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「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の版間の差分

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[[File:George Frideric Handel Signature.svg|thumb|署名]]
{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}


'''ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル'''({{Lang|de|Georg Friedrich Händel}} {{IPA-de|ˈɡeːɔrk&nbsp;ˈfriːdrɪç ˈhɛndl̩||De-Georg Friedrich Händel.ogg}}<ref>{{Cite book|year= 2005 | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 358, 343, 388 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>, [[1685年]][[2月23日]] - [[1759年]][[4月14日]])は、[[ドイツ]]出身で、[[イタリア]]で成功した後に[[イギリス]]で長年活躍し、イギリスに帰化した[[作曲家]]、[[オルガニスト]]。英語では'''ジョージ・フレデリック・ハンドル'''({{lang|en|George Frideric (Frederick) Handel}} {{IPA-en|ˈhændᵊl|}}<ref>[[コリンズ英語辞典]] [http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handel "Handel"]。[[ハンドル]]と発音は同じである。[https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handle "handle"]</ref>)。後期[[バロック音楽]]の著名な作曲家の一人。特に[[イタリア語]]の[[オペラ・セリア]]や[[英語]]の[[オラトリオ]]の作曲で知られ、自ら公演事業にも携わった。代表作の[[オラトリオ]]『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』は現在でも人気が高い。
'''ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル'''({{Lang-de|Georg Friedrich Händel}} {{IPA-de|ˈɡeːɔrk&nbsp;ˈfriːdrɪç ˈhɛndl̩||De-Georg Friedrich Händel.ogg}}<ref>{{Cite book|year= 2005 | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 358, 343, 388 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>, [[1685年]][[2月23日]] - [[1759年]][[4月14日]])は、[[ドイツ]]出身で、[[イタリア]]で成功した後に[[イギリス]]で長年活躍し、イギリスに帰化した[[作曲家]]、[[オルガニスト]]。後期[[バロック音楽]]の著名な作曲家の一人。特に[[イタリア語]]の[[オペラ・セリア]]や[[英語]]の[[オラトリオ]]の作曲で知られ、自ら公演事業にも携わった。[[オラトリオ]]『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』は現在でも特に人気が高い{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|ホイマン|2003|pp=6-7}}


[[ウムラウト]]がない[[英語]]読みでは、'''ジョージ・フレデリック・ハンドル'''({{lang|en|George Frideric (Frederick) Handel}} {{IPA-en|ˈhændᵊl|}}<ref>[[コリンズ英語辞典]] [http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handel "Handel"]。[[ハンドル]]と発音は同じである。[https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handle "handle"]</ref>{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}。)。ただし、イギリスで活動していた当時はドイツ語読みに合わせてヘンデルと一般にも発音されており、これに合わせて「Hendel」と表記されることもあった{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}。
== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== ハレ・ハンブルク時代 ===
=== ハレ・ハンブルク時代 ===
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[[File:Halle Händelhaus 2012.jpg|thumb|生誕地|左]]
ファイル:Halle Händelhaus 2012.jpg|生誕地
[[ファイル:George_Frideric_Handel_baptismal_register.jpg|サムネイル|ヘンデルの洗礼簿]]
ファイル:George Frideric Handel baptismal register.jpg|ヘンデルの洗礼簿
1685年、[[ブランデンブルク=プロイセン]]領(現[[ザクセン=アンハルト州]])[[ザーレ川|ザーレ]]河畔の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]に生まれた<ref group="注釈">ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。</ref><ref name=":0">{{Cite web|title=ヘンデルとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB-131326|website=コトバンク|accessdate=2021-07-02}}</ref>。ハレはもと[[マクデブルク]][[大司教]]領の中心都市で、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子の{{仮リンク|ザクセン・ヴァイセンフェルス公国|label=ヴァイセンフェルス|de|Sachsen-Weißenfels}}公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた<ref>ホグウッド(1991) p.22</ref><ref name=":0" />。父は1697年に没している<ref>ホグウッド(1991) p.30</ref>。
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1685年、[[ブランデンブルク=プロイセン]]領(現[[ザクセン=アンハルト州]])[[ザーレ川|ザーレ]]河畔の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]に生まれた<ref group="注釈">ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。</ref>{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=ヘンデル |author=日本大百科全書 |accessdate=2022-11-26}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}。ハレはもと[[マクデブルク]][[大司教]]領の中心都市で、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子の{{仮リンク|ザクセン・ヴァイセンフェルス公国|label=ヴァイセンフェルス|de|Sachsen-Weißenfels}}公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=22}}</ref>{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}。[[File:George Frideric Handel Signature.svg|署名|フレーム]]
[[ファイル:Margaret_Isabel_Dicksee_The_Child_Handel_1893.jpg|サムネイル|隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)]]
ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、ヘンデルは父の目を盗んで[[クラヴィコード]]を入手し、夜な夜な屋根裏部屋で密かに練習を重ねて飛躍的な進歩を遂げた。幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルの[[オルガン]]演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=26-28}}</ref>。ヘンデルはハレの{{仮リンク|聖母教会 (ハレ)|label=聖母マリア教会|en|Marktkirche Unser Lieben Frauen}}のオルガニストであった{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ|en|Friedrich Wilhelm Zachow}}に作曲とオルガン、[[チェンバロ]]、[[ヴァイオリン]]の演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":7">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=28-34}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=16}}</ref>。


1697年2月11日、父ゲオルグが没した。これによりヘンデルの周囲で音楽に反対する者はいなくなったが、同時に収入と支えの両方を失った{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref name=":7" />。危機意識に駆られたヘンデルは音楽と勉学に励み、1702年に[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]に入学。学部は定かではないが、法学部に所属したと推察される。同年にハレ大聖堂{{Efn|ハレ大聖堂は[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の教会であったが、ヘンデル自身は[[ルーテル教会|ルター派]]であった{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}。}}のオルガニストとして1年間の仮採用契約を結ぶ<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref name=":7" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=21}}</ref>。また、オペラに関心を持ち始めたヘンデルは[[ベルリン王宮]]を訪ね、後に初代[[プロイセンの王]]となる[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]から宮廷への就職とイタリアでの勉強を提案されたものの、固辞してハレに戻ったとされる{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref name=":7" />。この頃に始まった作曲家[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]との交友は終生続いた<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=36-37}}</ref>。
ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) pp.26-28</ref>。ヘンデルはハレの{{仮リンク|聖母教会 (ハレ)|label=聖母マリア教会|en|Marktkirche Unser Lieben Frauen}}のオルガニストであった{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ|en|Friedrich Wilhelm Zachow}}に作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) pp.28-34</ref><ref>渡部(1966) p.16</ref>。


1702に[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]に入学したが同年ハレ大聖堂のガニスト1年間の契約でつとる<ref name=":0" /><ref>ホグウッ(1991) p.34</ref><ref>渡部(1966) p.21</ref>。こ頃に始まった[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]との交友は終生続いた<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) pp.36-37</ref>。翌1703年、ヘンデルは[[ハンブルク]]へ出た<ref name=":0" />。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家は[[ラインハルト・カイザー]]であ<ref>ホグウッド(1991) p.45</ref>ヘンデルはバイオリン奏者チェンバロ奏者として実地の経験を積んでその影響を受けた<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) p.50</ref><ref>皆川(1972) p.194</ref>。ク時代ヘンデル最初のオペラ『[[アルミーラ]]』1705年1月8日に上演され、成功た<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) p.47</ref><ref>渡部(1966) p.29</ref>。同年2月には次のオペラ『ネロ』(現存せず)が上演されている。翌1706年にも2つのオペラを作曲しているが(1708年上演)、これらも現存しない。ハンブルクではまた[[ヨハン・マッテゾン]]と親友関係にあったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがある。しかし後に和解している<ref>ホグウッド(1991) pp.38-43</ref><ref>渡部(1966) pp.25-29</ref><ref>皆川(1972) p.233</ref>。
翌1703年、大聖堂契約を満了したヘンデは、大学イツ中でもオペラが盛んであった[[自由都市]][[ハンブルク]]へ出た<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家は[[ラインハルト・カイザー]]であった{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=45}}</ref>ヘンデルはカイザーが運営するゲンゼマルクト劇場で第二バイオリン奏者として採用され、その後チェンバロの通奏低音奏者や演奏監督として活躍するなど、実地の経験を積みながらその影響を受けた<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=50}}</ref><ref>{{harvnb|皆川|1972|p=194}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}1704年、借金の取り立てから逃れるために[[ヴァイセフェス]]行ったカイザーに代わってヘンデルがオペラを作曲することとなった{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}。ヘンデルにとって最初のオペラとなったこの『[[アルミーラ]]』1705年1月8日に上演され、約20回も上演される大成功を収めた<ref name=":0" />{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=47}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=29}}</ref>。


同年2月25日には次のオペラ『ネロ』が上演されているが、これは評価が芳しくなかった{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}。翌1706年にも2つのオペラ『幸福なフロリンド』『変容のダフネ』を作曲しているが(1708年上演)、この3曲は一部の舞曲と断片を除いて消失している{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}{{sfn|三澤|2007|pp=194-198}}。
1703年にヘンデルはマッテゾンとともに[[ディートリヒ・ブクステフーデ|ブクステフーデ]]の後任オルガニストになるために[[リューベック]]に旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている<ref>ホグウッド(1991) pp.39-40</ref><ref>渡部(1966) pp.26-27</ref>。

ハンブルクではまた音楽理論家として知られることとなる[[ヨハン・マッテゾン]]と親友関係となり、ヘンデルがゲンゼマルクト劇場で職を得たのも彼の計らいによるものであったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、[[決闘]]で刺殺されそうになったことがある。後に両者は和解し、マッテゾンは『アルミーラ』のテノールの主役を演じている{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=38-43}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=25-29}}</ref><ref>{{harvnb|皆川|1972|p=233}}</ref>。1703年にヘンデルはマッテゾンとともに[[ディートリヒ・ブクステフーデ|ブクステフーデ]]の後任オルガニストになるために[[リューベック]]に旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。なお、2年後に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]も同じ経験をしている{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=39-40}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=26-27}}</ref>。


=== イタリア時代 ===
=== イタリア時代 ===
[[ファイル:Handel_quando_jovem.jpg|サムネイル|肖像画(1710年頃)]]
1706年から1710年まで[[イタリア]]の各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]、[[ヴェネツィア]]、[[ナポリ]]を訪れたらしい<ref>渡部(1966) p.32</ref>。ローマでは当時オペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『[[時と悟りの勝利]]』を作曲している<ref>ホグウッド(1991) pp.60-62</ref><ref>渡部(1966) pp.34-36</ref>。ローマではまた[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]に会ってその影響を受け<ref>ホグウッド(1991) p.59</ref>、また[[ドメニコ・スカルラッティ]]と鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという<ref>ホグウッド(1991) p.60</ref><ref name="名前なし-1">渡部(1966) p.38</ref>。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された<ref>ホグウッド(1991) pp.65-68</ref>。1708年にはオラトリオ『[[復活 (ヘンデル)|復活]]』が上演されている<ref>ホグウッド(1991) pp.68-73</ref><ref name="名前なし-1"/>。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『[[アグリッピナ (ヘンデル)|アグリッピーナ]]』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった<ref>ホグウッド(1991) pp.82-83</ref><ref>渡部(1966) p.42</ref>。ほかに[[カンタータ]]なども発表した。
[[トスカーナ大公国|トスカーナ]]大公子[[フェルディナンド・デ・メディチ (大公子)|フェルディナント]]([[メディチ家]])からの熱心な誘いを受け、ヘンデルはイタリア行きを決意した{{sfn|三澤|2007|pp=18-29}}。旅費を独力で工面したヘンデルは、1706年から1710年まで[[イタリア]]の各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]、[[ヴェネツィア]]、[[ナポリ]]を訪れたらしい{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=18-29}}{{sfn|サディー|1975|pp=7-12}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=32}}</ref>。

当時ローマでは[[ローマ教皇庁]]の命令によりオペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『[[時と悟りの勝利]]』を作曲している{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=60-62}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=34-36}}</ref>。ローマではまた[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]に会ってその影響を受け<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=59}}</ref>、また[[ドメニコ・スカルラッティ]]と鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=60}}</ref><ref name="名前なし-1">{{harvnb|渡部|1966|pp=38}}</ref>。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=65-68}}</ref>。1708年にはオラトリオ『[[復活 (ヘンデル)|復活]]』が上演されている<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=68-73}}</ref><ref name="名前なし-1" />。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『[[アグリッピナ (ヘンデル)|アグリッピーナ]]』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=82-83}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=42}}</ref>。

現地で「イル・サッソーネ」({{Lang-it|il Sassone}}、ザクセン人の意)と呼ばれ親しまれたヘンデルは[[パトロン]]達の歓迎を受け、[[カンタータ]]なども発表していたが、周辺国の侵攻や経済的没落により斜陽を迎えているイタリアに声楽と器楽の様式を十分に吸収したヘンデルが留まり続ける理由はなかった{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|山田|2009|pp=24-28}}。


=== ロンドンへ ===
=== ロンドンへ ===
[[1710年]]、25歳のヘンデルは[[アゴスティーノ・ステッファーニ|ステッファーニ]]の後任として[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]の[[宮廷楽長]]となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、[[デュッセルドルフ]]に滞在し、その年の暮には初めて[[ロンドン]]を訪れた<ref name=":0" /><ref>渡部(1966) p.43</ref>。ここで書かれたオペラ『[[リナルド (オペラ)|リナルド]]』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となった<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) pp.102-107</ref><ref>渡部(1966) pp.45-47</ref>。6月オペラシーズが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻った<ref>渡部(1966) p.48</ref>。[[File:GeorgIvonGroßbritannienGeorgFriedrichHaendelHamman.jpg|thumb|テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)|左]]翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着き<ref name=":1" />、『忠実な羊飼い』(1712年)や『テセオ』(1713年)などのオペラを書いた<ref name=":0" />。[[1714年]]の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った<ref name=":1">渡部(1966) p.53</ref>。
[[1710年]]6月16日、25歳のヘンデルは[[アゴスティーノ・ステッファーニ|ステッファーニ]]の後任として[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]の[[宮廷楽長]]となったが、直後1年間の長期旅行の許可を得た。ヘンデルはハレで年老いた母を訪れた後、[[デュッセルドルフ]]に滞在し、その年の暮には初めて[[ロンドン]]を訪れた<ref name=":0" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=43}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=30-33}}{{sfn|山田|2009|pp=28-32}}現地貴族らの要望を受けて2週間で書き上げたオペラ『[[リナルド (オペラ)|リナルド]]』は1711年2月14日に[[ハー・マジェスティーズ劇場]]で初演され、脚本を書いた{{仮リンク|アーロン・ヒル (劇作家)|en|Aaron Hill (writer)|label=アーロン・ヒル}}が「これ以降イギリスは、母国イタリアをしのぐオペラを発信することになるのです」と高らかに宣言した[[アン (イギリス女王)|アン女王]]への[[献辞]]の通り、シーズンが終了する6月15日までに15回の上演を数える大成功を収め{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}<ref name=":0" />{{sfn|山田|2009|pp=28-32}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=102-107}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=45-47}}</ref>{{sfn|三澤|2007|p=198-199}}アン女王再度来訪を約したヘデルは、デュッセルドルフを経由してハノーファーに戻った{{sfn|サディー|1975|pp=7-12}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=48}}</ref>{{sfn|山田|2009|pp=28-32}}。[[File:GeorgIvonGroßbritannienGeorgFriedrichHaendelHamman.jpg|thumb|テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)]]翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着き{{sfn|山田|2009|pp=28-32}}<ref name=":1">{{harvnb|渡部|1966|p=53}}</ref>、『忠実な羊飼い』(1712年)や『テセオ』(1713年)などのオペラを書いた{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=43-46}}。[[1714年]]のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として迎えられることになるが{{Efn|アン女王崩御に際してイギリス議会はカトリック教徒が王になることを嫌い、ハノーファー家から王を迎えることとなった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}。}}、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく{{Efn|ヘンデルのロンドン滞在は諜報活動を兼ねており、ハノーファー選帝侯の命によるものであったとする推論もある{{sfn|三澤|2007|pp=46-48}}。}}、新国王とは良好な関係を保った{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}<ref name=":1" />{{sfn|三澤|2007|pp=46-48}}{{sfn|サディー|1975|pp=13-19}}。1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルもその随行員として久しぶりにハノーファーを訪れている{{Efn|この時ヘンデルは母を見舞うとともに、未亡人となり困窮していた旧師ツァハウの妻を支援している{{sfn|サディー|1975|pp=13-19}}。親子2代に亘りヘンデルに仕えることとなるヨハン・クリストフ・シュミットを写譜家兼秘書として迎えたのはこの時とされる{{sfn|三澤|2007|pp=43-46}}。}}{{sfn|サディー|1975|pp=13-19}}。ロンドンに戻った後の1717年には、[[テムズ川]]での王の船遊びのために『[[水上の音楽]]』が演奏された{{Efn|この『水上の音楽』によってジョージ1世と和睦したとする俗説があるが、実際にはこれ以前から両者の仲は良好であった{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|サディー|1975|pp=13-19}}{{sfn|三澤|2007|pp=46-48}}。}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=58-60}}</ref>。[[1715年ジャコバイト蜂起|ジャコバイト党の反乱]]による政情不安等によりロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となる[[ジェームズ・ブリッジス (初代シャンドス公爵)|ジェイムズ・ブリッジズ]]の住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や[[仮面劇]]を作曲した{{sfn|サディー|1975|pp=13-19}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=123-127}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=61-62}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=49-53}}


=== 王室音楽アカデミーへの参加 ===
1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。ロンドンに戻った後の1717年には、[[テムズ川]]での王の船遊びのために『[[水上の音楽]]』が演奏された<ref name=":0" /><ref>渡部(1966) pp.58-60</ref>。ロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となる[[ジェームズ・ブリッジス (初代シャンドス公爵)|ジェイムズ・ブリッジズ]]の住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や[[仮面劇]]を作曲した<ref>ホグウッド(1991) pp.123-127</ref><ref>渡部(1966) pp.61-62</ref>。[[File:William Hogarth - The Bad Taste of the Town.png|thumb|[[ウィリアム・ホガース]]による[[カリカチュア]](1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場で[[ジョン・リッチ (プロデューサー)|ジョン・リッチ]]一座の[[アルレッキーノ|ハーレクイン]]劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前では[[ジョン・ドライデン|ドライデン]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の本が紙屑として売られている。]]1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった<ref>ホグウッド(1991) pp.131-135</ref><ref>渡部(1966) pp.64-65</ref>。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れた。バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことだが、結局会うことはなかった<ref>ホグウッド(1991) pp.135-137</ref><ref>渡部(1966) pp.66-67</ref>。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『[[エジプトのジュリアス・シーザー|ジューリオ・チェーザレ]]』『[[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]]』『[[ロデリンダ]]』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルは[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ|ボノンチーニ]]であった<ref name=":2" /><ref name=":3">ホグウッド(1991) pp.131-132,158-159</ref>。
[[File:William Hogarth - The Bad Taste of the Town.png|thumb|[[ウィリアム・ホガース]]による[[カリカチュア]](1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場で[[ジョン・リッチ (プロデューサー)|ジョン・リッチ]]一座の[[アルレッキーノ|ハーレクイン]]劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前では[[ジョン・ドライデン|ドライデン]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の本が紙屑として売られている。]][[南海泡沫事件|投機熱の高まり]]の中、貴族たちによってオペラ運営会社「{{仮リンク|王室音楽アカデミー|en|Royal Academy of Music (company)}}」が1719年に設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=54-556}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=131-135}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=64-65}}</ref>。翌年の開幕に向けて、ヘンデルは歌手と契約を結ぶべくヨーロッパ大陸へ渡っている{{Efn|バッハはこの時ヘンデルとの面会を試みてハレへ向かったが、結局すれ違いとなったと伝えられている{{sfn|三澤|2007|pp=56-58}}<ref name=":8">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=135-137}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=66-67}}</ref>。}}{{sfn|三澤|2007|pp=56-58}}<ref name=":8" />。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『[[エジプトのジュリアス・シーザー|ジューリオ・チェーザレ]]』『[[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]]』『[[ロデリンダ]]』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルは、イタリア人作曲家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ|ボノンチーニ]]であった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":2" /><ref name=":3">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=131-132,158-159}}</ref>。


1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の[[1727年]]2月20日にイギリス国籍を取得し、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の戴冠式のために大規模な『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム|戴冠式アンセム]]』を上演した<ref name=":0" />。
1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の[[1727年]]2月20日にイギリス国籍を取得し、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の戴冠式のために大規模な『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム|戴冠式アンセム]]』を上演した<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=20-25}}


しかしアカデミーの経営はずさんであり、[[カストラート]]の[[セネジーノ]]、[[ソプラノ]]の[[フランチェスカ・クッツォーニ]]、[[メゾ・ソプラノ]]の[[ファウスティーナ・ボルドーニ]]という3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された『[[乞食オペラ]]』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日アカデミーは倒産する<ref name=":2">渡部(1966) pp.85-86</ref><ref name=":3" />。
しかしアカデミーの経営はずさんであり、[[カストラート]]の[[セネジーノ]]、[[ソプラノ]]の[[フランチェスカ・クッツォーニ]]、[[メゾ・ソプラノ]]の[[ファウスティーナ・ボルドーニ]]という3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された[[ジョン・ゲイ]]の『[[ベガーズ・オペラ|乞食オペラ]]』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、年6月1日の『アドメート』の再演をもってアカデミーは活動停止する{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}<ref name=":2">{{harvnb|渡部|1966|pp=85-86}}</ref><ref name=":3" />{{sfn|サディー|1975|pp=20-25}}{{sfn|三澤|2007|pp=71-74}}。経営としては大失敗であったが、アカデミーがロンドンのオペラ文化の興隆をもたらしたのもまた事実であり、この9年間はヘンデルの生涯においてもオペラ活動の最盛期であった{{sfn|三澤|2007|pp=71-74}}


[[File:Retrato de Handel.jpg|thumb|肖像画(1730年頃)]]
[[ジョン・ジェームズ・ハイデッガー]]とともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った{{efn|その帰路にハレで暮らす母を訊ねている<ref name=":0" />。}}。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731)などで成功を収めたが、1733年にはライバルの貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家は[[ニコラ・ポルポラ]]であった<ref name=":0" />。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していた[[ハー・マジェスティーズ劇場|ヘイマーケット国王劇場]]を貴族オペラに引き渡してしまう<ref>渡部(1966) pp.101-102</ref>。ヘンデルは[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン劇場]]に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名な[[カストラート]]の[[ファリネッリ]]を迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた<ref>渡部(1966) pp.103-106</ref>。アカデミーと貴族オペラはともに1737年に倒産する<ref>ホグウッド(1991) pp.189-190</ref>。


=== 貴族オペラとの争い ===
ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、[[温泉療法|温泉治療]]のため[[アーヘン]]で夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった<ref name=":0" /><ref>渡部(1966) pp.116-117</ref>。
資産運用により一定の財を蓄えていたヘンデルは{{Efn|ヘンデルは[[南海会社]]に投資していた{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}。}}、スイス人投機家[[ジョン・ジェームズ・ハイデッガー]]とともにアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った{{efn|その帰路にハレで暮らす母を訊ねている<ref name=":0" />。これが母との最後の面会となった{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}。}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731年)などで成功を収めたが、1733年にはヘンデルを庇護するジョージ2世に敵愾心を燃やす[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]][[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]によってアカデミーのライバルとなる貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家は[[ニコラ・ポルポラ]]であった<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=189-242}}</ref>。さらにハイデッガーも1734年の契約満了をもってヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していた[[ハー・マジェスティーズ劇場|ヘイマーケット国王劇場]]を貴族オペラに引き渡してしまう{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=101-102}}</ref>。

ヘンデルは[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン劇場]]に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名な[[カストラート]]の[[ファリネッリ]]を迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=103-106}}</ref>。作品の人気としてはヘンデル側の方が優勢であったものの、2つのオペラハウスを賄うだけの需要は無く、第2期アカデミーは1734年をもって閉幕(これは当初の予定通り)。その後もヘンデルと貴族オペラの闘いは続いたが、貴族オペラは多額の赤字を出して1737年に倒産。破産こそ免れたものの、ヘンデル自身も経済と心身の両面で疲弊した{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" />{{sfn|三澤|2007|pp=95-96}}{{sfn|三澤|2007|pp=112-117}}。

ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、[[温泉療法|温泉治療]]のため[[アーヘン]]で夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=116-117}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=112-117}}。この頃からヘンデルの曲には他の作曲家からの「借用」(今でいうところの[[盗作]])が目立つようになるが、当時は問題視されなかった{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。


=== オラトリオと晩年 ===
=== オラトリオと晩年 ===
現在も知られているヘンデルの曲の多くは、1739年以降に作曲されている{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}。
[[File:London 003 Hendrix and Handel houses.jpg|thumb|右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。左の白い建物にはジミ・ヘンドリックスが住んだ。|左]]
ヘンデルは1732年の『[[エステル (ヘンデル)|エステル]]』以来<ref>ホグウッド(1991) pp.177-179</ref><ref>渡部(1966) pp.94-96</ref>、英語のオラトリオをいくつか上演している。1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表しなかったが、1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『[[サウル (ヘンデル)|サウル]]』と『[[エジプトのイスラエル人]]』を上演した<ref name=":0" />。1741から翌年にかけて[[ダブリン]]で慈善演奏会を開き、このときに『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』を初演して好評を博し、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の依頼を受けてわずか24日で書き上げたこの作品は起死回生の一作となった<ref name=":0" />。ロンドンに戻ってからはオペラをやめてオラトリオ一本にしぼり、ロンドンで[[四旬節]]の期間に演奏会を開き、オラトリオ作家としての名声を確立していった。一方、ヘイマーケット国王劇場ではミドルセックス伯爵([[:en:Charles Sackville, 2nd Duke of Dorset|en]])が中心になって再びイタリア・オペラが上演されるようになり、ヘンデルの新たなライバルになった。


ヘンデルは1732年の『[[エステル (ヘンデル)|エステル]]』以来<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=177-179}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=94-96}}</ref>、英語のオラトリオをいくつか上演していたものの、1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表していなかった。ヘンデルは1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『[[サウル (ヘンデル)|サウル]]』と『[[エジプトのイスラエル人]]』を上演<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。同年秋には、『[[聖セシリアの日のための頌歌 (ヘンデル)|聖セシリアの日のための頌歌]]』を10日で仕上げた{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}。続けて合奏協奏曲集の制作に取り掛かり、12曲を5週間ほどで書き上げた。この『[[合奏協奏曲集 作品6 (ヘンデル)|作品6]]』は翌年に出版され、現在でも特に評価が高いバロックの弦楽合奏作品である{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}<ref name=":5">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=282-284}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=127-129}}。しかし、この2年間の音楽会シーズンは[[ジェンキンスの耳の戦争|スペインとの戦争]]の勃発やロンドンを襲った大寒波により散々なものとなった{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=131-135}}。1740年から翌年にかけてオペラへの復帰を試みたが、『イメネオ』も『ダイダミア』も不振に終わった{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=131-135}}。
1749年には[[オーストリア継承戦争]]の終結を祝う祝典のために『[[王宮の花火の音楽]]』を作曲する<ref name=":0" /><ref>ホグウッド(1991) pp.378-383</ref><ref>渡部(1966) pp.145-146</ref>。
[[ファイル:Joseph_Goupy,_1754_-_GFHandel.jpg|サムネイル|ヘンデルの風刺画(1754年)]]
1751年に眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医の[[ジョン・テイラー (眼科医)|ジョン・テイラー]]による手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref>渡部(1966) p.154</ref>。


1741年、失意の中にあったヘンデルは、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]から翌年にかけて[[ダブリン]]で開催される慈善演奏会への招待を受けた。これを承諾して[[アイリッシュ海]]を渡ったヘンデルが携えてきたオラトリオに、高い水準の音楽に親しんでいなかったダブリン市民たちは驚嘆し、次いで1742年4月13日に初演された『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』は大好評であった。わずか24日で書き上げたこの作品は、ヘンデルにとって起死回生の一作となる{{Efn|一方、メサイアの台本を書いた[[チャールズ・ジェネンズ]]は、ヘンデルによる短期間の作曲を粗雑に仕事をされたと受け止め、自身が聴きに行くことができないダブリンで初演されたことに立腹していた{{sfn|三澤|2007|pp=145-148}}。}}<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=136-145}}。
ヘンデルが没した翌年に{{仮リンク|ジョン・マナリング|en|John Mainwaring}}によるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった<ref>渡部(1966) p.14</ref>。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた<ref>ホグウッド(1991) pp.423-432,436-438</ref>。[[サミュエル・アーノルド (作曲家)|サミュエル・アーノルド]]によるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された<ref>ホグウッド(1991) pp.438-440</ref>。


同年秋にロンドンに戻ったヘンデルは、オペラの作成依頼を断り、ダブリンへ旅立つ前に作ったオラトリオを書き直した。この『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』はロンドン市民らからも好評であったが、次いで『メサイア』も上演したところ、オラトリオの主な担い手であったピューリタリズムを精神的支柱とする中産階級からは受け入れられず、ダブリンでの反応とは対照的にこの時は不調であった{{sfn|三澤|2007|pp=145-148}}。1743年4月に2度目の卒中を起こすが、まもなく創作活動を再開し、オラトリオに軸足を移して『[[ヘラクレス (ヘンデル)|ヘラクレス]]』などの傑作を送り出しつつ試行錯誤を重ねた{{sfn|三澤|2007|pp=149-161}}。
ヘンデルは1724年以来、[[メイフェア]]のブルック街25番地に住んでいた<ref>ホグウッド(1991) 図版32(p.193の前)</ref>。偶然にも1968年以降[[ジミ・ヘンドリックス]]が隣の23番地に住んでいた<ref>{{citation|url=https://handelhendrix.org/plan-your-visit/whats-here/hendrix-flat/|title=Hendrix Flat|publisher=Handel & Hendrix in London}}</ref><ref>{{citation|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXBZO11424910R20C10A7000000/|title=ジミヘンがヘンデル好きだったわけ ロンドンの不思議な隣人関係|journal=[[日本経済新聞]]|date=2010-07-27}}</ref>。現在この建物は「{{仮リンク|ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン|en|Handel & Hendrix in London}}」という博物館になっている。


1749年には、[[オーストリア継承戦争]]の終結を祝う祝典で打ち上げられる花火のために、『[[王宮の花火の音楽]]』を作曲する<ref name=":0" /><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=378-383}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=145-146}}</ref>{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}。1750年5月、オラトリオシーズン終了後に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。収益は全額寄付した。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となった{{sfn|三澤|2007|pp=176-177}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=390-391}}。
=== バッハとの関係 ===
ヘンデル、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]、[[ドメニコ・スカルラッティ]]はともに1685年に生まれた。


[[ファイル:Joseph_Goupy,_1754_-_GFHandel.jpg|サムネイル|『愛すべき野獣』(1754年)<br/>ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーの[[カリカチュア]]{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。<br/>ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにした。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていた{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}。]]
バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった<ref group="注釈">当時のヨーロッパではバッハよりもヘンデルの人気が圧倒的に高く、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。ただし、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]や[[ヨハン・マッテゾン]]、[[クリストフ・グラウプナー]]など、ヘンデルとバッハの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。</ref>。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともあるが<ref>{{Cite book|和書|author=野村胡堂|authorlink=野村胡堂|title=楽聖物語|origyear=1941|year=1987|quote=バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/55088_55377.html}}([[青空文庫]])</ref>、これは日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で考案した呼び名であり、欧米にはこのような呼び名は存在しない<ref group="注釈">そもそもヘンデルは男性であるから、「母」という表現自体が不適切である。また、ヘンデルとバッハが存命していた当時のヨーロッパにおいては、バッハはヘンデルよりも格下の扱いを受けており、両名は決して対等の存在ではなかったと言われる。当時の[[ライプツィヒ]]の新聞で作曲家の人気投票を行ったところ、1位はテレマンで、ヘンデルは2位、バッハは7位だったという記録がある。</ref>。


同年夏、ドイツ訪問の道中で[[馬車]]が転覆し負傷する{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}。その後ロンドンに戻るが、『[[イェフタ (ヘンデル)|イェフタ]]』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり{{Efn|視力の低下により作曲の一時中断を余儀無くされたのは、「ああ主よ、御身の御意志はなんと計り知れぬことか({{lang-en|How dark, O Lord, are thy decree}})」というコーラスを書いている時であった{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}。}}、夏には片目失明者となる。間もなく右眼の視力も悪化する。そのような中で『イェフタ』はなんとか完成させるが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなった。その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医の[[ジョン・テイラー (眼科医)|ジョン・テイラー]]による手術を受けたが、結局は成功しなかった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=407-408}}。
バッハが主として教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)で活躍したのに対し、ヘンデルは[[オペラ]]や(劇場用の)[[オラトリオ]]など、劇場用の音楽で本領を発揮した。


翌1759年4月14日、体調の悪化により死去。74歳であった。ヘンデルは[[ウェストミンスター寺院]]に葬られることとなるが、ひっそりと埋葬されることを望んだ本人の願いにも関わらず3000人もの民衆が別れを惜しむために押し寄せ、無数の追悼文が新聞や雑誌を賑わせた{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=154}}</ref>。
バッハが音楽家一族として有名な[[バッハ家]]の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった<ref>「決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで」p67 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供(うち成人した子供は10人)に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われている。


{{Quote|
== 作品について ==
'''H'''e's gone, the Soul of Harmony is fled!
[[File:Retrato de Handel.jpg|thumb|肖像画(1730年頃)|左]]

ヘンデルは多数の作品を作曲したが、広く知られている作品はそのごく一部分にすぎない<ref name="名前なし-2">ホグウッド(1991) p.485</ref>。オラトリオ、とくに『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』が突出して有名になったため、他の曲に日が当たらない結果になっている<ref>ホグウッド(1991) p.3</ref>。オラトリオ以外に生き残った作品はわずかであり、18世紀末に編纂された最初のヘンデル全集にはオペラは5曲しか含まれていなかった<ref>ホグウッド(1991) pp.439-442</ref>。20世紀前半にそれまで演奏されてこなかったオペラなどの作品のいくつかが復活されたが、ヘンデル自身の演奏からはかけ離れたものだった<ref>ホグウッド(1991) pp.473-481</ref>。イギリスでは[[第二次世界大戦]]後になってようやく復活上演されるようになった<ref>ホグウッド(1991) p.481</ref>。{{Listen|type=music
(和声の主、君は逝き)
|filename=Handel - messiah - 44 hallelujah.ogg|title=『メサイヤ』より「ハレルヤ・コーラス」(1741年)

|filename2=Handel - Arrival of the Queen of Sheba.ogg|title2=『ソロモン』より「シバの女王の到着」(1748年)
'''A'''nd warbling Angels hover round him dead.
}}オラトリオ『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]](救世主)』は曲中に有名な「ハレルヤ・コーラス」を含み、今日でも非常に有名である。オラトリオではほかに『[[エジプトのイスラエル人]]』が知られ、また『[[ユダス・マカベウス]](マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として日本でも頻繁に用いられている。

(悲しみの天使は舞う、なきがらの上)

'''N'''ever, no, never since the Tide of Time,

(汝こそは天地の開けし時ゆ)

'''D'''id music know a Genius so sublime!

(比類なき楽の天才)

'''E'''ach mighty harmonist that's gone before,

(君が調べ、奏づるに)


'''L'''essen'd to Mites when we his Works explore.
オラトリオにくらべて約50曲あるオペラはヘンデルの没後は大部分が忘れられてしまったが、オペラ『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』中の「[[オンブラ・マイ・フ]](懐かしい木陰よ)」は、「ヘンデルのラルゴ」とも呼ばれて親しまれてきた。そのほか、『[[エジプトのジュリアス・シーザー|ジュリアス・シーザー]]』、『[[リナルド (オペラ)|リナルド]]』の中のアリア「[[私を泣かせてください]]」なども知られている。1990年代あたりからはオペラの蘇演が非常に盛んとなり、今日では器楽曲よりもバロック・オペラの代表的作曲家として人気が高い。


(なべての楽士、色失いぬ)
オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、[[管弦楽組曲]]『[[水上の音楽]]』『[[王宮の花火の音楽]]』が有名。また、[[合奏協奏曲]]、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。合奏協奏曲では[[合奏協奏曲集 作品6 (ヘンデル)|作品6]]の12曲(1739年)がもっとも優れている<ref>ホグウッド(1991) pp.282-284</ref>。コレッリの影響が強く、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]の影響は見られない<ref>渡部(1966) p197</ref><ref>皆川(1972) p.240</ref>。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した<ref>渡部(1966) p.198-199</ref>。
|3=4月17日付『パブリック・アドヴァタイザー』
|4={{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}}}


ヘンデルが没した翌年に{{仮リンク|ジョン・マナリング|en|John Mainwaring}}によるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=14}}</ref>。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=423-432,436-438}}</ref>。[[サミュエル・アーノルド (作曲家)|サミュエル・アーノルド]]によるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=438-440}}</ref>。
イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)と[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]との結婚式では『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』から「輝かしい天使よ」が[[キリ・テ・カナワ]]によって歌われ、2018年の[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]]と[[メーガン (サセックス公爵夫人)|メーガン妃]]の結婚式では『[[アン女王の誕生日のための頌歌]]』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた。要人の葬式には『[[サウル (ヘンデル)|サウル]]』の葬送行進曲が演奏されることが多い。『[[ソロモン (ヘンデル)|ソロモン]]』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、[[2012年ロンドンオリンピック]]の開会式でも使われた。『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム]]』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる。[[サッカー]]・[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の入場曲「[[UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム]]」も「司祭ザドク」を原曲とする。


== 影響 ==
== 影響 ==
[[File:Fotothek df roe-neg 0001686 001 Händeldenkmal auf dem Marktplatz.jpg|thumb|ハレのヘンデル像]]
[[File:Fotothek df roe-neg 0001686 001 Händeldenkmal auf dem Marktplatz.jpg|thumb|ハレのヘンデル像]]
ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。当時としては初めての試みである作品集が死後出版され多くの合唱団にヘンデルの音楽が受け継がれたこともあり、ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家となった{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref name="名前なし-2" />。
ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家だった<ref name="名前なし-2"/>。とくにオラトリオはイギリスだけでなく、1772年には[[ハンブルク]]で『メサイア』が上演された<ref>ホグウッド(1991) p.442</ref>。1773年には[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]が『メサイア』を上演した。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった<ref>{{Cite book|和書|author=大崎滋生|title=音楽演奏の社会史|publisher=[[東京書籍]]|year=1993|isbn=4487791049|pages=72,94}}</ref>。


とくにオラトリオはイギリスに止まらず、1772年には[[ハンブルク]]で『メサイア』が上演されたほか、1773年には[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]がドイツ語版の『メサイア』を上演している<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=442-443}}</ref>。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった<ref>{{Cite book|和書|author=大崎滋生|title=音楽演奏の社会史|publisher=[[東京書籍]]|year=1993|isbn=4487791049|pages=72,94}}</ref>。
1780年代には[[ウィーン]]の[[ゴットフリート・ファン・スヴィーテン|ヴァン・スヴィーテン男爵]]がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]がこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している<ref>ホグウッド(1991) pp.443-444</ref>。また、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]はロンドン訪問から帰るときに[[ヨハン・ペーター・ザーロモン|ザーロモン]]からオラトリオ『[[天地創造 (ハイドン)|天地創造]]』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった<ref>ホグウッド(1991) pp.446-447</ref>。


1780年代には[[ウィーン]]の[[ゴットフリート・ファン・スヴィーテン|ヴァン・スヴィーテン男爵]]がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]がこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=443-444}}</ref>。また、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]はロンドン訪問から帰るときに[[ヨハン・ペーター・ザーロモン|ザーロモン]]からオラトリオ『[[天地創造 (ハイドン)|天地創造]]』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=446-447}}</ref>。
[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]はとくにヘンデルを高く評価し、『[[調子の良い鍛冶屋]]』にもとづく2声のフーガや、『[[ユダス・マカベウス]]』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、[[ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフ]]との筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている<ref>ホグウッド(1991) pp.448-449</ref><ref>{{Cite book|和書|author=大築邦雄|authorlink=大築邦雄|title=ベートーヴェン|series=大作曲家 人と作品 4|publisher=[[音楽之友社]]|year=1962|pages=115,120}}</ref>。

[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]はとくにヘンデルを高く評価し、『[[調子の良い鍛冶屋]]』にもとづく2声のフーガや、『[[ユダス・マカベウス]]』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、[[ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフ]]との筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=448-449}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=大築邦雄|authorlink=大築邦雄|title=ベートーヴェン|series=大作曲家 人と作品 4|publisher=[[音楽之友社]]|year=1962|pages=115,120}}</ref>。

== 現代に継承された作品 ==
{{Listen|type=music
|filename=Handel - messiah - 44 hallelujah.ogg|title=『メサイヤ』より「ハレルヤ・コーラス」(1741年)
|filename2=Handel - Arrival of the Queen of Sheba.ogg|title2=『ソロモン』より「シバの女王の到着」(1748年)
|filename3=Enrico Caruso, George Frideric Handel, Ombra mai fu (Serse).ogg|title3=『セルセ』より「オンブラ・マイ・フ」(1738年)
|filename4=George Frideric Handel - Music for the Royal Fireworks 1 (Overture) The sound quality is better music.ogg|title4=『王宮の花火の音楽』より「序曲」(1717年)
}}
ヘンデルは多数の作品を作曲したが、広く知られている作品はそのごく一部分にすぎない<ref name="名前なし-2">{{harvnb|ホグウッド|1991| p=485}}</ref>。オラトリオ、中でも「ハレルヤ・コーラス」を始めとする『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』が突出して有名になったため、他の曲に日が当たらない結果になっている{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=サイード音楽評論1|publisher=[[みすず書房]]|date=2012-11-22|isbn=978-4-622-07724-4|oclc=959768333|year=2012|author-link=エドワード・サイード|author=エドワード・W・サイード|translator=[[二木麻里]]|pages=136-146|chapter=ヘンデルのオペラ『ジュリオ・チェーザレ』}}</ref><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=3}}</ref>。オラトリオ以外に生き残った作品はわずかであり、18世紀末に編纂された最初のヘンデル全集にはオペラは5曲しか含まれていなかった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=439-442}}</ref>。

20世紀に入り、オラトリオ以外のヘンデルの作品を復活させる試みがドイツやイギリスなどを中心になされてきた。しかし、優れた美声と技巧を持つカストラートが歌い手となり聞き手もイタリア風の文化に慣れ親しんでいた18世紀当時とは条件が異なるため、ヘンデルのオペラを現代において完全再現することは事実上不可能であり、またその高い芸術性にも関わらず評価をされ難いのが実情である{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|三澤|2007|pp=194-198}}<ref name=":6" /><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=473-481}}</ref>。

『メサイア』以外のオラトリオとしては、『[[ユダス・マカベウス]](マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]によって[[日本]]に紹介され、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として定着しており、耳にする機会が非常に多い<ref>{{Cite web |title=あきらめない!勝者の一曲(2014年10月11日放送) |url=http://www.nhk.or.jp/lalala/archive.html |website=ららら♪クラシック - NHK |access-date=2022-11-26 |publisher=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web |title=【今こそ知りたい幕末明治】 52 吹奏楽発祥の地、鹿児島 |url=https://www.sankei.com/article/20180316-6EWJOSASJJPDXDUH77SHKPKNLA/ |website=産経ニュース |date=2018-03-16 |access-date=2022-12-02 |first=泉 |last=原口 |authorlink=原口泉}}</ref>。

オペラの中でも、ロンドン進出の足掛かりとなった『[[リナルド (オペラ)|リナルド]]』で歌われるアリア「[[私を泣かせてください]]」は特に有名で{{sfn|三澤|2007|pp=198-199}}、日本のテレビドラマの挿入歌などにも使われている<ref>{{Cite web |title=定番クラシック特集[日本クラシックソムリエ協会 監修 まずは聴いておきたいクラシック SELECTION] |url=https://mora.jp/special/classic |website=mora ~WALKMAN®公式ミュージックストア~ |access-date=2022-12-03 |quote=NHK連続テレビ小説『ちゅらさん』や、ドロドロの昼ドラで注目された『牡丹と薔薇』使用曲としても知られている。}}</ref>。『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』は興行としては失敗したものの、その中のアリア「[[オンブラ・マイ・フ]](懐かしい木陰よ)」は今も人気が高い{{sfn|三澤|2007|p=200}}。

オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、[[管弦楽組曲]]『[[水上の音楽]]』『[[王宮の花火の音楽]]』が有名。また、[[合奏協奏曲]]、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。コレッリの影響が強く、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]の影響は見られない<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=197}}</ref><ref>{{harvnb|皆川|1972|p=240}}</ref>。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=198-199}}</ref>。

イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)と[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]との結婚式では『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』から「輝かしい天使よ」が[[キリ・テ・カナワ]]によって歌われ<ref name=":6" />、2018年の[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]]と[[メーガン (サセックス公爵夫人)|メーガン妃]]の結婚式では『[[アン女王の誕生日のための頌歌]]』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた<ref>{{Cite web |title=The Sweet Secret Behind Prince Harry’s and Meghan Markle’s Wedding Song |url=https://www.rd.com/article/secret-behind-prince-harry-meghan-markle-wedding-song/ |website=Reader's Digest |date=2018-11-02 |access-date=2022-12-03 |language=en-US |first=Lauren |last=Cahn}}</ref>。『[[ソロモン (ヘンデル)|ソロモン]]』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、[[2012年ロンドンオリンピック]]の開会式でも使われた<ref>{{Cite web |url=https://olympics.com/ja/video/james-bond-meets-the-queen |title=ジェームズ・ボンドが女王陛下に謁見 {{!}} ロンドン 2012ハイライト |access-date=2022-12-04 |publisher=国際オリンピック委員会}}</ref>。『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム]]』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる{{sfn|サディー|1975|pp=20-25}}<ref name=":6" />。[[サッカー]]・[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の入場曲「[[UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム]]」も「司祭ザドク」を原曲とする<ref>{{Cite web |title=UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦での「アンセム」演奏映像公開 |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/2cellos/info/496504 |website=2CELLOS |access-date=2022-12-03 |publisher=Sony Music |date=2018-07-02}}</ref>。


== 主な作品 ==
== 主な作品 ==
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ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。
ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。


ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子{{enlink|John Walsh (printer)}}によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった<ref>ホグウッド(1991) p.440</ref>。19世紀後半には[[フリードリヒ・クリュザンダー]]を中心としてヘンデル協会によるヘンデル全集{{enlink|Händel-Gesellschaft}}(略称HG。クリュザンダー版、全105巻)が刊行された。1950年代からは[[ベーレンライター出版社]]からハレ・ヘンデル全集{{enlink|Hallische Händel-Ausgabe}}(略称HHA。ハレ版、新ヘンデル全集とも)が刊行されている。ヘンデルの作品カタログとしてはベルント・バーゼルトによるもの(全3巻、1978-1986年)があり、このカタログの番号([[ヘンデル作品主題目録番号]]、HWV)を用いることが一般的になっている。
ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子{{enlink|John Walsh (printer)}}によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=440}}</ref>。19世紀後半には[[フリードリヒ・クリュザンダー]]を中心としてヘンデル協会によるヘンデル全集{{enlink|Händel-Gesellschaft}}(略称HG。クリュザンダー版、全105巻)が刊行された。1950年代からは[[ベーレンライター出版社]]からハレ・ヘンデル全集{{enlink|Hallische Händel-Ausgabe}}(略称HHA。ハレ版、新ヘンデル全集とも)が刊行されている。ヘンデルの作品カタログとしてはベルント・バーゼルトによるもの(全3巻、1978-1986年)があり、このカタログの番号([[ヘンデル作品主題目録番号]]、HWV)を用いることが一般的になっている。


=== オペラ ===
=== オペラ ===
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* [[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]] HWV 18 初演1724.10
* [[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]] HWV 18 初演1724.10
* [[ロデリンダ|ロンバルディア王妃ロデリンダ]] HWV 19 初演1725.2
* [[ロデリンダ|ロンバルディア王妃ロデリンダ]] HWV 19 初演1725.2
* アドメート HWV 22 初演1727.1
* [[オルランド (ヘンデル)|オルランド]] HWV 31 初演1733.1
* [[オルランド (ヘンデル)|オルランド]] HWV 31 初演1733.1
* [[アリオダンテ]] HWV 33 初演1735.1
* [[アリオダンテ]] HWV 33 初演1735.1
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* [[ジョージ2世の戴冠式アンセム]] - 「司祭ザドク」 HWV 258 1727年(英語、以下同じ)
* [[ジョージ2世の戴冠式アンセム]] - 「司祭ザドク」 HWV 258 1727年(英語、以下同じ)
* [[アレクサンダーの饗宴]] HWV 75 1736年(頌歌)
* [[アレクサンダーの饗宴]] HWV 75 1736年(頌歌)
* [[聖セシリアの日のための頌歌 (ヘンデル)|聖セシリアの日のためのオード]] HWV 76 1739年
* [[聖セシリアの日のための頌歌 (ヘンデル)|聖セシリアの日のための頌歌]] HWV 76 1739年
* [[快活の人、沈思の人、温和の人]] HWV 55 1740年(頌歌、オラトリオとも)
* [[快活の人、沈思の人、温和の人]] HWV 55 1740年(頌歌、オラトリオとも)
* [[デッティンゲン・テ・デウム]] HWV 283 1743年
* [[デッティンゲン・テ・デウム]] HWV 283 1743年
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** ニ短調 HWV 437([[サラバンド]]が有名)
** ニ短調 HWV 437([[サラバンド]]が有名)


== ヘンデルを題材とする作品等 ==
== その他 ==
=== ヘンデルを題材とする作品等 ===
[[ファイル:Europa_1985_Deutsche_Bundespost_01.jpg|サムネイル|ヘンデルを肖像に用いた西ドイツの切手(1985年)|149x149px]]
1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』([[:en:The Great Mr. Handel|The Great Mr. Handel]])は、ヘンデルを題材にしている<ref>{{citation|url=https://www.imdb.com/title/tt0034813/|title=The Great Mr. Handel|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース]]}}</ref>。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン([[:en:Wilfrid Lawson (actor)|en]])、ヒロインの歌手シバ夫人([[スザンナ・マリア・シバー]]、[[トーマス・アーン]]の妹)を[[エリザベス・アラン]]が演じた。
1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』([[:en:The Great Mr. Handel|The Great Mr. Handel]])は、ヘンデルを題材にしている<ref>{{citation|url=https://www.imdb.com/title/tt0034813/|title=The Great Mr. Handel|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース]]}}</ref>。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン([[:en:Wilfrid Lawson (actor)|en]])、ヒロインの歌手シバ夫人([[スザンナ・マリア・シバー]]、[[トーマス・アーン]]の妹)を[[エリザベス・アラン]]が演じた。


1994年の映画『[[カストラート (映画)|カストラート]]』は1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。[[ジェローン・クラッベ]]がヘンデルを演じた。
[[ファリネッリ]]の生涯を描いた1994年の映画『[[カストラート (映画)|カストラート]]』は1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。ヘンデルの役は、[[ジェローン・クラッベ]]が演じた。

{{Clear}}

=== 住居 ===
[[File:London 003 Hendrix and Handel houses.jpg|thumb|右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。左の白い建物に[[ジミ・ヘンドリックス]]が住んだ。]]
ヘンデルは1723年8月に[[メイフェア]]のブルック街25番地に居を構えた{{sfn|三澤|2007|pp=67-68}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|loc=図版32(p.193の前)}}</ref>。日本でも「ジミヘン」の愛称で親しまれるギタリスト[[ジミ・ヘンドリックス]]は、1968年以降隣の23番地に住んでいた<ref>{{citation|title=Hendrix Flat|url=https://handelhendrix.org/plan-your-visit/whats-here/hendrix-flat/|publisher=Handel & Hendrix in London}}</ref><ref>{{citation|和書|title=ジミヘンがヘンデル好きだったわけ ロンドンの不思議な隣人関係|date=2010-07-27|url=https://www.nikkei.com/article/DGXBZO11424910R20C10A7000000/|journal=[[日本経済新聞]]}}</ref>。現在この建物は「{{仮リンク|ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン|en|Handel & Hendrix in London}}」という博物館になっている。

=== バッハとの関係 ===
ヘンデルは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]とはその生涯を通じて会うことはなかったものの、音楽史に衝撃を与えた両者は同じ1685年生まれ{{Efn|[[ドメニコ・スカルラッティ]]も同年生まれ{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}。}}で出生地もほど近く、しばしば対比をされる{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref name=":6" />。

バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。日本では俗に、バッハを「音楽の父」、ヘンデルを「音楽の母」とそれぞれ呼ぶことがあるが、これはヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で20世紀に入ってから考案された呼び名である<ref>{{Cite book|和書|author=野村胡堂|authorlink=野村胡堂|title=楽聖物語|origyear=1941|year=1987|quote=バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/55088_55377.html}}([[青空文庫]])</ref><ref name=":4">{{Cite web |title=【ヘンデル解説】バロック時代の国際的なエンターテイナー |url=https://edyclassic.com/14491/ |website=edyclassic.com |date=2022-06-17 |access-date=2022-11-29 |publisher=株式会社パブット |author=林和香}}</ref>{{sfn|三ケ尻|2018|p=175-176}}。

世俗的で宮廷風の特徴を持つヘンデルの音楽は現代においてバッハよりも低く評価されがちであるが、史実としては、ヘンデルが上述の通り生前より名声と富を勝ち取っていたのに対し、バッハの評価はむしろその死後、特に19世紀以降において高まったものである{{Efn|1782年に発行されたドイツの新聞では「ヘンデルの清い無垢さや感情表現の深さをバッハが持っていたなら、ヘンデル以上に偉大な音楽家となっていただろう。しかし実際には、バッハはただヘンデルより入念で、技術的に巧みなだけだった」と両者を比較し、ヘンデルをバッハよりも格上に位置付けられている。ヘンデルは生前の願い通りウェストミンスター寺院に埋葬され巨大な記念碑も建立されたが、バッハは共同墓地に埋葬されて遺留品も散逸した{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}。}}{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":6" />。各国を渡り歩いたヘンデルが[[オペラ]]や[[オラトリオ]]などの劇場用の音楽で本領を発揮したのに対し、常時宮廷や教会機関の定職を得てドイツから離れなかったバッハは教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)を中心に活躍した{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":4" />{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=11-41}}。そして、[[オペラ・セリア]]の衰退とともにヘンデルの作品群がやがて忘れられていったのに対して、バッハの作品はドイツ音楽界で熱狂的に支持されるようになり、「3B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)を提唱した[[ハンス・フォン・ビューロー]]によって神格化されるという経緯を辿った{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}。

バッハが音楽家一族として有名な[[バッハ家]]の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref>「決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで」p67 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供に恵まれていたなど、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいた{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=11-41}}<ref>{{Cite web |title=リナルド 作曲家ヘンデル 生誕335年 |url=https://www.japanarts.co.jp/news/p5425/ |website=クラシック音楽事務所ジャパン・アーツ |access-date=2022-11-26 |author=加藤浩子 |date=2020-09-11}}</ref>。

なお、ヘンデルに目の手術をしたジョン・テイラーはバッハにも手術を施しており、その後バッハも視力を失っている{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=407-408}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=クリストファー・ホグウッド|authorlink=クリストファー・ホグウッド|translator=三澤寿喜|title=ヘンデル|publisher=[[東京書籍]]|year=1991|isbn=4487760798}}
* {{Citation|和書|last=渡部|first=恵一郎|authorlink=渡部恵一郎|title=ヘンデル|series=大作曲家 人と作品 15|publisher=[[音楽之友社]]|year=1966|isbn=4276220157}}
* {{Cite book|和書|author=渡部恵一郎|authorlink=渡部恵一郎|title=ヘンデル|series=大作曲家 人と作品 15|publisher=[[音楽之友社]]|year=1966|isbn=4276220157}}
* {{Citation|和書|last=皆川|first=達夫|authorlink=皆川達夫|title=バロック音楽|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|year=1972}}
* {{Citation|和書|ref={{harvid|サディー|1975}}|title=ヘンデル|author=スタンレー・サディー|author-link=スタンリー・セイディ|date=1975-06-10|year=1975|translator=村原京子|publisher=[[全音楽譜出版社]]}}
* {{Cite book|和書|author=皆川達夫|authorlink=皆川達夫|title=バロック音楽|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|year=1972}}
* {{Citation|和書|title=大作曲家の生涯 上|publisher=共同通信社|series=FM選書 34|date=1984-07-30|isbn=4-7641-0152-1|oclc=674351197|year=1984|edition=新装版|author=ハロルド・C・ショーンバーグ|author-link=ハロルド・C・ショーンバーグ|ref={{harvid|ショーンバーグ|1984}}|translator-last=亀井|translator-first=旭|translator2-last=玉木|translator2-first=裕}}
* {{Citation|和書|author=クリストファー・ホグウッド|authorlink=クリストファー・ホグウッド|translator=三澤寿喜|title=ヘンデル|publisher=[[東京書籍]]|date=1991-10-07|year=1991|isbn=4487760798|ref={{harvid|ホグウッド|1991}}}}
* {{Citation|和書|ref={{harvid|ビューロー|1996}}|title=爛熟した貴族社会とオペラ-{{small|後期バロックI}}|author=ジョージ・J.ビューロー|publisher=[[音楽之友社]]|date=1996-05-10|year=1996|translator=関根敏子|isbn=4-276-11234-6|oclc=675253833}}
* {{Citation|和書|author=ハンス=ギュンター・ホイマン|title=ヘンデル|publisher=[[リットーミュージック]]|series=作曲家と出会う|date=2003-07-17|year=2003|isbn=4-8456-0955-X|oclc=676622342|ref={{harvid|ホイマン|2003}}}}
* {{Citation|和書|title=ヘンデル|publisher=音楽之友社|date=2007-01-10|isbn=4-276-22171-4|oclc=675375605|year=2007|author=三澤|first=寿喜}}
* {{Citation|和書|title=原初バブルと≪メサイア≫伝説―{{small|ヘンデルと幻の黄金時代}}|publisher=[[世界思想社教学社|世界思想社]]|date=2009-07-20|year=2009|isbn=978-4-7907-1422-4|oclc=713849861|first=由美子|last=山田}}
* {{Citation|和書|ref={{harvid|カッロッツォ|チマガッリ|2010}}|title=西洋音楽の歴史|author=M.カッロッツォ|author2=C.チマガッリ|publisher=シーライトパブリッシング|volume=2|date=2010-03-31|year=2010|translator=川西麻理|isbn=978-4-903439-08-2|oclc=836309915}}
* {{Citation|和書|title=ヘンデルが駆け抜けた時代: {{small|政治・外交・音楽ビジネス}}|last=三ケ尻|first=正|publisher=[[春秋社]]|date=2018-06-25|year=2018|isbn=978-4-393-93212-4|oclc=1050217800}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2022年12月10日 (土) 13:43時点における版

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
Georg Friedrich Händel
肖像画(1726年から1728年)
基本情報
生誕 1685年2月23日
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ブランデンブルク選帝侯領
ハレ
死没 (1759-04-14) 1759年4月14日(74歳没)
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランド
ロンドン
学歴 ハレ大学
ジャンル バロック音楽
職業 作曲家 オルガニスト
活動期間 1704年 - 1759年

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルドイツ語: Georg Friedrich Händel [ˈɡeːɔrk ˈfriːdrɪç ˈhɛndl̩] ( 音声ファイル)[1], 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、イタリアで成功した後にイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化した作曲家オルガニスト。後期バロック音楽の著名な作曲家の一人。特にイタリア語オペラ・セリア英語オラトリオの作曲で知られ、自ら公演事業にも携わった。オラトリオメサイア』は現在でも特に人気が高い[2][3]

ウムラウトがない英語読みでは、ジョージ・フレデリック・ハンドルGeorge Frideric (Frederick) Handel [ˈhændᵊl][4][5]。)。ただし、イギリスで活動していた当時はドイツ語読みに合わせてヘンデルと一般にも発音されており、これに合わせて「Hendel」と表記されることもあった[6]

生涯

ハレ・ハンブルク時代

1685年、ブランデンブルク=プロイセン領(現ザクセン=アンハルト州ザーレ河畔のハレに生まれた[注釈 1][5][7][8]。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子のヴァイセンフェルスドイツ語版公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた[7][8][9][10][11]

署名
隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)

ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、ヘンデルは父の目を盗んでクラヴィコードを入手し、夜な夜な屋根裏部屋で密かに練習を重ねて飛躍的な進歩を遂げた。幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという[5][7][8][12]。ヘンデルはハレの聖母マリア教会英語版のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ英語版に作曲とオルガン、チェンバロヴァイオリンの演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった[5][7][8][10][13][14]

1697年2月11日、父ゲオルグが没した。これによりヘンデルの周囲で音楽に反対する者はいなくなったが、同時に収入と支えの両方を失った[5][11][13]。危機意識に駆られたヘンデルは音楽と勉学に励み、1702年にハレ大学に入学。学部は定かではないが、法学部に所属したと推察される。同年にハレ大聖堂[注釈 2]のオルガニストとして1年間の仮採用契約を結ぶ[7][8][11][13][16]。また、オペラに関心を持ち始めたヘンデルはベルリン王宮を訪ね、後に初代プロイセンの王となるフリードリヒ3世から宮廷への就職とイタリアでの勉強を提案されたものの、固辞してハレに戻ったとされる[8][13]。この頃に始まった作曲家テレマンとの交友は終生続いた[7][8][11][17]

翌1703年、大聖堂との契約を満了したヘンデルは、大学を辞めてドイツの中でもオペラが盛んであった自由都市ハンブルクへ出た[7][8][11]。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであった[8][18]。ヘンデルはカイザーが運営するゲンゼマルクト劇場で第二バイオリン奏者として採用され、その後チェンバロの通奏低音奏者や演奏監督として活躍するなど、実地の経験を積みながらその影響を受けた[7][10][11][19][20][21]。1704年、借金の取り立てから逃れるためにヴァイセンフェルスに行ったカイザーに代わってヘンデルがオペラを作曲することとなった[21]。ヘンデルにとって最初のオペラとなったこの『アルミーラ』は1705年1月8日に上演され、約20回も上演される大成功を収めた[7][11][21][22][23]

同年2月25日には次のオペラ『ネロ』が上演されているが、これは評価が芳しくなかった[21]。翌1706年にも2つのオペラ『幸福なフロリンド』『変容のダフネ』を作曲しているが(1708年上演)、この3曲は一部の舞曲と断片を除いて消失している[21][24]

ハンブルクではまた音楽理論家として知られることとなるヨハン・マッテゾンと親友関係となり、ヘンデルがゲンゼマルクト劇場で職を得たのも彼の計らいによるものであったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがある。後に両者は和解し、マッテゾンは『アルミーラ』のテノールの主役を演じている[6][10][21][25][26][27]。1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。なお、2年後にバッハも同じ経験をしている[21][15][28][29]

イタリア時代

肖像画(1710年頃)

トスカーナ大公子フェルディナントメディチ家)からの熱心な誘いを受け、ヘンデルはイタリア行きを決意した[30]。旅費を独力で工面したヘンデルは、1706年から1710年までイタリアの各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、フィレンツェローマヴェネツィアナポリを訪れたらしい[5][10][30][31][32]

当時ローマではローマ教皇庁の命令によりオペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』を作曲している[10][33][34]。ローマではまたコレッリに会ってその影響を受け[35]、またドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという[36][37]。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された[38]。1708年にはオラトリオ『復活』が上演されている[39][37]。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『アグリッピーナ』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった[40][41]

現地で「イル・サッソーネ」(イタリア語: il Sassone、ザクセン人の意)と呼ばれ親しまれたヘンデルはパトロン達の歓迎を受け、カンタータなども発表していたが、周辺国の侵攻や経済的没落により斜陽を迎えているイタリアに声楽と器楽の様式を十分に吸収したヘンデルが留まり続ける理由はなかった[5][6][10][42]

ロンドンへ

1710年6月16日、25歳のヘンデルはステッファーニの後任としてハノーファー選帝侯宮廷楽長となったが、直後に1年間の長期旅行の許可を得た。ヘンデルはハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた[7][43][44][45]。現地貴族らの要望を受けて2週間で書き上げたオペラ『リナルド』は、1711年2月14日にハー・マジェスティーズ劇場で初演され、脚本を書いたアーロン・ヒル英語版が「これ以降イギリスは、母国イタリアをしのぐオペラを発信することになるのです」と高らかに宣言したアン女王への献辞の通り、シーズンが終了する6月15日までに15回の上演を数える大成功を収めた[6][7][45][46][47][48]。アン女王に再度の来訪を約したヘンデルは、デュッセルドルフを経由してハノーファーに戻った[31][49][45]

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)

翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着き[45][50]、『忠実な羊飼い』(1712年)や『テセオ』(1713年)などのオペラを書いた[6][7][51]1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが[注釈 3]、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく[注釈 4]、新国王とは良好な関係を保った[6][50][52][53]。1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルもその随行員として久しぶりにハノーファーを訪れている[注釈 5][53]。ロンドンに戻った後の1717年には、テムズ川での王の船遊びのために『水上の音楽』が演奏された[注釈 6][6][7][10][54]ジャコバイト党の反乱による政情不安等によりロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズの住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲した[53][55][56][57]

王室音楽アカデミーへの参加

ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンシェイクスピアの本が紙屑として売られている。

投機熱の高まりの中、貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー英語版」が1719年に設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった[10][58][59][60]。翌年の開幕に向けて、ヘンデルは歌手と契約を結ぶべくヨーロッパ大陸へ渡っている[注釈 7][61][62]。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルは、イタリア人作曲家ボノンチーニであった[10][64][65]

1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の1727年2月20日にイギリス国籍を取得し、ジョージ2世の戴冠式のために大規模な『戴冠式アンセム』を上演した[7][66]

しかしアカデミーの経営はずさんであり、カストラートセネジーノソプラノフランチェスカ・クッツォーニメゾ・ソプラノファウスティーナ・ボルドーニという3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあって、ロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演されたジョン・ゲイの『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、同年6月1日の『アドメート』の再演をもってアカデミーは活動停止する[6][64][65][66][67]。経営としては大失敗であったが、アカデミーがロンドンのオペラ文化の興隆をもたらしたのもまた事実であり、この9年間はヘンデルの生涯においてもオペラ活動の最盛期であった[67]

肖像画(1730年頃)

貴族オペラとの争い

資産運用により一定の財を蓄えていたヘンデルは[注釈 8]、スイス人投機家ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った[注釈 9][6][10][68][69]。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731年)などで成功を収めたが、1733年にはヘンデルを庇護するジョージ2世に敵愾心を燃やす王太子フレデリック・ルイスによってアカデミーのライバルとなる貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラであった[7][10][69][70][71]。さらにハイデッガーも1734年の契約満了をもってヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまう[70][71][72]

ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた[70][71][73]。作品の人気としてはヘンデル側の方が優勢であったものの、2つのオペラハウスを賄うだけの需要は無く、第2期アカデミーは1734年をもって閉幕(これは当初の予定通り)。その後もヘンデルと貴族オペラの闘いは続いたが、貴族オペラは多額の赤字を出して1737年に倒産。破産こそ免れたものの、ヘンデル自身も経済と心身の両面で疲弊した[70][71][74][75]

ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、温泉治療のためアーヘンで夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『セルセ』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった[7][70][76][75]。この頃からヘンデルの曲には他の作曲家からの「借用」(今でいうところの盗作)が目立つようになるが、当時は問題視されなかった[70]

オラトリオと晩年

現在も知られているヘンデルの曲の多くは、1739年以降に作曲されている[77]

ヘンデルは1732年の『エステル』以来[78][79]、英語のオラトリオをいくつか上演していたものの、1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表していなかった。ヘンデルは1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『サウル』と『エジプトのイスラエル人』を上演[7][70]。同年秋には、『聖セシリアの日のための頌歌』を10日で仕上げた[77]。続けて合奏協奏曲集の制作に取り掛かり、12曲を5週間ほどで書き上げた。この『作品6』は翌年に出版され、現在でも特に評価が高いバロックの弦楽合奏作品である[77][80][81]。しかし、この2年間の音楽会シーズンはスペインとの戦争の勃発やロンドンを襲った大寒波により散々なものとなった[77][82]。1740年から翌年にかけてオペラへの復帰を試みたが、『イメネオ』も『ダイダミア』も不振に終わった[77][82]

1741年、失意の中にあったヘンデルは、アイルランド総督ウィリアム・キャヴェンディッシュから翌年にかけてダブリンで開催される慈善演奏会への招待を受けた。これを承諾してアイリッシュ海を渡ったヘンデルが携えてきたオラトリオに、高い水準の音楽に親しんでいなかったダブリン市民たちは驚嘆し、次いで1742年4月13日に初演された『メサイア』は大好評であった。わずか24日で書き上げたこの作品は、ヘンデルにとって起死回生の一作となる[注釈 10][7][10][77][84]

同年秋にロンドンに戻ったヘンデルは、オペラの作成依頼を断り、ダブリンへ旅立つ前に作ったオラトリオを書き直した。この『サムソン』はロンドン市民らからも好評であったが、次いで『メサイア』も上演したところ、オラトリオの主な担い手であったピューリタリズムを精神的支柱とする中産階級からは受け入れられず、ダブリンでの反応とは対照的にこの時は不調であった[83]。1743年4月に2度目の卒中を起こすが、まもなく創作活動を再開し、オラトリオに軸足を移して『ヘラクレス』などの傑作を送り出しつつ試行錯誤を重ねた[85]

1749年には、オーストリア継承戦争の終結を祝う祝典で打ち上げられる花火のために、『王宮の花火の音楽』を作曲する[7][86][87][88]。1750年5月、オラトリオシーズン終了後に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。収益は全額寄付した。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となった[89][90]

『愛すべき野獣』(1754年)
ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーのカリカチュア[6][70]
ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにした。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていた[88]

同年夏、ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷する[88][91]。その後ロンドンに戻るが、『イェフタ』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり[注釈 11]、夏には片目失明者となる。間もなく右眼の視力も悪化する。そのような中で『イェフタ』はなんとか完成させるが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなった。その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けたが、結局は成功しなかった[10][88][91][92]

翌1759年4月14日、体調の悪化により死去。74歳であった。ヘンデルはウェストミンスター寺院に葬られることとなるが、ひっそりと埋葬されることを望んだ本人の願いにも関わらず3000人もの民衆が別れを惜しむために押し寄せ、無数の追悼文が新聞や雑誌を賑わせた[2][6][88][93]

He's gone, the Soul of Harmony is fled!

(和声の主、君は逝き)

And warbling Angels hover round him dead.

(悲しみの天使は舞う、なきがらの上)

Never, no, never since the Tide of Time,

(汝こそは天地の開けし時ゆ)

Did music know a Genius so sublime!

(比類なき楽の天才)

Each mighty harmonist that's gone before,

(君が調べ、奏づるに)

Lessen'd to Mites when we his Works explore.

(なべての楽士、色失いぬ)

4月17日付『パブリック・アドヴァタイザー』、[2][6]

ヘンデルが没した翌年にジョン・マナリング英語版によるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった[94]。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた[2][95]サミュエル・アーノルドによるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された[2][96]

影響

ハレのヘンデル像

ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。当時としては初めての試みである作品集が死後出版され多くの合唱団にヘンデルの音楽が受け継がれたこともあり、ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家となった[2][97]

とくにオラトリオはイギリスに止まらず、1772年にはハンブルクで『メサイア』が上演されたほか、1773年にはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがドイツ語版の『メサイア』を上演している[98]。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった[99]

1780年代にはウィーンヴァン・スヴィーテン男爵がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、モーツァルトがこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している[100]。また、ハイドンはロンドン訪問から帰るときにザーロモンからオラトリオ『天地創造』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった[101]

ベートーヴェンはとくにヘンデルを高く評価し、『調子の良い鍛冶屋』にもとづく2声のフーガや、『ユダス・マカベウス』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフとの筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている[102][103]

現代に継承された作品

ヘンデルは多数の作品を作曲したが、広く知られている作品はそのごく一部分にすぎない[97]。オラトリオ、中でも「ハレルヤ・コーラス」を始めとする『メサイア』が突出して有名になったため、他の曲に日が当たらない結果になっている[2][104][105]。オラトリオ以外に生き残った作品はわずかであり、18世紀末に編纂された最初のヘンデル全集にはオペラは5曲しか含まれていなかった[106]

20世紀に入り、オラトリオ以外のヘンデルの作品を復活させる試みがドイツやイギリスなどを中心になされてきた。しかし、優れた美声と技巧を持つカストラートが歌い手となり聞き手もイタリア風の文化に慣れ親しんでいた18世紀当時とは条件が異なるため、ヘンデルのオペラを現代において完全再現することは事実上不可能であり、またその高い芸術性にも関わらず評価をされ難いのが実情である[6][24][104][107]

『メサイア』以外のオラトリオとしては、『ユダス・マカベウス(マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」はジョン・ウィリアム・フェントンによって日本に紹介され、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として定着しており、耳にする機会が非常に多い[108][109]

オペラの中でも、ロンドン進出の足掛かりとなった『リナルド』で歌われるアリア「私を泣かせてください」は特に有名で[110]、日本のテレビドラマの挿入歌などにも使われている[111]。『セルセ』は興行としては失敗したものの、その中のアリア「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は今も人気が高い[112]

オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、管弦楽組曲水上の音楽』『王宮の花火の音楽』が有名。また、合奏協奏曲、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。コレッリの影響が強く、ヴィヴァルディの影響は見られない[113][114]。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した[115]

イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年のチャールズ3世(当時皇太子)とダイアナ妃との結婚式では『サムソン』から「輝かしい天使よ」がキリ・テ・カナワによって歌われ[104]、2018年のヘンリー王子メーガン妃の結婚式では『アン女王の誕生日のための頌歌』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた[116]。『ソロモン』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、2012年ロンドンオリンピックの開会式でも使われた[117]。『ジョージ2世の戴冠式アンセム』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる[66][104]サッカーUEFAチャンピオンズリーグの入場曲「UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム」も「司祭ザドク」を原曲とする[118]

主な作品

ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。

ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子 (John Walsh (printer)によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった[119]。19世紀後半にはフリードリヒ・クリュザンダーを中心としてヘンデル協会によるヘンデル全集 (Händel-Gesellschaft(略称HG。クリュザンダー版、全105巻)が刊行された。1950年代からはベーレンライター出版社からハレ・ヘンデル全集 (Hallische Händel-Ausgabe(略称HHA。ハレ版、新ヘンデル全集とも)が刊行されている。ヘンデルの作品カタログとしてはベルント・バーゼルトによるもの(全3巻、1978-1986年)があり、このカタログの番号(ヘンデル作品主題目録番号、HWV)を用いることが一般的になっている。

オペラ

オラトリオ

その他の声楽曲

管弦楽曲

器楽曲

その他

ヘンデルを題材とする作品等

ヘンデルを肖像に用いた西ドイツの切手(1985年)

1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』(The Great Mr. Handel)は、ヘンデルを題材にしている[120]。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン(en)、ヒロインの歌手シバ夫人(スザンナ・マリア・シバートーマス・アーンの妹)をエリザベス・アランが演じた。

ファリネッリの生涯を描いた1994年の映画『カストラート』は、1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。ヘンデルの役は、ジェローン・クラッベが演じた。

住居

右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。左の白い建物にジミ・ヘンドリックスが住んだ。

ヘンデルは1723年8月にメイフェアのブルック街25番地に居を構えた[121][122]。日本でも「ジミヘン」の愛称で親しまれるギタリストジミ・ヘンドリックスは、1968年以降隣の23番地に住んでいた[123][124]。現在この建物は「ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン英語版」という博物館になっている。

バッハとの関係

ヘンデルはヨハン・ゼバスティアン・バッハとはその生涯を通じて会うことはなかったものの、音楽史に衝撃を与えた両者は同じ1685年生まれ[注釈 13]で出生地もほど近く、しばしば対比をされる[2][15][104]

バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。日本では俗に、バッハを「音楽の父」、ヘンデルを「音楽の母」とそれぞれ呼ぶことがあるが、これはヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で20世紀に入ってから考案された呼び名である[125][126][127]

世俗的で宮廷風の特徴を持つヘンデルの音楽は現代においてバッハよりも低く評価されがちであるが、史実としては、ヘンデルが上述の通り生前より名声と富を勝ち取っていたのに対し、バッハの評価はむしろその死後、特に19世紀以降において高まったものである[注釈 14][2][10][104]。各国を渡り歩いたヘンデルがオペラオラトリオなどの劇場用の音楽で本領を発揮したのに対し、常時宮廷や教会機関の定職を得てドイツから離れなかったバッハは教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)を中心に活躍した[10][126][128]。そして、オペラ・セリアの衰退とともにヘンデルの作品群がやがて忘れられていったのに対して、バッハの作品はドイツ音楽界で熱狂的に支持されるようになり、「3B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)を提唱したハンス・フォン・ビューローによって神格化されるという経緯を辿った[2]

バッハが音楽家一族として有名なバッハ家の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった[15][129]。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供に恵まれていたなど、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいた[6][10][128][130]

なお、ヘンデルに目の手術をしたジョン・テイラーはバッハにも手術を施しており、その後バッハも視力を失っている[10][88][92]

脚注

注釈

  1. ^ ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。
  2. ^ ハレ大聖堂はカルヴァン派の教会であったが、ヘンデル自身はルター派であった[8][15]
  3. ^ アン女王崩御に際してイギリス議会はカトリック教徒が王になることを嫌い、ハノーファー家から王を迎えることとなった[10]
  4. ^ ヘンデルのロンドン滞在は諜報活動を兼ねており、ハノーファー選帝侯の命によるものであったとする推論もある[52]
  5. ^ この時ヘンデルは母を見舞うとともに、未亡人となり困窮していた旧師ツァハウの妻を支援している[53]。親子2代に亘りヘンデルに仕えることとなるヨハン・クリストフ・シュミットを写譜家兼秘書として迎えたのはこの時とされる[51]
  6. ^ この『水上の音楽』によってジョージ1世と和睦したとする俗説があるが、実際にはこれ以前から両者の仲は良好であった[6][53][52]
  7. ^ バッハはこの時ヘンデルとの面会を試みてハレへ向かったが、結局すれ違いとなったと伝えられている[61][62][63]
  8. ^ ヘンデルは南海会社に投資していた[68]
  9. ^ その帰路にハレで暮らす母を訊ねている[7]。これが母との最後の面会となった[68][69]
  10. ^ 一方、メサイアの台本を書いたチャールズ・ジェネンズは、ヘンデルによる短期間の作曲を粗雑に仕事をされたと受け止め、自身が聴きに行くことができないダブリンで初演されたことに立腹していた[83]
  11. ^ 視力の低下により作曲の一時中断を余儀無くされたのは、「ああ主よ、御身の御意志はなんと計り知れぬことか(英語: How dark, O Lord, are thy decree)」というコーラスを書いている時であった[88][91]
  12. ^ 旧全集につけられたザイフェルト (Max Seiffertによる通し番号
  13. ^ ドメニコ・スカルラッティも同年生まれ[15]
  14. ^ 1782年に発行されたドイツの新聞では「ヘンデルの清い無垢さや感情表現の深さをバッハが持っていたなら、ヘンデル以上に偉大な音楽家となっていただろう。しかし実際には、バッハはただヘンデルより入念で、技術的に巧みなだけだった」と両者を比較し、ヘンデルをバッハよりも格上に位置付けられている。ヘンデルは生前の願い通りウェストミンスター寺院に埋葬され巨大な記念碑も建立されたが、バッハは共同墓地に埋葬されて遺留品も散逸した[10]

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク