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* 『[[次郎長三国志 甲州路殴り込み]]』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1965年8月25日公開(映倫番号 14073) - 佐藤晟也(長門裕之・鶴田浩二)、90分の上映用プリントをNFCが所蔵
* 『[[次郎長三国志 甲州路殴り込み]]』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1965年8月25日公開(映倫番号 14073) - 佐藤晟也(長門裕之・鶴田浩二)、90分の上映用プリントをNFCが所蔵


* 『[[次郎長三国志 (1968年のテレビドラマ)|次郎長三国志]]』 : 原作村上元三、1968年4月7日 - 同年9月29日放映([[テレビ映画|連続テレビ映画]]・全26回) - 不明([[山田吾一]]・[[中野誠也]])
* 『[[次郎長三国志 (1968年のテレビドラマ)|次郎長三国志]]』 : 原作村上元三、1968年4月7日 - 同年9月29日放映([[テレビ映画|連続テレビ映画]]・全26回) - 不明([[山田吾一]]・[[中野誠也 (俳優)|中野誠也]])
* 『[[清水次郎長 (1971年のテレビドラマ)|清水次郎長]]』 : 1971年5月8日 - 1972年4月29日放映(連続テレビ映画・全52回) - 不明([[あおい輝彦]]・[[竹脇無我]])
* 『[[清水次郎長 (1971年のテレビドラマ)|清水次郎長]]』 : 1971年5月8日 - 1972年4月29日放映(連続テレビ映画・全52回) - 不明([[あおい輝彦]]・[[竹脇無我]])
* 『[[次郎長三国志 (1974年のテレビドラマ)|次郎長三国志]]』 : 原作村上元三、1974年4月9日 - 同年9月24日放映(連続テレビ映画・全23回) - [[なべおさみ]]([[桜木健一]]・鶴田浩二)
* 『[[次郎長三国志 (1974年のテレビドラマ)|次郎長三国志]]』 : 原作村上元三、1974年4月9日 - 同年9月24日放映(連続テレビ映画・全23回) - [[なべおさみ]]([[桜木健一]]・鶴田浩二)

2022年5月15日 (日) 04:52時点における版

ぶたまつ

豚松
1871年(明治4年)の写真。
生誕 出生名不明
1840年前後
駿河国有渡郡三保村
死没 不明
別名 三保の豚松 (みほのぶたまつ)
三保の松五郎 (みほのまつごろう)
職業 侠客博徒
活動拠点 清水湊
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豚松(ぶたまつ)[1][2][3][4][5]村上元三小説次郎長三国志』に三保の豚松(みほのぶたまつ)として登場[6]清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる三保の松五郎(みほのまつごろう、1840年前後 - 没年不詳)は、かつて実在した日本の侠客である[4][7]。本名・出生名等は伝えられていない[4]。実際に隻眼隻腕であったのは豚松であり、講談浪曲映画等に描かれる森の石松の設定は、豚松からの流用であるとされる[4][5][8]

人物・来歴

正確な生年月日は不明であるが19世紀中ごろ、1840年前後の時期、駿河国有渡郡三保村静岡県静岡市清水区三保)の漁師の家に生まれる[4]。同村には駿河湾に臨む景勝地、三保の松原があり、清水湊(現在の静岡市清水区港町)はほど近かった[9]平岡正明は「次郎長の父親が難船して八丈島に漂着したとき、豚松の父親もいっしょに漂流した組で、父親同士が友人」と書いている[10]。次郎長の実父「雲不見の三右衛門」は清水湊の船持ち船頭であった。地元出身者を乾分に迎えない方針であった次郎長が、豚松を例外としたのは、双方の父親の関係によるという[10]

今川徳三は、清水湊に豚松が現れ「ふらふらしていた」ころには、すでに隻眼であったとする[4]。喧嘩で顔を切られて眼球が飛び出し、あまりの形相に斬った人物は逃げ出したといい、自力で眼球を眼窩に填めて医者に行き、治療の間は『よしこの節』(『潮来節』の変種[11])を歌っていたと伝えられる[4]。今川は、この説が、刈谷藩藩士・松本奎堂(1831年 - 1863年)が1848年(嘉永元年)に左眼を失明したときの有名なエピソードに酷似していることを指摘している[4][12]

平岡正明によれば、1864年(元治元年)に起きた次郎長一家と平井一家二代目の雲風亀吉(平井亀吉、1828年 - 1893年)との2度の喧嘩を平井村の役といい、重傷を負ったのはこのときであるという[8]。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十三回『長五伝檄催大衆 豚松振勇負重創』(長五檄を伝へて大衆を催し豚松勇振て重創を負ふ)という章があり、豚松の勇猛とその重傷が描かれている[2]。『東海遊侠伝』の同章には、豚松は、ひとりで5人を相手に戦闘し、まず左腕を斬られ、次に右顔面を斬られたが3人を倒した後、切断された腕を接着しようとしたが無理だったので投げ捨てたところ、仲間に親にもらった身体を捨てるなと言われて拾って帰った旨の記述がある[2]。同章の末尾には、その翌年には傷が癒えたので禁を破って飲酒したところ、回復せずに死んだ旨、書かれている[2]


今川によれば、腕を斬られたのは別の時期であり、1866年2月10日(慶応元年12月25日)、甲斐国八代郡上黒駒村黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)が、三河国宝飯郡蒲郡村(現在の愛知県蒲郡市)に殴り込みをかけた際に、豚松は左腕を切断する重傷を負ったが、それでも勝蔵一味を追い込み、引き上げる段になって左腕の損傷を仲間に指摘され「おや、ねえや」と言ったという話が残っているとする[4]。今川は、年明けすぐに伊勢国荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」の直前であり、この時点で勝蔵が蒲郡の殴り込みを行ったかどうかは怪しいと指摘する[4]。今川はそれとともに、腕の喜三郎(1642年 - 1715年[13])の物語に酷似している点も指摘している[4]。同年5月22日(慶応2年4月8日)午前10時、神戸の長吉(1839年 - 1866年)、吉良の仁吉(1839年 - 1866年)、大政(1832年 - 1881年)、小政(1842年 - 1874年)、大瀬半五郎(1820年 - 1886年)、小松村七五郎(1818年 - 1872年)、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)、奇妙院常五郎桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)、大野の鶴吉らとともに豚松こと「三保の松五郎」も、穴太徳一家と戦闘した「荒神山の喧嘩」に参戦したとされる[14]

『東海遊侠伝』では前述のようにすでに左腕と右眼の重傷を負った時点で死んだと記述されているが、明治維新後の1871年(明治4年)に行われた荒神山の手打式の終了直後に撮影された清水一家の集合写真には、右眼に古傷を負う青年の姿で豚松も写っている。今川徳三によれば、豚松はいわゆる「三ン下奴」ではなく、一家を構えた親分であったという[5]。次郎長が死去したのは、1893年(明治26年)6月12日、満73歳であったが[15]、この時点での豚松、あるいは「三保の松五郎」の消息は伝わっていない。梅蔭禅寺には、次郎長、次郎長夫人のお蝶、大政、小政、増川仙右衛門の墓もあるが[16]、豚松の墓は不明、没年も不明である。

静岡県議会議長を務めた村本喜代作が著した『次郎長巷談』(1953年)にも『豚松』に一章が割かれている[3]。フィクションであるが同年に『オール讀物』に連載されていた村上元三の小説『次郎長三国志』でも『三保の豚松』に一章を充てている[6][17]

フィクションの人物像

史実において豚松が「清水二十八人衆」であった時代は、正確には伝えられていないが、1864年 - 1871年をカヴァーする時期であったことは明らかである。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、浪曲師三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる[18]。三代目伯山の挙げる「清水二十八人衆」での豚松は「三保の松五郎」と表記され[7]、村上元三の小説『次郎長三国志』では「三保の豚松」と表記される[6]。森の石松を隻眼の設定にしたのは三代目伯山であり、豚松の史実を石松に負わせたものであるとされる[5][8][10]。『東海遊侠伝』に「三州の石松」として登場する三河国出身の石松を「遠州森の石松」と変更したのも、三代目伯山であり、村松梢風(1889年 - 1961年)であった[19]。平岡正明は石松の実像を「気のいい小柄な男で、片目でもどもりでもない」と記す[20]

マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは[21][22]、それぞれ加東大介佐藤晟也が演じている[22]。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、豚松を描く『三保の豚松』は第11章に当たる[17]。映画においては、東宝版では第四部に漁師として初登場、次郎長一家に加わりたくて引っ越し祝と称して魚を持って来たり、次郎長が開いた相撲興行で力士に勝ったりと盛んにアピール、いよいよ一家に加わるという筋である[22][23]。1953年(昭和28年)11月3日公開の第五部では、当初、加東大介の豚松を物語の主役に置き、第六部でも出番が多い設定であったが、加東が『七人の侍』(監督黒澤明、1954年4月26日公開)の「七郎次」にキャスティングされたため、第五部の撮影現場に「ブタマツコロセコウモリイワオ」(豚松殺せ乞う森岩雄)の電報が届き、急遽マキノは豚松が第五部で死ぬ設定に変更した[24][25]。第五部の豚松は「親分」と何度も次郎長の呼称を叫びながら死んでいく[25]。会社側の一方的なスケジュール上の都合で途中降板した加東大介と豚松のため、『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』(1954年6月8日公開)では法事が営まれるとともに、「豚松の母親」(馬野都留子)が登場する[26]。東映版では『次郎長三国志 第三部』と第4作の『次郎長三国志 甲州路殴り込み』に登場する[22]

片岡千恵蔵が次郎長を演じ、松田定次が監督した『勢揃い東海道』(1963年1月3日公開)では、森の石松はすでに登場せず、豚松を堺駿二が演じたほか、重複して香月涼二が演じる「三保の松五郎」が登場する[27]

「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である[19]。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、豚松は9番目の「三保の松五郎」、12番目の「豚松」と重複して登場する[18]。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である[18]。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては、豚松は存命であるが、石松は2年前にすでに死んでいる時期である[28]

フィルモグラフィ

「豚松」あるいは「三保の松五郎」が登場するおもな劇場用映画テレビ映画の一覧である[29][30][31][32]。公開日の右側には、「豚松(石松・次郎長)」の形式で豚松を演じた俳優名とともに、石松・次郎長を演じた俳優も記した。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[29][33]

脚注

  1. ^ 東海遊侠伝山本鉄眉近代デジタルライブラリー国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。
  2. ^ a b c d 山本[1884], p.145-156.
  3. ^ a b 村本[1953], p.166-168.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 今川[1971], p.167-169.
  5. ^ a b c d 今川[1982], p.152.
  6. ^ a b c 村上[1953], p.5-42.
  7. ^ a b 清水次郎長の二十八人衆を知りたい国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。
  8. ^ a b c 森石松コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  9. ^ 三保松原、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  10. ^ a b c 平岡[1989], p.324.
  11. ^ よしこの節、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  12. ^ 松本奎堂、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  13. ^ 腕の喜三郎、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  14. ^ 伊藤俊一[1976], p.42.
  15. ^ 清水次郎長、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  16. ^ 梅蔭寺小松園、2015年7月31日閲覧。
  17. ^ a b 次郎長三国志+村上元三、国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。
  18. ^ a b c 足立[1967], p.209.
  19. ^ a b 森の石松はどのように創られたか田村貞雄、『次郎長』第27号、次郎長翁を知る会、2015年7月31日閲覧。
  20. ^ 平岡[1989], p.342.
  21. ^ 次郎長三国志、コトバンク、2015年7月31日閲覧。
  22. ^ a b c d 次郎長三国志KINENOTE, 2015年7月31日閲覧。
  23. ^ 次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港 - KINENOTE, 2015年7月31日閲覧。
  24. ^ マキノ[1977], p.275.
  25. ^ a b 山田[2002], p.39, 63.
  26. ^ 次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊 - KINENOTE, 2015年7月31日閲覧。
  27. ^ 勢揃い東海道 - KINENOTE, 2015年7月31日閲覧。
  28. ^ 笹川[1936], p.236, 262.
  29. ^ a b 所蔵映画フィルム検索システム検索結果、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年7月31日閲覧。
  30. ^ 日本映画情報システム検索結果、文化庁、2015年7月31日閲覧。
  31. ^ KINENOTE検索結果、キネマ旬報社、2015年7月31日閲覧。
  32. ^ 日本映画データベース検索結果、日本映画データベース、2015年7月31日閲覧。
  33. ^ フィルムリスト検索結果、デジタル・ミーム、2015年7月31日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク