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'''アーサー・デイヴィッド・ウェイリー'''('''Arthur David Waley''', {{post-nominals|post-noms=[[:en:Order of the Companions of Honour|CH]], [[大英帝国勲章|CBE]]}}、[[1889年]][[8月19日]] - [[1966年]][[6月27日]])は、[[イギリス]]の[[東洋学]]者。
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| known_for = 中国・日本の文学作品の翻訳
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'''アーサー・デイヴィッド・ウェイリー'''(Arthur David Waley {{post-nominals|post-noms={{仮リンク|コンパニオンズ・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour|label=CH}}, [[大英帝国勲章|CBE]]}}、[[1889年]][[8月19日]] - [[1966年]][[6月27日]])は、[[イギリス]]の[[東洋学]]者である。[[中国]]や[[日本]]の文学作品の[[翻訳]]で高い評価を得た。1952年に[[大英帝国勲章]]、1953年に{{仮リンク|女王の詩の金メダル|en|Queen's Gold Medal for Poetry}}、1956年に{{仮リンク|コンパニオンズ・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}を受章した{{sfnb|Johns|1983 |p = 179}}。


高い学識を持ちながらも、学術的な役職に就くことを避け、一般向けの本を書くことが多かった。1910年代から1966年に亡くなるまで、中国や日本の文学作品の翻訳を続けた。1918年の"''A Hundred and Seventy Chinese Poems''"(漢詩百七十首)、1919年の"''Japanese Poetry: The Uta''"(日本の詩「歌」)のような詩の翻訳や、1925年から26年にかけての『[[源氏物語]]』の翻訳"''The Tale of Genji''"、1942年の『[[西遊記]]』の翻訳"''[[:en:Monkey (novel)|Monkey: A Folk-Tale of China]]''"などの小説の翻訳で知られる。また、中国哲学の紹介や翻訳、文学者の伝記の執筆、アジアと西洋の絵画への言及など、生涯にわたって活動を続けた。
== 来歴・人物 ==
[[経済学者]]デイヴィッド・フレデリック・シュロスの息子として[[イングランド]][[ケント (イングランド)|ケント州]]タンブリッジウェルズに生まれる。本名'''アーサー・デイヴィッド・シュロス'''('''Arthur David Schloss''')。生家は[[ロスチャイルド家]]に連なる[[ユダヤ人]]の名門。


最近の評価では、ウェイリーは「中国と日本の高度な文学を、英語を読む一般の人々に伝えた偉大な人物。20世紀前半における東洋から西洋への大使」と評され、また「独学でありながら、両言語ともに顕著なレベルの流暢さ・博識さに到達した。これは、他にはない業績であり、(後に彼自身が述べているように)当時だからできたことであり、二度と起こらないことだろう」とも述べられている<ref>E. Bruce Brooks, [http://www.umass.edu/wsp/resources/profiles/waley.html "Arthur Waley"], Warring States Project, University of Massachusetts.</ref>。
[[ラグビー校]]を経て[[1907年]]に[[ケンブリッジ大学]][[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングズコレッジ]]に入学<!---イギリス英語ではカレッジでなくコレッジ(学寮)-->。古典学を専攻し、[[1910年]]に優秀な成績で卒業するも、病気療養のため進学を断念{{Efn2|[[平川祐弘]]『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』によれば、「卒業試験の際、初歩的な誤りをして、大学に残るという望みは断たれた」という。}}。
その後の1913年より[[大英博物館]]に学芸員として勤務する。1914年、[[第一次世界大戦]]が勃発し、「シュロス」という名がドイツ系であることなどから警察によりスパイとの嫌疑をかけられたことがあり、アーサーの提案により母の旧姓である英語的なウェイリーに改姓した<ref name="miyamoto">{{Cite|和書|author=宮本昭三郎 |title=源氏物語に魅せられた男 |publisher=新潮社 |date=1993 |isbn=4106004348}}</ref>。


==生涯==
当時、古典[[日本語]]の辞書を含む資料等が入手困難な時代に日本語と古典[[中国語]]を独学で習得するなど、語学の才能を大いに示した。さらに、数々の翻訳を行なった。特に1925年~1933年に6巻に分けて出版された『'''The Tale of Genji'''』(『[[源氏物語]]』)の翻訳者として知られる。同書は『[[タイムズ]]』紙文芸付録で詳細な批評が掲載されるなど多大な影響を及ぼし、[[日本文学]]研究およびその後の翻訳ブームの火付け役とされる。今でも『The Tale of Genji』は英語圏で読まれており、ウェイリーは日本語古典および中国語古典研究の権威とされている。
アーサー・ウェイリーは、[[1889年]][[8月19日]]、[[イングランド]]の[[ケント州]]{{仮リンク|ロイヤル・タンブリッジ・ウェルズ|label=タンブリッジ・ウェルズ|en|Royal Tunbridge Wells}}で生まれた。父は経済学者のデイヴィッド・フレデリック・シュロス(David Frederick Schloss)であり、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロス(Arthur David Schloss)だった。シュロス家は、[[ロスチャイルド家]]に連なる[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の名門である。


[[ラグビー校]]で教育を受け、奨学金を得て[[1907年]]に[[ケンブリッジ大学]][[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングズコレッジ]]<!---イギリス英語ではカレッジでなくコレッジ(学寮)-->に入学し、[[西洋古典学|古典学]]を専攻した。優秀な成績を収めたが、目の病気で勉強に支障をきたしたため[[1910年]]に退学した{{sfnp|Honey|2001|p=225}}{{efn|[[平川祐弘]]『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』には、「卒業試験の際、初歩的な誤りをして、大学に残るという望みは断たれた」とある。}}。
=== 人となり ===
天才型の奇人であった。[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]を「日本を理解していない」と批判し、[[阿倍仲麻呂]]の[[和歌]]について[[漢文]]で書かれた後に和歌に翻訳された可能性を指摘するなど、東アジアの古典語に通じていたが、現代日本語は操れなかった{{Efn2|直接会ったことのあるドナルド・キーンは『わたしの日本語修行』([[白水社]]p.168f)で「日本の古文、文語を詠めるようになるには三か月あればいい、三か月で誰にでもできるはずだ」と書いていることを紹介し、日本語も中国語も自由に読めるが話すことはできなかったと話している。ただ、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象です」だと答えている。}}。イギリスから[[叙勲]]された際に喜んだ形跡がなかったことから、名誉にも無頓着であったと思われる。なお、来日しなかったのは「日本に幻滅したくなかったからだ」との憶測が語られているが、単に[[旅行|長旅]]が嫌いだったとの関係者の証言がある。また、ウェイリーが訳した『[[老子道徳経]]』の第四十七章には「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして、天道を見る」との一節があり、自ら訳した老子道徳経を実践したのかもしれない。墓所はロンドンの[[ハイゲイト墓地]]。


一時的に商社で働いた後、[[1913年]]より[[大英博物館]]に東洋版画・写本部門の学芸員として勤務した{{sfnp|Honey|2001|p=225}}。大英博物館での上司は詩人・学者の[[ローレンス・ビニョン]]だった。ビニョンの指導のもとで、[[漢文|古典中国語]]と[[文語体|古典日本語]]を独学で学んだ。しかし、現代の[[中国語]]や[[日本語]]を話せるようにはならず、生涯で中国や日本を訪れたこともなかった{{sfnp|Honey|2001|p=225}}。
== 『源氏物語』 ==
アーサー・ウェイリー訳は世界初の英語全訳であり、詩的で美しい英語といわれ、出版されるとたちまちベストセラーとなった(ただし数ページの第38帖「[[鈴虫 (源氏物語)|鈴虫]]」は訳出していない)。「ここにあるのは天才の作品」「忘れられた文明が(……)いずこでも追従をゆるさない配列の美しさをもって蘇ってくる」「日本の黄金時代の古典 東洋最高の長編小説」等々、「[[タイムズ]]」誌などで絶賛された。またその訳文は「感情の優雅さと純粋な言葉の巧みさのどれだけが紫式部(レディ・ムラサキ)のもので、どれだけ翻訳者のものかわからない」と英文学としても高く評価された。「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に[[紫式部]]の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績と言える。また同書に触発され、[[日本研究]]を志し大成した[[ドナルド・キーン]]などの[[日本学者]]も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの訳著『The 'No' Plays of Japan』を読み、初めて〈[[能]]〉に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお『The Tale of Genji』はその後、[[イタリア語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]などに二次翻訳された。現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ、日本の歴史伝統を理解するための必読書とされる。


ウェイリーは[[アシュケナジム|アシュケナージ系ユダヤ人]]の血を引いている。[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発し、「シュロス」という名がドイツ系であることなどから警察によりスパイとの嫌疑をかけられたことがあったため、アーサーの提案により、一家で母の旧姓であるウェイリーに改姓した<ref name="miyamoto">{{Cite|和書|author=宮本昭三郎 |title=源氏物語に魅せられた男 |publisher=新潮社 |date=1993 |isbn=4106004348}}</ref>。当時、他のドイツ系の姓を持つ多くのイギリス人も、イギリスで見られた反ドイツ的な偏見を避けるために姓を英語風のものに変えることが多かった{{sfnp|Honey|2001|p=225}}。
== 影響 ==

[[1918年]]、イギリスのバレエダンサーで東洋学者、舞踊評論家・研究家の{{仮リンク|ベリル・デ・ズーテ|en|Beryl de Zoete}}と出会った。ズーテとは生涯にわたって交際したが、結婚には至らなかった<ref>{{cite web|title=Papers of Beryl de Zoete|url=http://www.libraries.rutgers.edu/rul/libs/scua/womens_fa/wfa_c_d.shtml|website=Rutgers University|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040618025433/https://www.libraries.rutgers.edu/rul/libs/scua/womens_fa/wfa_c_d.shtml|archivedate=2004-06-18|accessdate=2022-01-22}}</ref>。

1929年に大英博物館を退職した。以降は執筆と翻訳に専念し、[[第二次世界大戦]]中に{{仮リンク|情報省 (イギリス)|label=情報省|en|Ministry of Information (United Kingdom)}}に4年間勤務したほかは、定職に就くことはなかった{{sfnp|Honey|2001|p=225}}。1939年9月、ウェイリーは情報省の日本語検閲部門の責任者として採用された。{{仮リンク|オズワルド・タック|en|Oswald Tuck}}海軍大尉が補佐し、ロンドンに滞在している日本人ジャーナリストの日本語による通信文や私信、[[在英国日本国大使館]]からの外交信号などをチェックしていた<ref>Peter Kornicki, ''Eavesdropping on the Emperor: Interrogators and Codebreakers in Britain's War with Japan'' (London: Hurst & Co., 2021), pp. 31-32.</ref>。

ウェイリーは[[ブルームズベリー]]に住んでおり、[[ブルームズベリー・グループ]]には、学生時代からの友人が多くいた。{{仮リンク|ロナルド・ファーバンク|en|Ronald Firbank}}の才能を早くから認識していた一人であり、ファーバンクの作品集の初版に、{{仮リンク|オズバート・シットウェル|en|Osbert Sitwell}}とともに序文を寄稿している。

[[エズラ・パウンド]]の尽力により、ウェイリーの最初の翻訳がアメリカの文学雑誌『{{仮リンク|リトル・レビュー|en|The Little Review}}』に掲載された。しかし、パウンドからのウェイリーの評価は様々であった。1917年7月2日、パウンドは『リトル・レビュー』の編集者{{仮リンク|マーガレット・C・アンダーソン|en|Margaret C. Anderson}}に宛てた手紙の中で「ウェイリーによる[[白居易]]の翻訳をようやく手に入れた。いくつかの詩は素晴らしい。ほぼ全ての翻訳が、彼のまずい英語と不完全なリズムによって損なわれている...。なにか良いものを買って、彼に下手な仕事を取り除いてもらおうと思っている(彼はロバや「学者」のように頑固だ)」 と書いている。ウェイリーは『[[老子道徳経]]』の翻訳"''The Way and its Power''"の序文で、現代の西洋の読者にとって意味がより重要であると合理的に考えられる翻訳では、文章の形式よりも意味の方を優先するように気をつけたと説明している。

[[1966年]]5月にアリソン・グラント・ロビンソン(Alison Grant Robinson)と結婚したが、その1か月後の6月27日にウェイリーは死去した。遺体は、[[ハイゲイト墓地]]の西側の、彫刻家{{仮リンク|ジョセフ・エドワーズ|en|Joseph Edwards (sculptor)}}の墓の前にある{{仮リンク|無銘墓|en|Unmarked grave}}に埋葬されている<ref>{{cite web|title=Obituary of Arthur Waley|url=https://www.cambridge.org/core/services/aop-cambridge-core/content/view/S0041977X00100059|website=Cambridge University Press|access-date=17 April 2018}}</ref>。

芸術批評家の{{仮リンク|サシェヴェレル・シットウェル|en|Sacheverell Sitwell}}は、ウェイリーのことを、自分が知りうる限りで最も偉大な学者であり、人間のあらゆる芸術を最も理解している人物だったと評した。シットウェルは、ウェイリーの最期について次のように書いている。
{{quote|彼は腰の骨折と脊椎の癌で瀕死の状態にあり、非常に大きな痛みを感じていたが、いかなる薬物や鎮静剤の投与も拒否した。彼は、最期の瞬間に意識を保っていたいと思っていたので、あえてそのようにしたのだ。天賦の才能は衰え、消えつつあり、それは二度と手に入れることはできない。彼は数日間、[[ハイドンの弦楽四重奏曲一覧|ハイドンの弦楽四重奏曲]]を聴き、好きな詩を読んでもらった。そして彼は死んだ<ref>Sacheverell Sitwell. ''For Want of the Golden City'' (New York: John Day, 1973) p. 255</ref>。}}

==業績==
[[ジョナサン・スペンス]]は、ウェイリーの翻訳について次のように書いている。
{{quote|[ウェイリーは]中国と日本の文学の宝石を選び、それを自身の胸に静かに留めた。そのようなことは、それまでに誰もしなかったし、これからも誰もしないだろう。彼よりも中国語や日本語の知識が豊富な西洋人はたくさんいるし、おそらく両方の言語を扱える人も何人かはいるだろう。しかし、彼らは詩人ではないし、ウェイリーよりも優れた詩人たちは、中国語や日本語を知らない。また、この衝撃が再び訪れることはないだろう。ウェイリーが翻訳した作品の多くは、西洋ではほとんど知られておらず、それに故にその衝撃は驚くほどのものだったからである<ref>Jonathan Spence. "Arthur Waley," in ''Chinese Roundabout'' (New York: Norton, 1992 {{ISBN|0393033554}}) [https://books.google.com/books?id=M7LAH8ggQvAC&q=Waley#v=snippet&q=Waley&f=false pp. 329-330]</ref>。}}

生涯に多数の日本や中国の文学の翻訳や、それに関する著作を残した。その中には、"''A Hundred and Seventy Chinese Poems''"(漢詩百七十首、1918年)、"''Japanese Poetry: The Uta''"(日本の詩「歌」、1919年)、"''The No Plays of Japan''"(日本の[[能楽]]、1921年)、"''The Tale of Genji''"(『[[源氏物語]]』、1921年 - 1933年)、"''The Pillow Book of Sei Shōnagon''"(『[[枕草子]]』、1928年)、"''Kutune Shirka''"(『[[クトネシリカ]]』、1951年)、"''[[:en:Monkey (book)|Monkey]]''"(『[[西遊記]]』の要約、1942年)、"''The Poetry and Career of Li Po''"([[李白]]の詩と経歴、1959年)、"''The Secret History of the Mongols and Other Pieces''"([[元朝秘史]]とその他の作品、1964年)などがある。『[[論語]]』や『[[老子道徳経]]』などの古典の翻訳や、中国古典哲学の解釈書"''Three Ways of Thought in Ancient China''"(古代中国の三つの思想、1939年)は、現在も出版されている。

ウェイリーの詩の翻訳は、それ自体が詩として広く評価されており、"''[[:en:Oxford Book of Modern Verse 1892–1935|Oxford Book of Modern Verse 1892–1935]]''"、''[[:en:The Oxford Book of Twentieth Century English Verse|The Oxford Book of Twentieth Century English Verse]]''"、''[[:en:Penguin poetry anthologies|Penguin Book of Contemporary Verse (1918–1960)]]''"などの多くのアンソロジーにウェイリーが翻訳した詩が掲載されている。ウェイリーの翻訳や解説書の多くは、[[ペンギン・クラシックス]]やワーズワース・クラシックスなどで再版され、今なお幅広い読者を獲得している。

作曲家[[ベンジャミン・ブリテン]]は、ウェイリーの1946年の中国の詩の翻訳"''Chinese Poems''"の中から6つの詩に曲をつけ、1957年に歌曲集『{{仮リンク|中国の歌|en|Songs from the Chinese}}』(''Songs from the Chinese'')として発表した。

=== 『源氏物語』 ===
1925年から1933年にかけて6巻に分けて出版された『源氏物語』の翻訳"''The Tale of Genji''"は、同書の世界初の英語全訳である。詩的で美しい英語といわれ、出版されるとたちまちベストセラーとなった(ただし数ページの第38帖「[[鈴虫 (源氏物語)|鈴虫]]」は訳出していない)。「ここにあるのは天才の作品」「忘れられた文明が(……)いずこでも追従をゆるさない配列の美しさをもって蘇ってくる」「日本の黄金時代の古典 東洋最高の長編小説」等々、『[[タイムズ]]』紙などで絶賛された。またその訳文は「感情の優雅さと純粋な言葉の巧みさのどれだけが紫式部(レディ・ムラサキ)のもので、どれだけ翻訳者のものかわからない」と英文学としても高く評価された。「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に[[紫式部]]の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績と言える。また同書に触発され、[[日本研究]]を志し大成した[[ドナルド・キーン]]などの[[日本学者]]も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの訳著『The 'No' Plays of Japan』を読み、初めて〈[[能]]〉に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお『The Tale of Genji』はその後、[[イタリア語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]などに二次翻訳された。現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ、日本の歴史伝統を理解するための必読書とされる。

=== 影響 ===
[[ドナルド・キーン]]はウェイリー訳の『The Tale of Genji』を読み「『源氏物語』がもたらした光明が忘れられぬ」、「源氏物語の英訳(全訳)は米国人の[[エドワード・G・サイデンステッカー|サイデンステッカー]]訳など四種類あるが、ウェイリーが最高」とインタヴューで答えている。その他、日本研究家・中国研究家、翻訳家、文壇、文化人らに多数影響を与えた。音楽の世界においては[[ビートルズ]]のメンバー(当時)だった[[ジョージ・ハリスン]]の「[[ジ・インナー・ライト|The Inner Light]]」はウェイリー訳『[[老子道徳経]]』の一節(第四七章)から引用された、との指摘もある。また、他の音楽家においても、[[コンスタント・ランバート]]が[[李白]]の詩を元に作曲し、マーチン・ダルビーがウェイリー訳に基づいて中国(風の)曲を作曲した。直接か間接的な影響かは不明ながら[[コーネリアス・カーデュー]]が[[孔子]]の詩に曲付けを試みるなど、世代に関係なく様々な影響を西洋にもたらしたとされ、「ウェイリー版源氏物語」を愛読した人物として、[[マルグリット・ユルスナール|ユルスナール]]、[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]、[[エドワード・ゴーリー]]、[[バルテュス]]などが知られている。
[[ドナルド・キーン]]はウェイリー訳の『The Tale of Genji』を読み「『源氏物語』がもたらした光明が忘れられぬ」、「源氏物語の英訳(全訳)は米国人の[[エドワード・G・サイデンステッカー|サイデンステッカー]]訳など四種類あるが、ウェイリーが最高」とインタヴューで答えている。その他、日本研究家・中国研究家、翻訳家、文壇、文化人らに多数影響を与えた。音楽の世界においては[[ビートルズ]]のメンバー(当時)だった[[ジョージ・ハリスン]]の「[[ジ・インナー・ライト|The Inner Light]]」はウェイリー訳『[[老子道徳経]]』の一節(第四七章)から引用された、との指摘もある。また、他の音楽家においても、[[コンスタント・ランバート]]が[[李白]]の詩を元に作曲し、マーチン・ダルビーがウェイリー訳に基づいて中国(風の)曲を作曲した。直接か間接的な影響かは不明ながら[[コーネリアス・カーデュー]]が[[孔子]]の詩に曲付けを試みるなど、世代に関係なく様々な影響を西洋にもたらしたとされ、「ウェイリー版源氏物語」を愛読した人物として、[[マルグリット・ユルスナール|ユルスナール]]、[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]、[[エドワード・ゴーリー]]、[[バルテュス]]などが知られている。

==賞と栄誉==
*1942年 - [[ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞]](『[[西遊記]]』の英訳に対して)
*1945年 - ケンブリッジ大学キングズ・カレッジ名誉フェロー
*1952年 - [[大英帝国勲章]]コマンダー(CBE)
*1953年 - {{仮リンク|女王の詩の金メダル|en|Queen's Gold Medal for Poetry}}
*1956年 - {{仮リンク|コンパニオンズ・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}

==人物==
天才型の奇人であった。[[叙勲]]された際に喜んだ形跡がなかったことから、名誉にも無頓着であったと思われる。

[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]を「日本を理解していない」と批判し、[[阿倍仲麻呂]]の[[和歌]]について[[漢文]]で書かれた後に和歌に翻訳された可能性を指摘するなど、東アジアの古典語に通じていたが、現代の日本語や中国語を話すことはできなかった{{efn|直接会ったことのあるドナルド・キーンは『わたしの日本語修行』([[白水社]]p.168f)で「日本の古文、文語を詠めるようになるには三か月あればいい、三か月で誰にでもできるはずだ」と書いていることを紹介し、日本語も中国語も自由に読めるが話すことはできなかったと話している。ただ、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象です」だと答えている。}}。"''The Secret History of the Mongols''"の序文で、自分は多くの言語に精通しているわけではないが、中国語と日本語はかなり詳しく、[[アイヌ語]]と[[モンゴル語]]はある程度知っており、[[ヘブライ語]]と[[シリア語]]も多少知っていると書いている。

中国や日本の古典を数多く英訳したにもかかわらず、ウェイリーは両国をはじめとする[[東アジア]]の国に行ったことはなかった。来日しなかったのは「日本に幻滅したくなかったからだ」との憶測が語られているが、単に[[旅行|長旅]]が嫌いだったとの関係者の証言がある。また、ウェイリーが訳した『[[老子道徳経]]』の第四十七章には「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして、天道を見る」との一節があり、自ら訳した老子道徳経を実践したのかもしれない。


== 研究対象としてのウェイリー ==
== 研究対象としてのウェイリー ==
ウェイリーの翻訳が多数の[[西洋人]]の心を掴んだ事から、[[比較文学]]の研究対象とされ、源氏物語の原典とウェイリー訳の加筆・省略・表現などを比較考察した研究もある。また、様々なウェイリー自身の伝記論考もある。戦後も日本からロンドンへ研究留学に来た[[国文学者]]や[[東洋学]]者{{Efn2|[[川口久雄]] 『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』([[明治書院]]、2001年)「第1章」に、詳しい研究回想がある。}}とも交流があった。
ウェイリーの翻訳が多数の[[西洋人]]の心を掴んだ事から、[[比較文学]]の研究対象とされ、源氏物語の原典とウェイリー訳の加筆・省略・表現などを比較考察した研究もある。また、様々なウェイリー自身の伝記論考もある。戦後も日本からロンドンへ研究留学に来た[[国文学者]]や[[東洋学]]者{{efn|[[川口久雄]] 『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』([[明治書院]]、2001年)「第1章」に、詳しい研究回想がある。}}とも交流があった。


またウェイリーは「[[ブルームズベリー・グループ]]」の一員で、女性関係が複雑で、その生涯も興味の対象となっている。特に人妻で、晩年結婚したアリスンと、謎めいた女ベリルとの三角関係は、ウェイリー没後に出された、アリスン・ウェイリー『ブルームズベリーの恋』(井原真理子訳、[[河出書房新社]]、1992年){{Efn2|なお評伝を著した宮本昭三郎は、『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』のあとがきで、アリスンの著作はフィクション色が強く、参照は必要最小限しか行なわなかったと述べている。}}に詳しい。
またウェイリーは「[[ブルームズベリー・グループ]]」の一員で、女性関係が複雑で、その生涯も興味の対象となっている。特に人妻で、晩年結婚したアリスンと、謎めいた女ベリルとの三角関係は、ウェイリー没後に出された、アリスン・ウェイリー『ブルームズベリーの恋』(井原真理子訳、[[河出書房新社]]、1992年){{efn|なお評伝を著した宮本昭三郎は、『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』のあとがきで、アリスンの著作はフィクション色が強く、参照は必要最小限しか行なわなかったと述べている。}}に詳しい。


== 著作 ==
==著作==
以下に、ウェイリーの著作物の一部を示す。
『The Tale of Genji』以外にも、1919年に『Japanese Poetry The 'Uta'』(和歌集で[[万葉集]]、[[古今和歌集]]ほか)、1921年に『The 'No' Plays of Japan』([[能]]で[[敦盛 (能)|敦盛]]ほかの〈[[謡曲]]集〉)、1928年に『The Pillow Book of Sei Shonagon』([[清少納言]]、[[枕草子]])他多数の英訳。チャールズ・イー・タトル出版で新版刊行


===翻訳===
古典[[中国文学]]では『The Book of Songs』([[詩経]])、『The Way and Its Power』([[老子]]、[[道徳経]])、『The Analects of Confucius』([[孔子]]、[[論語]])、『Monkey』([[西遊記]]、1993年に[[講談社]]英語文庫)、『The Poetry and Career of Li Po』([[李白]] 詩と人生)他多数を英訳出版した。以下が邦訳。
* ''A Hundred and Seventy Chinese Poems''(漢詩百七十首), 1918
* ''More Translations from the Chinese'' (Alfred A. Knopf, New York, 1919).
** ''The Story of Ts'ui Ying-ying''({{仮リンク|鶯鶯伝|en|Yingying's Biography}}) – p.&nbsp;101–113<ref name=NienIntroxv>Nienhauser, William H. "Introduction." In: Nienhauser, William H. (editor). ''Tang Dynasty Tales: A Guided Reader''. [[World Scientific]], 2010. {{ISBN|9814287288}}, 9789814287289. p. [https://books.google.com/books?id=hja49dTBtGkC&pg=PR15 xv].</ref>
** ''The Story of Miss Li''({{仮リンク|李娃伝|en|The Tale of Li Wa}})– pp.&nbsp;113–136<ref name=NienIntroxv/>
* ''Japanese Poetry: The Uta''(日本の詩: [[和歌|歌]]), 1919 - 主に[[万葉集]]と[[古今和歌集]]からの抜粋
* ''The Nō Plays of Japan''(日本の[[能楽]]), 1921 - 『[[敦盛 (能)|敦盛]]』などの[[謡曲]]の翻訳
* ''The Temple and Other Poems'', 1923
* ''The Tale of Genji''([[源氏物語]]), 1925–1933
** 『ウェイリー版 源氏物語』(佐復秀樹訳、[[平凡社ライブラリー]](全4巻)、2008年9月-2009年3月)
** 『源氏物語 A・ウェイリー版』(毬矢まりえ・森山恵訳、[[左右社]](全4巻)、2017年12月-2019年7月)。各“The Tale of Genji”を基にした訳書
* ''The Pillow Book of Sei Shōnagon''([[枕草子]]), 1928
* ''The Way and Its Power: A Study of the Tao Te Ching and its Place in Chinese Thought''(道とその力: [[老子道徳経|道徳経]]の研究と中国思想におけるその位置), 1934 - [[老子]]作とされる『道徳経』の全訳と解説
* ''The Book of Songs''([[詩経]]), 1937
* ''The Analects of Confucius''([[論語]]), 1938
* ''Three Ways of Thought in Ancient China''(古代中国の三つの思想), 1939
* ''Translations from the Chinese'', a compilation, 1941
* ''[[:en:Monkey (book)|Monkey]]'', 1942 - [[呉承恩]]の『[[西遊記]]』100章のうち30章の翻訳
* ''Chinese Poems'', 1946
* ''The Nine Songs: A Study of Shamanism in Ancient China''(九つの歌: 古代中国における[[シャーマニズム]]の研究), 1955
* ''Yuan Mei: Eighteenth-Century Chinese Poet''(袁枚: 18世紀の中国の詩人), 1956
** 『袁枚』([[加島祥造]]・[[古田島洋介]]共訳、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1999年)
* ''Ballads and Stories from Tun-Huang''([[敦煌市|敦煌]]の詩と物語), 1960


=== 日本語文献 ===
===執筆===
* ''Introduction to the Study of Chinese Painting''(中国絵画研究の序説), 1923
* 『ウェイリー版 源氏物語』(佐復秀樹訳、[[平凡社ライブラリー]](全4巻)、2008年9月-2009年3月)
* ''The Life and Times of Po Chü-I''([[白居易]]の人生と時間), 1949
* 『源氏物語 A・ウェイリー版』(毬矢まりえ・森山恵訳、[[左右社]](全4巻)、2017年12月-2019年7月)。各“The Tale of Genji”を基にした訳書
* 『[[白居易|白楽天]]』([[花房英樹 (漢文学者)|花房英樹]]訳、[[みすず書房]]、1959年、新装版2003年)。3度装丁を改め刊行。
** 『白楽天』([[花房英樹 (漢文学者)|花房英樹]]訳、[[みすず書房]]、1959年、新装版2003年)。3度装丁を改め刊行。
* ''The Poetry and Career of Li Po''([[李白]]の詩と経歴), 1950
* 『[[李白]]』([[小川環樹]]・栗山稔訳、[[岩波新書]]、1973年、新版復刊1988年、2019年)。他に単行版「評伝選」([[岩波書店]]、1994年)
** 『李白』([[小川環樹]]・栗山稔訳、[[岩波新書]]、1973年、新版復刊1988年、2019年)。他に単行版「評伝選」([[岩波書店]]、1994年)
* 『[[袁枚]]』([[加島祥造]]・[[古田島洋介]]共訳、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1999年)
* ''The Real Tripitaka and Other Pieces''(真の[[三蔵]]とその他の作品), 1952
* ''The Opium War through Chinese Eyes''(中国人の目から見た[[アヘン戦争]]), 1958
* ''The Secret History of the Mongols and Other Pieces''([[元朝秘史]]とその他の作品), 1963


== 評伝研究 ==
== 評伝研究 ==
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* [[津島知明]] 『ウェイリーと読む[[枕草子]]』(鼎書房、2005年)、解説書
* [[津島知明]] 『ウェイリーと読む[[枕草子]]』(鼎書房、2005年)、解説書


== 脚注 ==
==脚注==
===注釈===
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{{notelist2}}
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== 出典 ==
===出典===
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==参考文献==
{{Normdaten}}
* [https://www.nytimes.com/1966/06/28/archives/arthur-waley-76-orientalist-dead-translator-of-chinese-and-japanese.html?sq=arthur+waley&scp=1&st=p "Arthur Waley, 76, Orientalist, Dead; Translator of Chinese and Japanese Literature,"] ''New York Times.'' 28 June 1966.
* Gruchy, John Walter de. (2003). ''Orienting Arthur Waley: Japonism, Orientalism, and the Creation of Japanese Literature in English.'' Honolulu: [[University of Hawaii Press]]. 1ISBN 0-8248-2567-5.
* {{Cite book | last=Honey | first=David B. | year=2001 | title=Incense at the Altar: Pioneering Sinologists and the Development of Classical Chinese Philology | location=New Haven, Connecticut | publisher=American Oriental Society | series=American Oriental Series '''86''' | isbn=0-940490-16-1 }}
* Johns, Francis A. (1968). ''A Bibliography of Arthur Waley.'' New Brunswick, New Jersey: Rutgers University Press.
* {{cite journal |last =Johns |first = Francis A |title =Manifestations of Arthur Waley: Some Bibliographical and Other Notes |journal =The British Library Journal |volume =9 |issue = 2 |pages =171–184 |date =1983 |url = http://www.bl.uk/eblj/1983articles/pdf/article13.pdf }}
* Morris, Ivan I. (1970). ''Madly Singing in the Mountains: An Appreciation and Anthology of Arthur Waley.'' London: [[Allen & Unwin]].
* {{cite journal | first = Walter | last = Robinson | title = Obituaries &ndash; Dr. Arthur Waley | journal = Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland | year = 1967 | number = 1–2 | pages = 59–61 | jstor = 25202978 | doi = 10.1017/S0035869X00125663 | doi-access = free }}
* {{cite journal | first = Walter | last = Simon | title = Obituary: Arthur Waley | journal = Bulletin of the School of Oriental and African Studies, University of London| volume = 30 | number = 1 | year = 1967 | pages = 268–71 | jstor = 611910 }}
* Spence, Jonathan. "Arthur Waley," in, ''Chinese Roundabout'' (New York: Norton, 1992 {{ISBN|0393033554}}), pp.&nbsp;329–336. [https://books.google.com/books?id=M7LAH8ggQvAC&q=Waley#v=snippet&q=Waley&f=false]
* Waley, Alison. (1982). ''A Half of Two Lives.'' London: George Weidenfeld & Nicolson. (Reprinted in 1983 by McGraw-Hill.)


==外部リンク==
* E. Bruce Brooks, [http://www.umass.edu/wsp/resources/profiles/waley.html "Arthur Waley"] Warring States Project, University of Massachusetts.
*[https://web.archive.org/web/20040604163103/http://afpc.asso.fr/wengu/wg/wengu.php?l=Daodejing Waley's translation of ''The Way and Its Power'']
* {{Gutenberg author |id=6752}}
* {{FadedPage|id=Waley, Arthur|name=Arthur Waley|author=yes}}
* {{Internet Archive author |sname=Arthur David Waley}}
* {{Librivox author |id=6241}}
* {{LCAuth|n79054650|Arthur Waley|106|ue}}

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2022年2月6日 (日) 15:13時点における版

Arthur Waley
アーサー・ウェイリー
CH CBE
ウェイリーの肖像画(レイ・ストレイチー画)
生誕 Arthur David Schloss
(1889-08-19) 1889年8月19日
イングランドの旗 イングランド ケント州タンブリッジ・ウェルズ英語版
死没 1966年6月27日(1966-06-27)(76歳没)
イングランドの旗 イングランド ロンドン
墓地 ハイゲイト墓地
出身校 ケンブリッジ大学 (中退)
主な業績 中国・日本の文学作品の翻訳
配偶者
アリソン・グラント・ロビンソン (結婚 1966年)
プロジェクト:人物伝
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アーサー・デイヴィッド・ウェイリー(Arthur David Waley CH, CBE1889年8月19日 - 1966年6月27日)は、イギリス東洋学者である。中国日本の文学作品の翻訳で高い評価を得た。1952年に大英帝国勲章、1953年に女王の詩の金メダル英語版、1956年にコンパニオンズ・オブ・オナー勲章を受章した[1]

高い学識を持ちながらも、学術的な役職に就くことを避け、一般向けの本を書くことが多かった。1910年代から1966年に亡くなるまで、中国や日本の文学作品の翻訳を続けた。1918年の"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首)、1919年の"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」)のような詩の翻訳や、1925年から26年にかけての『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"、1942年の『西遊記』の翻訳"Monkey: A Folk-Tale of China"などの小説の翻訳で知られる。また、中国哲学の紹介や翻訳、文学者の伝記の執筆、アジアと西洋の絵画への言及など、生涯にわたって活動を続けた。

最近の評価では、ウェイリーは「中国と日本の高度な文学を、英語を読む一般の人々に伝えた偉大な人物。20世紀前半における東洋から西洋への大使」と評され、また「独学でありながら、両言語ともに顕著なレベルの流暢さ・博識さに到達した。これは、他にはない業績であり、(後に彼自身が述べているように)当時だからできたことであり、二度と起こらないことだろう」とも述べられている[2]

生涯

アーサー・ウェイリーは、1889年8月19日イングランドケント州タンブリッジ・ウェルズ英語版で生まれた。父は経済学者のデイヴィッド・フレデリック・シュロス(David Frederick Schloss)であり、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロス(Arthur David Schloss)だった。シュロス家は、ロスチャイルド家に連なるユダヤ系の名門である。

ラグビー校で教育を受け、奨学金を得て1907年ケンブリッジ大学キングズコレッジに入学し、古典学を専攻した。優秀な成績を収めたが、目の病気で勉強に支障をきたしたため1910年に退学した[3][注釈 1]

一時的に商社で働いた後、1913年より大英博物館に東洋版画・写本部門の学芸員として勤務した[3]。大英博物館での上司は詩人・学者のローレンス・ビニョンだった。ビニョンの指導のもとで、古典中国語古典日本語を独学で学んだ。しかし、現代の中国語日本語を話せるようにはならず、生涯で中国や日本を訪れたこともなかった[3]

ウェイリーはアシュケナージ系ユダヤ人の血を引いている。1914年第一次世界大戦が勃発し、「シュロス」という名がドイツ系であることなどから警察によりスパイとの嫌疑をかけられたことがあったため、アーサーの提案により、一家で母の旧姓であるウェイリーに改姓した[4]。当時、他のドイツ系の姓を持つ多くのイギリス人も、イギリスで見られた反ドイツ的な偏見を避けるために姓を英語風のものに変えることが多かった[3]

1918年、イギリスのバレエダンサーで東洋学者、舞踊評論家・研究家のベリル・デ・ズーテ英語版と出会った。ズーテとは生涯にわたって交際したが、結婚には至らなかった[5]

1929年に大英博物館を退職した。以降は執筆と翻訳に専念し、第二次世界大戦中に情報省英語版に4年間勤務したほかは、定職に就くことはなかった[3]。1939年9月、ウェイリーは情報省の日本語検閲部門の責任者として採用された。オズワルド・タック英語版海軍大尉が補佐し、ロンドンに滞在している日本人ジャーナリストの日本語による通信文や私信、在英国日本国大使館からの外交信号などをチェックしていた[6]

ウェイリーはブルームズベリーに住んでおり、ブルームズベリー・グループには、学生時代からの友人が多くいた。ロナルド・ファーバンク英語版の才能を早くから認識していた一人であり、ファーバンクの作品集の初版に、オズバート・シットウェル英語版とともに序文を寄稿している。

エズラ・パウンドの尽力により、ウェイリーの最初の翻訳がアメリカの文学雑誌『リトル・レビュー英語版』に掲載された。しかし、パウンドからのウェイリーの評価は様々であった。1917年7月2日、パウンドは『リトル・レビュー』の編集者マーガレット・C・アンダーソン英語版に宛てた手紙の中で「ウェイリーによる白居易の翻訳をようやく手に入れた。いくつかの詩は素晴らしい。ほぼ全ての翻訳が、彼のまずい英語と不完全なリズムによって損なわれている...。なにか良いものを買って、彼に下手な仕事を取り除いてもらおうと思っている(彼はロバや「学者」のように頑固だ)」 と書いている。ウェイリーは『老子道徳経』の翻訳"The Way and its Power"の序文で、現代の西洋の読者にとって意味がより重要であると合理的に考えられる翻訳では、文章の形式よりも意味の方を優先するように気をつけたと説明している。

1966年5月にアリソン・グラント・ロビンソン(Alison Grant Robinson)と結婚したが、その1か月後の6月27日にウェイリーは死去した。遺体は、ハイゲイト墓地の西側の、彫刻家ジョセフ・エドワーズ英語版の墓の前にある無銘墓英語版に埋葬されている[7]

芸術批評家のサシェヴェレル・シットウェル英語版は、ウェイリーのことを、自分が知りうる限りで最も偉大な学者であり、人間のあらゆる芸術を最も理解している人物だったと評した。シットウェルは、ウェイリーの最期について次のように書いている。

彼は腰の骨折と脊椎の癌で瀕死の状態にあり、非常に大きな痛みを感じていたが、いかなる薬物や鎮静剤の投与も拒否した。彼は、最期の瞬間に意識を保っていたいと思っていたので、あえてそのようにしたのだ。天賦の才能は衰え、消えつつあり、それは二度と手に入れることはできない。彼は数日間、ハイドンの弦楽四重奏曲を聴き、好きな詩を読んでもらった。そして彼は死んだ[8]

業績

ジョナサン・スペンスは、ウェイリーの翻訳について次のように書いている。

[ウェイリーは]中国と日本の文学の宝石を選び、それを自身の胸に静かに留めた。そのようなことは、それまでに誰もしなかったし、これからも誰もしないだろう。彼よりも中国語や日本語の知識が豊富な西洋人はたくさんいるし、おそらく両方の言語を扱える人も何人かはいるだろう。しかし、彼らは詩人ではないし、ウェイリーよりも優れた詩人たちは、中国語や日本語を知らない。また、この衝撃が再び訪れることはないだろう。ウェイリーが翻訳した作品の多くは、西洋ではほとんど知られておらず、それに故にその衝撃は驚くほどのものだったからである[9]

生涯に多数の日本や中国の文学の翻訳や、それに関する著作を残した。その中には、"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首、1918年)、"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」、1919年)、"The No Plays of Japan"(日本の能楽、1921年)、"The Tale of Genji"(『源氏物語』、1921年 - 1933年)、"The Pillow Book of Sei Shōnagon"(『枕草子』、1928年)、"Kutune Shirka"(『クトネシリカ』、1951年)、"Monkey"(『西遊記』の要約、1942年)、"The Poetry and Career of Li Po"(李白の詩と経歴、1959年)、"The Secret History of the Mongols and Other Pieces"(元朝秘史とその他の作品、1964年)などがある。『論語』や『老子道徳経』などの古典の翻訳や、中国古典哲学の解釈書"Three Ways of Thought in Ancient China"(古代中国の三つの思想、1939年)は、現在も出版されている。

ウェイリーの詩の翻訳は、それ自体が詩として広く評価されており、"Oxford Book of Modern Verse 1892–1935"、The Oxford Book of Twentieth Century English Verse"、Penguin Book of Contemporary Verse (1918–1960)"などの多くのアンソロジーにウェイリーが翻訳した詩が掲載されている。ウェイリーの翻訳や解説書の多くは、ペンギン・クラシックスやワーズワース・クラシックスなどで再版され、今なお幅広い読者を獲得している。

作曲家ベンジャミン・ブリテンは、ウェイリーの1946年の中国の詩の翻訳"Chinese Poems"の中から6つの詩に曲をつけ、1957年に歌曲集『中国の歌英語版』(Songs from the Chinese)として発表した。

『源氏物語』

1925年から1933年にかけて6巻に分けて出版された『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"は、同書の世界初の英語全訳である。詩的で美しい英語といわれ、出版されるとたちまちベストセラーとなった(ただし数ページの第38帖「鈴虫」は訳出していない)。「ここにあるのは天才の作品」「忘れられた文明が(……)いずこでも追従をゆるさない配列の美しさをもって蘇ってくる」「日本の黄金時代の古典 東洋最高の長編小説」等々、『タイムズ』紙などで絶賛された。またその訳文は「感情の優雅さと純粋な言葉の巧みさのどれだけが紫式部(レディ・ムラサキ)のもので、どれだけ翻訳者のものかわからない」と英文学としても高く評価された。「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に紫式部の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績と言える。また同書に触発され、日本研究を志し大成したドナルド・キーンなどの日本学者も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの訳著『The 'No' Plays of Japan』を読み、初めて〈〉に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお『The Tale of Genji』はその後、イタリア語ドイツ語フランス語などに二次翻訳された。現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ、日本の歴史伝統を理解するための必読書とされる。

影響

ドナルド・キーンはウェイリー訳の『The Tale of Genji』を読み「『源氏物語』がもたらした光明が忘れられぬ」、「源氏物語の英訳(全訳)は米国人のサイデンステッカー訳など四種類あるが、ウェイリーが最高」とインタヴューで答えている。その他、日本研究家・中国研究家、翻訳家、文壇、文化人らに多数影響を与えた。音楽の世界においてはビートルズのメンバー(当時)だったジョージ・ハリスンの「The Inner Light」はウェイリー訳『老子道徳経』の一節(第四七章)から引用された、との指摘もある。また、他の音楽家においても、コンスタント・ランバート李白の詩を元に作曲し、マーチン・ダルビーがウェイリー訳に基づいて中国(風の)曲を作曲した。直接か間接的な影響かは不明ながらコーネリアス・カーデュー孔子の詩に曲付けを試みるなど、世代に関係なく様々な影響を西洋にもたらしたとされ、「ウェイリー版源氏物語」を愛読した人物として、ユルスナールレヴィ=ストロースエドワード・ゴーリーバルテュスなどが知られている。

賞と栄誉

人物

天才型の奇人であった。叙勲された際に喜んだ形跡がなかったことから、名誉にも無頓着であったと思われる。

ラフカディオ・ハーンを「日本を理解していない」と批判し、阿倍仲麻呂和歌について漢文で書かれた後に和歌に翻訳された可能性を指摘するなど、東アジアの古典語に通じていたが、現代の日本語や中国語を話すことはできなかった[注釈 2]。"The Secret History of the Mongols"の序文で、自分は多くの言語に精通しているわけではないが、中国語と日本語はかなり詳しく、アイヌ語モンゴル語はある程度知っており、ヘブライ語シリア語も多少知っていると書いている。

中国や日本の古典を数多く英訳したにもかかわらず、ウェイリーは両国をはじめとする東アジアの国に行ったことはなかった。来日しなかったのは「日本に幻滅したくなかったからだ」との憶測が語られているが、単に長旅が嫌いだったとの関係者の証言がある。また、ウェイリーが訳した『老子道徳経』の第四十七章には「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして、天道を見る」との一節があり、自ら訳した老子道徳経を実践したのかもしれない。

研究対象としてのウェイリー

ウェイリーの翻訳が多数の西洋人の心を掴んだ事から、比較文学の研究対象とされ、源氏物語の原典とウェイリー訳の加筆・省略・表現などを比較考察した研究もある。また、様々なウェイリー自身の伝記論考もある。戦後も日本からロンドンへ研究留学に来た国文学者東洋学[注釈 3]とも交流があった。

またウェイリーは「ブルームズベリー・グループ」の一員で、女性関係が複雑で、その生涯も興味の対象となっている。特に人妻で、晩年結婚したアリスンと、謎めいた女ベリルとの三角関係は、ウェイリー没後に出された、アリスン・ウェイリー『ブルームズベリーの恋』(井原真理子訳、河出書房新社、1992年)[注釈 4]に詳しい。

著作物

以下に、ウェイリーの著作物の一部を示す。

翻訳

  • A Hundred and Seventy Chinese Poems(漢詩百七十首), 1918
  • More Translations from the Chinese (Alfred A. Knopf, New York, 1919).
  • Japanese Poetry: The Uta(日本の詩: ), 1919 - 主に万葉集古今和歌集からの抜粋
  • The Nō Plays of Japan(日本の能楽), 1921 - 『敦盛』などの謡曲の翻訳
  • The Temple and Other Poems, 1923
  • The Tale of Genji源氏物語), 1925–1933
    • 『ウェイリー版 源氏物語』(佐復秀樹訳、平凡社ライブラリー(全4巻)、2008年9月-2009年3月)
    • 『源氏物語 A・ウェイリー版』(毬矢まりえ・森山恵訳、左右社(全4巻)、2017年12月-2019年7月)。各“The Tale of Genji”を基にした訳書
  • The Pillow Book of Sei Shōnagon枕草子), 1928
  • The Way and Its Power: A Study of the Tao Te Ching and its Place in Chinese Thought(道とその力: 道徳経の研究と中国思想におけるその位置), 1934 - 老子作とされる『道徳経』の全訳と解説
  • The Book of Songs詩経), 1937
  • The Analects of Confucius論語), 1938
  • Three Ways of Thought in Ancient China(古代中国の三つの思想), 1939
  • Translations from the Chinese, a compilation, 1941
  • Monkey, 1942 - 呉承恩の『西遊記』100章のうち30章の翻訳
  • Chinese Poems, 1946
  • The Nine Songs: A Study of Shamanism in Ancient China(九つの歌: 古代中国におけるシャーマニズムの研究), 1955
  • Yuan Mei: Eighteenth-Century Chinese Poet(袁枚: 18世紀の中国の詩人), 1956
  • Ballads and Stories from Tun-Huang敦煌の詩と物語), 1960

執筆

  • Introduction to the Study of Chinese Painting(中国絵画研究の序説), 1923
  • The Life and Times of Po Chü-I白居易の人生と時間), 1949
  • The Poetry and Career of Li Po李白の詩と経歴), 1950
  • The Real Tripitaka and Other Pieces(真の三蔵とその他の作品), 1952
  • The Opium War through Chinese Eyes(中国人の目から見たアヘン戦争), 1958
  • The Secret History of the Mongols and Other Pieces元朝秘史とその他の作品), 1963

評伝研究

  • 平川祐弘 『アーサー・ウェイリー 『源氏物語』の翻訳者』(白水社、2008年)
  • 平川祐弘 『袁枚 「日曜日の世紀」の一詩人』(沖積舎、2004年)、ウェイリー英訳の解説小著
    • 『著作集 アーサーウェイリー 『源氏物語』の翻訳者』(勉誠出版、2020年)、両著を収録
  • 宮本昭三郎 『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』(新潮社新潮選書〉、1993年)
  • 安達静子 『海を渡った光源氏 ウェイリー『源氏物語』と出会う』(紅書房、2014年)
  • 津島知明 『ウェイリーと読む枕草子』(鼎書房、2005年)、解説書

脚注

注釈

  1. ^ 平川祐弘『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』には、「卒業試験の際、初歩的な誤りをして、大学に残るという望みは断たれた」とある。
  2. ^ 直接会ったことのあるドナルド・キーンは『わたしの日本語修行』(白水社p.168f)で「日本の古文、文語を詠めるようになるには三か月あればいい、三か月で誰にでもできるはずだ」と書いていることを紹介し、日本語も中国語も自由に読めるが話すことはできなかったと話している。ただ、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象です」だと答えている。
  3. ^ 川口久雄 『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』(明治書院、2001年)「第1章」に、詳しい研究回想がある。
  4. ^ なお評伝を著した宮本昭三郎は、『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』のあとがきで、アリスンの著作はフィクション色が強く、参照は必要最小限しか行なわなかったと述べている。

出典

  1. ^ Johns (1983), p. 179.
  2. ^ E. Bruce Brooks, "Arthur Waley", Warring States Project, University of Massachusetts.
  3. ^ a b c d e Honey (2001), p. 225.
  4. ^ 宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男』新潮社、1993年。ISBN 4106004348 
  5. ^ Papers of Beryl de Zoete”. Rutgers University. 2004年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月22日閲覧。
  6. ^ Peter Kornicki, Eavesdropping on the Emperor: Interrogators and Codebreakers in Britain's War with Japan (London: Hurst & Co., 2021), pp. 31-32.
  7. ^ Obituary of Arthur Waley”. Cambridge University Press. 17 April 2018閲覧。
  8. ^ Sacheverell Sitwell. For Want of the Golden City (New York: John Day, 1973) p. 255
  9. ^ Jonathan Spence. "Arthur Waley," in Chinese Roundabout (New York: Norton, 1992 ISBN 0393033554) pp. 329-330
  10. ^ a b Nienhauser, William H. "Introduction." In: Nienhauser, William H. (editor). Tang Dynasty Tales: A Guided Reader. World Scientific, 2010. ISBN 9814287288, 9789814287289. p. xv.

参考文献

外部リンク