子。通称・孫四郎。もともと享徳の乱で数々の戦功をあげながら主君・上杉顕定(龍若)が評価しないことに不満を持つ。主君・顕定は父・長尾景信の死により山内上杉家家宰の座を父の弟で叔父の長尾忠景に指名[注釈 103]したため景春は激怒。五十子陣への兵糧搬入の妨害など反抗を開始する(長尾景春の乱)。
長尾尾張守忠景(ながお おわりのかみ ただかげ)
長尾景信の弟で景春の叔父。武蔵国守護代。兄・景信の臨終の際、鎧姿のまま駆けつけた景信嫡子で忠景の甥にあたる景春に苦言を呈し、叔父と甥の間に確執があることが伺われる。兄・景信の死により主君・上杉顕定は山内上杉家の家宰職に忠景を指名し、家宰に就任した。
上杉五郎修理大夫定正(うえすぎ ごろう しゅうりのだいふ さだまさ)
山内上杉家の分家扇谷上杉家で、若い当主の扇谷上杉政真を支える叔父。政真が古河公方との戦で戦死すると扇谷上杉家の当主となる。
甥で扇谷家当主だった政真の生存中は、扇谷家一門の定正は扇谷家家宰の太田資長(道灌)と、共に政真や政真が仕える関東管領の上杉顕定を支える同僚のような関係であったが、政真が戦死し定正が扇谷家当主となると、定正は資長(道灌)の主君として資長に命令を出す立場となる。しかし、立場が変わってもいつまでも自身のことを「五郎殿」と呼んだり、有能過ぎて口も悪く、周囲からのやっかみも耐えない資長に度々その態度を直すよう忠告するも、一向に改善されない様に不満を募らせて行くことになる。
太田六郎左衛門大夫資長(おおた ろくろう さえもんのだいふ すけなが)
扇谷上杉家の家宰。通称・六左。
幼少のころから鎌倉五山足利学校で学び英才で知られ、成人してからも戦上手な武将として知られる。頭は非常にキレるが奢った発言をすることもある。享徳の乱では利根川を境に古河公方と対峙した関東管領側の最前線のひとつとして、当時江戸湾(東京湾)に流れ込んでいた利根川河口の江戸江戸城を築城し居城とする。本作では長尾景春が太田資長の軍勢を「江戸勢」と呼んでいる[注釈 104]
また第8集第49話では、小鹿範満に連れられ堀越公方・足利政知への謁見に伊豆を訪れた新九郎が、同じく堀越公方を新年の謁見に訪ねた資長と、修善寺の湯で会話するところが描かれている(お互い正式な名乗りをしないので、この時点では相互の身元を正しく認識しなかった。また資長はここで自らの若いころの逸話とされる「蓑の代わりに山吹を差し出された話」を新九郎に語っている)。
第52話〜の文明8年(1476年)今川義忠戦死による義忠嫡子・龍王丸と義忠従弟・小鹿新五郎範満の今川家家督争いへの介入では、剃髪し太田道灌と名を改め、今川家が関東管領の影響下となるよう意を受け兵を率いて駿河国駿府へ赴く。扇谷上杉家の家宰として、扇谷上杉家の縁者でもある家督争いの一方の当事者・小鹿新五郎範満の代理人になり、幕府からの調停の特使・摂津之親の配下として駿府にやってきた新九郎と交渉を行うことになる。

足利堀越公方家

享徳3年(1455年)、室町幕府の配下で関東と東北を統治する出先機関「鎌倉府」では、その長官である鎌倉公方(関東公方)足利成氏がナンバーツーの関東管領上杉憲忠を誅殺、成氏と上杉一門の戦いが開始され(享徳の乱)、幕府は関東管領・上杉氏を支持、成氏は鎌倉から逃亡し下総国古河に本拠地を移し古河公方と名乗り関東管領との戦いを継続した。長禄2年(1458年)幕府は成氏を公式に廃し代わり新たな鎌倉公方として将軍・足利義政の庶兄・足利政知を関東に送り込む。しかし政知には幕府から軍事力や実権を与えられず、騒乱の影響や鎌倉府ナンバーツー関東管領・上杉氏との利害が一致しなかった[注釈 105]こともあり鎌倉に入れず伊豆国堀越に留まり堀越公方を名乗り、その在所は堀越御所と呼ばれた。

足利左馬頭政知(あしかが さまのかみ まさとも)
室町幕府第6代将軍・足利義教の子。第8代将軍・足利義政の庶兄(異母兄)。将軍家の一員として京の都に生まれ、弟の足利義視同様仏門に入っていたが、将軍を継いだ義政に求められ、新たな「鎌倉公方」になるため還俗する。
幕府が廃した元々の鎌倉公方であった古河公方・足利成氏に代わり、幕府が公式に認める新たな鎌倉公方として京都から下ってきたが、伊豆国・堀越まで来たところで鎌倉入りを止められ以降長年に渡りそこに留まることとなる。
文明6年(1474年)頃には、今川義忠が新九郎に堀越公方の実情を説明する台詞の通り「(堀越様は元々は鎌倉公方として派遣されてきたが、今となっては)いてもいなくてもよい存在になり果てている」「関東管領がありがたがっているのは(古河公方と戦う上で)堀越様が携えてきた官軍の証の錦旗と将軍旗」「旗さえあれば堀越様は木彫りの人形でもかまわないのではないか」と誰もが心の中で思っているような状況であった[注釈 106]
とは言え依然堀越御所では、正月には諸行事が京都の将軍家に準じて行われ、政知の許には関東管領や関東周辺国の諸大名(の名代)が連日訪れ新年の挨拶を行う。文明6年(1474年)正月、関係者が多数挨拶に訪れる中で、1月4日に政知は今川義忠の名代として新年の挨拶に訪れた小鹿新五郎範満と、範満に連れられ訪れた新九郎に謁見を許す。自らをつまらない人間という新九郎に対し、京の都で生まれ育った政知は、京では幕府近臣として名高い伊勢家の名や、久しぶりに聞く新九郎の京なまりの言葉、京の話題を大いに喜び、新九郎のことを気に入ったようであった(第8集第50話)。
一方、関東の享徳の乱は、応仁の乱を上回る20年以上におよび厭戦気分が広まり、裏で停戦のための交渉が進んでいた。幕府・関東管領方は20年以上戦っても力で古河公方・足利成氏を屈服させることは出来ず、一方成氏も関東以外に戦を広げる余力はないため、戦いを終わらせるには和睦しかなかったが、それは成氏に関東の支配者・鎌倉公方としての地位を保証することを意味した。しかしその場合懸案は、大御所・足利義政から成氏に代わり新たな鎌倉公方を任命[注釈 107]され京から伊豆に下向している足利政知にどのようにして鎌倉公方の地位を諦めさせるかがあった。
文明14年(1482年)11月、古河公方・足利成氏には関東の支配者・鎌倉公方としての立場を認めるが伊豆国を除外させ、足利政知には鎌倉公方の地位を諦めさせるが幕府将軍御連枝として伊豆国の知行権を与えることを和睦の条件とし、政知もこれを受け入れ享徳の乱は終結した(第83話)。
上杉治部少輔政憲(うえすぎ じぶのしょう まさのり)
堀越公方に仕えるナンバーツーの執事。上杉禅秀の乱以降衰退した犬懸上杉家の出身で、上杉家本流の関東管領・山内上杉家に対抗意識がある。本来であれば堀越公方が鎌倉入りし名実共に正式な鎌倉公方となり、執事はそのナンバーツーとして関東に君臨するはずであったが、鎌倉府で公方に次いでナンバーツーになるのが関東管領・山内上杉家なのか、堀越公方執事なのかはっきり決められておらず、その点がナアナアにされたまま堀越公方は鎌倉入りを許されず伊豆に足止めされていた。なお初代・堀越公方執事は応仁の乱の西軍・斯波義廉の実父・渋川義鏡であり、義鏡が関東管領と争い失脚したことで京都で幕府に出仕していた政憲が堀越公方執事に任ぜられた。
第56話では、隣国駿河国・今川家の家督争いの際、堀越公方・足利政知をなえがしろにし続けた先代・今川義忠の嫡子・龍王丸ではなく、堀越公方を重んじ関東に幾度も出兵している小鹿新五郎範満を今川家当主とすべく、政知の命を受け兵300を率いて駿府に出兵した。
娘のむめが小鹿新五郎範満に嫁いでおり、今川家家督争いに対しては個人的心情からも龍王丸ではなく小鹿支持である。

その他

横井掃部助時任(よこい かもんのすけ ときとう)
尾張国の国衆で、堀越公方の被官。本作品ではこれまでのところ描かれていないが、尾張の横井氏には鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏(鎌倉北条氏)の末裔との伝承がある。
新九郎弥次郎大道寺太郎[注釈 108]の母方の祖父。伊勢盛定の側室・浅芽(新九郎の生母)の父。尾張国蟹江郷を国許の本拠とし[注釈 109]、京都にも邸を構える地方の国衆としては裕福な家である。
新九郎の父・盛定が横井家の取次を務めていた縁から、時任の娘・浅茅は盛定の側室となり、新九郎と弥次郎が生まれた。また新九郎が元服する際は、時任は伊勢貞宗と烏帽子親の座を争い、貞宗の正論(実の祖父が烏帽子親になることは通常ない)により烏帽子親を貞宗に譲るも、代わりに新九郎に諱・時任の一字「時」を与え、盛時とした。
応仁の乱が勃発すると、尾張国の一介の国衆である横井家はその身の処し方が難しく、尾張守護と関係を悪くする訳にはいかないことから、応仁の乱勃発後も幕府・東軍に従いながら西軍に属する尾張守護・斯波義廉との関係を維持していた。ところが幕府・東軍からはこれを横井が西軍に通じたと嫌疑をかけられることとなり、時任は潔白を訴えるため一度は切腹も考えたが思いとどまり、国許の息子に家督を譲って剃髪、裁きを待つ身となる。その後娘の浅茅が盛定と離縁し伊勢貞藤と再婚していた縁を頼り、横井家も貞藤と共に西軍に転身することとなった。
本作品では第2集第7、9話に登場する。
文明3年(1471年)、横井家家人・多米権兵衛は新九郎に横井家の家督は時任の嫡子で浅茅の兄・横井掃部助時利が継いでいることを語ったが(第7集第43話)、文明8年(1476年)になると応仁の乱の一因である斯波家家督争いが斯波家分国の尾張国に波及し、横井家もこの騒乱で所領を荒らされ、隠居した時任も家督を継いだ時利と共に没落し行方知れずになり、それにより多米自身も失業状態になったことを語った(第10集第62話)。
多賀豊後守高忠(たが ぶんごのかみ たかただ)
侍所所司代。細川勝元の命で足軽大将・骨皮道賢を雇う。第2集第11話に登場。
骨皮道賢(ほねかわ どうけん)
出自がはっきりしない階層の出で応仁の乱で東軍の足軽大将として活躍した。
元は侍所所司代多賀豊後守高忠の下で目付を務め盗賊の追捕をしており、盗賊の挙動や人脈に詳しい。応仁の乱の混乱のさなか自らも盗賊として活動し、盗賊、土一揆に加わっていた者、職にあぶれた武家の中間(ちゅうげん)小者(こもの、下男とも)などを糾合し火事場泥棒など働いていたところ、その機動力に目を付けた細川勝元から多賀高忠を介して金で雇われ、西軍の陣地や食糧を焼いたり強奪し甚大な被害を与えた。その手法は応仁の乱下の京の街にあふれる乞食や田畑を捨て生活に困窮した百姓と変わらぬ風体で敵を油断させ、敵の守りが薄いと集団で一気に襲いかかり、敵が強ければ恥も外聞も無く逃げるといった正規軍の武士ではあり得ないものであった。
応仁2年(1468年)3月、東軍の足軽の襲撃に手を焼いた西軍は、骨皮道賢ら一味300人が布陣し拠点とする伏見稲荷社を大軍で包囲、道賢は女装し包囲網を脱出しようとしたところを討ち取られた。
本作品では第2集第11、12話、および蜷川新右衛門の室町コラム(6)に登場。
日野勝光(ひの かつみつ)
公家・日野家の当主で、幕府将軍・足利義政の正室である日野富子の兄。朝廷では内大臣を務め、公家なので幕府での公式な役目は無いが、将軍正室の兄という立場を活かして義政の側近に収まっている。
日野家藤原北家の分家だが、鎌倉時代中期まで中納言止まりの家で、同じ藤原北家でも五摂家近衛家九条家などより低い家柄だったが、院や天皇家、室町幕府の足利家に接近し家格を上げた。日野家の家紋は現代の日本航空の社章に似た鶴丸(つるのまる)で、第3集第13話では日野家の鶴の紋に「OJAL(おじゃる)」と、「JAL」と公家言葉を合わせた作者のギャグが描かれている。
文明3年(1471年)、新九郎の義母・須磨が亡くなった京都での疱瘡やはしかの流行の際には、日野勝光も嫡子を亡くした。
文明5年(1473年)年末から翌文明6年(1474年)年始にかけ、足利義政の将軍退任と嫡子・足利義尚の新将軍就任の儀式が行われた際、細川勝元退任以降空位となっていた幕府管領職に畠山政長が就任(再任)するが、儀式が終了すると政長は畠山義就との家督争いのためとして管領を辞任、管領職は再び空位となった。ここで将軍縁戚の日野勝光(前将軍・義政の義兄、現将軍・義尚の伯父)は幕府を支えるため、管領の職位には就かずに実質的に管領の職務を代行した[注釈 110]。その結果、御所(将軍)義尚や大御所(前将軍)義政への上奏は日野勝光を通すことが必要となり、新九郎が関与する今川家の家督争いでも、龍王丸派と小鹿派の双方が日野勝光に賄賂を送り将軍から自派に有利な相続命令を得ようとした。
しかし文明8年(1476年)6月、3月から体調を崩していた日野勝光は病で死去。これにより今川家家督争いでの龍王丸派、小鹿派それぞれの思惑と工作も水泡に帰すこととなった(第9集第57話)。
万里小路春房(までのこうじ はるふさ)
公家。官途名は右大弁、参議。
文明3年(1471年)4月、伊勢貞親と共に日野勝光の追い落とし工作をしていたところ、帝に伝わりそこから将軍義政にも計画が露呈した。貞親と共に出家し、妹婿である近江国の朽木貞綱の許に出奔する。第5集第27話に登場。
摂津修理大夫之親(せっつ しゅうりのだいふ ゆきちか)
幕府評定衆。京都での評定衆の役目と共に駿河国益頭庄(ましずしょう、現在の焼津藤枝の一部)に所領を持つ。
文明8年(1476年)、今川義忠死去に伴う今川家の家督争いでは、幕府は仲裁者として評定衆で駿河国に所領を持つ之親を任命し派遣した。新九郎は駿河の仲裁の件では之親に従うよう命が出ていたが、龍王丸派、小鹿派とも一触即発の危険な状態に之親は早く京に帰りたいとつぶやくばかりで益頭庄の自領から駿府に近づこうとしなかった。実は之親の所領では隣の今川家重臣・朝比奈丹波守の所領と境界争いを抱えていたり、代官が年貢を之親の元に送ってこないなど問題があり、それが之親が幕府から派遣されるも仲裁の活動を積極的に出来なかった理由と本編では説明されており、いずれにしても姉(伊都)や姪甥(亀、龍王)の身の安全に気を揉んだ新九郎が之親を説得し代理として駿府の今川館にのりこみ小鹿派代理人の太田道灌と交渉を行うこととなった。
小笠原備前守政清(おがさわら びぜんのかみ まさきよ)
室町幕府奉公衆。奉公衆としては三番衆に属する(伊勢家は細川淡路守が番頭を務める一番衆)。将軍・足利義尚の弓馬指南役を務めている。武家故実の専門家でもある。酒の席での会話ではあるが、新九郎が那須の頼朝公下文を偽造と疑う理由を理路整然と説明する様子を見て、新九郎を幕府の役目に就かせないでおくのはもったいのうござると評した(第11集第70話)。
小笠原縫(おがさわら ぬい)
小笠原政清の娘。第11集第70話、文明11年(1479年)の時点で12歳。食べることが好きで、細かいことを気にしない大らかな性格である。
3年後の第83話では、新九郎の姉・伊都が探していた娘・亀の話し相手(友人)を務めることとなり、縫は定期的に伊勢家へ出入りすることになった。
狐(きつね)
物語冒頭で新九郎が出会った風来坊。第1集第1話での千代丸(新九郎)との出会いでは、千代丸が敬愛する父・盛定の悪口を散々放言し、激怒した千代丸に斬りかかられ斜面を滑落するが、その直後に斜面下の草むらから狐が飛び出してきたのを見て千代丸と大道寺右馬介は狐に化かされたと考え、以降狐と呼ぶようになった。また骨皮道賢が布陣した伏見稲荷社を山名の軍勢に破壊されたことで住処を失ったとほのめかしたことから伏見稲荷社の神位である正一位とも呼ばれる。その後、洛中で不穏な噂を流布していた(実際には流布している噂話について話していただけらしい)として侍所の武士に追い回されていた。新九郎が備中下向前に再会した際には鎧師をしており、鎧(八郎の形見)の仕立直しを引き受けるが、仕立直しの腕は良いものの六貫文とかなりの高額を請求し、所領東荏原の収入が目減りしていた新九郎には痛い出費となった。
第1集では昼間も登場したが、第4集以降では、本人曰く「朝起きられない」とのことで夜に現れる。夜目が効き普通の人間が行動出来ない夜道でも自由に移動することが出来る。第76話では「あたしは齢(よわい)百五十を数えようって狐」と冗談めかして語った。
第9集第56、57話では、今川家の家督相続争いの仲裁で幕府から駿河国駿府に派遣された新九郎の前に現れ、今川家家督継承者として小鹿範満を推す関東管領の意でその交渉代理人として関東から軍勢を率いて駿府にやってきた太田道灌は、長尾景春による関東管領への反乱に対応すべく早期に駿府の滞在を切り上げ関東へ帰りたいはずだとの関東情勢を新九郎に教えた。

書誌情報

  • ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 小学館〈ビッグコミックススペシャル〉、既刊12巻(2023年1月12日現在)
    1. 2018年8月14日発行(同年8月9日発売[20])、ISBN 978-4-09-860001-4
      ゆうきの漫画家としての初期の代表作の一つ『究極超人あ〜る』の約31年ぶりの新刊第10集と同日発売となった[21]
    2. 2019年4月17日発行(同年4月12日発売[22])、ISBN 978-4-09-860334-3
    3. 2020年1月15日発行(同年1月10日発売[23])、ISBN 978-4-09-860521-7
    4. 2020年6月16日発行(同年6月11日発売[24])、ISBN 978-4-09-860671-9
    5. 2020年10月17日発行(同年10月12日発売[25])、ISBN 978-4-09-860810-2
    6. 2020年12月16日発行(同年12月11日発売[26])、ISBN 978-4-09-860829-4
    7. 2021年5月17日発行(同年5月12日発売[27])、ISBN 978-4-09-861088-4
    8. 2021年9月15日発行(同年9月10日発売[28])、ISBN 978-4-09-861165-2
    9. 2022年2月15日発行(同年2月10日発売[29])、ISBN 978-4-09-861291-8
    10. 2022年5月17日発行(同年5月12日発売[30])、ISBN 978-4-09-861368-7
    11. 2022年9月17日発行(同年9月12日発売[31])、ISBN 978-4-09-861446-2
    12. 2023年1月17日発行(同年1月12日発売[32])、ISBN 978-4-09-861615-2

脚注

注釈

  1. ^ 尾張国国衆の横井氏にはその出自を鎌倉幕府執権北条氏の末裔とする伝承があり、これと生母が横井氏の娘であることを合わせると、伊勢新九郎盛時とその子孫後北条氏は鎌倉幕府執権北条氏の血をひくことになる、というネタが仕組まれている。なお、江戸時代に執筆された『北条五代記』は新九郎のを伊勢盛時ではなく伊勢長氏とし、享年88歳(永享4年(1432年)生)で記載しているため、本作品では生母が横井氏であることのみを引用していることとなる。
  2. ^ 現在の国道2号線のルートと異なり、荏原には当時の幹線である旧山陽道が通っていたため、騒乱が起こるとしばしば軍勢の往来があった。
  3. ^ 盛頼は、弟・珠龍からの内通で、叔父の荏原政所頭人・珠厳が東荏原に加え、掃部助家の所領・西荏原の年貢もかすめ取り不正蓄財をしていたことを知った。盛頼は珠厳に「俺は優しいから叔父上(珠厳)を殺そうとまでは思わない(が、盛頼の父で掃部助家当主・盛景が知ったらそれでは済まない)」「叔父上が病を得て執務出来なくなり退任ということにするから同意せよ(さもなければ父・盛景に通報し殺されかねない事態になるぞ)」と反論を許さない圧力を掛け、珠厳を荏原政所頭人から強制退任させた。
  4. ^ 将軍の名のもと権力をふるっていた貞親は、同時に諸大名から恨みもかっており、権力者の立場を解任され警護も薄くなると命を狙われかねず、それ故に公には行き先を隠し地方へ出奔した。
  5. ^ 文正の政変の時と同様、盛定は貞親の工作を支える活動をしていた。今回盛定は将軍・義政から直接咎められた訳ではないが、貞親に下った沙汰からそれを支える活動をした盛定も当面謹慎するよう、新たに宗家・伊勢伊勢守家当主となった貞宗に申し付けられ蟄居することとなった。
  6. ^ 珠厳の不正により、西荏原・伊勢掃部助家と東荏原・伊勢備前守家は程度の差こそあれ年貢を掠め取られ、また備前守家や那須家は納めたはずの年貢が足りないとケチを付けられ追加で収めなければならなかったことがあり、不正の再発は困るというのが三家共通の認識となっていた。盛頼には掃部助家こそが荏原全体の領主という感覚がありお互いを対等に監視する新九郎の提案には内心腹立たしかったが、那須修理亮資氏や備前守家宿老の笠原まであんな不正はもうまっぴら御免でござると抗議する状況に、不正監視の仕組みをやってみようと合意せざるを得なかった。一方、新九郎にはこの仕組みが機能すれば東荏原・伊備前守家の収入を台帳通りに回復出来るとの考えがあった。
  7. ^ 申次衆や奉公衆、奉行衆といった幕府の役目への任官。
  8. ^ 幕府での職位に応じて与えられる朝廷の官位・官途。室町時代にはもはや朝廷の官位・官途に仕事の実態は無く事実上の名誉職で、新九郎の父・盛定の場合は隠居、出家するまで従五位下・備前守だった。
  9. ^ 当時、公的文書などへの格式張った署名として本姓で記すことがあった。この場合、伊勢家は平氏の末裔を自認しているので、新九郎は平盛時となる。
  10. ^ 幕府申次衆の仕事の初歩は将軍や幕府上層部への単なる伝奏だが、熟練すると将軍・幕府の意に沿った結論に落としたり、または意を汲んで関係者の説得や調整を行うため、場合によっては自らの判断で贈答品や賄賂を使い承諾させることもあり、その費用は申次の自腹で賄われることがほとんどで、出費が多い役目という側面もあった。
  11. ^ 第7集第38話で、盛頼には京都に正室(正妻)と嫡男(長男)がいると説明されており、弦は側室で荏原での「現地妻」となる。
  12. ^ 犬神人または坂非人は大社に属し河原に住む人々とされ、もともとは大社境内で死んだ鳥獣や行き倒れの人間の遺体の処理と清掃などの死穢の除去に始まり、室町時代は葬送法師として京都市中の遺体の搬送と火葬を行ったとされる。
  13. ^ 京都市中は応仁の乱の大規模な戦闘は収まったものの小規模な小競り合いは依然発生しかねない状態で、東軍西軍それぞれ関を設け通行する者を監視していたので、東軍・伊勢伊勢守邸と西軍・伊勢貞藤邸の両方に出入りし伊勢家が信頼出来る商人などに内密な手紙の受け渡しを頼んだり、商人一行に紛れ行き来したと思われる。
  14. ^ 第1集第4、5話で、伊勢伊勢守家(伊勢宗家)と細川京兆家(細川宗家)の間の使い走りをしていた元服前の千代丸(新九郎)が、細川邸にて勝元正室で宗全の娘(養女)の亜々子を訪ねてきた宗全と碁を打つことになったが、この時は対局の途中で終了となり勝負が付かなかったものの、宗全は物怖じしない千代丸を気に入ったようだった。
  15. ^ 応仁の乱の西軍・山名宗全は細川勝元との幕府内での勢力争いで応仁の乱を引き起こしたため、勝元や細川家との間で合意が出来れば乱を終わりにしても構わなかったが、畠山義就は畠山政長と畠山家の家督争いをしていたところ山名宗全から加担された経緯があり、家督争いで政長に勝つまでは乱を止める訳には行かなかった。また大内政弘は10年におよぶ大軍を引き連れての畿内への滞在で博多商人から莫大な戦の資金や兵糧の支援を受けており、明との貿易や瀬戸内海交易で博多商人と争う堺の商人が支援する細川勝元の勢力を挫くまでは戦を止めれない状態で(止めれば幕府管領の勝元から政治的な制裁や圧力を受けることになる)、宗全、義就、政弘が三者異なる目的で乱に参加し、東軍と停戦のための共通の落とし所を見出だせなかったことが乱を長引かせる原因となっていた。
  16. ^ 本作品では第2集で東軍の足軽・骨皮道賢が描かれたが、ここではこの西軍の足軽がどのような者か書かれていない。しかし例えば西軍の足軽としては山城国の地侍出身とされ畠山義就に仕官した御厨子某(みずし なにがし)などが知られており、この場面でも西軍の足軽たちのリーダーは下級の地侍風の様相で畠山義就の命令で動いたと考えられ、御厨子某を意識したと思われる描き方がされている。
  17. ^ 第4集第23話の那須の弦姫との流鏑馬対決以降、新九郎は家臣たちと毎朝武芸の稽古をしてきており、第7集第43話の西軍の足軽に襲撃される場面でも新九郎は「毎日鍛錬してきているのだ...こんな酒くさい(足軽)連中に...(負けてたまるか)」と心の中でつぶやき、人を斬るのは初めてながら一人目の足軽は落ち着いて対処している。
  18. ^ 室町幕府は京都の幕府に反乱を起こした足利成氏を幕府の関東支配の出先機関・鎌倉府の長官・鎌倉公方から解任したが、成氏は鎌倉から下総国・古河へ移り勝手に古河公方を名乗り、幕府から廃されたことなど知らぬとばかり北関東の支配地域で君臨し、幕府方の鎌倉府ナンバーツーの関東管領上杉家(および幕府が新たに任命した鎌倉公方である堀越公方足利政知)との戦いを継続するのであった
  19. ^ 実は関東管領は自分に命令を下す存在の「鎌倉公方」は不要と思っており、言葉と裏腹に鎌倉に入らせずに伊豆に足止めしていたに等しい状況であった
  20. ^ 第8集第49話、50話。2年前の正月、小鹿範満が駿府を訪れていた新九郎を連れ今川義忠名代として新年の挨拶に伊豆の堀越御所を訪問した際、新九郎は空いた時間に修善寺の湯に立ち寄った。太田道灌については作中に伊豆訪問理由の記述は無かったが、関東管領の新年の挨拶が山内上杉家重臣で伊豆国守護代の寺尾礼春を名代として行われたことが描かれており、道灌は扇谷上杉家の名代として新年の挨拶に堀越御所を訪問したと思われる。その際新九郎と道灌は修善寺の湯で顔を合わせ会話をしたが、お互い正式に名乗らなず身元を知らないままであった。
  21. ^ 小鹿方は今後の争いの芽を摘むべく龍王丸とその母・伊都の身柄を確保しようとしており、仮に龍王丸方と小鹿方が戦になり龍王丸方が負けた後では小鹿方に囚われの身となるのを拒めないため、戦いにならない段階で小鹿方の希望をかなる譲歩をしつつ、龍王丸と伊都が復権を目指す活動の自由を確保することが重要であった。
  22. ^ 新九郎は龍王丸の交渉代理人として調停に望んだが、最後は駿河国のためとして小鹿範満が当主代行とする結論を認めたため、範満は新九郎が公正に調停を行ってくれたという印象を持っていた。
  23. ^ 第5集第29話、30話。当時の将軍・義政の機嫌を損ねたのは盛定であるが、怒りの矛先はその家督を相続する新九郎へと向かい、義政は新九郎に所領・東荏原の相続は認めたが一生無役でいることを命じた。
  24. ^ 例えば第4集で新九郎が荏原に下向した数えでの16歳は、満年齢では14〜15歳であり、現代の中学校3年生に相当する。
  25. ^ 本作品では第1集第3話、伊勢貞親と蜷川新右衛門との会話で貞親が自らの出奔を平家物語に書かれる平家の都落ちになぞらえており、貞親が自らを伊勢平氏の末裔と認識していることが描かれている。
  26. ^ 第3集「【外伝】新左衛門、励む!」でそのように説明され本作品の見解となっている。
  27. ^ 第1集第3話、細川勝元の台詞。
  28. ^ 幕府の役目就任に伴い、将軍の推挙の形で朝廷から任官する公式なものである。ただしこの時代受領や官途など朝廷の職に実態は無く、単なる名誉職であるが、任官に伴い朝廷に謝礼が支払われたとされる。 大名や幕府直臣はこのような形で朝廷の職に公式に任官したが、それ以下の階層では次第に大名が朝廷の許可無しに勝手に家臣に受領・官途を名乗らせるようなことが横行するようになった。
  29. ^ 北条早雲の幼名は不詳のため、ゆうきが早雲の息子・北条氏綱と孫・北条氏康の幼名が同じ「伊豆千代丸」であることに着目し、当時の長男は父親の幼名・仮名を受け継ぐことが多かった事実から類推して創作した[14]
  30. ^ 第1集第1話P28、父・盛定が「伊勢家一門の子弟としてすべきことを学んでもらわねば」と言っている。
  31. ^ 元服前の子供の使いではあるが、細川家でも使い走りとは言え伊勢家の御曹子である千代丸が訪れた際は菓子を出し話し相手をするよう、細川勝元は奥方の亜々子に申し付ける配慮をしている(第1集第4話)。
  32. ^ 千代丸は使い走りで細川邸を訪れ、勝元が伊勢家への返信の書状を完成させるまでの間、勝元正室・亜々子の話し相手を任されていた。その時ちょうど酒宴のため細川邸を訪ねた山名宗全が娘(養女)の顔を見に亜々子のもとを訪れると、千代丸は豪放な性格の宗全と顔を合わせる事になった。千代丸は宗全から「伊勢家の子弟なら(礼儀正しく教養もあるので、宗全の養女で勝元正室・亜々子の)話し相手には十分じゃろう」と評され、「碁は打てるかな?」と持ちかけられ囲碁の対戦をすることとなった。
  33. ^ 将軍の弟・今出川殿(足利義視)に仕える新九郎の兄・八郎に代わり、新九郎が有事の際は伊勢備前守家の家臣を率いて細川淡路守が番頭の奉公衆一番組に参加することになる旨が描かれている。なお政所執事の伊勢伊勢守(貞親、貞宗)や申次衆の伊勢肥前守(盛富、盛種)も彼らの政所執事や申次衆の役と併せて奉公衆の役も兼任しており、この場合も新九郎が奉公衆に任命されたというよりは、新九郎の父・盛定が申次衆と兼任で奉公衆の役を担う一環として、盛定の名で備前守家から兵を出す際には新九郎が家臣を率いて対応するということになる。
  34. ^ 新九郎自身はこれを「無位無官無役の三冠王」と称している。
  35. ^ 幕府申次衆の仕事は将軍や幕府上層部への伝奏であると共に、将軍・幕府の意に沿った結論で関係者を穏便に説得する調整が含まれ、場合によっては申次の判断で贈答品や賄賂を使い関係者を承諾させるようなこともあった。一方でこれは申次の判断による裏の支出であり、賄賂が罪悪視されない当時であっても申次の懐から(将軍直臣の盛定の場合、将軍から与えられている所領・東荏原からの収入)でまかなう必要があった。
  36. ^ 第6集第35話、所領・東荏原を父・盛定から相続しその経営での金銭のやりくりに苦労する新九郎に、京都にいる須磨が金銭を送ってきた場面で「大殿(盛定)のお仕事でお金を使うことはもうないので母の貯えを送ります」「母上の領地収入(化粧料)」といった手紙の文面や台詞があり、盛定が現役の申次衆の頃から須磨が金銭を補填していたことが伺われる。
  37. ^ 第3集に収録の「【外伝】新左衛門、励む!」にて明かされている。
  38. ^ 第3集第16話、兄八郎が死んだ夜、雨のなか備前守家の若手の家臣達が庭に集い、悲しむ新九郎を励ますところが描かれている。
  39. ^ 当時の女性の出家では通常男性のように剃髪せず、本作品で伊都で描かれているように長い髪を切り現代のボブカット(おかっぱ)のような短髪にし頭巾を被った。
  40. ^ 元服の烏帽子親は伊勢加賀守貞綱(第77話)。
  41. ^ 新九郎は他家への養子入りをすることになった弥次郎に「借金苦から弟を売ったようでいたたまれない」「不甲斐ない兄ですまぬ」と詫びたが、これに対し気が廻る弥次郎は「これは弥次郎のわがままであり、いま出来るただ一つの孝行とお考えください」と労りの言葉を返した(第80話)。
  42. ^ 応仁元年(1467年)8月、応仁の乱勃発により天皇と上皇は内裏から室町御所に避難し仮住まいしていたが(第2集第9話、P90)、文明8年(1476年)11月、室町御所が焼失すると天皇と上皇は伊勢伊勢守家邸を新たな仮住まいとして移ってくることとなる(第10集第61話、P67)。伊勢家には名誉な話で、伊勢家の格式の高さと邸の構えの大きさや豪華さが伺える。
  43. ^ 新九郎は、父が備中伊勢家出身の盛定、生母が側室の横井浅茅だが、父・盛定の正室が伊勢伊勢守家で貞親の妹の伊勢須磨であり、義母となる須磨を介して貞親は義伯父となる。なお新九郎の兄・八郎や姉・伊都は生母が須磨であるため、貞親は義理ではない血縁の伯父となる。
  44. ^ 山名宗全をはじめとする反伊勢貞親派の大名達は、二人を切腹させ幕府から排除しようと将軍・義政に詰め寄り切腹命令を求めたが、実際は伊勢一門全体をつぶそうとする攻勢であった)。二人の逃亡により切腹命令はうやむやとなったが、逃亡したことで幕府内での権力の起点となるそれぞれの政所執事と申次衆の座を失った。
  45. ^ 将軍親政を望む義政の側近としてそれを推し進めるべく将軍の名のもと権力をふるっていた貞親は、諸大名の家督争いに介入し大名家の弱体化を図ることで将軍親政を実現しようとしていたが、それは同時に諸大名から恨みもかっており、貞親は権力者の立場を解任され警護も薄くなると命を狙われかねず迂闊に街を出歩くことも難しくなる状況で、それ故に公には行き先を隠し近江・若狭へ出奔した。
  46. ^ 第1集第4話、貞親の後を継いだ伊勢貞宗が細川勝元を依頼に訪ねた場面で、細川勝元は否定しているが、細川の軍勢のみが夜にわざと伊勢伊勢守家の邸の包囲を解いたことがほのめかされるている(これが無ければ貞親と盛定は逃亡出来ず、本当に切腹に至った可能性もあった)。これは伊勢一門を潰したい山名宗全らと異なり、細川勝元は貞親と盛定を失脚させるだけで十分であろうと考えわざと逃した可能性があり、その細川勝元の考えを読んだ伊勢貞宗は細川を味方に出来ると考え、「次代の権勢の種」を細川勝元と分かち合うことをエサに、諸大名の伊勢家排斥の動きを停止させる取りなしを細川勝元に依頼した(だたし伊勢貞宗にとっても細川勝元が味方になってくれるかは賭けで、細川勝元との会談中に伊勢貞宗は冷や汗をかいている描写がある)。
  47. ^ 早雲の出自をめぐってかつて提唱され有力視された説の一つに貞藤の子とする説がある。本作品では新九郎は貞藤の子では無いが、生母の再婚相手が貞藤という義理の父子関係として描くことで、その説への本作品での解釈としている。
  48. ^ 第2集第10話、伊勢備前守家の家臣達の噂話で語られている。
  49. ^ 第7集第43話、新九郎は応仁の乱が膠着状態で長引く最中、生母の浅芽に会いたいという理由で従兄で東幕府・政所執事の貞宗から許しを得て西軍・貞藤の屋敷に潜り込む。
  50. ^ 第11集第66話「人物名鑑(8)伊勢盛景」で盛定の異母兄であることが明かされている。
  51. ^ 第6集第36話、新九郎の祝宴で、盛頼が子供の頃から弦姫が馬から振り落とされたり木から落ちるのを見て知っているという台詞がある。
  52. ^ 貞親の法要の席で、2年前の盛定隠居に伴う新九郎による相続の際に新九郎は挨拶にも来なかったと盛富(肥前入道)は盛定、新九郎を叱りつけた(第8集第45話)。だが、貞宗によると過去の政変で盛定の近親という理由で連座させられるのではないかと冷や冷やさせられた意趣返しとのこと。
  53. ^ アニメ一休さんでは少年の一休に対し親元の父新右衛門親当(ちかまさ)は室町幕府の寺社奉行職を務める大人として登場するが、実際は親当は一休宗純より年下で、交流はあったがアニメのような関係ではなく一休が壮年になってからの連歌の弟子としての関係であった。
  54. ^ 第2集第8話、この当時(生前)伊勢備前守家の惣領(嫡子)であった八郎に、荏原から上京した荒川と在竹が旅の途中、西軍に加勢すべく瀬戸内海を移動する大内周防介の大船団を目撃したことを報告している。
  55. ^ 第4集第22話、荏原に馴染むため散歩をしていた新九郎と大道寺太郎が、畑を耕している在竹三郎を見つけた時の会話で三郎がそのように語っている。
  56. ^ 第7集第44話、新九郎が「蛇の道」を用いて伯父で西軍の伊勢貞藤邸に潜り込んだ際に荒木彦次郎はその警護として同行し、その帰り道に西軍の足軽に襲撃され彦次郎は主君・新九郎を守るべく奮戦し、多米権兵衛たちの支援もあり難局から切り抜けたが、多米権兵衛からは彦次郎の戦い方が適切で無いと指摘された。
  57. ^ 第4集第20話で、行方がわからなくなった新九郎と駒若丸を探す家人達の会話で「駒若は父がこちら(荏原)の出だが本人は山城から出たことも無いのだぞ」との台詞がある。
  58. ^ 第4集第19話の荒川又次郎の台詞で平井が志摩利荘から引きあげたことが説明されている。
  59. ^ 新九郎の生母で伊勢貞藤と再婚した浅茅は、実家・横井家の尾張国の所領からの化粧料を得ていたが騒乱により得られなくなったと推定され、これにより多米も失業同然となった。
  60. ^ 元服した新九郎と始めて対面した際は、「右近衛大将 源義政」と本姓を名乗っている。
  61. ^ 第1集第3話の伊勢伊勢守邸の矢場での貞親と千代丸(新九郎)の会話でその経緯が説明されている。
  62. ^ 第1集第3話の伊勢伊勢守邸の矢場での貞親と千代丸(新九郎)の会話。
  63. ^ 伊勢貞親と新九郎の父・伊勢盛定が裏工作により足利義政を将軍職から退位させその子・春王に将軍職を譲らせようとした結果、義政の反撃を食らい、貞親は無役・出奔、盛定は隠居、新九郎はそのとばっちりを受け一生無役でいろと命ぜられた場面であるが、作者のゆうきはこういった足利義政の描写について、鷹揚だが自分の権威が侵害された時には激烈に怒る人物としている。
  64. ^ 滋賀県大津市田上地区の記録にも「応仁2年(1468年)足利義視の軍勢が田上の里を焼き払う」とある。
  65. ^ 足利義尚の幼名は不詳のため、同時代を描いた大河ドラマ『花の乱』の設定を借用した[14]
  66. ^ 第5集第29話、30話。新九郎が目を付けられたというよりは、将軍・足利義政は新九郎の父・伊勢盛定の隠居の経緯に立腹し、父・盛定の隠居は認めたが隠居、出家となるとそれ以上盛定を罰しようが無く、代わりに子・新九郎が同罪として父の代わりに無役とさせられた。
  67. ^ 平安時代末期の足利宗家・足利義兼の庶兄・足利義清の子孫が、鎌倉時代に承久の乱の恩賞として宗家・足利義氏が三河国守護を賜った際、一族として三河国に移住、足利義季は三河国細川郷(現在の岡崎市細川町)に住み細川義季を名乗るようになった。なお義季の兄の足利実国は隣の仁木郷(現在の岡崎市仁木町)に住み仁木実国を名乗り、義氏の庶長子・足利長氏は吉良郷(現在の西尾市)の住み吉良長氏を名乗り(今川家は後に吉良家から分家)、いずれも三河国に在国する足利宗家の被官となった。
  68. ^ 第8集第45話、細川勝元が新九郎と亡くなった山名宗全について語る中で、宗全に鯉料理を振る舞った、と語っている。第1集第5話で勝元が袖をたくし上げた姿で宗全の前に登場した際のことと思われる。史実では細川勝元が鯉を自ら料理したか不明だが、口にした鯉を「これは淀川の鯉ではない」と言い当て好んで食したことは記録に残っており、また後年、分家で細川和泉上守護家の細川藤孝(幽斎)は自ら包丁で鯉をさばき料理したという。
  69. ^ 第7集第42話で、勝元を訪ねてきた新九郎に勝元が茶の湯を立てている。
  70. ^ 第8集第45話で、勝元を訪ねてきた新九郎の前で勝元が生薬を粉砕する薬研(やげん)を用いて薬の調合をしているところが描かれている。
  71. ^ 第1集第5話、千代丸(新九郎)が伊勢家からの使い走りとして細川京兆家を訪ね、勝元から貞宗宛の書状を託された時、勝元は家臣から嫡子誕生を知らされ、普段笑わない勝元が千代丸の前で笑顔を見せた。
  72. ^ 第5集第29話、聡明丸、将来の政元は、女嫌いのため子供の頃に細川家の女房たちから構われるのを嫌い、また元服してからは妻帯せず修験道にのめり込む、ということになる。
  73. ^ 政元のもとを訪れた帰り道、新九郎は弥次郎に対し政元について「あれはダメだ」「いい大人が人前に出るのになぜ烏帽子を着けない?」と当時の一般的な見識による陰口を述べた(第82話)。史実でも幕府管領の立場の政元が烏帽子の着用を拒んだため幕府の式典が延期となってしまったことがあり、政元の政治的な立場と頭のキレは抜群ながら、かなりの変人で周囲を振り回したようだ。
  74. ^ 第6集33話、庄元資を仕切り屋でリーダーシップが強い人間に描いている。史実でも後年、細川京兆家と細川備中守護家が対立した際には、庄元資は細川京兆家の意を受け備中国の国人たちを糾合し(おそらく備中伊勢家などにも自分の軍への参陣要請を出し)、備中国守護の細川勝久と合戦におよぶほどアクが強い人物である(→細川勝久#備中大合戦を参照)。
  75. ^ 第1集第4話、5話。伊勢伊勢守家(伊勢宗家)と細川京兆家(細川宗家)の間の使い走りをしていた元服前の千代丸(新九郎)は、細川勝元が伊勢家からの書状の返信などを書く間、宗全の娘(養女)で勝元正室の亜々子の話し相手を任されていたが、宗全が酒宴のため細川邸を訪問、亜々子に会おうと部屋を訪れた際、その場にいた千代丸は宗全から「碁は打てるかな?」と持ちかけられ囲碁の対戦をすることとなった。
  76. ^ 第7集第42話、43話。西軍・伊勢貞藤邸を訪ねた新九郎が、以前の囲碁の勝負が付いていない、と再戦を希望し、宗全は承諾した。
  77. ^ 第8集第42話、43話。宗全に直接会って話すことで応仁の乱終結の糸口を見出したい新九郎は、西軍に属する伯父・伊勢貞藤を介し宗全に囲碁の対戦をしたい旨を申し出、宗全もそれを承諾し新九郎は山名邸を訪問するが、宗全は中風で介護が必要な状態となっていた。
  78. ^ 第2集第10話「蜷川新右衛門の室町コラム(5)」で「今川家の五郎のインフレ」について説明されている。
  79. ^ 第51話、今川義忠と小鹿範満の会話で義忠が「遠江を取り戻さねば父祖らに申し訳が立たぬ」と述べている。
  80. ^ 第一子の女児は第4集第18話で新九郎の義母須磨が新九郎の鎧を新調ではなく八郎の形見の鎧を用いる理由を伊都に女児が誕生した祝いで物入りのためと説明している。また嫡子・龍王丸の誕生は第8集第46、47話で描かれている。
  81. ^ 亀は、のちに京都の公家・正親町三条実望に嫁ぐこととなり、駿河今川家が京都の公家とつながりを深めるきっかけとなった。
  82. ^ 第8集第48話、義忠の新九郎の訪問を歓迎する宴席での台詞で「(義忠の父と範満の父が争った)その因果か知らぬが、俺が西へ行きたいと言えば(範満は)東に行けと申す」と言っている。
  83. ^ 第2集第12話。その後伊都は義忠に正室として嫁ぐことになる。
  84. ^ 第52話、駿府に戻った宗長が伊都に義忠戦死の状況を説明している。
  85. ^ 今川氏家臣の朝比奈氏には、駿河朝比奈氏(朝比奈丹波守家)と遠江朝比奈氏(朝比奈備中守家)があるが、 朝比奈泰煕の子の代から駿河朝比奈氏(朝比奈俊永、朝比奈親徳など)、遠江朝比奈氏(朝比奈泰能など)に分かれたと考えられる。
  86. ^ 義忠は、幕府申次衆で将軍直臣の伊勢備前守盛定の娘を娶ることで盛定を義父として味方に付け、今川家の要望を将軍や幕府に通しやすくできる期待を家臣たちに説得したと思われるが、併せて「というのはタテマエで、実はあの娘を一目見た時からすっかり惚れてしまったのだ」とオチを付け、朝比奈らは納得した(第2集第12話)。
  87. ^ 本作品では第8集第48話で初登場し、それ以降の場面でも烏帽子は被るが帯刀しておらず、武士というよりは商業で財を築いた有徳人である。第48話の文明5年(1473年)の時点で小川の代官を務めるとされている。
  88. ^ 第1集第1話、伊勢宗家の内輪の酒宴で伊勢貞親が身内の貞宗、盛定、貞藤らにそのようにを話している。
  89. ^ 第2集第12話で義政が古河の左兵衛督(古河公方)と幕府の和睦に取り組もうとした義廉に激怒している。
  90. ^ 畠山重忠の正室が北条時政の娘、北条政子義時らの妹であり、重忠と重保一族殺害後、北条時政・義時らの計らいで足利一門の義純が未亡人となった時政娘と再婚し、畠山を名乗り遺領の一部と家臣らを引き継ぐ形で源姓畠山家は成立した、とされる。
  91. ^ 第2集第9話、畠山政長と伊勢貞宗は旧知の間柄として描かれている。実際に年齢も2歳違いで非常に近い。
  92. ^ 那須家は頼朝公の下し文はあると言うが、第4集第21話でも荏原出身の新九郎家臣・荒川又次郎ですら「吹聴」という言葉を使っており、本当に持っているのか周囲は疑い信じていないことが描写されている。
  93. ^ 第4集第20、21話、荏原で生まれ育った新九郎家臣の荒川又次郎、在竹三郎は那須家がどのような一族か、荏原に名代として赴任したばかりの新九郎に語った。
  94. ^ 第4集第22話、珠厳と盛頼の会話で珠厳が資氏の思惑を推測している。
  95. ^ 第8集第49話で新九郎は伊豆国・蛭ヶ小島を訪れ家臣たちにその場所は頼朝公が流された場所であることを熱く語るなど、歴史好きな人物として描かれている。また史実でも新九郎(伊勢宗瑞)は、書物を入手すること自体が困難で自ら手書きで写本するか、知人から写本を借りて読むしかないこの時代に、太平記を愛読していたとされ、自らの関東進出後に足利学校が所有する太平記の写本を取り寄せていたことなどが分かっている。
  96. ^ 那須与一の初名は宗隆で、源平の合戦の恩賞で下し文と共に備中国荏原荘を賜った後の時代に資隆に改名したとされているが、修理亮資氏ら那須家の子孫は資隆こそがこの偉大な祖先の唯一の名前と認識しており、下し文が那須与一資隆の名に宛てられていることを何も不思議に思っていなかった。
  97. ^ 第5集第26話、狩での弦姫と新九郎の会話。
  98. ^ 第5集第26話、在竹三郎と家臣達との会話。
  99. ^ 第7集第38話、盛頼に輿入りした弦姫の会話。
  100. ^ 第4集第22、23話、新九郎は那須家の先祖が源頼朝公から賜った下し文を見たがっていたが、弦姫は新九郎が勝負に勝ったらこれを見せる条件で新九郎を流鏑馬の勝負に誘った。おそらく弦姫は勝負に勝ち下し文を見せるつもりは無かったと思われるが、弦姫の予想に反し新九郎が最初の2射を外すも健闘し、弦姫の勝ちとなるが弦姫は新九郎の勝負に対する姿勢とその人柄を評価することとなった。
  101. ^ 第6集第36、37話。古河城を包囲し陥落寸前まで追い込んでおきながら古河公方・足利成氏(古河殿)が夜陰にまぎれ舟で脱出し千葉氏のもとへ逃れるのを許し、そのうえ古河城を陥落させずに撤兵する決定を下したことに対し、太田資長、長尾景春が総大将の景信に対し異議を唱えている。
  102. ^ 第8集第46話、亡くなった景信のもとへ鎧姿のまま駆けつけた嫡子・景春に、景信の弟・忠景(景春の叔父)が注意を促す言葉を述べ、後の確執の前振りが描かれている。
  103. ^ この時代の通常の相続では父の死に際し嫡子が幼少などでない限り嫡子が相続するが、嫡子が幼少または死去でいない場合などは庶子や弟が継ぐ場合もあった。
  104. ^ 第6集第34話、局地戦で連戦連勝し古河公方を追い込んでいた景春が、誇らしげに「敵は総崩れぞ、江戸勢(太田資長)の応援は無用と伝えろ」と語り、もともと太田資長が関東管領軍で頼りにされていた存在であることが解かる。
  105. ^ 例えば、京都から伊豆入りした堀越公方はそのナンバーツーに「執事」を従えており、堀越公方が正式な鎌倉公方として鎌倉入りする際には関東管領・上杉氏と堀越公方執事どちらが本当の鎌倉府ナンバーツーかといったことが未決で混乱を起こす要因となり得た。実際、堀越公方執事・渋川義鏡は上杉氏と争い失脚している。
  106. ^ 第8集第49話、今川義忠の新九郎への堀越公方の実情の説明。
  107. ^ 享徳3年(1455年)に享徳の乱が開始され、政知は長禄2年(1458年)当時の幕府将軍(御所)で弟の足利義政から命を受け新たな鎌倉公方として関東に向け下向、暫定的に伊豆に留まりそのまま20年以上をその地で過ごすこととなった。
  108. ^ 大道寺太郎の母は、新九郎、弥次郎の母・浅茅の妹で、伊勢盛定家臣の大道寺右馬介に嫁ぎ、新九郎の乳母も務めた。
  109. ^ 横井掃部助時利(時任隠居後に家督を継いだ嫡子)の家人で時利の妹・浅芽に仕える多米権兵衛が「尾張国蟹江郷の住人」と名乗っている(第7集第43話)。
  110. ^ 幕府管領職に就任出来るのは足利一門の三家、細川家斯波家畠山家の当主のみだが、細川勝元死去後の細川家は当主がまだ9歳の細川聡明丸で将軍の補佐には役不足、斯波家と畠山家は応仁の乱の原因ともなった両家の家督争いが続いており、三家はいずれも管領の職務を出来る状況ではなく、それもあって日野勝光は管領職には就かずに職務を代行した。幕府政所執事の伊勢貞宗も新将軍・足利義尚の傅(もり)役であり立場的には日野勝光に近かったが、余計な権力争いに関与した父・伊勢貞親の二の舞になるのを避けたいとのことで管領の役割に関与することはなく、日野勝光による管領職務の補佐に留まった。

出典

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外部リンク