「ミャンマー」の版間の差分
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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{{main|{{仮リンク|ミャンマーの歴史|en|History of Burma}}}} |
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{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}} |
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ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのは[[パガン朝]]([[11世紀]] - [[13世紀]])以降である。[[ビルマ族]]は10世紀以前にはまだ[[エーヤワディー川]](イラワジ川)流域に姿を現していなかった。[[ビルマ族]]の起源は中国[[青海省]]付近に住んでいた[[チベット系民族|チベット系]]の[[氐]]族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である[[仇池]]が[[隋]]の初代皇帝[[楊堅]]に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国[[雲南省]][[大理市|大理]]にあった{{仮リンク|烏蕃|zh|乌蛮}}氏の{{仮リンク|六詔|zh|六诏}}の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて[[南詔]]となった。 |
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのは[[パガン朝]]([[11世紀]] - [[13世紀]])以降である。[[ビルマ族]]は10世紀以前にはまだ[[エーヤワディー川]](イラワジ川)流域に姿を現していなかった。[[ビルマ族]]の起源は中国[[青海省]]付近に住んでいた[[チベット系民族|チベット系]]の[[氐]]族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である[[仇池]]が[[隋]]の初代皇帝[[楊堅]]に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国[[雲南省]][[大理市|大理]]にあった{{仮リンク|烏蕃|zh|乌蛮}}氏の{{仮リンク|六詔|zh|六诏}}の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて[[南詔]]となった。 |
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=== 驃国・タトゥン王国 === |
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[[ファイル:Bagan%2C_Burma.jpg|thumb|[[パガン王朝]]の都、[[バガン]]。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である]] |
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ミャンマー南部の地は古くから[[モン族 (Mon)|モン族]]が住み、[[都市国家]]を形成して海上交易も行っていた。北部では[[7世紀]]に[[ピュー人]]が[[ピュー]](驃)を建国した。[[832年]]、驃国は[[南詔]]に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。[[9世紀]]頃、[[下ビルマ]]でモン族の{{仮リンク|タトゥン王国|en|Thaton Kingdom}}(9世紀 - [[1057年]])が建国された。 |
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=== ビルマ族の南下 === |
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[[File:Map_of_Taungoo_Empire_(1580).png|thumb|220px|[[タウングー王朝]]の支配領域(1572年)]] |
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[[1044年]]、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入して[[パガン王朝]]を樹立した。[[パガン]]は最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」の[[アノーヤター|アノーヤター王]](在位[[1044年]] - [[1077年]])が初代国王とされる。[[1057年]]、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は[[13世紀]]に[[モンゴルのビルマ侵攻|モンゴルの侵攻]]を受け、[[1287年]]の[[パガンの戦い]]で敗北し、1314年に滅びた。[[下ビルマ]]には、モン族が[[ペグー王朝]] ([[1287年]] - [[1539年]])を建国し、[[上ビルマ]]には、ミャンマー東北部に住む[[タイ族|タイ系]]の[[シャン族]]が[[ピンヤ朝]]([[1312年]] - [[1364年]])と[[アヴァ王朝]]([[1364年]] - [[1555年]])を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。 |
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[[1385年]]から{{仮リンク|40年戦争|en|Forty Years' War}}が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。[[1486年]]、[[タウングー]]に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によって[[タウングー王朝]]が建国された。タウングー王朝は[[ポルトガル]]の傭兵を雇い入れ、[[タビンシュエーティー]]の治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次の[[バインナウン]]の治世には1559年には現東インドの[[マニプール]]を併合し、[[アユタヤ王朝]]や[[ラーンナー|ラーンナー王朝]]などタイ族小邦や、{{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}}が住む[[雲南省|雲南]]の[[シップソーンパンナー]]を支配した。 |
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しかし[[1612年]]にはムガル皇帝[[ジャハーンギール]]のもとで、{{仮リンク|プラターパーディティヤ|en|Pratapaditya}}が支配していた[[チッタゴン]]を除く現[[バングラデシュ]]地域が[[ムガル帝国]]の統治下に入り、[[1666年]]にはさらにムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]が現[[ラカイン州]]に存在した[[アラカン王国]]支配下の[[チッタゴン]]を奪った。 |
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[[17世紀]]にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が{{仮リンク|再興ペグー王朝|en|Restored Hanthawaddy Kingdom}}を興した。[[1752年]]3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、[[アラウンパヤー]]が王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。[[1754年]]にビルマを再統一した。これが[[コンバウン王朝]]である。[[清]]に助けを求めたシャン族が[[乾隆帝]]とともに興した国土回復戦争が[[清緬戦争]]{{Efn2|[[乾隆帝]]による[[十全武功]]のひとつ。}}([[1765年]] - [[1769年]])である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年の[[アユタヤ王朝]]滅亡以来ビルマの属国だったが、[[1769年]]に[[タークシン]]率いる[[トンブリー王朝]]([[1768年]] - [[1782年]])が独立し、その後に続く[[チャクリー王朝]]([[1782年]]-)は、ビルマと異なった親イギリスの[[外交政策]]をとって独立を維持することに成功した。 |
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=== イギリス統治時代 === |
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{{main|英緬戦争|イギリス統治下のビルマ}} |
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[[File:Shwedagon_pagoda.jpg|thumb|220px|イギリス人が見た[[シュエダゴン・パゴダ]](1825年)]] |
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[[File:Battle_of_rangoon.jpg|thumb|220px|[[英緬戦争]]、19世紀に起こったイギリスとビルマ王国の戦争]] |
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[[ファイル:British Burma 1937 flag.svg|thumb|160px|left|[[イギリス統治下のビルマ|植民地時代]]の旗(1937年 - 1948年)]] |
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一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する[[武力]][[侵略]]を発端とする3度に渡る[[英緬戦争]]を起こした。国王{{仮リンク|バジードー|en|Bagyidaw|label=ザガイン・ミン}}(在位:[[1819年]]–[[1837年]])治下の初期には、英緬間に緩衝国家として[[アーホーム王国]]([[1228年]]–[[1826年]])が存在していたが、{{仮リンク|ビルマのアッサム侵攻|en|Burmese invasions of Assam}}([[1817年]]–[[1826年]])によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、[[インド]]を支配する[[イギリス]]に対して[[ベンガル地方]]{{Efn2|当時、{{仮リンク|ベンガル管区|en|Bengal Presidency}}([[1765年]]-[[1919年]])には[[ベンガル地方]]・[[メーガーラヤ州]]・[[ビハール州]]・[[オリッサ州]]が含まれていた。}}の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}([[1824年]]-[[1826年]])が勃発した。ビルマが敗れ、1826年[[2月24日]]に{{仮リンク|ヤンダボ条約|en|Treaty of Yandabo}}が締結され、[[アッサム州|アッサム]]{{Efn2|当時の[[アッサム州|アッサム]]には現在の[[メーガーラヤ州]]、[[ナガランド州]]、[[ミゾラム州]]、[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]が含まれていた。後に各州は分離され、北東部は[[マクマホンライン]]で知られる[[北京政府|中国(北京政府)]]との係争地となり、[[1954年]]に{{仮リンク|東北辺境地区|en|North-East_Frontier_Agency}}として分離され、[[1987年]]に[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]となった。}}、[[マニプル州|マニプール]]、[[ラカイン州|アラカン]]、[[タニンダーリ地方域|テナセリム]]をイギリスに割譲した。 |
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イギリスの挑発で引き起こされた[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王{{仮リンク|パガン・ミン|en|Pagan Min}}(在位:[[1846年]]–[[1853年]])が廃されて新国王に{{仮リンク|ミンドン・ミン|en|Mindon Min}}(在位:[[1853年]]–[[1878年]])が据えられた。[[イスラム教]]徒の[[インド人]]・[[華僑]]を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族([[カレン族]]など)を[[キリスト教]]に[[改宗]]させて[[下ビルマ]]の統治に利用し、民族による[[分割統治]]政策を行なった。インド人が[[金融]]を、華僑が[[商売]]を、山岳民族が[[軍隊|軍]]と[[警察]]を握り、ビルマ人は最下層の[[農奴]]にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族([[カレン族]]など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは[[穀倉地帯]]を喪失したために、[[清]]から[[米]]を[[輸入]]し、ビルマは[[綿花]]を[[雲南省|雲南]]経由で清へ[[輸出]]することになった。 |
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[[1856年]]から[[1873年]]にかけて中国の雲南省・[[シップソーンパンナー]]で{{仮リンク|パンゼー|en|Panthays}}と呼ばれる雲南[[回民蜂起|回民]]({{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}})による[[パンゼーの乱]]が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。[[1858年]]から[[1861年]]にかけて新首都[[マンダレー]]を建設して遷都。イギリス領インドと[[印僑]]の反対で[[雲南問題]]は遅れていたが、[[1885年]]7月にイギリス側も[[芝罘条約]]を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。[[1885年]]11月の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}で王朝は滅亡。[[1886年]]6月、{{仮リンク|英清ビルマ条約|zh|中英缅甸条款}}でイギリスは清にビルマの[[宗主権]]を認めさせると、ビルマは[[インド帝国|イギリス領インド]]に併合されて、その1州となる。国王[[ティーボー|ティーボー・ミン]](在位:[[1878年]]–[[1885年]])と王の家族はインドの[[ゴア州]][[ムンバイ|ボンベイ]]の南に近い{{仮リンク|ラトナーギリー|en|Ratnagiri}}に配流され、その地で死亡した。 |
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[[File:Aung San color portrait.jpg|thumb|180px|建国の父[[アウンサン]](1940年代)]] |
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ビルマ人の対英[[独立運動]]は[[第一次世界大戦]]中に始まり、[[1929年]]の[[世界恐慌]]以後若い知識層の間に広まった。[[1930年]]には、{{仮リンク|タキン党|en|Thakins}}が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、[[:en:Saya San|Saya San rebellion]]と呼ばれる反植民地運動が[[下ビルマ]]全域に広がったが、[[1931年]]半ばに鎮圧された。[[1937年]]、インドから独立して[[イギリス連邦]]内の自治領となり、[[ラカイン州|アラカン]]は返還されたが、[[アッサム州|アッサム]]・[[マニプル州|マニプル]]はインド領(インド独立後に分割され、[[7姉妹州]]と呼ばれる)となった。[[1939年]]、{{仮リンク|タキン・ソー|en|Thakin Soe}}が[[ビルマ共産党]] (CPB)を結成した。 |
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[[日中戦争]]の激化に伴い、ビルマは[[蔣介石政権]]をイギリスなどが支援する「[[援蔣ルート]]」の一つとしても使われた。[[1941年]]12月、日本はイギリスや[[アメリカ合衆国]]などに対して開戦([[太平洋戦争]])。[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は[[南方作戦]]の一環として、[[タイ王国]]進駐に続いて英領ビルマに進撃した([[ビルマの戦い]])。 |
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[[1942年]]、[[アウンサン]]が[[ビルマ独立義勇軍]]を率い、日本軍と共に戦い[[イギリス軍]]を駆逐し、[[1943年]]に日本の後押しで[[バー・モウ]]を元首とする[[ビルマ国]]が建国された。 |
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しかし[[1944年]]の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 |
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[[1944年]]の[[インパール作戦]]の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、[[1944年]]8月に秘密会議で[[反ファシスト人民自由連盟]](AFPFL、[[1945年]]-[[1962年]])が結成され、タキン・ソー率いるビルマ共産党、アウンサン率いる[[ビルマ国民軍]]、[[ウー・ヌ]]率いる[[the People's Revolutionary Party]] (PRP){{Efn2|後に[[:en:Burma Socialist Party|Burma Socialist Party]]になった。}}が三派合同した。[[1945年]]3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。[[連合国軍]]がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に[[亡命]]した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。[[1946年]]2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、{{仮リンク|タキン・タントゥン|en|Thakin Than Tun}}の率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる{{仮リンク|共産党 (ビルマ)|en|Communist Party (Burma)|label=赤旗共産党}}が分裂した。 |
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=== 独立と内戦 === |
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{{main|ミャンマー内戦}} |
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[[1947年]][[7月19日]]にアウンサンが[[ウー・ソオ|ウー・ソー]]の傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。[[1948年]]に[[イギリス連邦]]を離脱して'''{{仮リンク|ビルマ連邦 (1948年-1962年)|en|Post-independence Burma (1948–1962)|label=ビルマ連邦}}'''として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国を'''ビルマ連邦'''が成立した[[1948年]]としており、'''ビルマ国'''との連続性を認めていない一方で、[[ミャンマー軍|ミャンマー国軍]]については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。 |
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[[1949年]]、[[国共内戦]]に敗れた[[中国国民党]]軍の{{仮リンク|ビルマ遠征軍 (国民革命軍)|en|Chinese Expeditionary Force (Burma)|label=残余部隊}}(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、[[雲南省]]反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。[[中央情報局|CIA]]が物資や[[軍事顧問|軍事顧問団]]を援助し、タイへの[[アヘン]]の運び出しも行った。ヌ政権は[[国際連合]]で[[中華民国]]と米国の策動に抗議した。一方で政権は[[中華人民共和国]]と連携し、シャン州の一部に[[中国人民解放軍]]および国軍部隊を展開し、[[1950年代]]半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した([[:en:Campaign at the China–Burma border|中緬国境作戦]])。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高い[[ワ族]]や[[シャン族]]、[[コーカン族]]など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が[[黄金の三角地帯]]の[[麻薬]]産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、{{仮リンク|ロー・シンハン|en|Lo Hsing Han}}(羅星漢)の''Ka Kwe Ye'' (KKY){{Efn2|''Ka Kwe Ye'' means "defence" in [[ビルマ語|Burmese]], and is used as the name for regional defence forces.<ref>{{cite book|last=Smith|first=Martin|year=1991|title=''Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity''|publisher=Zed Books|location=London|page= 221}}</ref>}}が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つ[[ネ・ウィン]]の後押しで結成された<ref name="bt">{{cite web|url=http://www.asiapacificms.com/papers/pdf/gt_opium_trade.pdf|author=Bertil Lintner|title=The Golden Triangle Opium Trade: An Overview|publisher=Asia Pacific Media Services|month=March|year=2000|accessdate=2009-01-06}}</ref>。また、中国国民党残党から独立した[[クン・サ]]率いる{{仮リンク|モン・タイ軍|en|Mong Tai Army}}も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。 |
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ヌ首相の[[仏教]]優遇政策は、[[キリスト教徒]]の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。 |
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=== 軍事政権時代 === |
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[[File:David Ben Gurion - General Ne Win PM of Burma 1959.jpg|thumb|180px|[[ネ・ウィン]]将軍(1959年6月8日)]] |
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[[1958年]][[10月27日]]、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで{{仮リンク|暫定内閣|en|Caretaker government}}([[1958年]]-[[1960年]])が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、[[4月4日]]に[[連立政権|連立内閣]]を組閣した。[[1960年]]12月、[[ベトナム戦争]]([[1960年]]-[[1975年]])が勃発。 |
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[[1962年]][[3月2日]]にネ・ウィン将軍が{{仮リンク|ビルマ・クーデター (1962年)|en|1962 Burmese coup d'état|label=軍事クーデター}}を起こし、[[ビルマ社会主義計画党]](BSPP、マ・サ・ラ)を結成して[[ミャンマーの大統領|大統領]]([[1962年]][[3月2日]]–[[1981年]][[11月9日]])となり、[[ビルマ式社会主義]]を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ[[瀬戸際外交]]を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。[[1966年]]から始まった中国の[[文化大革命]]の影響がビルマに及び、[[1968年]][[9月24日]]にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。 |
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[[1973年]]8月、ロー・シンハンが、{{仮リンク|シャン州軍|en|Shan State Army}}(SSA)に協力した容疑で[[タイ王国|タイ]]に拘束された。<ref name="bt"/>この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。[[1974年]]に'''ビルマ連邦社会主義共和国憲法'''が制定され、ネ・ウィンは[[大統領]]二期目に就任([[ビルマ連邦社会主義共和国]])。[[1976年]]に中国の最高権力者である[[毛沢東]]が死去すると、支援が減らされた[[ビルマ共産党]] (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。[[1980年]]、ロー・シンハンは[[恩赦]]で[[釈放]]された。[[1981年]]にネ・ウィンが大統領職を辞した後も[[1988年]]までは軍事[[独裁体制]]を維持したが、[[経済政策]]の失敗から深刻な[[インフレ]]を招く等、ミャンマーの[[経済]]状況を悪化させた。 |
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[[1988年]]には[[ネ・ウィン]]退陣と[[民主化]]を求める大衆運動が高揚し、[[ネ・ウィン]]は7月に[[BSPP]]議長を退く([[8888民主化運動]])。同年9月18日に[[政権]]を離反した[[ソウ・マウン]]国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度'''ビルマ連邦'''へ改名した。総選挙の実施を[[公約]]したため、全国で数百の[[政党]]が結成される。軍部は[[国民統一党 (ミャンマー)|国民統一党]]を結党し体制維持を図った。民主化指導者[[アウンサンスーチー]]らは[[国民民主連盟]] (NLD) を結党するが、[[アウンサンスーチー]]は選挙前の[[1989年]]に[[自宅]][[軟禁]]された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。[[1988年]]1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部と[[ワ族]]・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、[[1989年]]に{{仮リンク|ワ州連合軍|en|United_Wa_State_Army}}が結成された。この時、[[キン・ニュン]]が、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。 |
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[[1989年]][[6月18日]]に軍政側は'''ミャンマー連邦'''へ国名の改名を行った。[[1990年]][[5月27日]]に実施された{{仮リンク|1990年ミャンマー総選挙|en|Myanmar general election, 1990|label=総選挙}}ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は[[海外|国外]]に逃れ、亡命政権として[[ビルマ連邦国民連合政府]] (NCGUB) を樹立した。 |
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[[1992年]][[4月23日]]に[[タン・シュエ]]将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は[[1994年]]以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が{{仮リンク|ココ諸島 (ビルマ)|en|Coco Islands|label=大ココ島}}を賃借し、中国は[[レーダー]]基地と[[軍港]]を[[建設]]した。こうした中国の海洋戦略は、[[バングラデシュ]]や[[スリランカ]]、[[モルディブ]]、[[パキスタン]]などへの進出と合わせてインドを包囲する「[[真珠の首飾り作戦]]」と呼ばれている。[[1997年]]11月、国家法秩序回復評議会({{lang-en-short|State Law and Order Restoration Council}}、略称:SLORC)が[[国家平和発展評議会]]({{lang-en-short|State Peace and Development Council}}、略称:SPDC)に名称変更した。[[2000年]]9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。[[2002年]]12月、ネ・ウィンが死去。 |
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[[2003年]]8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に[[:en:Roadmap to democracy|民主化へのロードマップ]]を発表し、保守派と対立。[[2004年]]10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。 |
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[[File:2007_Myanmar_protests_7.jpg|thumb|180px|[[2007年ミャンマー反政府デモ]]]] |
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後任の首相には、[[保守]]派の[[ソー・ウィン]]が就任。同年、{{仮リンク|中国・ビルマ・パイプライン|en|Sino-Burma pipelines}}の協議が中国との間で開始され、翌2005年に[[中国石油天然気]](PetroChina)との間で[[契約]]が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下で[[ホテル]]経営を行っていた{{仮リンク|ロー・シンハン|en|Lo Hsing Han}}(羅星漢)率いる{{仮リンク|アジア・ワールド|en|Asia World}}社が独占的な契約を結んでいった。[[2005年]]11月、政府機関がヤンゴンから中部[[ピンマナ]]近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、[[2006年]][[10月]]に行政首都[[ネピドー]]への遷都を公表。[[2007年]][[9月27日]]、[[APF通信社]]の[[長井健司]]が[[2007年ミャンマー反政府デモ|反政府デモ(サフラン革命)]]の取材中に射殺された。 |
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[[2007年]][[10月12日]]に[[ソー・ウィン]]首相が死去したことに伴い、軍出身の[[テイン・セイン]]が[[2007年]][[10月]]に首相へ就任すると、軍政主導の[[政治]]体制の改革が開始される。[[2008年]]5月、[[ミャンマー連邦共和国憲法|新憲法案]]についての{{仮リンク|2008年ミャンマー憲法国民投票|en|Myanmar constitutional referendum, 2008|label=国民投票}}が実施・可決され[[民主化]]が計られるようになる。[[2008年]][[5月2日]]、[[サイクロン・ナルギス]]がエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。 |
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[[2010年]][[10月]]、国旗の新しいデザインを発表<ref>{{Cite web|date=2010-10-22|url=http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101022/asi1010220110001-n1.htm|title=ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え|publisher=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|accessdate=2011-01-09}}</ref>。 |
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=== 選挙と民主化 === |
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{{main|{{仮リンク|ミャンマー民主改革|en|2011–2015 Myanmar political reforms}}}} |
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2010年[[11月]]には新憲法に基づく[[2010年ミャンマー総選挙|総選挙]]が実施される。また、政府は[[アウンサンスーチー]]の自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。[[2011年]][[3月30日]]、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された[[連邦議会 (ミャンマー)|連邦議会]]の議決を経て[[ミャンマーの大統領|大統領]]に就任。同月[[国家平和発展評議会]] (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。[[11月]]、アウンサンスーチー率いる[[国民民主連盟]] (NLD) は政党として再登録された。 |
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ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されることなどによって裏から政治権力を維持し続けた<ref name="bbc">{{cite web|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-55885314|title=【解説】 ミャンマー国軍のクーデター、なぜ今? これからどうなる?|website=『[[BBC]]』|date=2021-2-2|accessdate=2021-2-2}}</ref>。 |
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2015年11月8日、[[2015年ミャンマー総選挙|民政復帰後では初めてとなる総選挙]]が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、[[ミャンマー連邦共和国憲法|憲法]]の規定と[[ミャンマー軍|国軍]]の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近の[[ティンチョー|テイン・チョー]]を自党の大統領候補に擁立した。[[ティンチョー]]は2016年3月10日に[[連邦議会 (ミャンマー)|連邦議会]]で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した<ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20160330-OYT1T50102.html|title=ティン・チョー氏、ミャンマー大統領に正式就任|publisher=『[[読売新聞]]』|accessdate=2016-03-30}}</ref>。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが[[ミャンマーの国家顧問|国家顧問]]、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。 |
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===宗教上の対立=== |
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[[File:Conflict_zones_in_Myanmar.png|thumb|180px|ミャンマーの紛争地域(1995年 - 現在)]] |
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ミャンマーの[[ムスリム]]([[イスラム教徒]])の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における[[戦争]][[捕虜]]、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した[[労働者]]など、その事由は様々である<ref name="test">{{cite book|url=https://badauk.com/nitijou/sinjiru/bamarmuslim/muslimhistory/|title=『黄金色の光を放つ宗教』|publisher=ミャンマー政府・情報省|year=1997}}</ref>。 |
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[[宗教]]上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけ[[ラカイン州]]における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。 |
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長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、[[2012年]][[6月8日]]にはラカイン州でムスリムの[[ロヒンギャ]]と仏教徒との対立が激化({{仮リンク|ラカイン州暴動 (2012年)|label=ラカイン州暴動|en|2012 Rakhine State riots}})。2013年3月20日には[[メイッティーラ]]でも死者が多数出る[[暴動]]や[[放火]]が発生、政府により[[非常事態宣言]]が出されている<ref>{{Cite news |
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|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2935184/10478177 |
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|title=ミャンマー中部で仏教徒とイスラム教徒が衝突、非常事態を宣言 |
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|work=AFPBB News |
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|publisher=[[フランス通信社]] |
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|date=2013-03-22 |
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|accessdate=2013-03-24 |
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}}</ref>。 |
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===ロヒンギャ問題=== |
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2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、[[国連難民高等弁務官事務所]](UNHCR)により非難されている<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.com/japanese/38101105|title=ミャンマーは民族浄化をしようとしている=国連当局者|website=[[BBC|BBC NEWS JAPAN]]|date=2016-11-25|accessdate=2017-2-26}}</ref>。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3155415|title=ミャンマー軍のロヒンギャ掃討、1か月で6700人殺害 多数の子どもも|date=2017-12-14|website=AFPBB News|Publisher=[[フランス通信社]]|accessdate=2017-12-14}}</ref>。 |
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2017年8月25日には、反政府武装組織[[アラカン・ロヒンギャ救世軍]]がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した<ref>[https://jp.reuters.com/article/rohingya-island-idJPKCN1BV0SZ アングル:膨張するロヒンギャ難民、無人島計画に救いはあるか] [[ロイター通信]](2017年9月20日)2017年10月4日閲覧</ref>。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKCN1BO0D7.html|title=スー・チー氏は国連総会欠席へ ロヒンギャ問題で批判強まる|publisher=『[[朝日新聞]]』|date=2017年9月13日|accessdate=2017年10月4日}}</ref> |
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=== 軍部クーデターで再び軍事政権に === |
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{{main|2021年ミャンマークーデター}} |
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[[2020年ミャンマー総選挙|2020年11月に総選挙]]が実施され、スー・チー率いるNLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得し、ミャンマー国軍系の最大野党[[連邦団結発展党]](USDP)は33議席の獲得に留まった<ref name="JIJI">{{cite web|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020100178&g=int|title=ミャンマーでクーデター スー・チー氏や大統領拘束―国軍が全権掌握、非常事態宣言|website=JIJI.COM|agency=『[[時事通信]]』|date=2021年2月2日|accessdate=2021年2月2日}}</ref>。ミャンマー国軍によるムスリム系少数派ロヒンギャの虐殺疑惑に直面する中でもスー・チー率いるNLDが高い人気を維持した形となった<ref name="bbc"/>。しかし軍部はこの選挙結果を不服とし、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙が行われた」と主張した<ref name="JIJI"/>。 |
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総選挙後の初の議会が開かれるはずだった[[2021年]][[2月1日]]、軍部は[[2021年ミャンマークーデター|軍事クーデター]]を起こし、[[ウィンミン]]大統領やスー・チー国家顧問を拘束。[[ミン・アウン・フライン]]国軍総司令官が全権を掌握したと宣言した<ref name="bbc"/>。翌2日には軍事政権として[[国家行政評議会]]が設置されたが<ref>{{cite web|url=http://burmese.dvb.no/archives/438760|title=ဗိုလ်ချုပ်မှူးကြီး မင်းအောင်လှိုင်ခေါင်းဆောင်သည့် ၁၁ ဦးပါ စီမံအုပ်ချုပ်ရေးကောင်စီဖွဲ့စည်း|website=DVB|date=2 February 2021|accessdate=2 February 2021}}</ref><ref>{{cite web|url=http://dsinfo.org/node/957|title=ပြည်ထောင်စုသမ္မတမြန်မာနိုင်ငံတော် တပ်မတော်ကာကွယ်ရေးဦးစီးချုပ်ရုံး အမိန့်အမှတ်(၉/၂၀၂၁) ၁၃၈၂ ခုနှစ်၊ ပြာသိုလပြည့်ကျော် ၆ ရက် ၂၀၂၁ ခုနှစ်၊ ဖေဖော်ဝါရီလ ၂ ရက်|website=[[ミャンマー軍|Tatmadaw]]|date=2 February 2021|accessdate=2 February 2021}}</ref>、その閣僚にはUSDPの主導で旧軍政下の2011年に発足した[[テイン・セイン]]政権での元閣僚の登用が目立つ<ref>{{cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO68736080S1A200C2MM0000|title=ミャンマー軍、旧軍政から閣僚指名 実務重視か|websit=nikkei.com|publisher=『[[日本経済新聞]]』|date=2021年2月2日|accessdate=2021年2月2日}}</ref>。 |
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国内ではクーデター直後から[[民主化]]を求める[[デモ活動]]([[2021年ミャンマークーデター抗議デモ]])が行われている他<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3330462 ミャンマーでクーデター抗議デモ、ネット遮断中でも規模は最大]『[[AFP通信]]』(2021年2月6日)2021年3月25日閲覧</ref>、クーデターの正当性を認めない連邦議会議員が[[連邦議会代表委員会]](CRPH)を通じて事実上の[[臨時政府]]を設置しようと試みた<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM061730W1A300C2000000/|title=ミャンマー国軍、スー・チー派は「反逆罪」 国民けん制|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2021-3-6|accessdate=2021-3-25}}</ref>。これに対し、軍事政権は力によってクーデターに反対する活動を弾圧しようとしており、[[治安部隊]]の[[発砲]]によって[[非武装]]の[[民間人]]に死者が多数出ている<ref>[https://www.bbc.com/japanese/56410962 ミャンマー国軍、戒厳令の対象地域拡大 1日の死者はクーデター以降最悪の50人に]『[[BBC]]』(2021年3月16日)2021年3月25日閲覧</ref>。だが、反クーデター勢力は[[4月16日]]に[[国民統一政府 (ミャンマー)|国民統一政府]](NUG)、次いで[[5月5日]]に{{仮リンク|国民防衛隊|en|People's Defence Force (Myanmar)}}(PDF)を設立して軍事政権に対抗する姿勢を崩しておらず、[[ミャンマー内戦]]の激化が懸念されている<ref>[https://www.sankei.com/article/20210622-TPVCLB4QVFJLLITSXEHR3HJ23Y/ ミャンマー内戦の危機 親軍派殺害相次ぐ]『[[産経新聞]]』(2021年6月22日)2021年6月24日閲覧</ref>。 |
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クーデターを受け、国外では[[アメリカ合衆国]]、[[ヨーロッパ]]諸国、[[日本]]、[[インド]]、[[国際連合]]、[[欧州連合]](EU)が軍部に対しスー・チーらの解放と民政復帰を求める声明を発表した<ref name="reuters"/>。その後、軍部の弾圧により抗議デモへ参加した市民が大勢死傷したことを受け、アメリカとEUはミャンマー軍関係者に対する[[経済制裁|制裁]]を開始。これに対し軍政の報道官は[[記者会見]]で、今後ミャンマーは中国等の近隣5か国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した<ref name="NHK20210323"/>。 |
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== 政治 == |
== 政治 == |
2022年5月21日 (土) 06:00時点における版
- ミャンマー連邦共和国
- ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်
-
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:
- "ガバ・マ・チェ"
- (日本語: "世界の終わりまで")
-
公用語 ビルマ語 首都 ネピドー 最大の都市 ヤンゴン - 政府
-
軍事政権 国家行政評議会議長 ミン・アウン・フライン[注 1]
国家行政評議会副議長 ソウ・ウイン
大統領代行 ミンスエ[注 1]
暫定首相 ミン・アウン・フライン
国民統一政府 大統領 ウィンミン[注 2]
副大統領 ドゥワ・ラシ・ラ[注 3]
国家顧問 アウンサンスーチー[注 2]
首相 マン・ウィン・カイン・タン[注 3] - 面積
-
総計 676,578km2(40位) 水面積率 3.06% - 人口
-
総計(2020年) 54,410,000[1]人(26位) 人口密度 83.3[1]人/km2 - GDP(自国通貨表示)
-
合計(2020年) 115兆1057億6100万[2]チャット - GDP(MER)
-
合計(2020年) 812億5700万[2]ドル(67位) 1人あたり 1,527.434(推計)[2]ドル - GDP(PPP)
-
合計(2020年) 2788億600万[2]ドル(54位) 1人あたり 5,240.843(推計)[2]ドル
独立
- 日付イギリスより
1948年1月4日通貨 チャット(MMK) 時間帯 UTC+6:30 (DST:なし) ISO 3166-1 MM / MMR ccTLD .mm 国際電話番号 95 - 注2: かつてのccTLDは.bu
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်[注 4]、英語: Republic of the Union of Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はチャット、人口は5,142万人(2014年)[3]。
インドシナ半島の西海岸をしめるミャンマーの国土は、日本の約1.8倍の面積を持ち、南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。インド東部とミャンマーはベンガル湾を挟み相対している[注 5]。国境は、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと接する。
多民族国家で[5]、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。ほかにカレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族[6]などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い[7](言語参照)。
概要
ミャンマーでは初期の文明としてはモン族がイラワジ川流域に栄えたが、南下してきたビルマ族が1050年代にパガン朝を建てた。パガン朝が1287年にモンゴルの侵略で滅ぼされた後は小国分立したが、ビルマ族のタウングー朝が1531年に国土を再統一。タウングー朝は1752年にモン族に滅ぼされたが、間もなくコンバウン朝が成立して全ビルマを統一。19世紀に3度にわたる英緬戦争でコンバウン朝が滅びた後はイギリス植民地となった。1886年にイギリス領インド帝国の一州とされたが、1935年にはインドと分離された。第二次世界大戦中に日本の占領を受け、ビルマ国としてイギリスから独立したが、日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻った。その後英植民地体制崩壊の流れの中で1948年に英連邦に参加せずビルマ連邦共和国として独立。1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウィンの独裁政権となる。1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名。1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊したが、これを危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を開始し、国名をミャンマー連邦に改名した[8][9]。
独立してからのほとんどの期間、ミャンマーは横行する民族紛争に巻き込まれ、無数の民族グループが世界で最も長く続いている内戦の一つに巻き込まれてきた。この間、国連をはじめとするいくつかの組織は、一貫して組織的な人権侵害を報告してきた[10][11][12]。
2011年には、2010年の総選挙で軍事政権が正式に解散し、名目上の文民政権が発足した。これにより、アウンサンスーチーや政治犯の釈放とともに、同国の人権記録や対外関係が改善され、貿易などの経済制裁が緩和された[13][14]。また国名をミャンマー連邦共和国に改名した[8][9]。しかし、政府の少数民族への扱いや民族反乱への対応、宗教的な衝突への批判が続いている[15][16]。2015年に行われた画期的な選挙では、アウンサンスーチーの党が両院で過半数を獲得した。しかし、ミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続けた。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言した。軍は政権が国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官に「移譲された」とし、政権を奪取したと発表した(2021年ミャンマークーデター)[17]。
ミャンマーは東アジアサミット、非同盟運動、ASEAN、BIMSTECに加盟しているが、英連邦には加盟していない。ヒスイや宝石、石油、天然ガスなどの鉱物資源が豊富な国である。再生可能エネルギーにも恵まれており、太陽光発電のポテンシャルは大メコン地域の中で最も高い[18]。2013年のGDP(名目)は567億米ドル、GDP(PPP)は2,215億米ドルであった[19]。経済の大部分が旧軍事政権の支持者によって支配されているため、ミャンマーの所得格差は世界で最も大きい[20][21]。
人口のうち70%をビルマ族が占め、カチン族、シャン族、カレン族などの少数民族が25%を占める。それ以外には中国人やインド人が暮らしている[8]。宗教は住民の大半(85%)が上座部仏教を信仰し、他にヒンドゥー教などがある[8]。公用語はビルマ語が大半を占め、一部に少数民族の言語が存在する[8]。
地理としてはインドシナ半島西部を占め、アンダマン海に面している。おおむね北部が高く南部が低い地形であり、西部にはアラカン山脈(最高峰は3053mのヴィクトリア山)が南北に走る。東部はラオスやタイに続くシャン高原(シャン州)が広がっており、サルウィン川が南流している。中央部をイラワジ川とシッタン川が南流し、下流部に大デルタを形成している。南東端タニンダーリ地方域は入江と小島が多い。熱帯季節風気候であり、雨季(5-10月)と乾季(11-4月)の別が明瞭である[8]。
国名
正式名称のビルマ語表記は、。国際音声記号では、/pjìdàʊNzṵ t̪àməda̰ mjəmà nàɪNŋœ̀ndɔ̀/(ピーダウンズー・タマダー・ミャマー・ナインガンドー、Pyidaungzu Thanmada Myanma Naingngandaw)。通称は、Myanmar Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(、バマー)、文語的な呼称としてMyanmar(、ミャンマー)があり、ミャンマーでは古くからこの2つの呼称を使い分けている。
2010年以降の公式の英語表記は Republic of the Union of Myanmar[22]。通称は Myanmar。
2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦。
1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )。
1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦(公式の英語表記はUnion of Myanmar )。
通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫してビルマ。漢語(北京官話)で緬甸(Miǎn diàn)と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語の緬も用いられた(泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称(ビルマ国)にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989年6月18日に軍事政権「国家法秩序回復評議会」(SLORC)は、国名の英語表記を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧つきで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。『朝日新聞』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の春ごろに「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。
軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし、「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。
名称変更を認めていない立場から、アウンサンスーチーやビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)のほか、アメリカ合衆国は「ビルマ」とし、イギリス、EUが両表記を併記する例もあった。ASEAN諸国、日本、インド、中国、オーストラリア、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、『ワシントン・ポスト』、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、『タイム』は「ビルマ」を用い、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』、CNN、AP通信、ロイターは「ミャンマー」を採用している。BBCは2014年に変更し、軍事政権の否定からビルマを使用していた人権団体は民主化してから併記を採用している[23]。
歴史
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃氏の六詔の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて南詔となった。
政治
この節の加筆が望まれています。 |
ミャンマーは大統領を元首とする共和制国家であったが、2021年ミャンマークーデターにより、国家行政評議会議長を事実上の国家指導者とする軍事政権となっている。
ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。
軍政以前の議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けた。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。
軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。しかし1998年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1990年にはアメリカ合衆国にビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟のセイン・ウィン(Sein Win)であった。
2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト・長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している[注 6]。
2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[25]。同年2月15日、国連人権理事会のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[26]。4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[27]。11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーの軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除された。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ[28]。
2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた[29][30]。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意[31]。10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[32]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[33]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。
その後、2016年3月30日に国民民主連盟が選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。
2021年2月1日、軍事クーデターが発生しミャンマー国軍総司令官が全権を掌握した[34]。
元首・行政
国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出された。さらに、2016年3月にはNLDのティンチョーが大統領に就任した。
- それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。国家平和発展評議会は、1988年9月18日のクーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織である。立法権と行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。同評議会は2011年3月に解散した。
ただし、NLDがティンチョーを大統領に擁立したのは、軍事政権下で制定された憲法の規定ではNLD党首のアウンサンスーチーが大統領就任資格を奪われている(アウンサンスーチーはイギリス国籍の息子を持つのであるが、憲法では外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)ため、アウンサンスーチーの「代理」としての意味合いであった。アウンサンスーチー自身も、新大統領は何らの権限を持たない傀儡であって全てを決定するのは自分であると明言していた。新政権ではアウンサンスーチーは外務大臣兼大統領府大臣、さらには新設の「国家顧問」に就き、政権の実権を掌握する体制を整えた。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。
2021年2月1日、ミャンマー軍は大統領と国家顧問を拘束し全権を掌握したと発表した。これにより国軍最高司令官が事実上の国家の指導者となった。
2021年2月2日、ミャンマー国軍は、軍幹部ら16人による国家行政評議会を設置したと発表した。この機関は閣僚の人事権も握っており、軍事政権における行政の最高機関になっているとみられている。
立法
2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会(Pyidaungsu Hluttaw)が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。
2010年11月7日、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された[35]。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し[注 7]、NDFの議席は少数にとどまった。
2011年1月31日、総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった[37]。
2012年4月1日にはミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った[38]。
2015年11月8日に行われた総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。
司法
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経済
IMFの統計によると、2017年のミャンマーのGDPは673億ドル。一人当たりのGDPは推定1,278ドルであり[39]、国連の基準では「後発開発途上国」と位置づけられている[40]。
産業
主要農産物は米で、農地の60%を水田が占める。国際米作研究所が1966年から30年間にわたり、52種の米を全土で試験栽培し、収量向上に貢献した。
また、宝石の産出量も多く、世界のルビーの9割を産出し、タイがそのほとんどを購入している。サファイアも品質の高さで知られる。しかし、採掘はほとんどが国営で、労働環境の悪さから欧米などの人権団体は不買を呼びかけている。
ミャンマー政府やミャンマー観光連盟は、外国人観光客の誘致に力を入れている。入国に必要な観光ビザの免除対象は、ASEAN諸国(マレーシアを除く)に加えて、2018年10月から日本と大韓民国も1年の試行措置として追加された。一方で、ロヒンギャ問題での国際的な批判が支障になっている[41]。
経済史
ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域の一つであった。チークなど木材をはじめ天然資源が豊富で、石油の生産・輸出も盛んに行われていた。また人的資源も優れており、識字率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた。1952年に経済開発計画が立案されたが、内乱や外貨事情の悪化から4年ほどで破棄される結果に終わった。
1962年から1988年まで、ネ・ウィン軍事政権はビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導の統制経済による開発を行なった。この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地も国有化された。また、工業化政策によって1960 - 1970年代において、工業は一応の発展を遂げた。しかし、1980年代に至ってもGDPで工業が占める割合は10%程度で、依然農業が主産業の座を占めていた。また、鎖国的な経済体制によって、最貧国と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となった。
1988年のソウ・マウンによる軍事クーデター後、ビルマ援助国の大部分が経済援助を凍結した為、国家法秩序回復評議会 (SLORC) は社会主義計画経済の放棄と自由市場経済体制への転換を決めた。SLORCは、豊富な天然資源と安価な労働力を基とした民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出し、外国人による投資の大幅な許容、近隣諸国との国境貿易合法化や国営企業の民営化等、市場経済改革が実施された。
21世紀初頭には工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見えた。しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。また、天然資源採掘地域においては、強制労働・強制移住などの人権侵害が行われているという事実がある。
以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行った。特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えた。近年、民間製造業において急速に発展してきた縫製産業は、そのほとんどがアメリカ向けの輸出産業であったため、経済制裁発動後は多くの工場が操業停止状態に追い込まれ、そこで働いていた多くの労働者が職を失った。
このように、ミャンマー経済は政治的要因により、離陸の機会を失ってきたと考えられた。ベトナムやカンボジア、ラオス、バングラデシュなど、周辺国は2000年代になって以降、衣類生産など軽工業の発達で経済成長の緒に就き、ミャンマー(当時はビルマ)と同じように80年代~90年代に経済低迷を経験したフィリピンも2000年代からコールセンターなどサービス業の台頭で経済的な飛躍が見られるが、ミャンマーは諸事情で取り残されているとされていたが、最大都市のヤンゴン周辺では工業化も見られ後述で述べるとおり「アジア最後のフロンティア」と呼ばれることもある。
欧米が投資や貿易を控えてきたのに対し、中国とインドは軍事政権時代から関係強化に努めた。投資をしている国は中国、シンガポール、韓国、インド、タイなどである。特に中国はマラッカ海峡を通らずに石油を自国に運ぶため、ミャンマーから原油とガスを輸入するための中国・ビルマ・パイプライン(チャウッピュー・昆明市間771 kmを結ぶ石油パイプラインと、チャウッピュー・貴州省間2,806 kmを結ぶガスパイプライン)とラムリー島のチャウッピューに大型船が寄港可能な港湾施設、Myitsone hydro-power plantやTaSang hydro-power plantを建設しようとしており[42]、ロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド社が建設・エネルギー関連事業を独占的に受注している[43]。
2010年にミャンマーは民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済は再び国際社会に復帰。「アジア最後のフロンティア」と呼ばれるまでに経済成長が有望視される国家へと変貌を飛げた[44]。国有企業や国軍系列企業以外に、民間企業も育ちつつあり、一部は多角化で財閥を形成しつつある(ダゴン・インターナショナルなど)[45]。
2015年の総選挙結果を受け民政移管後の経済発展を見越したヤンゴン証券取引所が、日本の金融庁や大和総研、日本取引所グループの支援で発足。2016年3月25日、取引を開始した。
日本との貿易
欧米諸国が軍事政権下のミャンマー製製品を輸入禁止にしてきたのに対し、日本は特に輸入規制などは行わず、日本はミャンマーにおける製品輸出先の5.65%(2009年)を占めた[46]。ミャンマー製のカジュアル衣類なども日本国内で販売されている。
しかし、日本貿易振興機構の資料によると、民政移管の2010年前後の時点でミャンマーに進出している企業は、中国が約27000社、タイが約1300社に比べ、日本はわずか50社に過ぎなかった。この背景には、ミャンマーに経済制裁を科していたアメリカの存在があり、アメリカとビジネスをしている企業は、アメリカでどのような扱いを受けるかを恐れ、ミャンマーに進出したくてもできない状態であるという[47]。
ただ、中国の賃金水準上昇と、チャイナ・リスクの存在が日本企業に広く認識されるようになり、米国向け輸出品が多く日本企業には不利なベトナムや、日本企業の誘致に消極的なカンボジアやバングラデシュなどの代わりに、「アジア最後の経済未開拓市場」との呼び声も高いミャンマーに対する日本の注目が2010年前後から集まった。ベトナムの約3分の1(ベトナムの賃金は中国の約6割)の賃金で従業員を雇え、中国と比較すると労働力の安さが特段際立っていた。しかしながら、ハエが飛び回るような不衛生な食品工場が多数存在している点や、労働環境の苛酷さや児童労働の存在、そして何より、ミャンマー独特の政治的事情などの課題も多かった。だが、2010年の総選挙で形式的ながら民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済を取り巻く環境は大幅に改善された[44]。
2012年に入って以降、アメリカが民主化を評価し、ミャンマーへの政策を改める見通しが出始めており、これまでアメリカの顔色を伺って現地進出したくてもできなかった日本企業にとっては明るい兆しと言える。また、ミャンマー側にとっても経済発展は悪い話ではないし、ベトナム、カンボジア、バングラデシュに大きく遅れをとったが、グローバリゼーションが進む21世紀の世界において、安いコストで衣類などの軽工業品を生産できることは、企業側にとっては良いビジネスになりうる。また、結果として多くのミャンマー国民の雇用を生み出すという点でも重要である。
2014年10月1日、ミャンマー政府が2011年の民主化後初となる、外銀6ヵ国9行に支店開設の仮認可を交付したと発表[48]。日本の銀行ではみずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行のメガバンク3行が仮認可を取得している。その後、2015年4月2日に三菱東京UFJ銀行、オーバーシー・チャイニーズ銀行、三井住友銀行の3行が正式認可を取得し、2015年4月22日に三菱東京UFJ銀行が、同23日にオーバーシー・チャイニーズ銀行と三井住友銀行がそれぞれ支店を開業した[49]。
2021年現在、ミャンマーは、東南アジアにおいて日本の最も有力な投資先の一つであり、日本による経済開発が行われている[50]。
自然災害
ミャンマーでは2008年、大型のサイクロンに襲われた。過去にもそのような事例があったが、今回のサイクロンは、社会基盤が脆弱だったこともあり、これまで以上に被害が拡大した。サイクロン・ナルギスも参照。
国際関係
一般
ビルマは中立的な立場による等距離外交を基本方針としているが、1983年10月にはラングーン事件を起こした北朝鮮と国交を断絶した(2006年10月に国交回復)他、1997年7月には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟している。また、欧米諸国とは、ビルマ国内の人権問題や政治の民主化をめぐる問題で対立しており、欧州連合(EU)からは経済制裁を受けている。その一方で、インド洋方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。また、軍事面から北朝鮮との関係が改善している。
歴代のタイ政府は、タイ・ビルマ国境に展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのバッファーゾーンとして利用してきた。また1990年代のタイ民主党政権(チュワン、アナン両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。しかし1990年代後半には保守政治家チャワリット・ヨンチャイユットらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。タイ政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、1997年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、政治改革に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。ASEAN加盟後のタイのチュワン・リークパイ政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にあった。ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に乗ることは決してなかった。アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キン・ニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が短期的には奏功しないことを示した。チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのがタクシン政権である。同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家や難民への取締を強化している。
2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。しかし、中国とロシアが拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカの3カ国。棄権はインドネシア、カタール、コンゴの3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。
2007年10月11日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。
軍政時代には中国[51]や北朝鮮といった独裁国家と親密であったミャンマーであったが、2011年以降急速に進んだ民主化により、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善した。アメリカのヒラリー・クリントン国務長官はネピドーを訪れた際、北朝鮮と縁を切るよう公式にテイン・セインミャンマー大統領との会談で要請した。
しかし、アウンサンスーチーが事実上のトップとなった後もロヒンギャ問題が起きたことで欧米との関係が冷え込んだ。
2021年2月1日に発生したミャンマー軍のクーデターでアウンサンスーチーが拘束され、軍事政権が復活するとアメリカやヨーロッパ諸国、日本、インド、国連、欧州連合からアウンサンスーチー解放と民政復帰を求める強い批判が起きた。特にアメリカ政府は制裁の復活をちらつかせているが、米軍とミャンマー軍に交流はほとんどないため、制裁の効果は限定的ではないかと見られている[52]。
対欧米関係
アメリカ政府はミャンマーの軍事政権に対して制裁を課してきたが、2011年に同国が民政移管を開始した2011年から段階的に制裁を解除してきたが[53]、2021年の軍部クーデターで再び軍事政権になり、市民の抗議デモの弾圧を開始したことを受けて制裁を再開した。ヨーロッパ諸国もアメリカに同調して制裁を再開。ミャンマーと欧米は再び対立関係に入った[54]。
対中関係
経済的に強く結びついており一帯一路構想に参加している。また欧米とは違い中国は国内の人権問題に口を出さないため接近している[55]。
特にミャンマー国軍は軍政時代から中国と親密な関係にあり、2021年2月1日のミャンマー軍によるクーデターの際にも国際社会がミャンマー軍を強く批判する中で中国はミャンマー軍を批判する声明を出さなかった[52]。
2021年3月23日、クーデター後に設置された最高意思決定機関の国家行政評議会の報道官は、今後ミャンマーは中国など近隣5ヶ国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した[56]。
4月1日、中国外相の王毅は欧米のミャンマー制裁について「出しゃばって勝手に圧力を加えるべきではない」と批判し、欧米はミャンマーへの「内政干渉」をやめるべきだと主張した[57]。
対日関係
日本とビルマはアウンサンの時代から大変濃密な関係にあり[50]、1954年11月の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは親日的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。日本は欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用し(長井健司射殺事件に関する福田康夫首相の発言「ただちに制裁するかどうかは、もう少し状況を見極めなければならない。わが国の援助は人道的な部分が多く、いきなり制裁ということではない[58]」など)、幾度か軍事政権に働きかけを行ったものの、長い間芳しい成果が上がらなかった。ビルマの軍歌には『軍艦行進曲』の旋律を流用したものがあり(ただし、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。
1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、最高勲章である「アウンサン・タゴン(=アウンサンの旗)勲章」を叙勲した[59]。
日本では東京の高田馬場に日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在し、ビルマ料理店やビルマ語教室などが集中している。在日ミャンマー人は約2万4千人(2019年)[60]。
2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上水道・下水道・道路・光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った。実際の開発はミャンマー側が日本企業を誘致して行う。ミャンマー側も日本に開発を委ねる意思をテイン・セイン大統領が示していた[61]。
イスラム系少数民族のロヒンギャの弾圧をめぐる国連事実調査団の設置に反対するなど日本は米欧に比べミャンマー政府寄りの立場を取る傾向にある[62]。
しかし2021年ミャンマークーデター後には抗議デモ弾圧を受けて日本政府はミャンマー軍を批判し、拘束中のアウンサンスーチーらの解放、民主的な政治体制の早期回復を求めた[63]。
軍事
ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。現有兵力は約41万人で、陸軍37万5千人、海軍1万6千人、空軍1万5千人からなる。この他に警察部隊7万2千人と民兵3万5千人が存在する[64]。陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。海軍基地、空軍基地が各6個ある。長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。
1950年代に国共内戦に巻き込まれた経験から対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもポートスーダンとのシーレンを守るエネルギー戦略上の拠点となっている(中国・ビルマ・パイプラインを参照)。
近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。
1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧東側諸国からの支援はほとんど行われず、西側諸国にしても南ベトナムのようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。このため、1980年代までは「黄金の三角地帯」対策として供与されたアメリカの装備(M101榴弾砲、UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機、ターボスラッシュ農業機―ケシ畑への除草剤散布に使用―など)を中心にしていた(この装備供与は麻薬取締局を擁するアメリカ国務省が主体となって行われており、当時のネ・ウィン政権に不信感を抱くCIAは反発していたとされる)。1990年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。
代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インド、ベトナム、イスラエル、シンガポール(制裁によって直接製造国からサポートできなくなった旧西側製装備の修繕など)であり、J-7やQ-5、MiG-29等の導入はその表れである。さらにラングーン事件以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、野砲・ロケット砲などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。その一方で、中国はワ州連合軍などのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。
また、外交関係が不安定であることから、古くから軍備の国産化が進んでいる。既に自動小銃(ガリルやH&K G3等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽装甲車などは国産での調達が可能と言われる。海軍が保有しているコルベットもミャンマーにて建造されたものである。
ミャンマー軍のヘルメットは迷彩柄で、形はアメリカ軍がかつて採用していたPASGTヘルメットで(通称フリッツヘルメット。同型のヘルメットを軍で使用している中国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。
少数民族の民兵組織
2009年現在も、カチン独立機構(KIO)の軍事部門であるカチン独立軍(KIA)、旧ビルマ共産党の流れを汲むワ州連合軍(UWSA)、カレン民族同盟の軍事部門であるカレン民族解放軍、シャン州軍(SSA)、コーカン族の民兵組織である全国ミャンマー民主同盟軍(MNDAA)などがあり、なかにはカレン民族解放軍の分派民主カレン仏教徒軍(DKBA)のように親政府の民兵組織まで存在する(その後、反政府に転向。同項参照)。
1990年代初頭にビルマ共産党が内紛で崩壊した事により、キン・ニュンが同党の後身組織であるワ州連合軍との停戦を成立させたのを皮切りに、カレン民族解放軍や(都市部での学生運動を端緒としており他の民兵組織と異なるが、弾圧により地下組織化した)全ビルマ学生連盟(ABFSU)などを除いてほとんどの組織は政府軍との停戦に応じている。ただし、この停戦は投降には程遠く、いずれの組織も武装解除にはほとんど応じず独自の解放区を維持し続けている。政府側は解放区における民兵組織の既得権益を追認し、その一方で解放区内に政府軍や警察部隊を進駐させるなど「飴とムチ」の構えをとっている。特にUWSAやSSA、MNDAAは麻薬製造を続けている一方で、国内ではホテルや銀行などの合法ビジネスも行なっており、現在でも中国などから入手した高度な装備を保有している。UWSAなどシャン州の民兵組織は中国・ミャンマー国境の軍事的に重要な地域に支配地域が存在しており、経済封鎖で中国偏重になっているミャンマー経済の生命線を握っているともいわれる。
これらの民兵組織は現在も停戦を続行しているものの、軍事政権内で和平推進派であったキン・ニュン派の失脚や停戦条件である自治拡大が実行されていない事などから反発を強めているともされている。とくに最近では和平推進派が軍事政権内で減退した事から強硬派が強まっているとされ、2009年には麻薬捜査を発端としてMNDAAとミャンマー政府軍が交戦状態に発展した。このほかの各民族の私兵にも自主的に解散もしくは国軍指揮下の国境警備隊へ編入するかを要求したが、全民兵組織から拒否されて頓挫した。2013年1月現在、国軍とカチン独立軍は交戦状態にあり、カチン州では難民が発生している。
かつて麻薬王として知られたクン・サ率いるモン・タイ軍は自主的に解体されたものの、同軍の将兵はUWSAなどに流れていった。旧ビルマ共産党は同項目に書かれている経緯から分裂して消滅しており、中国国民党の残党も高齢化や国際支援の消滅、クン・サなどの分派の登場などから既に過去の存在となっている。
核兵器開発疑惑
2010年6月4日、中東の衛星テレビ局アル・ジャジーラがミャンマー軍政が核兵器開発に着手した証拠があると報道した[65][66]。また、オーストラリアの新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド』によると、ミャンマーは北朝鮮の協力を得て、2014年までに原子爆弾を保有することを目指しているという。2010年12月9日には英紙「ガーディアン」が、軍政がミャンマー丘陵地帯で秘密地下核施設の建設をしているとの目撃情報がアメリカに伝えられ、また、北朝鮮技術者を見たという目撃情報も寄せられていたことが内部告発サイト「ウィキリークス」に掲載された米外交公電により明らかになったと報道した[67]。
地方行政区分
7つの地方域(タイン・データー・ジー)と7つの州(ピーネー)に分かれる。地方域は、主にビルマ族が多く居住する地域の行政区分。州は、ビルマ族以外の少数民族が多く居住する地域となっている。
- 地方域
- エーヤワディ地方域(管区)
- ザガイン地方域(管区)
- タニンダーリ地方域(管区)
- バゴー地方域(管区)
- マグウェ地方域(管区)
- マンダレー地方域(管区) - 2005年11月から首都となったネピドーが地方域南部に位置する。
- ヤンゴン地方域(管区)
通俗的に、上ビルマ (2,5,6) と下ビルマ (1,3,4,7) に区分される。
- 州
主要都市
- ヤンゴン
- タンリン郡区(旧称: シリアム) - ティラワ港
- マンダレー
- ネピドー
- モーラミャイン
- バゴー
- パテイン
- モンユワ
- メイッティーラ
- シットウェ(旧称: アキャブ)
- ダウェイ(旧称: タヴォイ)
- ミェイク(旧称: メルギー[注 8] - 英: Mergui)
軍事政権が変更した町の名称
軍事政権は1991年にビルマをミャンマーに変更し、それと同時に町の名称などを1000以上変更した。ここでは軍事政権が変えた町の名称を紹介する[注 9]。
旧名称(英字) | 旧名称(カナ) | 新名称(英字) | 新名称(カナ) | 備考 |
---|---|---|---|---|
Burma | ビルマ | Myanmar | ミャンマー | 1990年国際連合に申請、1991年に許可 |
Rangoon | ラングーン | Yangon | ヤンゴン | |
Pagan | パガン | Bagan | バガン | |
Akyab | アキャブ | Sittwe | シットウェ | |
Amherst | アムハースト | Kyaikkami | チャイッカミー | |
Arakan | アラカン | Rakhine | ヤカイン | ラカイン州(Rakhine State) |
Bassein | バセイン(バッセイン) | Pathein | パテイン(パセイン) | |
Maymyo | メイミョー | Pyin U Lwin | ピンウールィン | Pyin Oo Lwin(ピーン・オー・ルウィン)とも表記 |
Moulmein | モールメイン | Mawlamyine | モーラミャイン | |
Myohaung | ミョーハウン | Mrauk U | ミャウウー | Mrauk Ooとも表記 |
Pegu | ペグー | Bago | バゴー | バゴー地方域 |
Prome | プローム | Pyay | ピェイ | Pyi(ピー)とも表記 |
Sandoway | サンドウェイ | Thandwe | チャンドウェー | |
Syriam | シリアム | Thanlyin | チャンリーン | |
Yaunghwe | ヤウンウェー | Nyaung Shwe | ニャウンシュウェ | |
Irrawaddy River | イラワジ川 | Ayeyarwady River | エーヤワディー川 | |
Salween River | サルウィン川 | Thanlwin River | タンルウィン川 | |
Sittang River | シッタン川 | Sittoung River | シッタン川 (※日本読み同じ) |
|
Tennasserim | テナセリウム | Tanintharyi | タニンダーリ | タニンダーリ地方域 |
地理
ミャンマーは北緯10度から28度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。陸では中国、タイ、ラオス、インド、バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約4,600kmに達する。最高地点は北部国境のカカボラジ山 (海抜5881m)。マレー半島の北西部をタイと分かつ形で約400km南方に国土が延びる。 海側はアンダマン海とベンガル湾に面し、海岸線の全長は約2,000kmである。両海の境となるアンダマン諸島とニコバル諸島はどちらもインド領である。
気候
国土の大半が熱帯又は亜熱帯に属するが、気温や降水量は地域による差異が大きい。ベンガル湾やアンダマン海の沿海部は年間降水量が5000mmを越える有数の多雨地域で、ケッペンの気候分類によれば典型的な熱帯モンスーン気候(Am)を示す。マンダレーやバガンが位置する内陸部は熱帯サバナ気候(Aw)で、年間降水量が1000mmを下回る地域がある。またシャン州、カチン州やチン州といった山岳地帯は、温暖冬期少雨気候(Cfw)に分類される。最寒月の平均気温が18度を下回る地域があり一部では降雪も見られる。
水理
ミャンマーは国全体に多くの河川が行き渡っている。国土の中央をエーヤワディー川が縦断しており、河口付近は広大なデルタ地帯を形成している。主要な河川としては、他にサルウィン川やチンドウィン川等がある。 古くから水上輸送に利用されてきたため、都市の発展と関係が深い。雨季を中心に高潮・洪水の被害が発生することが多い。
交通
道路・鉄道・水運とも南北方向には発達しているが、河川を跨ぐ東西間の交通は整備されていない。鉄道車両は日本から多く輸出されている。
国民
人口
2014年春、31年ぶりに国勢調査が行われた。3月30日時点での人口は51,419,420人で、前回に行われた1983年国勢調査値(31,124,908人)から二千万人増えていた。
しかし、1983年国勢調査以降にビルマ/ミャンマー政府が出していた推計人口(2012年では60,975,993人)は六千万人台であった為、九百万人近く多く見積もられていたことが発覚した[69]。それまでは国際通貨基金(IMF)やアジア開発銀行(ADB)が6100万~6400万人程度と推計していた。
民族
- ビルマ族 68%
- シャン族 9%
- カレン族 7%
- ラカイン族 3.5%
- 中華系 2.5%
- モン族 2%
- カチン族 1.5%
- インド系 1.25%
- カヤー族 0.75%
- 他(チン族, ワ族, ナガ族, ラフ族, リス族, トーアン族他) 4.5%[70]
言語
公用語はビルマ語である。しかし、一部の民族には、全く通じない所もある。
宗教
ミャンマーでは、仏教が信仰されており、人口の9割が仏教徒と言われている。そしてミャンマーの人口の13%が僧侶で占めていると言われており、約800万人もの僧侶がいることになる。
-
ミャンマーの上座部仏教の修行僧
人名
一般的に姓は持たない[72][73]。必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。便宜的に自分の名の一部を姓として使用する者もいる[74]。また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決める。命名は、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から付けられることが多く、このため同じ名前を持つ者が多い。
従来はタン、ヌのような1語やバー・モウなどの2語の名がほとんどであったが、独立後からアウン・サン・スー・チーのような4語や5語の名前が見られるようになった。アウン・サン・スー・チーのように、子の名前に父祖の名前を組み込むこともある。 名前を表記する場合は、語の間に空間や「・」を入れて表記するが、あくまで便宜的なもので発音はつなげて行う[75]。「アウン・サン・スー・チー」を例にとれば、区切りを意識せずに「アウンサンスーチー」と1語として呼称することが一般的であり、一部の華僑のように英語名がない限り一部だけを読むことはない。
外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められるような状況)で、便宜的に敬称や尊称や謙称を使って、苗字とする場合もある。男性敬称のウー(ウ)や女性敬称のドオ(ドー)が用いられ、国連事務総長を務めたウ・タントなどがその例である。ビルマ語でのウーは英語のミスターなどと違い、自称もされる[76]。
なお、姓を持たないため、結婚しても人名が変わることはない(姓の存在を前提とする夫婦別姓とは異なる)[74]。
教育
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文化
衣料・化粧品
民族衣装としてロンジーがある。化粧品は「タナカ」が多く使われている。
音楽
伝統音楽・楽器としては、『ビルマの竪琴』に登場した「サウン・ガウ」が日本では知られている。
西洋音楽を演奏する国立交響楽団が2001年に設立された。政治情勢から活動は2004年に一時停止状態となり、2012年に再開。日本人指揮者の山本祐ノ介らが指導に当たっている[77]。
食文化
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映画
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- ミャンマーを題材とした作品一覧
- 『ビルマVJ 消された革命』
- 『ランボー/最後の戦場』
- 竹山道雄『ビルマの竪琴』
- 『With You 〜みつめていたい〜』
- 『THWAY-血の絆』千野皓司監督
- 『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』
世界遺産
ミャンマー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | ラテン文字表記 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1月4日 | 独立記念日 | လွတ်လပ်ရေးနေ့ | Lut lat yay nei | 1948年1月4日の独立を記念 |
2月12日 | ユニオンデー | ပြည်ထောင်စုနေ့ | Pyidaungzu nei | 1947年2月12日の各民族間のパンロン合意を記念 |
3月2日 | 小作農の日 | တောင်သူလယ်သမားနေ့ | Taungthu lè thama nei | |
3月13日 | タバウンの満月 | တပေါင်းလပြည့်နေ့ | Tabaung la pyei nei | パゴダを作る祭 |
3月27日 | 国軍記念日 | တပ်မတော်နေ့ | Tatmadaw nei | 1945年3月27日のビルマ国軍対日蜂起を記念 |
4月13日 - 4月16日 | 水祭り(ティンジャン) | သင်္ကြန် | Thingyan | ビルマの新年を祝う |
4月17日 | ビルマの新年 | နှဈကူး | Bama hnithitku | |
5月1日 | 労働節 | အလုပ်သမားနေ့ | A louk thama nei | |
5月11日 | カゾンの満月 | ကဆုန်လပြည့်နေ့ | Kason la pyei Boda nei | 仏陀の誕生・入滅・悟りを菩提樹に水をかけて祝う |
7月9日 | 雨安居(仏教徒受難節始日) | ဝါဆိုလပြည့်နေ့ | Waso la pyei nei | |
7月19日 | 殉教者の日 | အာဇာနည်နေ့ | Azani nei | 1947年7月19日のアウンサンらの暗殺を追悼 |
10月6日 | 仏教徒受難節終日 | သီတင်းကျွတ် | Thadingyut | |
10月 - 11月 | ディーワーリー | ဒေဝါလီ | Deiwali | |
11月4日 | ダザウンダインの満月 | တန်ဆောင်မုန်းလပြည့်နေ့၊ တန်ဆောင်တိုင်ပွဲ | Tazaungdaing pwe | ランタンの祭り。伝統暦8番目の月ダザウンモン月(တန်ဆောင်မုန်း)にあたり、熱気球が打ち上げられる[80]。 |
11月14日 | 国慶日 | အမျိုးသားနေ့ | Amyotha nei | 1920年11月14日のビルマ最初の学生ストを記念 |
12月19日 | カレンの新年 | ကရင်နှဈသဈကူး | Kayin hnithiku | カレン族の新年 |
12月25日 | クリスマス | ခရစ်စမတ် | Hkarissamat nei | |
11月 - 1月 | イード | အစ်စလာမ် ဘာသာ | Id nei | イスラム教徒の祭日(イード・アル=フィトル、イード・アル=アドハー) |
スポーツ
サッカー
ミャンマー国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2009年にプロサッカーリーグのミャンマーサッカーリーグが創設された。2012年にはJリーグとパートナーシップ協定を締結[81]している。ミャンマーサッカー連盟[82]によって構成されるサッカーミャンマー代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしAFCアジアカップでは、ビルマ時代に1968年大会で準優勝の成績を収めるなどしている。
オリンピック
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脚注
注釈
- ^ a b 国際社会は、軍事政権の正当性を認めていないが、2021年のクーデターにより軍部が政権を掌握している。
- ^ a b 2021年のクーデターで軍により拘束され、職務を停止されている。
- ^ a b 連邦議会代表委員会により国民統一政府内閣の代表として任命された。同委員会はアウンサンスーチーが党首を務める国民民主連盟(NLD)の議員らが2021年のクーデターに対抗して設立した議員グループ。
- ^ ビルマ文字の表示法に対応していない環境が多いため、画像で示す - /pjìdàʊNzṵ t̪àməda̰ mjəmà nàɪNŋœ̀ndɔ̀/(ピーダウンズー・タマダー・ミャマー・ナインガンドー)
- ^ 【参考】ベンガル湾南部、ミャンマー南部沖には、インド領のアンダマン・ニコバル諸島が位置する。近年、インドは中国の海洋進出に対し地理的にも戦略上も重要拠点として同諸島を整備しており、その重要性が高まっている[4]。
- ^ I will be an ordinary citizen, a lay person, and my colleagues will too because it will be a civilian government.[24]
- ^ 2010年11月には複数政党制民主主義制度に基づく総選挙を20年ぶりに実施した結果、連邦連帯開発党 (USDP) が連邦及び地方議会の双方で8割近くの議席を獲得して圧勝した[36]。
- ^ メルグイとも
- ^ 日本語表記は、株式会社ワールドトラベルのウェブサイトなどを参照[68]。
出典
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- ^ 大野, 徹『ビルマ(ミャンマー)語辞典』大学書林、2000年、490頁。ISBN 4-475-00145-5。
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- ^ 元々は「ビルマサッカー連盟」として1947年に設立されている。
関連文献
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関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 法制度
- ミャンマー連邦共和国法制度調査 - 法務省が法整備支援の一環として委託した会社法、債権法、労働法、物権法、民事訴訟法・仲裁法、外国投資法制の調査。
- 観光
- その他
- JETRO - ミャンマー
- 日本アセアンセンター - ミャンマー
- 『ミャンマー』 - コトバンク
- ミャンマー語版ウィキペディア
- "Burma". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency.
- ミャンマー - DMOZ
- ミャンマーのウィキメディア地図
- ミャンマーに関連する地理データ - オープンストリートマップ