鈴木敬司
鈴木 敬司 | |
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鈴木敬司大佐 | |
生誕 |
1897年2月6日 日本 静岡県 |
死没 | 1967年9月20日(70歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1918 - 1945 |
最終階級 | 陸軍少将 |
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。
人物・生涯
[編集]静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付仰付(フィリピン潜入)を務める。1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進。陸大教官を経て、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級し参謀本部員に就任。1939年(昭和14年)1月、大本営第10課長を兼務し、同年8月、歩兵大佐に昇進。同年12月、参謀本部付として蘭印駐在となった。
1940年(昭和15年)6月から10月まで、「南益世」名でビルマに出張した。1941年(昭和16年)2月、南機関長となりバンコクに駐在し、同年11月、南方軍総司令部付としてビルマ工作に従事。1942年(昭和17年)6月、留守近衛師団司令部付に発令され、翌月、ラングーンを離れた。同年8月、第7師団参謀長に就任。アウンサンを始め30人の若者を選抜して密かにビルマを脱出させ、日本占領下の海南島へ集結させた後、陸軍中野学校で徹底的に軍事訓練を施した[1]。これが後の30人の同志となる。
1943年(昭和18年)6月、陸軍運輸部付(東京出張所長)となる。同年8月、陸軍少将に進級。以後、第2船舶輸送地区隊長、第27軍参謀長を歴任。1945年(昭和20年)2月、第5船舶輸送司令官に就任。同年4月、札幌地区鉄道司令官を兼務し終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入された。敗戦後、英軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行されたが、アウンサン将軍の抗議により釈放された。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
ミャンマー政府は1981年4月、ミャンマー独立に貢献した鈴木ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している(鈴木の未亡人の節子が勲章を受け取った)[3]。
脚注
[編集]- ^ 小神野真弘『アジアの人々が見た太平洋戦争』 平成27年4月10日 第一刷発行 彩図社 ISBN 978-4-8013-0066-8 93,94頁
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」139頁。
- ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. 夕刊フジ. 2019年5月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年(昭和56年)。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年(平成13年)。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年(平成17年)。
外部リンク
[編集]- 陸軍士官学校卒業別有名陸軍軍人紹介 - ウェイバックマシン(2004年3月1日アーカイブ分)