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アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが[[1911年]]にアポリネールが[[ビンセンツォ・ペルージャ#モナリザ盗難事件|モナリザ盗難事件]]の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「[[ミラボー橋 (詩)|ミラボー橋]]」であるという{{Efn2|アポリネールの詩「ミラボー橋」(邦題)の初出は「ソワレ・ド・パリ」(1912年2月)、再録は『アルコール』(1913年<ref>{{cite book|first=Guillaume |last=Apollinainaire |title=Alcools|location= Paris|publisher= Nouvelle revue française|year= 1920|origyear=1913|ref={{sfnref|アポリネール|1920}}|pages=16-17|language=fr}}</ref>){{sfn|山田 |2018|p=379}}。日本語訳は{{cite book|和書|author=ギョーム・アポリネール|chapter=ミラボー橋|translator=[[堀口大學]]||series=アポリネール全集|volume= I|publisher=青土社|year=1979|pages=68-69}}。}}。
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==代表作==
==代表作==
*『アポリネールとその友人たち』、別題『招待』(1908年)({{仮リンク|ボルティモア美術館|en|Baltimore Museum of Art}})<ref>『Apollinaire et ses amis (première version) ou Les invités』1908年。ジョゼ・ピエール『マリー・ローランサン』阿部良雄訳、美術公論舎、1991年 {{harv|山田|2018|p=378}}。</ref>{{sfn|山田|2018|p=378|loc=図1}}
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*『{{仮リンク|The Dreamer|fr|La Songeuse}}』(1910年- 1911年)([[ピカソ美術館 (パリ)]])
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*『二人の少女』(1915年)([[テート・ギャラリー]])
*『二人の少女』(1915年)([[テート・ギャラリー]])
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* {{cite book|和書|author=ダニエル・マルシェッソー([[:w:fr:Daniel Marchesseau|fr]])|chapter=序文|editor=[[毎日新聞社]] |title=パリの哀愁とロマン マリー・ローランサン展|others=[[大丸梅田店]]・大丸ミュージアム他|year=1984|ref={{sfnref|マルシェッソー|1984|}}|pages=記載なし|publisher=[[毎日新聞社]]}}展覧会図録。巡回展の会場は大丸梅田店・大丸ミュージアム(1984年10月10日-10月29日)、青森市民美術展示館(同年11月6日〜11月25日)、[[大分県立芸術会館]] (1985年1月5日-2月3日)ほか2会場。毎日新聞社主催。
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; 洋書
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2022年11月19日 (土) 10:10時点における版

マリー・ローランサン
Marie Laurencin
1949年の肖像
誕生日 1883年10月31日
出生地 フランスの旗 フランス共和国パリ
死没年 (1956-06-08) 1956年6月8日(72歳没)
死没地 フランスの旗 フランスパリ
運動・動向 エコール・ド・パリ
芸術分野 絵画彫刻
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マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランス女性画家彫刻家である。

生涯

肖像、パリにて(1912年頃)

マリー・ローランサンは1883年パリ10区[注 1]で私生児として生まれた(ただし、資料によっては1885年生まれとなっている[要出典])。父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレ(フランス語)(1839年-1905年)だが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はコタンタン半島出身のポーリーヌ・メラニー・ローランサン[1]

経歴

パリ9区のリセ・ラマルティーヌ (fr) に学び、画家を志し[2]アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い[注 2]キュビスムの影響を受けた[注 3]1907年サロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラック[注 4]を介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソ詩人美術評論家ギヨーム・アポリネールと知り合った。1908年と翌年に『アポリネールとその友人たちフランス語版』と題し[注 5]2作を残した[注 6]

アンリ・ルソー作「詩人に霊感を与えるミューズ」(ギヨーム・アポリネールと彼のミューズであるローランサン)1909年

アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナリザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」であるという[注 7]

1912年に開いたローランサンにとって初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった[要出典]1914年に31歳でドイツ人男爵(オットー・フォン・ヴェッチェンフランス語版)と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリード、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。

「ジョルジュ夫人の肖像 エマニュエル・ラング」1923年
ポスター『ポスター台を囲む三人の女性』(仮題)1937年。ローランサン原画による商店ポスター[14]

パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった[要出典]。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。離婚後はバイセクシャルでもあった[要出典]

舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』(舞台装飾[15])や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズシャンゼリゼ劇場で上演されたローラン・プティのバレエなどが知られている[要出典]

第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。1956年にパリにて心臓発作[要出典]により死去した。72歳没。

マリー・ローランサン美術館

マリー・ローランサン美術館(2011年時点)

長野県茅野市蓼科湖畔にあったマリー・ローランサン美術館は、世界でも唯一のローランサン専門の美術館であった。東京のタクシー会社・グリーンキャブ創業者の館長・高野将弘が収集した個人コレクションをもとに、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館。収蔵点数は500点余りを数えたが、観光客減少のため2011年9月30日をもって閉館した[16]。その後、フランス、パリのマルモッタン・モネ美術館台北中正紀念堂台中国立台湾美術館、日本各地での巡回展示を経て、2017年7月15日ニューオータニガーデンコート6階で美術館が再開したが、2019年1月14日を以って再び閉館となった[要出典]

代表作

パリ12区のマリー・ローランサン通り。
挿絵

記念

マリー・ローランサン通りフランス語版の標識

1987年12月28日、パリの通りにローランサンに因んで「マリー・ローランサン通り」と名付けられた[要出典]

参考文献

主な執筆者の50音順。

  • ダニエル・マルシェッソー(fr) 著「序文」、毎日新聞社 編『パリの哀愁とロマン マリー・ローランサン展』大丸梅田店・大丸ミュージアム他、毎日新聞社、1984年、記載なし頁。 展覧会図録。巡回展の会場は大丸梅田店・大丸ミュージアム(1984年10月10日-10月29日)、青森市民美術展示館(同年11月6日〜11月25日)、大分県立芸術会館 (1985年1月5日-2月3日)ほか2会場。毎日新聞社主催。
  • 山田 茉委「《アポリネールとその友人たち》にみるマリー・ローランサンのキュビスム受容」『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 = WASEDA RILAS JOURNAL』第6巻、早稲田大学総合人文科学研究センター、2018年10月、377-389頁、ISSN 2187-8307CRID 1050001202491940864 
  • 山田 茉委、加藤 ゆずか「〈美術史学〉優秀修士論文概要」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第65号、2020年3月15日、477-755頁、ISSN 2432-7344CRID 1050566774854250624 
洋書
  • Laurencin, Marie (1956) (フランス語). Le carnet des nuits. ジュネーブ: Pierre Cailler. p. 22 
    • 日本語訳:マリー・ローランサン 著、大島辰雄 訳『夜の手帖 : マリーローランサン詩文集』六興出版、1977年、98頁。ISBN 4845360012CRID 1130000798091498880 

脚注

  1. ^ シャブロル通り63番地。
  2. ^ アカデミー・ランベール(フランス語)の同期にブラックの他、フランソワ・ピカビアフランス語版ジョルジュ・ルパプフランス語版もおり、ブラックとルパプはローランサンの画才に気づくと、陶芸の絵付け師の見習いをやめて絵に専心するよう勧めている[3]。ローランサンはこの頃にすでに自画像を描いており[3]、終生、自分を描いた[4]
  3. ^ Glout, Flora. Marie Laurencin, Paris:Mercure de France, 1987, p.101。山田[5]によると著者はローランサンの親友の娘。
  4. ^ 山田はアポリネールが書き残したものを引き[6]、ピカソがローランサンをアポリネールに引き合わせたとしている[5]
  5. ^ 山田によるとローランサンはキュビスムには参加せず[7]、当人も生前、「私が立体派にならなかったとしても、それはつまり、なろうにもなれなかったからです。そのちからがなかったわけですが、彼らの探求には今でも情熱をかきたてられるのです[8][9]」と語っているという。
  6. ^ 1作目はボルティモア美術館収蔵、別題『招待客』(1908年)、カンヴァスに油彩、64×76 cm[10]。2作目はポンピドゥー・センター収蔵、別題『田舎の集い』または『高貴な仲間』、『友人たちの会合』(1909年)、カンヴァスに油彩、130×194 cm[11]
  7. ^ アポリネールの詩「ミラボー橋」(邦題)の初出は「ソワレ・ド・パリ」(1912年2月)、再録は『アルコール』(1913年[12][13]。日本語訳はギョーム・アポリネール 著、堀口大學 訳「ミラボー橋」 I、青土社〈アポリネール全集〉、1979年、68-69頁。 

出典

  1. ^ 電子版のアーカイブより出生証明書第10/4822/1883号。付記:1914年 Otto von Wätjen と結婚。(2012年5月9日閲覧。)
  2. ^ アンリ=ピエール・ロシェ "Marie Laurencin - Portrait plaisant", Les Cahiers d'aujourd'hui第10号、パリ、1922年、p.217。
  3. ^ a b André Beucler "Dans l'Atelier de Marie Laurencin" Le Haut-parleurモントリオール、1950年11月5日、p.4。
  4. ^ 『Autoportrait』《自画像》1904年、板に油彩、40×30cm、マリー・ローランサン美術館、『Autoportrait』《自画像》1908年、カンヴァスに油彩、41.4× 33.4cm、マリー・ローランサン美術館(山田 2018, p. 380)。
  5. ^ a b 山田 2018, p. 378.
  6. ^ Apollinaire, Guillaume (1916). Le poète assassiné. Paris: Bibliothèque des Curieux. pp. 61-62. LCCN 39-23235. NCID BA72574315 
  7. ^ マルシェッソー 1984, 「序文」.
  8. ^ ローランサン 1956, p. 22.
  9. ^ 大島 1977, p. 98.
  10. ^ a b 山田 2018, p. 378, 図1.
  11. ^ a b 山田 2018, p. 378, 図2.
  12. ^ Apollinainaire, Guillaume (1920) [1913] (フランス語). Alcools. Paris: Nouvelle revue française. pp. 16-17 
  13. ^ 山田 2018, p. 379.
  14. ^ 原題:「Drie vrouwen rond een prentstandaard」。マリー・ローランサン原画によるポスター『ポスター台を囲む三人の女性』(仮題)。パリ、サンジェルマン通りの店の宣伝用。台帳番号:RP-P-2015-26-1574、1937年。紙に印刷、外寸:高さ494 mm × 幅324 mm。S・エメリンク寄贈、アムステルダム、2000年遺贈。収蔵印に修正あり、Lugt 2228. 取り消し、Lugt 4779。印刷所不明、出版社:Chambre syndicale des éditeurs et Marchands d'estampes et dessins anciens et modernes(仮訳:パリ:商工会議所出版社シンジケート、歴史的作品、現代の版画と図面取り扱い)
  15. ^ a b 山田、加藤 2020, p. 477.
  16. ^ “マリー・ローランサン美術館、9月いっぱいで閉館”. インターネットミュージアム(丹青社. (2011年9月1日). http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=1488 2017年4月3日閲覧。 ]
  17. ^ 『Apollinaire et ses amis (première version) ou Les invités』1908年。ジョゼ・ピエール『マリー・ローランサン』阿部良雄訳、美術公論舎、1991年 (山田 2018, p. 378)。
  18. ^ (フランス語) Apollinaire et ses amis (deuxième version) ou Une réunion à la campagne ou: La noble compagnie ou Le rendez-vous des amis. Centre Pompidou. (1909). https://www.centrepompidou.fr/cpv/resource/cRGarx/rgjAG58 2018年7月24日閲覧。 
  19. ^ ポンピドゥー・センターの出版物『Apollinaire et ses amis (deuxième version) ou Une réunion à la campagne ou: La noble compagnie ou Le rendez-vous des amis』参照[18]
  20. ^ Bruce Hainley on the art of Marie Laurencin” (英語). www.artforum.com. 2022年11月15日閲覧。

関連資料

  • Laurencin, Marie、辛酸 なめ子、横山 由紀子『L'éventail de Marie Laurencin』川村記念美術館 編、川村記念美術館、2010年。NCID BB03303065。別題『マリー・ローランサンの扇』
  • Laurencin, Marie、富安 玲子、渡辺 浩美、堤 祐子『マリー・ローランサンとその時代展 : 巴里に魅せられた画家たち』マリー・ローランサン美術館、高梁市成羽美術館一宮市三岸節子記念美術館。マリー・ローランサン美術館、2011年。NCID BB0882176X
  • Laurencin, Marie『Marie Laurencin : catalogue des œuvres de Marie Laurencin : マリー・ローランサン作品集』マリーローランサン美術館、2011年。CRID 1130000796765135616。2011年3月時点の所蔵作品より油彩画全点、水彩画や版画、デッサン、挿絵本など。年譜、主要参考文献、作品リスト。
  • Laurencin, Marie、東郷 青児Modigliani, Amedeo『マリー・ローランサンと東郷青児展 = Marie Laurencin & Togo Seiji』アートプランニングレイ、山梨県立美術館 編。山梨日日新聞社山梨放送。アートプランニングレイ、2012年。山梨県立美術館で行われた展覧会図録(主催: 山梨県立美術館、山梨日日新聞社・山梨放送)。会期:2012年4月28日-6月24日。
  • Laurencin, Marie、吉澤公寿 執筆『Marie Laurencin : マリー・ローランサン展 : 女の一生』大竹ゆき、浅倉祐一朗 編、三鷹市美術ギャラリー、三鷹市芸術文化振興財団、Is Art Inc、2014年。三鷹市美術ギャラリーの展覧会図録(主催:三鷹市芸術文化振興財団、三鷹市美術ギャラリー
)、会期:2014年4月12日-6月22日。
  • Laurencin, Marie、府中市美術館 [ほか] 編『マリー・ローランサン = Marie Laurencin』府中市美術館碧南市藤井達吉現代美術館浜松市美術館中日新聞社金沢21世紀美術館浜松市。中日新聞社、2015年。巡回展の図録
    • 金沢21世紀美術館(2015年4月23日-5月16日)
    • 浜松市美術館(2015年6月20日-8月23日)
    • 府中市美術館(2015年9月12日-12月20日)
    • 碧南市藤井達吉現代美術館以下、2会場巡回。

  • Laurencin, Marie、吉澤公寿 監修『没後60年マリー・ローランサン展』大竹真由、IS ART INC. 企画・構成・編集、美術館えきKyoto。IS ART INC、2016年。CRID 1130000797909888640。別題『60e anniversaire de la disparition de Marie Laurencin』。美術館「えき」Kyoto展覧会図録(2016年10月28日-11月27日)。
  • 野田伊津子「「忘れられたのは誰か」をめぐるヴラーナとの対話,ハヴェルとの差異」『金城学院大学キリスト教文化研究所紀要』第20巻、金城学院大学、2017年3月、79-94頁、ISSN 1341-8130CRID 1050282677810160128 
  • 船木 倶子「マリー・ローランサン展」『LEMA』第523号、p.25-27、2016年。CRID 1520573328565165824ISSN 13439995
  • 山田 茉委「マリー・ローランサンと『音楽』:《優雅な舞踏会》を中心に」早稲田大学美術史学会 編『美術史研究』第58号、p.123-133、2020年。掲載誌別題『The Waseda journal of art history』。CRID 1520572359513777024ISSN 0523-5871
  • 
吉澤 公寿『マリー・ローランサンとその仲間たち』幻冬舎メディアコンサルティング、2022年。CRID 1130856650889091858ISBN 9784344939134
  • 山田茉委「マリー・ローランサンの「狩りをするディアナ」主題作品をめぐる考察」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第67巻、早稲田大学大学院文学研究科、2022年3月、553-570頁、ISSN 2432-7344CRID 1050573407667776640 

関連項目

肖像画の主題
元恋人
他者の作品

外部リンク