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2021年9月18日 (土) 07:16時点における版
海門 | |
---|---|
1887年頃、横須賀軍港での海門[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 横須賀造船所[2][3] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | スループ[4] |
建造費 | 615,756円[5] |
艦歴 | |
発注 | 1877年3月26日建造認許[6] |
起工 | 1877年9月1日[2] |
進水 | 1882年8月28日[2] |
竣工 | 1884年3月13日[2][7] |
最期 | 1904年7月5日沈没[8] |
除籍 | 1905年5月21日[9] |
要目 | |
排水量 |
1,352英トン[4] または1,358英トン[2][3][5] 試運転時:1,367英トン[10][11] |
トン数 | 925トン[4] |
垂線間長 |
63.47m[4] または212 ft 4 in (64.72 m)[5] |
最大幅 |
9.86m[4] または32 ft 6 in (9.91 m)[5] |
深さ |
6.11m[4] または22 ft 0 in (6.71 m)[5] |
吃水 |
前部4.24m、後部4.28m[4] または計画平均:16 ft 5 in (5.00 m)[3][5] |
ボイラー | 高円缶片面戻火式 4基[12] |
主機 | 横置還働式2段2気筒レシプロ機関 1基[13] |
推進 |
青銅製4翼[14] スクリュー・プロペラ[4] 1軸[15] 直径:13 ft 0 in (3.962 m)[16] ピッチ:20 ft 8 in (6.299 m)[16] |
出力 |
計画:1,250実馬力[15](250名馬力)[4] または計画:1,267馬力[5] 試運転成績:1,307馬力[3]、または1,042馬力[10] |
帆装 |
3檣バーク型[17] 帆面積9,987平方フィート[5] |
速力 |
計画:12ノット[4][5] 試運転成績:12.5ノット[3][10] |
燃料 | 1904年:石炭(定量[5])197トン[10][18] |
乗員 | 1885年12月定員:238名[19] |
兵装 |
竣工時[20] 17cmクルップ回転砲 1門 15cmクルップ回転砲 1門 12cmクルップ舷側砲 4門 |
その他 |
船材:木[13] 艦番号:32(1878年5月8日-)[21] |
海門(かいもん)は、日本海軍の軍艦で、 艦種はスループになる[4]。
概要
「磐城」に続いて計画主任を赤松則良として、3檣バーク型でスクリュー1軸の海防艦として計画し[17]、 横須賀造船所で6年半かけて建造された[22]。 進水式のときに世界で初めて鳩を飛ばしたことで有名である[22]。
日清戦争では韓国方面の警備を行い、次いで台湾作戦に従事した[9]。 戦後は佐世保鎮守府所属として主に韓国、台湾の警備艦とした[9]。 日露戦争では開戦直前に第3艦隊に編入し、戦争中は朝鮮海峡の警備、次いで旅大方面の警備と支援に従事[9]。 1904年(明治37年)7月5日18時23分に大連湾外で触雷し沈没した[9]。
艦名
艦名は鹿児島県の海門岳(開聞岳の別称)による[2]。 この山の別称として薩摩富士、筑紫富士、小富士などもあるという[2]。
なお『海軍省報告書』には明治9年11月16日に『鹿児島造船所ニ於テ新製ノ軍艦「海門」ト命号』とある[23]。 この鹿児島での建造計画は西南戦争で中止になり、艦名のみが本艦に襲名されたとの意見がある[22]。
艦型
3檣バーク型[17] のスループ[4]。 『#Conway(1860-1905)』ではスクリュー・コルベット(screw corvette)に分類している[24]。 また砲艦[22]、海防艦[13] とする文献もある。 船体は木製[13]。 設計時の概略要目は以下の通り[6]。
- 垂線間長:58.60m
- 最大幅:9.10m
- 吃水:4.05m
- 排水量:約1,500英トン
- 速力:12ノット
- 出力:250馬力
当初は磐城(600英トン)程度とされていたが[6]、 設計段階では約1,500英トン(日進程度)となった[6]。 実際の要目は表の通り。
帆走の場合に傾斜がひどくなるため、総帆を展開したことは無かったという記録が残る[25]。
機関
主機は横置還働式2段2気筒レシプロ機関1基[13]。 シリンダーの直径は高圧43+7/8インチ(1,114mm)、低圧74インチ(1,880mm)、行程は何れも30インチ(762mm)だった[14]。 また鋳鉄製箱型復水器1基を装備した[14]。
ボイラーは高円缶片面戻火式4基[12][26]、 缶管は3インチに増大し[13]、 蒸気圧力は60ポンド/平方インチに上昇した[14](磐城で45ポンド/平方インチ[27])。 煙突は昇降式とした[28]。
速力は計画で12ノット[4]、 試運転で12.5ノット出したとされる[10]。 『帝国海軍機関史』による公試成績は以下の通り。
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
自然通風全力 | 71rpm | 1,306.5馬力 | 12.9ノット | [14] |
1896年(明治29年)にボイラーは同型のものに換装した[29]。 または1900年(明治33年)11月に佐世保造船廠において三菱長崎造船所製の同型の新缶4基と換装した[14]。
兵装
表の兵装は『海軍艦艇史2』による[20]。 前部の17cmクルップ砲は旋回砲で、船体中心に繋止し、発射時は旋回して舷側に移動、両舷で発射可能だった[20]。 舷側の側砲は12cmクルップ砲を片舷2門ずつ、後部旋回砲は15cmクルップ砲を装備した[20]。 その他の文献による値は以下の通り。
- 『帝国海軍機関史』:17cmクルップ回転砲 1門、12cmクルップ舷側砲 6門、7.5cmクルップ砲 2門、12cm臼砲 2門[13]
- 『日本近世造船史明治時代』:17cm砲 1門、12cm砲 6門、7.5cm砲 1門、1インチ機砲 4基[5]
変遷
兵装では竣工直後に15cm砲を廃止して、12cm側砲を2門追加した[20]。 その後に1インチ4連諾典砲4基、小銃口径5連諾典砲1基、75mm短クルップ砲1門を追加した[20]。 日清戦争の頃にファイティングトップを大檣と中檣(中檣と前檣)に設けて機砲を搭載した[9]。
測量任務に従事するにあたり、1896年(明治29年)に佐世保で修理改装工事を行い、製図室を新設するなどの工事を行った[30]。この時行われたその他の工事は以下の通り。
- 小蒸気船を1隻から2隻に増備[25]
- 測量船を4隻新規搭載[31]
- マストを改造、前檣の帆は縦帆のみを残し、桁は信号用に2本のみ残す[32]
- 17cm砲1門、12cm砲2門を揚陸、戦時には戻せるようにしておく[33]
- ピンネース1隻、カッター1隻、ガレー1隻を廃止[34]
- 大檣(中檣)に木製デリックを新設[35]
- 煙突を固定[36]
- 破損しているキャプスタンを廃止し、その位置に蒸気ウィンドラスを装備。この工事はこの時は取りやめ、1898年(明治31年)1月に改造が認許された[37]。
- 艦橋(ブリッジ)を前部に新設し、その場所に舵輪を備える。従来の艦橋と舵輪は予備とする。この工事は1898年(明治31年)1月に改造が認許された[38]。
艦歴
建造
横須賀造船所は、
1877年(明治10年)
1月に製造が認許された砲艦(磐城)と同一の軍艦の建造を海軍省へ2月23日に上申し、3月26日認許されたが[6]、
新艦の大きさは大体日進と同じ程度の4等艦とされた[6]。
6月15日にその製図と仕法書の認可を伺い、6月21日認許された[6]。
建造予算は429,750円[4]。
この時に同一の艦をもう1隻建造するよう伺い出たが追って指令する、とされた[6](後の天龍[39])。
9月1日起工[40]。
1878年(明治11年)
2月19日、横須賀造船所で建造中の2隻は海門と天龍と命名され、翌20日に横須賀造船所は最初に着手した艦を海門、次の艦を天龍と決定したことを公表した[41]。
1879年(明治12年)
7月12日、海門の艦位は4等[42]、
定員は160人に定められた[43]。
1882年(明治15年)
8月28日進水式を行い、午後3時30分に進水した[44]。
進水式には東伏見宮が蒼龍丸で横須賀に来て名代として臨席[44]、
その他に岩田公、山縣参議、山田衆議、松方衆議、川村海軍卿などが臨席した[45]。
1883年(明治16年)
2月26日に艦位を4等から3等に改められた[44][46]。
12月7日に横須賀を出港して東京湾内のマイルポストで速力を測定(標柱間試験)、12.5ノットを記録した[47]。
また近海の試験航海として翌8日午後8時に横須賀を再度出港、9日午前9時20分に清水港に到着、11日午前2時30分に同地発、同日午後4時10分に横須賀に帰港した[47]。
船体と機関共に故障は無く好成績を収めた[47]。
1884年(明治17年)3月13日に海門は竣工[2]、
主船局に引き渡された[48]。
1883年
1883年(明治16年) 8月23日、海門は東海鎮守府所轄とされた[46]。
1884年-1886年
- 中艦隊
1884年(明治17年) 5月30日、海門と筑紫が中艦隊に編入された[49]。 11月22日、海門は横浜港を出港し朝鮮へ向かった[8]。
- 朝鮮事変
同年12月4日より翌1885年(明治18年)2月2日まで朝鮮事変に従軍し[8]、 朝鮮方面の警備を行った[50]。
- 常備小艦隊
1885年(明治18年)12月28日、中艦隊は解隊[51]、 同日扶桑、金剛、比叡、海門、筑紫、清輝、磐城、孟春で改めて常備小艦隊が編成された[51](春日を除く中艦隊の8隻)。
海門は朝鮮事変後も外国を航海し、1886年(明治19年)2月25日に馬関に帰着した[8]。
1888年
1888年(明治21年) 6月17日に品海を出港し、国内の諸港を巡った[8]。 海門は9月30日壱岐に到着した[8]。
1890年
1890年(明治23年) 8月23日、海門は第一種に定められた[50]。
1891年
1891年(明治24年) 3月8日、海門は佐世保港を出港、朝鮮に向かった[8]。 3月23日馬関に帰着した[8]。
大東島調査
1892年(明治25年)、「海門」は南大東島などの調査を行った。「海門」は那覇を出港するとまず南大東島へ行って7名が上陸して調査を行わせ、その後ラサ島に向かって3名を上陸させて約1時間半の調査を行った後、再び南大東島に戻って上陸調査中の7名を帰船させると、北大東島は上陸すらせず洋上からの視察で終え、帰途についた[52][53]。
日清戦争
1894年(明治27年)の日清戦争では 開戦後は内地で警備を行い、8月27日佐世保を出港[8]、 威海衛攻略作戦に参加した[50]。 翌1895年(明治28年) 5月1日呉港に帰着した[8]。 7月12日横須賀港を出港し、その後は台湾方面で行動した[8]。
1896年-1899年
1896年(明治29年) 海門は3月8日台湾から鹿児島に帰着した[8]。 以降は測量任務となって、近海の水路測量に従事した[50]。 5月頃から8月一杯の予定で佐世保で修理改装工事を行い、製図室を新設するなどの工事を行った[30]。 11月5日海門は鹿児島を出港[8]、 1897年(明治30年) 10月13日那覇に帰着した[8]。
1898年(明治31年)3月21日に艦艇類別等級標準が制定され、海門は三等海防艦に類別された[22]。 同年5月5日横須賀港を出港、9月7日鹿児島に帰着した[8]。
1899年(明治32年) 5月4日佐世保港を出港、8月28那覇に帰着した[8]。
1901年-1903年
この3年間はいずれも4月に国内を出港し秋まで韓国で行動した。 1901年(明治34年) 4月21日佐世保港を出港、9月7日佐世保に帰着した[8]。 1902年(明治35年) 4月19日門司港を出港、11月25日佐世保に帰着した[8]。 1903年(明治36年) 4月13日長崎港を出港、10月16日佐世保に帰着した[8]。
日露戦争
日露戦争では1904年(明治37年) 2月6日尾崎を出港[8]、 対馬海峡の警備、旅順攻略作戦に参加した[50]。 7月2日、砲艦「平遠」、仮装砲艦「第六宇和島丸」、「愛媛丸」とともに出撃した[54]。7月5日[8]、小平島付近での掃海作業援護後帰投中、(18時23分に[9])南三山島南南西沖で触雷[54]。4分で沈没し、艦長高橋守道中佐以下22名が戦死[55]。198名が僚艦に救助された[55]。
1905年(明治38年)5月21日海門は除籍された[9]。 1910年(明治43年)、残骸が売却された[50]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 坪井航三 中佐:1883年8月16日 - 1884年2月9日
- 磯辺包義 中佐:1884年2月9日 - 4月15日
- 児玉利国 中佐:1884年5月19日 - 1886年1月6日
- 隈崎守約 中佐:1886年1月6日 - 1886年7月14日
- 新井有貫 大佐:1886年7月14日 - 1888年6月14日
- 尾本知道 大佐:1888年6月14日 - 1889年3月9日
- (心得)平尾福三郎 少佐:1889年4月12日 - 8月29日
- 平尾福三郎 大佐:1889年8月29日 - 1890年9月17日
- 松永雄樹 大佐:1890年9月17日 - 1891年12月14日
- 柴山矢八 大佐:1891年12月14日 - 1893年4月20日
- (心得)桜井規矩之左右 少佐:1893年5月20日 - 1894年6月8日
- 早崎源吾 少佐:1895年8月20日 - 1896年4月1日
- 梨羽時起 少佐:1896年4月1日 - 8月13日
- 大塚暢雄 少佐:1896年8月13日 -
- 新島一郎 少佐:1897年4月17日 - 10月8日
- 大井上久麿 少佐:1897年10月8日 - 12月1日
- 矢島功 中佐:1897年12月27日 - 1898年2月10日
- 有川貞白 中佐:1898年2月10日 - 1899年9月29日
- 高橋守道 中佐:1901年3月23日 - 1904年7月5日戦死
脚注
出典
- ^ #艦艇写真集(2005)巡洋艦p.13
- ^ a b c d e f g h #浅井(1928)p.50,海門
- ^ a b c d e #日本近世造船史明治編(1973)428-433頁、「内国製艦艇表(試運転成績)」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻pp.209-210
- ^ a b c d e f g h i j k #日本近世造船史明治編(1973)352-355頁、「艦艇表(計画要領)」
- ^ a b c d e f g h #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.94
- ^ 『日本の軍艦第5巻』によると竣工日は3月13日
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(4)画像7-8、海門
- ^ a b c d e f g h #海軍艦艇史2(1980)p.20、No.2015の写真解説
- ^ a b c d e #帝国海軍機関史(1975)下巻p.282、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ #海軍軍備沿革p.49
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)別冊表4
- ^ a b c d e f g #帝国海軍機関史(1975)上巻p.518
- ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)上巻p.519
- ^ a b #日本近世造船史明治編(1973)367頁。
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)上巻p.520
- ^ a b c #日本近世造船史明治編(1973)p.295
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.164、明治18年12月25日(丙72)扶桑外十八艦定員
- ^ a b c d e f #海軍艦艇史2(1980)p.19、No.2014の写真解説
- ^ #M11公文類纂16/金剛外6艦番号の件他画像1-3
- ^ a b c d e #銘銘伝(2014)pp.83-84、海門
- ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像11-13、明治9年11月
- ^ #Conway(1860-1905)p.232
- ^ a b #M29公文備考5/艦船3(6)画像13
- ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.518-519
- ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.515
- ^ #日本海軍全艦艇史(1994)p.143、No.293の写真解説
- ^ #日本近世造船史明治編(1973)411頁。
- ^ a b #M29公文備考5/艦船3(6)画像24-25
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像14
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像3
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像20-21
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像21
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像31
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像32
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像9-12
- ^ #M29公文備考5/艦船3(6)画像16-19
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.102
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.100
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.108
- ^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像16、艦船所轄並在任附改称及等級
- ^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像17、艦船定員増減
- ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.209
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.210
- ^ a b #M16海軍省報告書画像18、艦船所轄並在任附改称及等級
- ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.262
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.275
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治17年5月30日丙第89号。
- ^ a b c d e f 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史(1994)資料篇p.3、海門『かいもん』
- ^ a b #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治18年12月28日丙第82号。
- ^ 平岡(2012)、p.190.
- ^ 北大東村誌編集委員会(2017)、pp.630-631.
- ^ a b 日露旅順海戦史、147ページ
- ^ a b 日露旅順海戦史、148ページ
参考文献
- Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships, 1860-1905. (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 呉市海事歴史科学館/編『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-95059-8。
- 『世界の艦船増刊 日本巡洋艦史』
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大 南洋の島々への進出から侵略へ』明石書店、2012年。ISBN 978-4-7503-3700-5。
- 福井静夫『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』KKベストセラーズ、1980年6月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 北大東村誌編集委員会『北大東村誌』北大東村、2017年。
- 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-07251-9。
- 雑誌『丸』編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 横須賀海軍工廠/編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。
- 『官報』
その他の資料
- アジア歴史資料センター
- 国立公文書館
- 『記録材料・海軍省報告書/第一 沿革』。Ref.A07062089300。 明治9年7月から明治10年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。 明治12年7月から明治13年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092500。 明治16年1月から12月。
- 防衛省防衛研究所
- 「往入1421 金剛外6艦番号の件軍務局上申他1件」『公文類纂 明治11年 前編 巻16 本省公文 艦船部1』、Ref.C09112803800。
- 「艦船3(6)」『明治29年 公文備考 艦船3 巻5』、Ref.C06091057200。
- 「除籍艦艇/軍艦(4)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、Ref.C14010005800。
- Ref.C06090956000、軍艦海門沖縄群島探検并復命書(1)
- Ref.C06090956100、軍艦海門沖縄群島探検并復命書(2)
関連項目