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{{基礎情報 文学作品
{{for|本作品をモチーフに制作された[[ヨルシカ]]の楽曲|老人と海 (曲)}}
|題名 = 老人と海
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|原題 = The Old Man and the Sea
| title = 老人と海
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『'''老人と海'''』(''The Old Man and the Sea'') は、アメリカの作家[[アーネスト・ヘミングウェイ]]による[[編小説]]。[[1951年]]に書かれ、[[1952年]]出版された。世界的なベストセラーであり、[[1954年]]のヘミングウェイ[[ノーベル文学賞]]受賞に寄与した作品でもある<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%80%81%E4%BA%BA%E3%81%A8%E6%B5%B7-152415 |title=老人と海 |accessdate=2016-09-07}}</ref>
『'''老人と海'''』(ろうじんとうみ、''The Old Man and the Sea'') は、[[20世紀]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]の作家[[アーネスト・ヘミングウェイ]](1899年 - 1961年)による[[編小説]]{{sfn|佐藤|1986|p=154}}{{sfn|松坂|2010|p=71}}出版は1952年で、ヘミングウェイの生前刊行されて[[ベストセラー]]となった最後の作品である{{sfn|都甲|2021|pp=10-16}}{{sfn|新井|1985|p=1}}。この作品により、ヘミングウェイは1953年に[[ピューリッツァー賞]]、1954年には[[ノーベル文学賞]]受賞した{{sfn|都甲|2021|pp=10-16}}{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。


== 概要 ==
== 物語のプロット ==
『老人と海』の物語はきわめて単純で、キューバに住む一人の老漁師が84日間もの不漁の後、巨大な[[カジキ]]を3日間にわたる死闘の末に捕獲するが、その後に[[サメ]]に襲われ、獲物を食い尽くされてしまうという話である{{sfn|今村|2002|p-205}}{{sfn|松坂|2010|p=71}}。
本作品はヘミングウェイ生前最後の刊行作品であり、1952年9月に雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』に全文掲載の後に同月[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|スクリブナーズ社]]より単行本化された短編小説である。ヘミングウェイは、1936年に『[[エスクァイア]]』にて物語の骨子であるキューバの老人とカジキの死闘の話を実話として「青い海の上で―メキシコ湾流便り」と題して寄稿しており、作品テーマ自体はかなり前から保持していたと判断される<ref>野崎孝訳『老人と海他』解説p.348</ref>。ヘミングウェイは当初、陸海空をテーマとした全三部の大作を構想しており、『老人と海』はそのなかの海を舞台とした作品の一部分をなす予定であった<ref>野崎孝訳『老人と海他』解説p.348</ref>。本人の没後、海の部の残りに相当する遺稿が妻である[[メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ]]の手によって編集され、海洋画家トマス・ハドソンを主人公とする悲劇として1970年に『海流の中の島々』という作品名で出版されている。1950年に刊行された『河を渡って木立の中へ』とは対照的に大好評を博して、1953年に[[ピューリッツァー賞]]を受賞し、1954年のノーベル文学賞受賞のきっかけとなった<ref>野崎孝訳『老人と海他』解説p.348</ref>。
作品の[[プロット (物語)|プロット]]としては、以下大きく5つの部分に分けることができる{{sfn|千葉|1964|p=90}}{{sfn|芳賀|1964|p=71}}。


# 前日:プロローグ。キューバのハバナに暮らす老漁師サンチャゴ{{efn|「サンチアゴ」の表記もある{{sfn|高見|2020|p=8}}。}}は、84日間一匹も魚が獲れない日々が続いていた。老人を慕う少年マノーリンは老人とともに漁に出ていたが、両親の言いつけにより心ならずも別の舟に乗るようになっていた。老人は眠り、好きな[[ライオン]]の夢を見る{{sfn|都甲|2021|pp=17-18}}{{sfn|木村|1961|pp=1-15}}。
== あらすじ ==
# 第1日:早朝、老人は少年に見送られながら一人小舟を操って海に漕ぎ出す。沖に出た老人は明るくなる前に釣り綱を下ろす。昼ごろに当たりが来て、大物の手応えがあった。老人は綱を背中に回して踏ん張る。しかし、大魚は夜になっても小舟を曳きながら沖に向かって泳いでいく{{sfn|都甲|2021|pp=17-18}}{{sfn|木村|1961|pp=1-15}}。
[[ファイル:Tetrapturus albidus.jpg|right|thumb|180px|[[カジキ]] ]]
# 第2日:大魚は小舟を引き続けている。根比べの最中、小鳥に気を取られた老人は、急に深く潜った大魚によって小舟の上に引き倒され、手を傷つけてしまう。綱を支えていた左手が痙攣を起こし、老人を悩ませる。大魚が水面に姿を見せるが、すぐに水中深く潜ってしまう。午後になり、老人の左手の痙攣が収まる。夕暮れ時、別の釣り綱に[[シイラ]]が食いつき、老人は右手で大綱を支えながら左手で釣り上げる。日が沈むと、老人はしばらくの間まどろみ、[[イルカ]]の群れや村の自分のベッド、そしてライオンの夢を見る{{sfn|木村|1961|pp=1-15}}{{efn|千葉は、3日目に老人が大魚を仕留めるまでが第3の部分で、以降のサメの襲撃からを第4の部分としている{{sfn|千葉|1964|p=90}}。}}。
[[キューバ]]に住む老人サンチャゴは、漁師である。助手の少年と小さな帆かけ舟で[[メキシコ湾]]の沖に出て、一本釣りで大型魚を獲って暮らしを立てている。あるとき数ヶ月にわたり一匹も釣れない不漁が続き、少年は両親から、別の船に乗ることを命じられる。助手なしの一人で沖に出た老人の針に、巨大な[[カジキ]]が食いついた。
# 第3日:大魚が前進を止めて旋回を始める。老人は綱をたぐるが、疲労で気を失いかける。3度目の旋回から大魚が水面に浮かび上がる。老人は意識もうろうとなりながらも、力を振り絞って大魚に[[銛]]を打ち込む。大魚は一度跳ね上がって水中に潜り、やがて腹を見せて浮かび上がる。老人は仕留めた大魚を舷側に結びつけて帰路につく。しかし、大魚の血の匂いを嗅ぎつけたサメが次々に襲撃してくる。老人は必死に防ぐが、格闘のうちに銛を取られ、[[オール]]に結びつけた[[ナイフ]]も失う。夕暮れが迫る。老人はサメを舵棒で打ちまくるが、大魚のほとんどを食いちぎられてしまう。真夜中過ぎに老人は港にたどり着く。やっとの思いで這い上がり、小屋にたどり着くと、ベッドにうつ伏せになって眠りに落ちる{{sfn|木村|1961|pp=1-15}}。
# 第4日:エピローグ。朝、少年が小屋をのぞくと老人は眠り込んでいた。老人の両手の傷を見て、少年は泣き出す。港では、漁師たちが老人の小舟のまわりに集まって、骨ばかりになっていた大魚の長さを測っていた。少年は[[コーヒー]]を老人のところへ運ぶ。目を覚ました老人はコーヒーを飲みながら、少年とまた一緒に釣りに行くことを約束する。少年に見守られながら老人はまた眠り、好きなライオンの夢を見る{{sfn|木村|1961|pp=1-15}}。


== 執筆の経過 ==
老人は魚のかかった糸を素手であやつり、獲物が弱るのを忍耐強く待ちながら、むかし船員だった若い頃にアフリカの岸辺で見たライオンの群れのこと、力自慢の黒人と演じた一晩がかりの腕相撲勝負のことなど、過ぎた昔のことをとりとめもなく思い出す。3日にわたる孤独な死闘ののち、老人はカジキを仕留めるが、獲物が大きすぎて舟に引き上げられず、横に縛りつけて港へ戻ることにした。しかし、傷ついた魚から流れる血の臭いにつられ、老人の舟は[[アオザメ]]の群れに追跡される。
=== 前作の不評 ===
ヘミングウェイは1940年に『[[誰がために鐘は鳴る]]』を出版して以来、1950年9月に『{{仮リンク|河を渡って木立の中へ|en|Across the River and into the Trees}}』を出版するまで、10年間にわたって沈黙していた。実はこの間、『[[エデンの園 (ヘミングウェイ)|エデンの園]]』や『[[海流のなかの島々]]』を断続的に執筆しており、これらはヘミングウェイの死後に出版された{{sfn|島村|2005|pp=155-159}}。
前作『河を渡って木立の中へ』の執筆は1949年4月で、妻[[メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ|メアリー]]を伴って[[イタリア]]旅行中、{{仮リンク|アドリアーナ・イヴァンチッチ|en|Adriana Ivancich}}という18歳の貴族の娘と出会ったことが直接のきっかけとなった{{efn|アドリアーナをひと目見たヘミングウェイは「雷に打たれたようなショックを受けた」と語っている{{sfn|高見|2020|p=137}}。}}。ヘミングウェイはこの作品に手応えを感じており、売れ行きもよく、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』のベストセラー・リストに21週間掲載されたほどだった{{sfn|島村|2005|pp=159-167}}。
しかし、作品への批評は厳しいものが多く、駄作で魅力に欠け、スタイルも構成も弛緩していてヘミングウェイはもう駄目になった、と今後の作家活動を疑問視するものまであった。このような酷評に、ヘミングウェイは深い気鬱に陥った{{sfn|島村|2005|pp=159-167}}{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。


=== 着手 ===
舟に結びつけたカジキを執拗に襲い、肉を食いちぎるサメの群れと、老人は必死に闘う。しかし鮫がカジキに食いつき、老人が鮫を突き殺すたび、新しく流れだす血がより多くの鮫を惹きつけ、カジキの体は次第に喰いちぎられていく。望みのない戦いを繰り返しながら老人は考える。人間は殺されることはある、しかし、敗北するようにはできていないのだと。
[[File:Hemingways House (3204609340).jpg|thumb|『老人と海』が書かれたキューバのヘミングウェイの家{{仮リンク|フィンカ・ビヒア|en|Finca Vigía}}{{efn|フィンカは「別荘」、ビヒアは「望楼」の意{{sfn|江頭・桑野|2020|p=10}}。}}]]
『河を渡って木立の中へ』出版から2ヶ月後の1950年10月末、アドリアーナが母親とともにキューバのヘミングウェイを訪問した。彼女らは翌年2月初旬まで滞在し、ヘミングウェイは彼女らを持ち船「ピラール号」に乗せて[[カリブ海]]周辺の島々を案内した。アドリアーナはキューバでの滞在について、次のように回想している。
{{Quotation|私は活気に溢れ、熱意がみなぎっていたので、それを彼に注ぎ込んだのだ。彼は再び書き始めたが、思いもよらず何もかもうまくいくように思えた。彼は書き終えると、別の著作に―私に言わせれば―遥かに優れた著作に取りかかった。彼は、いまや再び、しかも上手に書くことができた。それで彼は私に感謝した{{sfn|島村|2005|pp=167-170}}。}}
この回想に基づけば、ヘミングウェイはこの年の[[クリスマス・イヴ]]に『海流のなかの島々』を書き上げ、さらに年内か遅くとも翌1950年1月早々には『老人と海』に着手したことになる。『海流のなかの島々』を編集した[[カーロス・ベイカー]]によれば、『老人と海』は『海流のなかの島々』とともに「海」の四部作として構想の一つに入っていたものが切り離されたものである{{sfn|島村|2005|pp=167-170}}。ヘミングウェイは従軍記者をしていたころに、[[第二次世界大戦]]に関する「陸・海・空」の物語を構想しており、『老人と海』はそのうちの「海」の第4部に相当していた{{sfn|梅沢|1978|p=20}}{{sfn|南谷|1999|p=5}}{{sfn|島村|2005|pp=155-159}}。


ヘミングウェイが『老人と海』の草稿を書き終えたのは、1951年2月中旬だった。執筆期間はおよそ2ヶ月足らずと見られる{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}{{sfn|高見|2020|pp=142-143}}。妻メアリーは、人目もはばからずアドリアーナに恋情を寄せるヘミングウェイに愛想を尽かし、別居後の自分の仕事の準備までしていたが、『老人と海』の草稿を読み、「これならば、あなたがわたしにさんざん加えたひどい仕打ちを、もう全部許してもいい」と告げた{{sfn|高見|2020|pp=142-143}}。
ようやく漁港にたどりついたとき、仕留めたカジキは鮫に食い尽くされ、巨大な骸骨になっていた。港に帰ってきた老人の舟と、横のカジキの残骸を見た助手の少年が、老人の粗末な小屋にやってきたとき、老人は古新聞を敷いたベッドで眠っていた。老人はライオンの夢を見ていた。
同月下旬には版元[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|スクリブナーズ]]社の{{仮リンク|チャールズ・スクリブナー|en|Charles Scribner III}}がハバナを訪れ、草稿を読んで絶賛した{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。

=== 取材対応と身近な人々の死 ===
ヘミングウェイが『老人と海』の推敲を始めた1951年早々から、アメリカの若手研究家チャールズ・フェントン、カーロス・ベイカー、フィリップ・ヤング、イギリスのジャーナリストのジョン・アトキンズがヘミングウェイの研究書の出版を巡って次々に接触してきた。彼らと私信を交わしたヘミングウェイは、ベイカーとアトキンズが彼の作品を中心に論じようとしていることを知って、二人に協力した。しかし、フェントンの研究対象はヘミングウェイの伝記的な内容であったために協力を拒否した。ヤングの著書に対しては、作品の一部を引用することを認めようとしなかった。この引用については、最終的にはヘミングウェイが折れて許可したものの、フェントンとヤングの著書の出版阻止のために一時は法的手段に出ることも検討していたほどだった。後に、ベイカーの研究は実証性の確かさによって、またヤングの研究は切り口の独自性によって、ヘミングウェイ研究に大きな影響を及ぼすことになった{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。

また、同年6月にはヘミングウェイの母グレースが死去した。母に対して屈折した思いのあったヘミングウェイは、葬儀の費用を支払ったものの出席はしなかった。10月には2番目の妻[[ポーリン・ファイファー|ポーリン]]が急死した。二人の息子である[[グレゴリー・ヘミングウェイ|グレゴリー]]の問題をめぐって、亡くなる前日の晩にヘミングウェイはポーリンと電話で罵り合い、彼女をひどく責めていた。彼女は副腎髄質に腫瘍があり、ストレスを受けたことでアドレナリンが異常に分泌され、急激な血圧上昇を引き起こしたことが死因だった。翌1952年2月には、『老人と海』の草稿を読んだ版元のチャールズ・スクリブナーが心臓発作で死亡した{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。ヘミングウェイが『老人と海』の最終原稿をスクリブナー社に渡したのは、その一月後の1952年3月10日である{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。

== 出版と反響 ==
『老人と海』は、単行本に先駆けて[[グラフ誌]]『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』1952年9月1日号に全編掲載された{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。
5,000字程度が記事の上限である[[週刊誌]]にとって、27,000語にのぼる小説を一挙に掲載することは破格の扱いだった{{sfn|生井|1999|pp=264-265}}。掲載前の『ライフ』8月25日号では、社説でジェイムズ・ミッチェナーが「老いたるヘミングウェイが傑作を書き、チャンピオンシップを奪還した。彼は今でも私たちみんなのパパなのだ。」と作品掲載を予告した{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。
『老人と海』を掲載した『ライフ』9月1日号には、「ここにアメリカの偉大な作家の偉大なる新作全編を、初めて提供することを誇りとするものである」という編集側の謳い文句と、各ページに{{仮リンク|ノエル・シックルズ|en|Noel Sickles}}の挿絵が掲載されていた{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。同掲載誌は500万部以上印刷された。これは社始まって以来の発行部数であったが、48時間で完売となり、ヘミングウェイに4万ドルの原稿料をもたらした{{sfn|生井|1999|pp=264-265}}。読者からは「国民作家ヘミングウェイの復活」を祝福する投書が殺到した{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。

『ライフ』掲載から1週間後の9月8日、スクリブナー社は『老人と海』を出版した。初版の発行部数は5万部で、表紙カバーには作品の舞台となる[[コヒマル]]の漁村を描いたアドリアーナの絵が採用され、ヘミングウェイを喜ばせた{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}{{sfn|高見|2020|pp=142-143}}。
スクリブナー社の刊行本では、当初の献呈先は妻のメアリーとされていたが、メアリーの承諾を得て「チャールズ・スクリブナーと[[マックス・パーキンズ]]{{efn|パーキンズはスクリブナー社の編集者で、1947年6月に[[肺炎]]のために急死していた{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。}}に捧ぐ」に変更された{{sfn|島村|2005|pp=176-180}}。

=== 受賞 ===
『老人と海』でヘミングウェイは1953年に[[ピューリッツァー賞]]を、1954年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
通常、ノーベル文学賞は作家の生涯の達成に対して与えられるが、この年の[[スウェーデン・アカデミー]]は、『老人と海』の技法的達成を授賞の大きな理由としている{{sfn|都甲|2021|pp=17,31}}。
なお、この年のアフリカ旅行中に飛行機事故に遭ったヘミングウェイは重傷を負い、体調不良のために授賞式を欠席した{{sfn|都甲|2021|pp=113}}。

== 物語の原型==
[[File:Portrait of author Ernest Hemingway posing with sailfish Key West, Florida.jpg|thumb|upright|ヘミングウェイとカジキ([[フロリダ州]][[キーウェスト]]にて。1940年代)]]
1936年にヘミングウェイは『[[エスクァイア]]』誌に「青い海で(On the Blue Water):[[メキシコ湾流]]便り」と題して、巨大なカジキを捕らえたキューバの老漁師について次のような記事を寄せていた。
{{Quotation|老人はただ一人、小舟に乗ってメキシコ湾流の中で彼らと闘い……やがては疲れ果てて、サメたちは食えるだけみんなたいらげてしまった。老人は漁師たちが彼を助け上げたとき、自分の損失に半狂乱になって舟の中で泣いていたが、サメはあいかわらず船の周りを泳ぎ回っていた{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}。}}

このきわめて短い物語が『老人と海』の原型だとされている{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}{{sfn|佐藤|1986|pp=156-157}}{{sfn|坂口|2011|pp=20-21}}。
3年後の1939年2月には、ヘミングウェイはスクリブナー社の編集者であったマックス・パーキンズに、ハバナ近くのカサブランカという漁師の集まるところに住み着いている老漁夫の小説でも書こうと思っていると話していた{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}{{sfn|佐藤|1986|pp=156-157}}。

この記事と『老人と海』とは多くの点で一致しているが、『老人と海』では、老人が不漁続きであったことや老人の生命観、最後まで涙一つこぼさずに自力で寄港したことなどが付加されている{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。
作者の創造が反映されたサンチャゴ老人のリアクションは記事の老漁師とは対照的なふるまいとなっている{{sfn|渡久山|2012|pp=9-10}}。
とくに大きな違いはその終わり方であり、全く別物といえるものになっている{{sfn|坂口|2011|pp=20-21}}。
この記事の老漁夫は泣いて敗北を認めたが、『老人と海』の老人は敗れざる者として描かれており、ここにはヘミングウェイの生きることへの信念が凝縮されている{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}。

また、ヘミングウェイは元来[[釣り|魚釣り]]を好み、興味が高じてこれより以前に「ピラール号」という漁船を自ら建造させ、[[キーウェスト]]沖で468ポンドに及ぶカジキを捕獲したり、[[ビミニ]]諸島近くで素人釣りとしては最大であろうと言われた310ポンドのマグロを釣り上げたりしていた。餌にかかった魚がときどきサメに食われるために、サメを殺すための特別な槍のようなものを作ったりもしており、物語にはこれらの体験が投影されている{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。

=== 老人のモデル ===
[[File:Ernest Hemingway and Carlos Gutierrez aboard Pilar, Key West, 1934.jpg|thumb|ピラール号上のヘミングウェイとグティエレス(1934年)]]
上記の老漁師の話は、「ピラール号」の初代船長だったカルロス・グティエレスがヘミングウェイに伝えたもので、グティエレスはサンチャゴ老人の性格のモデルとされている。ヘミングウェイがグティエレスと出会ったのは30代のときで、当時の漁の写真のほとんどに現れているほどヘミングウェイは彼に惚れ込んでいた。グティエレスはまた、1920年代に自分が取り逃がした巨大なマカジキの話もヘミングウェイにしていた{{sfn|坂口|2011|pp=20-21}}。
同じく「ピラール号」の船長を務めていた[[グレゴリオ・フエンテス]]が『老人と海』の老人のモデルだとされることがあるが、フエンテスは2代目の船長であり、物語に直接関わってはいない。とはいえ、彼がヘミングウェイとともに過ごした体験が投影されている可能性はある{{sfn|今村|2002|pp=211-213}}。

また、ヘミングウェイはインタビューにおいて、偶然出会ったハバナの老漁夫の話から『老人と海』の素材を得たとも語っている。インタビュアーのK.シンガーがこの老漁夫を探し当てたところ、マヌエル・ウリバッリ・モンテスパンという名前の漁師であり、モンテスパンは当地を訪れる観光客らの話題となった。後にモンテスパンは、ヘミングウェイに材料を提供したのに自分はなにも報酬が得られず、作者は舟をくれる約束だったとして告訴したが、その事実はなかったとして棄却されている{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。

== 作品について ==
=== 評価 ===
『老人と海』は、[[第二次世界大戦]]後のヘミングウェイの唯一の成功作である{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。この作品について、ヘミングウェイ自身は次のように語っている。「私の生涯をかけて求めてきたものが、ようやく手に入ったような気がする。」{{sfn|樋口|1974|p=57}}{{sfn|梅沢|1978|p=3}}{{sfn|佐々木|2017|p=47}}。

『誰がために鐘は鳴る』以後10年間の沈黙と、その沈黙を破って発表した『河を渡って木立の中へ』が酷評をこうむった{{sfn|佐藤|1986|pp=156-157}}ことで、不安定な精神状態、大戦後の創作をめぐる混迷、創作意欲の減退といったヘミングウェイにつきまとう否定的要因を考えれば、『老人と海』は奇跡としかいいようのないほど高い完成度を示している{{sfn|島村|2005|pp=167-170}}。

『老人と海』は、そのスタイルと作品の意味の緊密性、象徴の深さと美、構成の統一などを中心に高い評価を受けた{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。橋本治夫は、「『老人と海』は一切の虚無と絶望をくぐり、悠久の生をはるかに遠く生きる人間の姿態とその可能性を描いている。簡潔な描写にひそむ作者の呼吸は緊迫の響きに満ちて、力強く快い」と述べている{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}。

『老人と海』発表当初に好意的批評を寄せたマーク・スコーラーは、老人の三日間の孤独な闘いと敗北に人間の悲劇を見て取り、この見方はその後の多くの批評に共通するものとなった{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。スコーラーはさらに、秀でた簡潔さ、散文の韻律、シンボリズムから『老人と海』をひとつの寓話([[アレゴリー]])として捉えた{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。橋本も作品のきわめて単純な物語を「一つの寓話」と述べている{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}。

『老人と海』を日本語に翻訳した[[福田恆存]]は、ヘミングウェイが純粋に客観的な外面描写を用いて理想的な人間像を描いたことにより、老人は[[叙事詩]]的英雄に酷似していると指摘し、「剛毅の文学」と呼んでいる。綿密に老人の行動をたどることによって、読者は[[ギリシア悲劇]]を読んだときのような生理的、心理的、倫理的なカタルシスを得る{{sfn|福田|1975|p=133}}。
橋本もまた「人間はいかに行動すべきか、また人間はどこまで忍耐できるか、その限界を極めようとして、人間が運命と対決する優れた「海の叙事詩」と述べる{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}。
海を舞台にした小説という点では、[[ハーマン・メルヴィル]]の『[[白鯨]]』と比較されることもある{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。

=== 文体 ===
ヘミングウェイの文章は、多彩な[[形容詞]]の忌避、簡潔単純な文構造を基本として展開される{{sfn|橋本|1955|p=19}}。具体的には[[口語体]]で、一音節の語を多用する。たいていは20語以内の短い文章であり、しかも短文で複文を避け、[and] や [but] のような[[接続詞]]で文をつなぐ{{sfn|佐藤|1986|p=155}}。修飾語の少ない簡潔な文であることは、内面的世界を無遠慮にむき出しにすることを好まない、[[ハードボイルド]]で厳しいストイシズムといえる{{sfn|小堀|1972|p=147}}。
老人が実際に行ったこと、その周囲に存在した事物、それ以外はなにも描かれていないが、このことは逆に、描かれていることの確かさを強く感じさせる。『老人と海』では、こうした純粋で客観的な外面的描写を用いて、作者にとっての理想的な人間像を表現している{{sfn|佐藤|1986|p=167}}。

{{Quotation|『老人と海』は1,000ページを超える分量になったかもしれない。村のあらゆる人物を書くことだったできたし、彼らがどうして生活するか、生まれたか、教育を受けたか、子供を育てるか、その他の過程を細々と書くことだってできた……まず最初に経験を読者に伝えるのに不要なあらゆるものを切り捨てようとした……私はマカジキを見たことがあるし、海のことも知っている。それでそんなことは省略した。私は50頭あまりのマッコウクジラの群れが潮の中を同じ方向に向かって行くのを見たことがある。だからそんなことは省略した。漁村で聞いた話は全部省略した。だが、そんな知識は、氷山の表面下の部分になっている。|ヘミングウェイ自身が語った創作態度{{sfn|木村|1969|pp=1-4}}。}}
ヘミングウェイはこの作品を200回以上も読み返して推敲したといわれる{{sfn|木村|1959|pp=1-24}}。このようにして煮詰められ煎じ詰められた表現が意味深い含蓄を持ち、一見簡素に見えるヘミングウェイの文に深さと幅を持たせている{{sfn|木村|1969|pp=1-4}}。
例えば、作品中に老人の身上については一切の説明がないが、粗末な漁師小屋の壁にイエスとマリアの彩色画が貼りつけられていて、それは老人の妻の形見であった、という描写によって、老人が妻に先立たれていること、さらにはその妻は信仰が厚く、少なくとも老人にとってよき伴侶であっただろうことが連想される。さらに、壁には故人の写真が掛けられていたが、いまは取り外されて、片隅の棚に洗ったシャツの下に置かれていると述べられていることにより、老人にとって妻の存在の大きさが印象付けられる。わずかな描写がその背景を膨らませ、妻が登場しないことで、妻にも愛情が捧げられている{{sfn|木村|1969|pp=1-4}}{{sfn|新井|1985|pp=6-7}}。
また、少年の性格についてはひとことの説明もないが、老人と少年の素朴な会話からは、少年の老人に対する思慕や優しい愛情に溢れていることがよくわかる{{sfn|木村|1969|pp=1-4}}。

ヘミングウェイの特徴ある文体はきわめて平易で、かつ誰にでも書けそうに思われるものである。しかし、一見非情に見えるうちに、情緒纏綿たる表現も用いられている{{sfn|木村|1959|pp=1-24}}。『老人と海』においては、「非情な写実主義」の典型とされてきたヘミングウェイの作風に、精神的な要素が有機的に調和している{{sfn|柳沢|1999|p=48}}。このように物語の叙法に一つの新しい面を開いたことが、ノーベル文学賞の受賞につながった{{sfn|木村|1959|pp=1-24}}。

=== 物語と解釈 ===
『老人と海』は、実在した老漁師の体験をヘミングウェイのフィッシング経験と融合させた[[フィクション]]である。ヘミングウェイはフロリダ州キーウェストに住居を構え、キューバにも実際に住んで、フィッシングに興じてきた。『老人と海』の創作には、彼の経験から得た海の現実や海洋生物の生態・知識が存分に活用されている{{sfn|渡久山|2012|pp=9-10}}。主人公に、きわめて原始的な漁法を行う老漁師を設定したことには、[[生態系]]や[[環境保護]]に関するヘミングウェイの考えが暗示されており、すぐれて現代的なメッセージが込められている{{sfn|渡久山|2012|pp=9-10}}{{sfn|都甲|2021|p=31}}。

また、人間社会から隔絶した大海で孤独に闘う老人を描いたこの作品は、大海に囲まれた「超現実の世界」と老人が出発して最後に帰還する「現実(文明)の世界」という2つの世界に分けて論じられることも多い{{sfn|柳沢|1999|p=38}}。
例えば、千葉兼太郎は、ヘミングウェイは自我の主体性と現実界の虚しさを両極的に引き離した中に生存の意味を探ろうとしたとし、分裂そのものがこの作品を成立させており、『老人と海』はヘミングウェイ文学における断絶の頂点をなすと述べる{{sfn|千葉|1964|pp=84-86}}。
また、新井哲男は、海上での闘いは一種の老人の夢であり、老人は現実を背後に残して夢の世界に入っていくとし、『老人と海』には醜悪な現実からの逃避願望という一面を併せ持っていると述べる{{sfn|新井|1994|p=147}}。
木村達雄は、『誰がために鐘は鳴る』以降、長い間の苦労が虚しくも報いられなかったことで、作者はその悲痛な心境を訴えるために『老人と海』を書いたかに思われるとし、老人はとりもなおさずヘミングウェイ自身ではなかろうかと指摘している{{sfn|木村|1959|pp=1-24}}。

老人はサンチャゴ、少年はマノーリンという名前を持っているが、実際には単に「老人」、「少年」と呼ばれることがほとんどである。登場人物はこの二人を除いてはほとんどいない。そのほかには[[カジキ]]、[[サメ]]、[[ライオン]]、[[トビウオ]]、[[グンカンドリ]]、小鳥、[[シイラ]]、[[カツオノエボシ]]のような動物や魚であり、[[海]]や[[空]]、[[雲]]、[[星]]、[[月]]、[[太陽]]のような[[宇宙]]の一部が[[自然]]の存在物として、人間や動物と並んで対等に存在している{{sfn|今村|2002|p=216}}。
また、老人は海を「ラ・マル」と女性形で呼ぶ。これは一方で若い漁師たちの中に海を「エル・マル」と男性形で呼び、海を「ライバル、戦いの場、敵」として捉えている者がいることと対照をなしている{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

この小説の中心は、自然と闘い抜く老人の不屈の姿であり、人間の高貴さを象徴するものとして描かれている。この老人は、自分を取り巻く小さな生き物に対して常に温かい視線を送り、深い敬意を抱いている。そして、闘いの中で彼が目の当たりにするのは、海の生物の圧倒的な力と美である。これは「神聖なものは平凡なものに宿る」として自然美を称えた[[ラルフ・ワルド・エマーソン|エマーソン]]の系譜に連なる魅力である{{sfn|楢崎|2017|pp=46-51}}。
そして老人は、大魚と闘ううちに鳥や魚を自分の友達だと考え、太陽や月や星までも友達だと思うようになる。これは彼が自然の一部になっていることを示す{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}{{sfn|高見|2020|pp=143-144}}。

しかし、自然に対して共生的態度をとる老人も、生きるために愛するものを殺し、摂取する必要がある。このことで老人は悩む{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。大魚との闘いのなかで、若いころ[[アフリカ]]で[[黒人]]とまる一昼夜[[腕相撲]]を闘って勝ったことや、キューバ出身で[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]で活躍している野球選手のことを何度も思い出すが、それらは[[スポーツ]]であって、相手を殺すわけではない。愛する大魚を殺さなければならない「罪」についての答えが見つからずに反芻する老人の姿は、物語に奥行きを与えている{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

老人は三日三晩の間、手傷を負いながらも死力を尽くし、己の持つあらゆる能力を注ぎ込む。これは彼にとって苦痛だが、喜びでさえある。また、一見老人は理想の英雄として描かれているが、人間らしい弱みを持っている。彼は苦境に陥るたびに、「あの子がいたらな」と少年の不在に思いを馳せ、勇気を奮い起こそうとする{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}。

ついに仕留めた大魚を小舟に横付けして港に戻るとき、サメが現れたのは偶然ではなく、老人には予期できていたことだった{{sfn|渡久山|2012|pp=11-12}}{{sfn|都甲|2021|pp=32-33}}。
最初のサメが襲ってきたとき、老人は銛でサメを仕留めるが、さらに多くのサメが襲ってくることを予想する{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

この小説で最も有名な文章が、老人のつぶやきとしてここで述べられている{{sfn|渡久山|2012|pp=11-12}}。
{{Quotation|だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない。叩きつぶされることはあっても、負けやせん{{sfn|高見|2020|p=109}}{{sfn|都甲|2021|p=42}}{{efn|この文章は日本語訳によってさまざまな言葉が使われているが、ここでは高見及び都甲にしたがった。}}。}}
* 橋本治夫(1955年)は、この老人の言葉について、「不撓の闘争精神こそ人間の最高の精神としている」と述べる{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}。
* [[宮本陽一郎]](1999年)は、老人と大魚、その後のサメとの闘いを[[暴力]]の連鎖と見る立場から、「失敗と成功の[[パラドックス|逆説]]的な関わり方は『老人と海』の物語そのものの中で反復されており、サンチャゴ老人は、だれも釣ったことのないような超巨大なマカジキを釣ることに、まさに失敗したがゆえにヒロイックな存在となるのである」とする{{sfn|宮本|1999|pp=201-208}}。
* 島村法夫(2005年)は、「老人にとって敗北は敗北でない。彼は物事を結果で判断しない。魚との闘いを通して、自己の力や勇気、人間としての犯しがたい尊厳を保とうとしている。老人の魚やサメとの闘いは、与えられた機会にいかに全力を出しきれるかにあった」とする{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}。
* 渡久山幸功(2012年)は、広大な海において生き残りをかけた生命活動が絶え間なく行われているなか、この悲劇的な結末は、「過酷な自然の厳しさ」が生命を維持するための「自然の美しさ」へと変質する価値転換を要求している瞬間であり、この言葉によって、「過酷な自然の摂理・秩序と人間としての運命を受け入れていることを高らかに宣言している」と述べている{{sfn|渡久山|2012|pp=11-12}}。
* [[高見浩]](2020年)は、「まさしくヘミングウェイが一貫して希求してきた行動規範、いわゆる "grace under pressure(困難に直面してもたじろがずに立ち向かう)" の具現とも言えるだろう。大海原をただ一人飄然とゆく老人の孤影に、ヘミングウェイは原初的な人間の尊厳を刻みたかったのではなかろうか」としている{{sfn|高見|2020|pp=142-143}}。

物語のほとんど終わりに登場するアメリカからの旅行客は、大魚の骨をサメの骨だと誤解するが、この部分には、現代社会に向けたヘミングウェイの[[風刺]]的眼差しが注がれている{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}。
[[今村楯夫]]は、これを近現代の小説や演劇で見られる「異化作用」だと指摘している。老人の英知や悟りあるいはその悲劇的な結末に対して、読者がそれをそのまま無批判に受け入れないよう作者が最後に置いた障壁であり、読者の安易な感情移入を阻み、より冷静で複眼的な視点を持つための異物としてここに登場させている。これは、丘の上で倒れた[[キリスト]]にも似た老人を前にして、人間界のことなど無関心で老人の存在そのものを無視するように通り過ぎる一匹の猫もまた同様である{{sfn|今村|2002|pp=217-219}}。

また、この二人がアメリカ人であることは政治的な意味を持っている。この作品が書かれた1950年代、[[フルヘンシオ・バティスタ|バティスタ]]政権のもとでハバナにはアメリカの[[マフィア]]が支配する歓楽と[[ギャンブル]]社会が存在しており、アメリカ人はキューバをあたかも属国あるいはフロリダと海を隔てたアメリカの[[リゾート]]地の延長のごとき意識を持っていた。二人はキューバに対する無理解な「アメリカ」そのものを象徴する存在として描かれている{{sfn|今村|2002|pp=217-219}}。

=== 象徴的解釈 ===
本作に対するもっとも有名な批評は、発表当初に[[ウィリアム・フォークナー]]によって書かれたものである{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。フォークナーはそれまで、ヘミングウェイに対して「文学的な冒険をしない臆病な作家」と批判していた{{sfn|高見|2020|pp=148-149}}。
{{Quotation|彼(ヘミングウェイ)の最高傑作。われわれ、つまり彼や私の同時代人の著したどの作品にも優る作品であることを、いずれ時の経過が示すかもしれない。この作品で、彼は神を、創造主を発見した。|[[ワシントン・アンド・リー大学]]文芸誌『シェナンドア』1952年秋号に寄せたウィリアム・フォークナーの『老人と海』評より{{sfn|高見|2020|pp=142-143}}。}}

アメリカの代表的なヘミングウェイ研究者であるカーロス・ベイカーは、『老人と海』についてフォークナーが「神、創造主」と抽象的に述べたことを具体的に表現した。すなわち、サンチャゴ老人は[[福音書]]のキリストの人格と人間性を連想させる心と精神の持ち主である。老人は、大魚さらにはサメとの壮絶な闘いを繰り広げるうちに、[[十字架]]に[[磔]]にされたキリストと同様の姿になり、物語が進むにつれて十字架のイメージは次第に強まっていくとする。このようにしてベイカーによって打ち出されたクリスチャン・シンボリズムは、この作品に対する批評に方向性を与えるものとなった{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

以降、『老人と海』にクリスチャン・シンボリズムを見出した批評家には、エドウィン・モーズリー(1962年)、ロバート・ルイス(1965年)、ビッグフォード・シルヴェスター(1966年)、ジョーゼフ・フローラ(1973年)らがいる{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
日本では、松坂仁伺が『老人と海』について、釣りの物語と宗教的なメッセージの二重構造であるとし、[[新約聖書]]の[[ヨハネによる福音書]]第21章との関連を指摘しつつ、和解がこの作品のテーマだとする{{sfn|松坂|2010|p=71}}。
また、江頭理江と桑野健太郎は、キューバに伝わる「コブレの聖母」伝説と『老人と海』の関連を指摘している{{sfn|江頭・桑野|2020|pp=9-18}}。

このように、『老人と海』の批評は、[[ニュー・クリティシズム]]の中のクリスチャン・シンボリズムの観点から読む批評が主流となった。1980年代以降には[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]哲学やフランス[[印象派]]絵画との類似性{{efn|ヘミングウェイは、かつて[[ガートルード・スタイン]]から[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]の絵を見て視覚的にものを捉える方法を学ぶよう助言を受けていた{{sfn|都甲|2021|p=89}}。}}に注目する批評が現れてくるが、これらもクリスチャン・シンボリズムからの派生とみなすことができる。いずれにせよ、これらアメリカの批評に顕著に見られるのは宗教的で審美的な傾向であり、この作品からキューバの現実や社会性を見ようとしない姿勢である。このことは、1940年の『誰がために鐘は鳴る』に見られたような社会性が、『老人と海』では失われたと受け止められたことを示唆している{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

また、老人の夢の中に繰り返し現れて、この作品の最後を締めくくるライオンは、一般には勇気と希望を培う象徴的イメージと見なされている{{sfn|橋本|1955|p=19-22}}。これについて、松坂によれば、ライオン(lion)はマノーリン(Manolin)の名前の後半部分の[[アナグラム]]であり、つまりライオンと少年は実質的に同じものだとしている{{sfn|松坂|2010|p=75}}。さらに江頭と桑野によれば、サンチャゴとマノーリンとライオンは「コブレの聖母」伝説に登場する3人の漁師ということになる{{sfn|江頭・桑野|2020|pp=9-18}}。

これに対して、ヘミングウェイ自身は美術史家[[バーナード・ベレンソン]]への手紙に「海は海であり、老人は老人であり、少年は少年であり、マカジキはマカジキであり、サメはサメであり、シンボルは何もない」として「世間でいうシンボリズムなどはゴミ」{{sfn|高見|2020|pp=147-148}}と述べている一方で、「リアルな老人、リアルな少年、リアルな海、リアルな魚、リアルなサメを、私は描こうと試みた。しかし、もしそれに成功し、十分リアルに描けていれば、それらは多くのことを意味しうる……。ひとつの物事をきちんと誠意をもって描けば描くほど、のちに別の多くのことを意味するのだ……。」とも述べている{{sfn|江頭・桑野|2020|pp=13-17}}。

=== 社会性の観点から ===
『老人と海』はなんらかの政治的立場を明確に表明しているわけではなく、多様な読み方が許される作品である。クリスチャン・シンボリズムや[[アレゴリー]]としての読み方もあれば、アメリカの批評家が否定した社会性の観点から読み解くことも可能である{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
この作品を直接的に読めば、キューバの労働を中心に成り立つ[[漁村]]共同体の物語であり、1950年代、アメリカの半ば[[植民地]]であったキューバの寒村に住む老人を主題としている点で十分な社会性を持っているといえる{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

『老人と海』で描かれている魚釣りは、スポーツではなく生業である。この単純な物語の大部分が描くのは海での「[[労働]]」であり、それも近代化された工場での労働ではなく、自然を相手にする人間のもっとも原初的な労働といえる{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
陸地の見えない大海原は原初的な自然に最も近い場所であり、ただひとり小舟を操り、非近代的な装備で大魚と格闘する老人もまた、人間の原初的な姿、つまり原型である。そこで持てる知識と能力のすべてを傾けて獲物を仕留める老人の姿は、人間の原風景として読者を魅了する第一の点である{{sfn|島村|2005|pp=170-175}}{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
老人は不漁続きのためにサラオ{{efn|サラオとは、スペイン語で「最悪の事態」を意味する{{sfn|福田|1979|p=5}}。}}になったと見なされ、老人に付いていた少年は両親から別の舟に乗るように言いつけられるが、決して村の中で疎外されてはおらず、冒頭にはそんな老人をからかったり顔には出さずに同情する漁師たちの姿が描かれる{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

老人は一人で漁をするため、この物語の闘いの中では人間同士の協力関係は欠落しているが、それが逆に社会的動物としての人間のありようを深く読者に印象づける。老人はせめてもの慰めに、[[野球]]や少年に想いを馳せることによって、人間社会を味方として引き寄せ、「人心地」を保とうとする{{sfn|南谷|1999|p=9}}。
三日間の漁から夜半過ぎて村の港に帰るとき、老人は「おれはいい村に住んでいる」と思う{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

マノーリン少年は、この物語の主要なもうひとりの登場人物だが、彼が物語に登場するのは初めと終わりの部分だけである。しかし、老人が海で漁をする間に「少年がいてくれたらな」と繰り返しつぶやくことで、少年の不在が強調され、存在感を増している。老人が少年のことを口にするのには、協力者としてというだけでなく、単に話し相手がほしいという理由もあった。漁から戻った老人は、「誰か話し相手がいるというのは、自分や海に向かってだけ話すより、どんなに楽しいことか」と思い、少年に率直に「お前がいなくて寂しかったよ」と語っている。この老人と少年の関係は、労働とコミュニケーションによって構成されている人間活動の原初的な姿を示している{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

老人の孤独な敗北のなかに悲劇性を見るのが一般の批評であるが、すでに述べたように、老人は必ずしも孤独ではない。老人は釣り上げた大魚をサメに食い荒らされて戻ってきたが、決して打ちひしがれてはおらず、文体もヘミングウェイ独特の力強いハードボイルドで最後まで弛緩することがない{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
老人の満足感として、84日間の不漁続きから、ついに狙った大魚を三日間の格闘の末に釣り上げ、自らの潜在的能力を再確認したことがある。さらに、骨だけになった大魚を持ち帰ったことで、村の漁師たちの注目を集め、テラスの主人は「なんという魚だ。あんな大きな魚はいまだかつてない」と言う。老人は少年に「負けてしまったよ、マノーリン」と言うが、少年は「おじいさんは魚にやられたんじゃないよ」と答える。浜の人々は、老人が為したことを十分に理解して老人に対する尊敬の念を新たにしており、労働とコミュニケーションの集積によって成り立つ漁村共同体の一員として再評価されたことこそ老人の最大の満足であった。安心した老人は、少年に付き添われて満ち足りた思いで眠る。つまり老人の目的は十分に達成されたのだといえる{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

=== 『老人と海』を取り巻く政治的状況 ===
『老人と海』が発表された1952年は、東西[[冷戦]]のさなかにあり、アメリカでは[[マッカーシズム]]による[[赤狩り]]がピークを迎えていた。『老人と海』発表と前後して、1951年に[[ローゼンバーグ事件|ローゼンバーグ夫妻]]に対する有罪判決が下され、夫妻は1953年に処刑されている{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。
[[下院非米活動委員会|非米活動委員会]]の調査の矛先は[[人民戦線]]時代の知識人と[[ソビエト連邦]]の関係に向けられていた。当時、ヘミングウェイはソ連と最も深い関係にあった作家の一人であり、1938年、1941年、1942年、1943年にソ連共産党機関紙「[[プラウダ]]」に声明文を寄せていた{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}。
かつて1941年に『誰がために鐘は鳴る』でヘミングウェイはピューリッツァー賞の受賞寸前までいったが、作品の政治性がアメリカの体制に厭われ、スポンサーからの拒否にあって受賞に至らなかった{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
[[FBI]]はヘミングウェイのキューバでの活動について、詳細な調査ファイルを残しており、ヘミングウェイ自身もこのことに気づいていた{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

このようなもとで発表された『老人と海』は、[[神話]]的な漁師サンチャゴ老人の自然に対する不屈の闘いを描いた「肯定的」な文学として読みうるものであり、冷戦下の読者と批評家は、ヘミングウェイが政治的な「[[麻疹]]」から脱却し、非政治的で[[純文学]]的な作家に回帰したことをこぞって歓迎した。このことはまた、当時[[反共主義]]を売り物にしていた雑誌『ライフ』が作品を一挙掲載し、またたくまに完売したことにもうかがうことができる{{sfn|宮本|1999|pp=190-197}}{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。
『誰がために鐘は鳴る』以来、ヒット作に恵まれず不評を託っていたヘミングウェイだったが、『老人と海』によって彼は再びアメリカ文学の代表的な作家として甦った{{sfn|船山|2007|pp=214-242}}。

一方、[[キューバ]]の指導者[[フィデル・カストロ]]は、1984年に{{仮リンク|ノルベルト・フエンテス|en|Norberto Fuentes}}とのインタビューにおいて、『老人と海』は反[[植民地主義]]へのメッセージだとする解釈を示している。カストロはヘミングウェイの愛読者であり、二人は1960年5月15日に会見していた{{sfn|宮本|1999|pp=197-200}}。
{{Quotation|ヘミングウェイが言ったとおり「人間は破壊されることはあっても屈服させられることはないのだ。」。これは、われわれのためのメッセージであり、あらゆる時代においてたたかう人々の叫びであり、彼の文学的主張なのだ。(中略)確実なのは、ヘミングウェイが公然ととった行動のすべては、われわれの[[革命]]を擁護するものだったということだ{{sfn|宮本|1999|pp=197-200}}。}}

フエンテスによれば、ヘミングウェイは[[キューバ共産党]]に最も多額のカンパをした外国人であり、ヘミングウェイの主治医であり親友であったホセ・ルイス・エレラ・ソトロンゴは、カストロの抵抗運動に加わっていた。このような[[キューバ革命]]とヘミングウェイのつながりを積極的に読み取ろうとする姿勢は、カストロだけのものではなく、{{仮リンク|リサンドロ・オテロ|en|Lisandro Otero}}の『ヘミングウェイ』(1963年)や[[メアリー・クルス]]の『ガルフ・ストリームのなかのキューバとヘミングウェイ』(1981年)など、革命後のキューバ批評家たちのヘミングウェイ論に広い範囲において認められる{{sfn|宮本|1999|pp=197-200}}。

=== ヘミングウェイの政治姿勢 ===
[[File:Ernest-Hemingway-1954-in-Cuba.jpg|thumb|キューバでのヘミングウェイ(1954年)]]
[[スペイン内戦]]帰還兵がマッカーシズムの犠牲になっていた1950年、「エイブラハム・リンカーン旅団帰還兵の会(VALB)」会長ミルトン・ウルフから集会への協力依頼を受けたヘミングウェイは金銭援助を申し出ているが、その際に書きつけた未投函の手紙が発見されている。手紙には、「[[ジョゼフ・マッカーシー|マッカーシー]]上院議員殿 キューバの拙宅フィンカ・ビヒアにお出でいただき、僕と[[ボクシング]]で決着をつけようではないか」と書かれていた{{sfn|船山|2007|pp=244-248}}。

その後、『老人と海』の大成功により一段と名声と権威を増したヘミングウェイは、1954年4月『[[ルック (アメリカの雑誌)|ルック]]』誌に[[随筆|エッセイ]]を掲載し、[[サファリ (旅行)|サファリ]]紀行に事寄せてマッカーシズムを公然と批判した。
{{Quotation|私がアフリカで二度の飛行機墜落事故に遭ったとき、[[ウィスコンシン州|ウィスコンシン]]選出のジョゼフ・マッカーシー上院議員が同乗してくれていたらと強く願ったものである。公的な人物には私も人並な好奇心を抱いているから、マッカーシー議員ならピンチに陥ったときにどうふるまうかぜひ拝見したいと願った次第だ。上院議員は誠にご立派なお人柄であることは間違いない。だからこそ私は次のようなことに興味を持つのである。もしマッカーシー殿が上院議員特権に守られていなければ、我が一行が狩の友としている荒野の野獣に襲われたら、はたして無傷でいられるだろうかとそのとき思ったわけである{{sfn|船山|2007|pp=244-248}}。}}

ヘミングウェイは一貫してキューバの大衆側にあり、アメリカ政府への批判は変わることがなかった{{sfn|今村|2002|pp=217-219}}。
フィンカ・ビヒアにおけるノーベル賞受賞の非公式の祝いの席で、ヘミングウェイは次のように語っている。
{{Quotation|これはキューバに与えられた賞であります。なぜなら、この作品は、私が一市民であるところのキューバにおいて、[[コヒマル]]の仲間たちの援助によって、発想され、創作されたものだからです{{sfn|江頭・桑野|2020|p=10}}。}}


== 日本語訳 ==
== 日本語訳 ==
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* [[高見浩]]訳(2020年6月、新潮文庫)
* [[高見浩]]訳(2020年6月、新潮文庫)


== 映画化 ==
== 関連項目 ==
*[[1958年]]に[[アメリカ合衆国]]で、[[ジョン・スタージェス]]監督により[[老人と海 (1958年の映画)|老人と海]]』として映画化されてい[[スペサー・トレシー]]主演
*[[海流のなかの島々]]『老人と海』ともに「」の四部作として構想されていた作品ヘミグウェの死後に出版された

*[[1990年]]、[[日本]]で、本作をヒントに[[与那国島]]でカジキを追いかける老漁師の記録映画が撮られ、同名の記録映画『[[老人と海 (1990年の映画)|老人と海]]』が公開されている。[[ジャン・ユンカーマン]]監督、[[山上徹二郎]]企画製作。
=== 翻案・二次作品 ===
*[[1999年]]、[[ロシア]]で短編の[[アニメーション映画]]として製作された『{{仮リンク|老人と海 (1999年の映画)|ru|Старик и море (мультфильм)|label=老人と海}}』もある。これは、[[アレクサンドル・ペトロフ (アニメーター)|アレクサンドル・ペトロフ]]監督作品で、ガラス板に描かれた画を使った[[IMAX]]シアター作品。ロシア、日本、[[カナダ]]の合作。[[アカデミー短編アニメ賞]]、[[英国アカデミー賞]](BAFTA)短編アニメ賞を受賞している。
==== 映画 ====
* 『[[老人と海 (1958年の映画)|老人と海]]』(1958年、アメリカ):[[ジョン・スタージェス]]監督、[[スペンサー・トレイシー]]主演。
* 『[[老人と海 (1990年の映画)|老人と海]]』(1990年、日本):[[ジャン・ユンカーマン]]監督、[[山上徹二郎]]企画製作。本作をヒントに[[与那国島]]でカジキを追いかける老漁師の記録映画。
* 『{{仮リンク|老人と海 (1999年の映画)|ru|Старик и море (мультфильм)|label=老人と海}}』(1999年、ロシア):[[アレクサンドル・ペトロフ (アニメーター)|アレクサンドル・ペトロフ]]監督による[[アニメーション映画]]。ガラス板に描かれた画を使った[[IMAX]]シアター作品。ロシア、日本、[[カナダ]]の合作。[[アカデミー短編アニメ賞]]、[[英国アカデミー賞]](BAFTA)短編アニメ賞受賞。

==== 漫画 ====
* [[そのさなえ]] 『老人と海』(2011年10月、[[ホーム社]] MANGA BUNGOシリーズ)ISBN 978-4-8342-6341-1
* [[六田登]] 『老人と海』(2014年、[[イーブックイニシアティブジャパン|eBookJapan]] 電子書籍)


== コミック化 ==
==== 音楽 ====
* [[老人と海 (曲)|老人と海]]:日本のロックバンド[[ヨルシカ]]の楽曲(2021年)。
*漫画:[[そのさなえ]] 『老人と海』(2011年10月、[[ホーム社]] MANGA BUNGOシリーズ)ISBN 978-4-8342-6341-1
*漫画:[[六田登]] 『老人と海』(2014年、[[イーブックイニシアティブジャパン|eBookJapan]] 電子書籍)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 参考文献 ==
=== 翻訳・評論 ===
*[[グレゴリオ・フエンテス]] - 主人公サンチャゴのモデルとされるキューバの漁師
* {{Cite book|和書|author=[[アーネスト・ヘミングウェイ]]|translator=[[福田恆存]]|year=1966|title=老人と海|publisher=[[新潮文庫]]|isbn=|ref={{sfnref|福田|1975}}}}
*[[ジョー・ディマジオ]] - [[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[プロ野球選手]]。サンチャゴがたびたびその名を挙げる。
* {{Cite book|和書|author=アーネスト・ヘミングウェイ|translator=[[高見浩]]|year=2020|title=老人と海|publisher=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-210018-9|ref={{sfnref|高見|2020}}}}
*[[コヒマル]]- 物語の舞台となった[[キューバ]]・[[ハバナ]]にある漁村
* {{Cite book|和書|author=[[宮本陽一郎]]|editor=[[日本ヘミングウェイ協会]]|year=1999|title=ヘミングウェイを横断する―テクストの変貌|chapter=老人とカリブの海―冷戦、植民地主義、そして二つの解釈共同体|publisher=[[本の友社]]|isbn=4-89439-296-8|ref={{sfnref|宮本|1999}}}}
*[[一世風靡セピア]] - セピアカラーのPVでは老人と海の発表年と共にヘミングウェイの没年がナレーションされている。
* {{Cite book|和書|author=[[生井英考]]|editor=[[日本ヘミングウェイ協会]]|year=1999|title=ヘミングウェイを横断する―テクストの変貌|chapter=ある文学者の肖像―アーネスト・ヘミングウェイと一九五七年の『ライフ』ポートレイト|publisher=[[本の友社]]|isbn=4-89439-296-8|ref={{sfnref|生井|1999}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[島村法夫]]|year=2005|title=ヘミングウェイ―人と文学|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=4-585-07164-4|ref={{sfnref|島村|2005}}}}
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* {{Cite book|和書|author=[[都甲幸治]]|year=2021|title=NHK 100分de名著 2021年10月 ヘミングウェイ スペシャル|publisher=[[NHK出版]]|isbn=978-4-14-223130-0|ref={{sfnref|都甲|2021}}}}

=== 論文・講演 ===
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* {{Cite web|url=https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/501/|title=「老人と海」の英語|accessdate=2021-10-6|author=[[木村達雄]]|year=1959|format=PDF|publisher=[[天理大学]]|language=日本語|ref={{sfnref|木村|1959}}}}
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* {{Cite web|url=https://library.time.u-tokai.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=296&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2543%2531%2530%2530%2530%2531%2530%2533%2533&lang=japanese#catdbl-TC10001033|title=Friends of Power and Beauty : 『老人と海』再考|accessdate=2021-10-6|author=[[楢崎健]]|year=2017|format=PDF|publisher=[[東海大学]]|language=日本語|ref={{sfnref|楢崎|2017}}}}
* {{Cite web|url=https://fukuoka-edu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=705&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=「コブレの聖母」伝説―ヘミングウェイが『老人と海』に込めた想い|accessdate=2021-10-6|author=[[江頭理江]]、[[桑野健太郎]]|year=2020|format=PDF|publisher=[[福岡教育大学]]|language=日本語|ref={{sfnref|江頭・桑野|2020}}}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* 『[https://voaeveryday.net/07aozora/the-old-man-and-the-sea-01.html The Old Man and the Sea 老人と海]』 — 原文・英語音声・日本語訳
* 『[https://voaeveryday.net/07aozora/the-old-man-and-the-sea-01.html The Old Man and the Sea 老人と海]』 — 原文・英語音声・日本語訳


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[[Category:キューバを舞台とした作品]]
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[[Category:老人を題材とした映画作品]]
[[Category:漁業を題材とした作品]]
[[Category:漁業を題材とした作品]]

2021年11月21日 (日) 09:16時点における版

老人と海
The Old Man and the Sea
作者 アーネスト・ヘミングウェイ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
ジャンル 中編小説
発表形態 新聞掲載
初出情報
初出ライフ』1952年9月1日号
挿絵 ノエル・シックルズ英語版
刊本情報
出版元 チャールズ・スクリブナーズ・サンズ
出版年月日 1952年9月8日
装画 アドリアーナ・イヴァンチッチ英語版
受賞
ピューリッツァー賞(1953年)
ノーベル文学賞(1954年)
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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老人と海』(ろうじんとうみ、The Old Man and the Sea) は、20世紀アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899年 - 1961年)による中編小説[1][2]。出版は1952年で、ヘミングウェイの生前に刊行されてベストセラーとなった最後の作品である[3][4]。この作品により、ヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞、1954年にはノーベル文学賞を受賞した[3][5]

物語のプロット

『老人と海』の物語はきわめて単純で、キューバに住む一人の老漁師が84日間もの不漁の後、巨大なカジキを3日間にわたる死闘の末に捕獲するが、その後にサメに襲われ、獲物を食い尽くされてしまうという話である[6][2]。 作品のプロットとしては、以下大きく5つの部分に分けることができる[7][8]

  1. 前日:プロローグ。キューバのハバナに暮らす老漁師サンチャゴ[注釈 1]は、84日間一匹も魚が獲れない日々が続いていた。老人を慕う少年マノーリンは老人とともに漁に出ていたが、両親の言いつけにより心ならずも別の舟に乗るようになっていた。老人は眠り、好きなライオンの夢を見る[10][11]
  2. 第1日:早朝、老人は少年に見送られながら一人小舟を操って海に漕ぎ出す。沖に出た老人は明るくなる前に釣り綱を下ろす。昼ごろに当たりが来て、大物の手応えがあった。老人は綱を背中に回して踏ん張る。しかし、大魚は夜になっても小舟を曳きながら沖に向かって泳いでいく[10][11]
  3. 第2日:大魚は小舟を引き続けている。根比べの最中、小鳥に気を取られた老人は、急に深く潜った大魚によって小舟の上に引き倒され、手を傷つけてしまう。綱を支えていた左手が痙攣を起こし、老人を悩ませる。大魚が水面に姿を見せるが、すぐに水中深く潜ってしまう。午後になり、老人の左手の痙攣が収まる。夕暮れ時、別の釣り綱にシイラが食いつき、老人は右手で大綱を支えながら左手で釣り上げる。日が沈むと、老人はしばらくの間まどろみ、イルカの群れや村の自分のベッド、そしてライオンの夢を見る[11][注釈 2]
  4. 第3日:大魚が前進を止めて旋回を始める。老人は綱をたぐるが、疲労で気を失いかける。3度目の旋回から大魚が水面に浮かび上がる。老人は意識もうろうとなりながらも、力を振り絞って大魚にを打ち込む。大魚は一度跳ね上がって水中に潜り、やがて腹を見せて浮かび上がる。老人は仕留めた大魚を舷側に結びつけて帰路につく。しかし、大魚の血の匂いを嗅ぎつけたサメが次々に襲撃してくる。老人は必死に防ぐが、格闘のうちに銛を取られ、オールに結びつけたナイフも失う。夕暮れが迫る。老人はサメを舵棒で打ちまくるが、大魚のほとんどを食いちぎられてしまう。真夜中過ぎに老人は港にたどり着く。やっとの思いで這い上がり、小屋にたどり着くと、ベッドにうつ伏せになって眠りに落ちる[11]
  5. 第4日:エピローグ。朝、少年が小屋をのぞくと老人は眠り込んでいた。老人の両手の傷を見て、少年は泣き出す。港では、漁師たちが老人の小舟のまわりに集まって、骨ばかりになっていた大魚の長さを測っていた。少年はコーヒーを老人のところへ運ぶ。目を覚ました老人はコーヒーを飲みながら、少年とまた一緒に釣りに行くことを約束する。少年に見守られながら老人はまた眠り、好きなライオンの夢を見る[11]

執筆の経過

前作の不評

ヘミングウェイは1940年に『誰がために鐘は鳴る』を出版して以来、1950年9月に『河を渡って木立の中へ英語版』を出版するまで、10年間にわたって沈黙していた。実はこの間、『エデンの園』や『海流のなかの島々』を断続的に執筆しており、これらはヘミングウェイの死後に出版された[12]。 前作『河を渡って木立の中へ』の執筆は1949年4月で、妻メアリーを伴ってイタリア旅行中、アドリアーナ・イヴァンチッチ英語版という18歳の貴族の娘と出会ったことが直接のきっかけとなった[注釈 3]。ヘミングウェイはこの作品に手応えを感じており、売れ行きもよく、『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラー・リストに21週間掲載されたほどだった[14]。 しかし、作品への批評は厳しいものが多く、駄作で魅力に欠け、スタイルも構成も弛緩していてヘミングウェイはもう駄目になった、と今後の作家活動を疑問視するものまであった。このような酷評に、ヘミングウェイは深い気鬱に陥った[14][15]

着手

『老人と海』が書かれたキューバのヘミングウェイの家フィンカ・ビヒア英語版[注釈 4]

『河を渡って木立の中へ』出版から2ヶ月後の1950年10月末、アドリアーナが母親とともにキューバのヘミングウェイを訪問した。彼女らは翌年2月初旬まで滞在し、ヘミングウェイは彼女らを持ち船「ピラール号」に乗せてカリブ海周辺の島々を案内した。アドリアーナはキューバでの滞在について、次のように回想している。

私は活気に溢れ、熱意がみなぎっていたので、それを彼に注ぎ込んだのだ。彼は再び書き始めたが、思いもよらず何もかもうまくいくように思えた。彼は書き終えると、別の著作に―私に言わせれば―遥かに優れた著作に取りかかった。彼は、いまや再び、しかも上手に書くことができた。それで彼は私に感謝した[17]

この回想に基づけば、ヘミングウェイはこの年のクリスマス・イヴに『海流のなかの島々』を書き上げ、さらに年内か遅くとも翌1950年1月早々には『老人と海』に着手したことになる。『海流のなかの島々』を編集したカーロス・ベイカーによれば、『老人と海』は『海流のなかの島々』とともに「海」の四部作として構想の一つに入っていたものが切り離されたものである[17]。ヘミングウェイは従軍記者をしていたころに、第二次世界大戦に関する「陸・海・空」の物語を構想しており、『老人と海』はそのうちの「海」の第4部に相当していた[18][19][12]

ヘミングウェイが『老人と海』の草稿を書き終えたのは、1951年2月中旬だった。執筆期間はおよそ2ヶ月足らずと見られる[20][21]。妻メアリーは、人目もはばからずアドリアーナに恋情を寄せるヘミングウェイに愛想を尽かし、別居後の自分の仕事の準備までしていたが、『老人と海』の草稿を読み、「これならば、あなたがわたしにさんざん加えたひどい仕打ちを、もう全部許してもいい」と告げた[21]。 同月下旬には版元スクリブナーズ社のチャールズ・スクリブナー英語版がハバナを訪れ、草稿を読んで絶賛した[20]

取材対応と身近な人々の死

ヘミングウェイが『老人と海』の推敲を始めた1951年早々から、アメリカの若手研究家チャールズ・フェントン、カーロス・ベイカー、フィリップ・ヤング、イギリスのジャーナリストのジョン・アトキンズがヘミングウェイの研究書の出版を巡って次々に接触してきた。彼らと私信を交わしたヘミングウェイは、ベイカーとアトキンズが彼の作品を中心に論じようとしていることを知って、二人に協力した。しかし、フェントンの研究対象はヘミングウェイの伝記的な内容であったために協力を拒否した。ヤングの著書に対しては、作品の一部を引用することを認めようとしなかった。この引用については、最終的にはヘミングウェイが折れて許可したものの、フェントンとヤングの著書の出版阻止のために一時は法的手段に出ることも検討していたほどだった。後に、ベイカーの研究は実証性の確かさによって、またヤングの研究は切り口の独自性によって、ヘミングウェイ研究に大きな影響を及ぼすことになった[20]

また、同年6月にはヘミングウェイの母グレースが死去した。母に対して屈折した思いのあったヘミングウェイは、葬儀の費用を支払ったものの出席はしなかった。10月には2番目の妻ポーリンが急死した。二人の息子であるグレゴリーの問題をめぐって、亡くなる前日の晩にヘミングウェイはポーリンと電話で罵り合い、彼女をひどく責めていた。彼女は副腎髄質に腫瘍があり、ストレスを受けたことでアドレナリンが異常に分泌され、急激な血圧上昇を引き起こしたことが死因だった。翌1952年2月には、『老人と海』の草稿を読んだ版元のチャールズ・スクリブナーが心臓発作で死亡した[20]。ヘミングウェイが『老人と海』の最終原稿をスクリブナー社に渡したのは、その一月後の1952年3月10日である[15]

出版と反響

『老人と海』は、単行本に先駆けてグラフ誌ライフ』1952年9月1日号に全編掲載された[22]。 5,000字程度が記事の上限である週刊誌にとって、27,000語にのぼる小説を一挙に掲載することは破格の扱いだった[23]。掲載前の『ライフ』8月25日号では、社説でジェイムズ・ミッチェナーが「老いたるヘミングウェイが傑作を書き、チャンピオンシップを奪還した。彼は今でも私たちみんなのパパなのだ。」と作品掲載を予告した[22]。 『老人と海』を掲載した『ライフ』9月1日号には、「ここにアメリカの偉大な作家の偉大なる新作全編を、初めて提供することを誇りとするものである」という編集側の謳い文句と、各ページにノエル・シックルズ英語版の挿絵が掲載されていた[20]。同掲載誌は500万部以上印刷された。これは社始まって以来の発行部数であったが、48時間で完売となり、ヘミングウェイに4万ドルの原稿料をもたらした[23]。読者からは「国民作家ヘミングウェイの復活」を祝福する投書が殺到した[22]

『ライフ』掲載から1週間後の9月8日、スクリブナー社は『老人と海』を出版した。初版の発行部数は5万部で、表紙カバーには作品の舞台となるコヒマルの漁村を描いたアドリアーナの絵が採用され、ヘミングウェイを喜ばせた[20][21]。 スクリブナー社の刊行本では、当初の献呈先は妻のメアリーとされていたが、メアリーの承諾を得て「チャールズ・スクリブナーとマックス・パーキンズ[注釈 5]に捧ぐ」に変更された[20]

受賞

『老人と海』でヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞を、1954年にノーベル文学賞を受賞した[5]。 通常、ノーベル文学賞は作家の生涯の達成に対して与えられるが、この年のスウェーデン・アカデミーは、『老人と海』の技法的達成を授賞の大きな理由としている[24]。 なお、この年のアフリカ旅行中に飛行機事故に遭ったヘミングウェイは重傷を負い、体調不良のために授賞式を欠席した[25]

物語の原型

ヘミングウェイとカジキ(フロリダ州キーウェストにて。1940年代)

1936年にヘミングウェイは『エスクァイア』誌に「青い海で(On the Blue Water):メキシコ湾流便り」と題して、巨大なカジキを捕らえたキューバの老漁師について次のような記事を寄せていた。

老人はただ一人、小舟に乗ってメキシコ湾流の中で彼らと闘い……やがては疲れ果てて、サメたちは食えるだけみんなたいらげてしまった。老人は漁師たちが彼を助け上げたとき、自分の損失に半狂乱になって舟の中で泣いていたが、サメはあいかわらず船の周りを泳ぎ回っていた[26]

このきわめて短い物語が『老人と海』の原型だとされている[15][27][28]。 3年後の1939年2月には、ヘミングウェイはスクリブナー社の編集者であったマックス・パーキンズに、ハバナ近くのカサブランカという漁師の集まるところに住み着いている老漁夫の小説でも書こうと思っていると話していた[15][27]

この記事と『老人と海』とは多くの点で一致しているが、『老人と海』では、老人が不漁続きであったことや老人の生命観、最後まで涙一つこぼさずに自力で寄港したことなどが付加されている[15]。 作者の創造が反映されたサンチャゴ老人のリアクションは記事の老漁師とは対照的なふるまいとなっている[29]。 とくに大きな違いはその終わり方であり、全く別物といえるものになっている[28]。 この記事の老漁夫は泣いて敗北を認めたが、『老人と海』の老人は敗れざる者として描かれており、ここにはヘミングウェイの生きることへの信念が凝縮されている[26]

また、ヘミングウェイは元来魚釣りを好み、興味が高じてこれより以前に「ピラール号」という漁船を自ら建造させ、キーウェスト沖で468ポンドに及ぶカジキを捕獲したり、ビミニ諸島近くで素人釣りとしては最大であろうと言われた310ポンドのマグロを釣り上げたりしていた。餌にかかった魚がときどきサメに食われるために、サメを殺すための特別な槍のようなものを作ったりもしており、物語にはこれらの体験が投影されている[15]

老人のモデル

ピラール号上のヘミングウェイとグティエレス(1934年)

上記の老漁師の話は、「ピラール号」の初代船長だったカルロス・グティエレスがヘミングウェイに伝えたもので、グティエレスはサンチャゴ老人の性格のモデルとされている。ヘミングウェイがグティエレスと出会ったのは30代のときで、当時の漁の写真のほとんどに現れているほどヘミングウェイは彼に惚れ込んでいた。グティエレスはまた、1920年代に自分が取り逃がした巨大なマカジキの話もヘミングウェイにしていた[28]。 同じく「ピラール号」の船長を務めていたグレゴリオ・フエンテスが『老人と海』の老人のモデルだとされることがあるが、フエンテスは2代目の船長であり、物語に直接関わってはいない。とはいえ、彼がヘミングウェイとともに過ごした体験が投影されている可能性はある[30]

また、ヘミングウェイはインタビューにおいて、偶然出会ったハバナの老漁夫の話から『老人と海』の素材を得たとも語っている。インタビュアーのK.シンガーがこの老漁夫を探し当てたところ、マヌエル・ウリバッリ・モンテスパンという名前の漁師であり、モンテスパンは当地を訪れる観光客らの話題となった。後にモンテスパンは、ヘミングウェイに材料を提供したのに自分はなにも報酬が得られず、作者は舟をくれる約束だったとして告訴したが、その事実はなかったとして棄却されている[15]

作品について

評価

『老人と海』は、第二次世界大戦後のヘミングウェイの唯一の成功作である[22]。この作品について、ヘミングウェイ自身は次のように語っている。「私の生涯をかけて求めてきたものが、ようやく手に入ったような気がする。」[31][32][33]

『誰がために鐘は鳴る』以後10年間の沈黙と、その沈黙を破って発表した『河を渡って木立の中へ』が酷評をこうむった[27]ことで、不安定な精神状態、大戦後の創作をめぐる混迷、創作意欲の減退といったヘミングウェイにつきまとう否定的要因を考えれば、『老人と海』は奇跡としかいいようのないほど高い完成度を示している[17]

『老人と海』は、そのスタイルと作品の意味の緊密性、象徴の深さと美、構成の統一などを中心に高い評価を受けた[15]。橋本治夫は、「『老人と海』は一切の虚無と絶望をくぐり、悠久の生をはるかに遠く生きる人間の姿態とその可能性を描いている。簡潔な描写にひそむ作者の呼吸は緊迫の響きに満ちて、力強く快い」と述べている[34]

『老人と海』発表当初に好意的批評を寄せたマーク・スコーラーは、老人の三日間の孤独な闘いと敗北に人間の悲劇を見て取り、この見方はその後の多くの批評に共通するものとなった[5]。スコーラーはさらに、秀でた簡潔さ、散文の韻律、シンボリズムから『老人と海』をひとつの寓話(アレゴリー)として捉えた[5]。橋本も作品のきわめて単純な物語を「一つの寓話」と述べている[34]

『老人と海』を日本語に翻訳した福田恆存は、ヘミングウェイが純粋に客観的な外面描写を用いて理想的な人間像を描いたことにより、老人は叙事詩的英雄に酷似していると指摘し、「剛毅の文学」と呼んでいる。綿密に老人の行動をたどることによって、読者はギリシア悲劇を読んだときのような生理的、心理的、倫理的なカタルシスを得る[35]。 橋本もまた「人間はいかに行動すべきか、また人間はどこまで忍耐できるか、その限界を極めようとして、人間が運命と対決する優れた「海の叙事詩」と述べる[34]。 海を舞台にした小説という点では、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』と比較されることもある[15]

文体

ヘミングウェイの文章は、多彩な形容詞の忌避、簡潔単純な文構造を基本として展開される[36]。具体的には口語体で、一音節の語を多用する。たいていは20語以内の短い文章であり、しかも短文で複文を避け、[and] や [but] のような接続詞で文をつなぐ[37]。修飾語の少ない簡潔な文であることは、内面的世界を無遠慮にむき出しにすることを好まない、ハードボイルドで厳しいストイシズムといえる[38]。 老人が実際に行ったこと、その周囲に存在した事物、それ以外はなにも描かれていないが、このことは逆に、描かれていることの確かさを強く感じさせる。『老人と海』では、こうした純粋で客観的な外面的描写を用いて、作者にとっての理想的な人間像を表現している[39]

『老人と海』は1,000ページを超える分量になったかもしれない。村のあらゆる人物を書くことだったできたし、彼らがどうして生活するか、生まれたか、教育を受けたか、子供を育てるか、その他の過程を細々と書くことだってできた……まず最初に経験を読者に伝えるのに不要なあらゆるものを切り捨てようとした……私はマカジキを見たことがあるし、海のことも知っている。それでそんなことは省略した。私は50頭あまりのマッコウクジラの群れが潮の中を同じ方向に向かって行くのを見たことがある。だからそんなことは省略した。漁村で聞いた話は全部省略した。だが、そんな知識は、氷山の表面下の部分になっている。 — ヘミングウェイ自身が語った創作態度[40]

ヘミングウェイはこの作品を200回以上も読み返して推敲したといわれる[41]。このようにして煮詰められ煎じ詰められた表現が意味深い含蓄を持ち、一見簡素に見えるヘミングウェイの文に深さと幅を持たせている[40]。 例えば、作品中に老人の身上については一切の説明がないが、粗末な漁師小屋の壁にイエスとマリアの彩色画が貼りつけられていて、それは老人の妻の形見であった、という描写によって、老人が妻に先立たれていること、さらにはその妻は信仰が厚く、少なくとも老人にとってよき伴侶であっただろうことが連想される。さらに、壁には故人の写真が掛けられていたが、いまは取り外されて、片隅の棚に洗ったシャツの下に置かれていると述べられていることにより、老人にとって妻の存在の大きさが印象付けられる。わずかな描写がその背景を膨らませ、妻が登場しないことで、妻にも愛情が捧げられている[40][42]。 また、少年の性格についてはひとことの説明もないが、老人と少年の素朴な会話からは、少年の老人に対する思慕や優しい愛情に溢れていることがよくわかる[40]

ヘミングウェイの特徴ある文体はきわめて平易で、かつ誰にでも書けそうに思われるものである。しかし、一見非情に見えるうちに、情緒纏綿たる表現も用いられている[41]。『老人と海』においては、「非情な写実主義」の典型とされてきたヘミングウェイの作風に、精神的な要素が有機的に調和している[43]。このように物語の叙法に一つの新しい面を開いたことが、ノーベル文学賞の受賞につながった[41]

物語と解釈

『老人と海』は、実在した老漁師の体験をヘミングウェイのフィッシング経験と融合させたフィクションである。ヘミングウェイはフロリダ州キーウェストに住居を構え、キューバにも実際に住んで、フィッシングに興じてきた。『老人と海』の創作には、彼の経験から得た海の現実や海洋生物の生態・知識が存分に活用されている[29]。主人公に、きわめて原始的な漁法を行う老漁師を設定したことには、生態系環境保護に関するヘミングウェイの考えが暗示されており、すぐれて現代的なメッセージが込められている[29][44]

また、人間社会から隔絶した大海で孤独に闘う老人を描いたこの作品は、大海に囲まれた「超現実の世界」と老人が出発して最後に帰還する「現実(文明)の世界」という2つの世界に分けて論じられることも多い[45]。 例えば、千葉兼太郎は、ヘミングウェイは自我の主体性と現実界の虚しさを両極的に引き離した中に生存の意味を探ろうとしたとし、分裂そのものがこの作品を成立させており、『老人と海』はヘミングウェイ文学における断絶の頂点をなすと述べる[15]。 また、新井哲男は、海上での闘いは一種の老人の夢であり、老人は現実を背後に残して夢の世界に入っていくとし、『老人と海』には醜悪な現実からの逃避願望という一面を併せ持っていると述べる[46]。 木村達雄は、『誰がために鐘は鳴る』以降、長い間の苦労が虚しくも報いられなかったことで、作者はその悲痛な心境を訴えるために『老人と海』を書いたかに思われるとし、老人はとりもなおさずヘミングウェイ自身ではなかろうかと指摘している[41]

老人はサンチャゴ、少年はマノーリンという名前を持っているが、実際には単に「老人」、「少年」と呼ばれることがほとんどである。登場人物はこの二人を除いてはほとんどいない。そのほかにはカジキサメライオントビウオグンカンドリ、小鳥、シイラカツオノエボシのような動物や魚であり、太陽のような宇宙の一部が自然の存在物として、人間や動物と並んで対等に存在している[47]。 また、老人は海を「ラ・マル」と女性形で呼ぶ。これは一方で若い漁師たちの中に海を「エル・マル」と男性形で呼び、海を「ライバル、戦いの場、敵」として捉えている者がいることと対照をなしている[5]

この小説の中心は、自然と闘い抜く老人の不屈の姿であり、人間の高貴さを象徴するものとして描かれている。この老人は、自分を取り巻く小さな生き物に対して常に温かい視線を送り、深い敬意を抱いている。そして、闘いの中で彼が目の当たりにするのは、海の生物の圧倒的な力と美である。これは「神聖なものは平凡なものに宿る」として自然美を称えたエマーソンの系譜に連なる魅力である[48]。 そして老人は、大魚と闘ううちに鳥や魚を自分の友達だと考え、太陽や月や星までも友達だと思うようになる。これは彼が自然の一部になっていることを示す[26][49]

しかし、自然に対して共生的態度をとる老人も、生きるために愛するものを殺し、摂取する必要がある。このことで老人は悩む[34][5]。大魚との闘いのなかで、若いころアフリカ黒人とまる一昼夜腕相撲を闘って勝ったことや、キューバ出身で大リーグで活躍している野球選手のことを何度も思い出すが、それらはスポーツであって、相手を殺すわけではない。愛する大魚を殺さなければならない「罪」についての答えが見つからずに反芻する老人の姿は、物語に奥行きを与えている[5]

老人は三日三晩の間、手傷を負いながらも死力を尽くし、己の持つあらゆる能力を注ぎ込む。これは彼にとって苦痛だが、喜びでさえある。また、一見老人は理想の英雄として描かれているが、人間らしい弱みを持っている。彼は苦境に陥るたびに、「あの子がいたらな」と少年の不在に思いを馳せ、勇気を奮い起こそうとする[26]

ついに仕留めた大魚を小舟に横付けして港に戻るとき、サメが現れたのは偶然ではなく、老人には予期できていたことだった[50][51]。 最初のサメが襲ってきたとき、老人は銛でサメを仕留めるが、さらに多くのサメが襲ってくることを予想する[5]

この小説で最も有名な文章が、老人のつぶやきとしてここで述べられている[50]

だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない。叩きつぶされることはあっても、負けやせん[52][53][注釈 6]
  • 橋本治夫(1955年)は、この老人の言葉について、「不撓の闘争精神こそ人間の最高の精神としている」と述べる[34]
  • 宮本陽一郎(1999年)は、老人と大魚、その後のサメとの闘いを暴力の連鎖と見る立場から、「失敗と成功の逆説的な関わり方は『老人と海』の物語そのものの中で反復されており、サンチャゴ老人は、だれも釣ったことのないような超巨大なマカジキを釣ることに、まさに失敗したがゆえにヒロイックな存在となるのである」とする[54]
  • 島村法夫(2005年)は、「老人にとって敗北は敗北でない。彼は物事を結果で判断しない。魚との闘いを通して、自己の力や勇気、人間としての犯しがたい尊厳を保とうとしている。老人の魚やサメとの闘いは、与えられた機会にいかに全力を出しきれるかにあった」とする[26]
  • 渡久山幸功(2012年)は、広大な海において生き残りをかけた生命活動が絶え間なく行われているなか、この悲劇的な結末は、「過酷な自然の厳しさ」が生命を維持するための「自然の美しさ」へと変質する価値転換を要求している瞬間であり、この言葉によって、「過酷な自然の摂理・秩序と人間としての運命を受け入れていることを高らかに宣言している」と述べている[50]
  • 高見浩(2020年)は、「まさしくヘミングウェイが一貫して希求してきた行動規範、いわゆる "grace under pressure(困難に直面してもたじろがずに立ち向かう)" の具現とも言えるだろう。大海原をただ一人飄然とゆく老人の孤影に、ヘミングウェイは原初的な人間の尊厳を刻みたかったのではなかろうか」としている[21]

物語のほとんど終わりに登場するアメリカからの旅行客は、大魚の骨をサメの骨だと誤解するが、この部分には、現代社会に向けたヘミングウェイの風刺的眼差しが注がれている[26]今村楯夫は、これを近現代の小説や演劇で見られる「異化作用」だと指摘している。老人の英知や悟りあるいはその悲劇的な結末に対して、読者がそれをそのまま無批判に受け入れないよう作者が最後に置いた障壁であり、読者の安易な感情移入を阻み、より冷静で複眼的な視点を持つための異物としてここに登場させている。これは、丘の上で倒れたキリストにも似た老人を前にして、人間界のことなど無関心で老人の存在そのものを無視するように通り過ぎる一匹の猫もまた同様である[55]

また、この二人がアメリカ人であることは政治的な意味を持っている。この作品が書かれた1950年代、バティスタ政権のもとでハバナにはアメリカのマフィアが支配する歓楽とギャンブル社会が存在しており、アメリカ人はキューバをあたかも属国あるいはフロリダと海を隔てたアメリカのリゾート地の延長のごとき意識を持っていた。二人はキューバに対する無理解な「アメリカ」そのものを象徴する存在として描かれている[55]

象徴的解釈

本作に対するもっとも有名な批評は、発表当初にウィリアム・フォークナーによって書かれたものである[5]。フォークナーはそれまで、ヘミングウェイに対して「文学的な冒険をしない臆病な作家」と批判していた[56]

彼(ヘミングウェイ)の最高傑作。われわれ、つまり彼や私の同時代人の著したどの作品にも優る作品であることを、いずれ時の経過が示すかもしれない。この作品で、彼は神を、創造主を発見した。 — ワシントン・アンド・リー大学文芸誌『シェナンドア』1952年秋号に寄せたウィリアム・フォークナーの『老人と海』評より[21]

アメリカの代表的なヘミングウェイ研究者であるカーロス・ベイカーは、『老人と海』についてフォークナーが「神、創造主」と抽象的に述べたことを具体的に表現した。すなわち、サンチャゴ老人は福音書のキリストの人格と人間性を連想させる心と精神の持ち主である。老人は、大魚さらにはサメとの壮絶な闘いを繰り広げるうちに、十字架にされたキリストと同様の姿になり、物語が進むにつれて十字架のイメージは次第に強まっていくとする。このようにしてベイカーによって打ち出されたクリスチャン・シンボリズムは、この作品に対する批評に方向性を与えるものとなった[5]

以降、『老人と海』にクリスチャン・シンボリズムを見出した批評家には、エドウィン・モーズリー(1962年)、ロバート・ルイス(1965年)、ビッグフォード・シルヴェスター(1966年)、ジョーゼフ・フローラ(1973年)らがいる[5]。 日本では、松坂仁伺が『老人と海』について、釣りの物語と宗教的なメッセージの二重構造であるとし、新約聖書ヨハネによる福音書第21章との関連を指摘しつつ、和解がこの作品のテーマだとする[2]。 また、江頭理江と桑野健太郎は、キューバに伝わる「コブレの聖母」伝説と『老人と海』の関連を指摘している[57]

このように、『老人と海』の批評は、ニュー・クリティシズムの中のクリスチャン・シンボリズムの観点から読む批評が主流となった。1980年代以降にはニーチェ哲学やフランス印象派絵画との類似性[注釈 7]に注目する批評が現れてくるが、これらもクリスチャン・シンボリズムからの派生とみなすことができる。いずれにせよ、これらアメリカの批評に顕著に見られるのは宗教的で審美的な傾向であり、この作品からキューバの現実や社会性を見ようとしない姿勢である。このことは、1940年の『誰がために鐘は鳴る』に見られたような社会性が、『老人と海』では失われたと受け止められたことを示唆している[5]

また、老人の夢の中に繰り返し現れて、この作品の最後を締めくくるライオンは、一般には勇気と希望を培う象徴的イメージと見なされている[34]。これについて、松坂によれば、ライオン(lion)はマノーリン(Manolin)の名前の後半部分のアナグラムであり、つまりライオンと少年は実質的に同じものだとしている[59]。さらに江頭と桑野によれば、サンチャゴとマノーリンとライオンは「コブレの聖母」伝説に登場する3人の漁師ということになる[57]

これに対して、ヘミングウェイ自身は美術史家バーナード・ベレンソンへの手紙に「海は海であり、老人は老人であり、少年は少年であり、マカジキはマカジキであり、サメはサメであり、シンボルは何もない」として「世間でいうシンボリズムなどはゴミ」[60]と述べている一方で、「リアルな老人、リアルな少年、リアルな海、リアルな魚、リアルなサメを、私は描こうと試みた。しかし、もしそれに成功し、十分リアルに描けていれば、それらは多くのことを意味しうる……。ひとつの物事をきちんと誠意をもって描けば描くほど、のちに別の多くのことを意味するのだ……。」とも述べている[61]

社会性の観点から

『老人と海』はなんらかの政治的立場を明確に表明しているわけではなく、多様な読み方が許される作品である。クリスチャン・シンボリズムやアレゴリーとしての読み方もあれば、アメリカの批評家が否定した社会性の観点から読み解くことも可能である[5]。 この作品を直接的に読めば、キューバの労働を中心に成り立つ漁村共同体の物語であり、1950年代、アメリカの半ば植民地であったキューバの寒村に住む老人を主題としている点で十分な社会性を持っているといえる[5]

『老人と海』で描かれている魚釣りは、スポーツではなく生業である。この単純な物語の大部分が描くのは海での「労働」であり、それも近代化された工場での労働ではなく、自然を相手にする人間のもっとも原初的な労働といえる[5]。 陸地の見えない大海原は原初的な自然に最も近い場所であり、ただひとり小舟を操り、非近代的な装備で大魚と格闘する老人もまた、人間の原初的な姿、つまり原型である。そこで持てる知識と能力のすべてを傾けて獲物を仕留める老人の姿は、人間の原風景として読者を魅了する第一の点である[26][5]。 老人は不漁続きのためにサラオ[注釈 8]になったと見なされ、老人に付いていた少年は両親から別の舟に乗るように言いつけられるが、決して村の中で疎外されてはおらず、冒頭にはそんな老人をからかったり顔には出さずに同情する漁師たちの姿が描かれる[5]

老人は一人で漁をするため、この物語の闘いの中では人間同士の協力関係は欠落しているが、それが逆に社会的動物としての人間のありようを深く読者に印象づける。老人はせめてもの慰めに、野球や少年に想いを馳せることによって、人間社会を味方として引き寄せ、「人心地」を保とうとする[63]。 三日間の漁から夜半過ぎて村の港に帰るとき、老人は「おれはいい村に住んでいる」と思う[5]

マノーリン少年は、この物語の主要なもうひとりの登場人物だが、彼が物語に登場するのは初めと終わりの部分だけである。しかし、老人が海で漁をする間に「少年がいてくれたらな」と繰り返しつぶやくことで、少年の不在が強調され、存在感を増している。老人が少年のことを口にするのには、協力者としてというだけでなく、単に話し相手がほしいという理由もあった。漁から戻った老人は、「誰か話し相手がいるというのは、自分や海に向かってだけ話すより、どんなに楽しいことか」と思い、少年に率直に「お前がいなくて寂しかったよ」と語っている。この老人と少年の関係は、労働とコミュニケーションによって構成されている人間活動の原初的な姿を示している[5]

老人の孤独な敗北のなかに悲劇性を見るのが一般の批評であるが、すでに述べたように、老人は必ずしも孤独ではない。老人は釣り上げた大魚をサメに食い荒らされて戻ってきたが、決して打ちひしがれてはおらず、文体もヘミングウェイ独特の力強いハードボイルドで最後まで弛緩することがない[5]。 老人の満足感として、84日間の不漁続きから、ついに狙った大魚を三日間の格闘の末に釣り上げ、自らの潜在的能力を再確認したことがある。さらに、骨だけになった大魚を持ち帰ったことで、村の漁師たちの注目を集め、テラスの主人は「なんという魚だ。あんな大きな魚はいまだかつてない」と言う。老人は少年に「負けてしまったよ、マノーリン」と言うが、少年は「おじいさんは魚にやられたんじゃないよ」と答える。浜の人々は、老人が為したことを十分に理解して老人に対する尊敬の念を新たにしており、労働とコミュニケーションの集積によって成り立つ漁村共同体の一員として再評価されたことこそ老人の最大の満足であった。安心した老人は、少年に付き添われて満ち足りた思いで眠る。つまり老人の目的は十分に達成されたのだといえる[5]

『老人と海』を取り巻く政治的状況

『老人と海』が発表された1952年は、東西冷戦のさなかにあり、アメリカではマッカーシズムによる赤狩りがピークを迎えていた。『老人と海』発表と前後して、1951年にローゼンバーグ夫妻に対する有罪判決が下され、夫妻は1953年に処刑されている[22]非米活動委員会の調査の矛先は人民戦線時代の知識人とソビエト連邦の関係に向けられていた。当時、ヘミングウェイはソ連と最も深い関係にあった作家の一人であり、1938年、1941年、1942年、1943年にソ連共産党機関紙「プラウダ」に声明文を寄せていた[22]。 かつて1941年に『誰がために鐘は鳴る』でヘミングウェイはピューリッツァー賞の受賞寸前までいったが、作品の政治性がアメリカの体制に厭われ、スポンサーからの拒否にあって受賞に至らなかった[5]FBIはヘミングウェイのキューバでの活動について、詳細な調査ファイルを残しており、ヘミングウェイ自身もこのことに気づいていた[22][5]

このようなもとで発表された『老人と海』は、神話的な漁師サンチャゴ老人の自然に対する不屈の闘いを描いた「肯定的」な文学として読みうるものであり、冷戦下の読者と批評家は、ヘミングウェイが政治的な「麻疹」から脱却し、非政治的で純文学的な作家に回帰したことをこぞって歓迎した。このことはまた、当時反共主義を売り物にしていた雑誌『ライフ』が作品を一挙掲載し、またたくまに完売したことにもうかがうことができる[22][5]。 『誰がために鐘は鳴る』以来、ヒット作に恵まれず不評を託っていたヘミングウェイだったが、『老人と海』によって彼は再びアメリカ文学の代表的な作家として甦った[5]

一方、キューバの指導者フィデル・カストロは、1984年にノルベルト・フエンテス英語版とのインタビューにおいて、『老人と海』は反植民地主義へのメッセージだとする解釈を示している。カストロはヘミングウェイの愛読者であり、二人は1960年5月15日に会見していた[64]

ヘミングウェイが言ったとおり「人間は破壊されることはあっても屈服させられることはないのだ。」。これは、われわれのためのメッセージであり、あらゆる時代においてたたかう人々の叫びであり、彼の文学的主張なのだ。(中略)確実なのは、ヘミングウェイが公然ととった行動のすべては、われわれの革命を擁護するものだったということだ[64]

フエンテスによれば、ヘミングウェイはキューバ共産党に最も多額のカンパをした外国人であり、ヘミングウェイの主治医であり親友であったホセ・ルイス・エレラ・ソトロンゴは、カストロの抵抗運動に加わっていた。このようなキューバ革命とヘミングウェイのつながりを積極的に読み取ろうとする姿勢は、カストロだけのものではなく、リサンドロ・オテロ英語版の『ヘミングウェイ』(1963年)やメアリー・クルスの『ガルフ・ストリームのなかのキューバとヘミングウェイ』(1981年)など、革命後のキューバ批評家たちのヘミングウェイ論に広い範囲において認められる[64]

ヘミングウェイの政治姿勢

キューバでのヘミングウェイ(1954年)

スペイン内戦帰還兵がマッカーシズムの犠牲になっていた1950年、「エイブラハム・リンカーン旅団帰還兵の会(VALB)」会長ミルトン・ウルフから集会への協力依頼を受けたヘミングウェイは金銭援助を申し出ているが、その際に書きつけた未投函の手紙が発見されている。手紙には、「マッカーシー上院議員殿 キューバの拙宅フィンカ・ビヒアにお出でいただき、僕とボクシングで決着をつけようではないか」と書かれていた[65]

その後、『老人と海』の大成功により一段と名声と権威を増したヘミングウェイは、1954年4月『ルック』誌にエッセイを掲載し、サファリ紀行に事寄せてマッカーシズムを公然と批判した。

私がアフリカで二度の飛行機墜落事故に遭ったとき、ウィスコンシン選出のジョゼフ・マッカーシー上院議員が同乗してくれていたらと強く願ったものである。公的な人物には私も人並な好奇心を抱いているから、マッカーシー議員ならピンチに陥ったときにどうふるまうかぜひ拝見したいと願った次第だ。上院議員は誠にご立派なお人柄であることは間違いない。だからこそ私は次のようなことに興味を持つのである。もしマッカーシー殿が上院議員特権に守られていなければ、我が一行が狩の友としている荒野の野獣に襲われたら、はたして無傷でいられるだろうかとそのとき思ったわけである[65]

ヘミングウェイは一貫してキューバの大衆側にあり、アメリカ政府への批判は変わることがなかった[55]。 フィンカ・ビヒアにおけるノーベル賞受賞の非公式の祝いの席で、ヘミングウェイは次のように語っている。

これはキューバに与えられた賞であります。なぜなら、この作品は、私が一市民であるところのキューバにおいて、コヒマルの仲間たちの援助によって、発想され、創作されたものだからです[16]

日本語訳

関連項目

  • 海流のなかの島々:『老人と海』とともに「海」の四部作として構想されていた作品。ヘミングウェイの死後に出版された。

翻案・二次作品

映画

漫画

音楽

脚注

注釈

  1. ^ 「サンチアゴ」の表記もある[9]
  2. ^ 千葉は、3日目に老人が大魚を仕留めるまでが第3の部分で、以降のサメの襲撃からを第4の部分としている[7]
  3. ^ アドリアーナをひと目見たヘミングウェイは「雷に打たれたようなショックを受けた」と語っている[13]
  4. ^ フィンカは「別荘」、ビヒアは「望楼」の意[16]
  5. ^ パーキンズはスクリブナー社の編集者で、1947年6月に肺炎のために急死していた[20]
  6. ^ この文章は日本語訳によってさまざまな言葉が使われているが、ここでは高見及び都甲にしたがった。
  7. ^ ヘミングウェイは、かつてガートルード・スタインからセザンヌの絵を見て視覚的にものを捉える方法を学ぶよう助言を受けていた[58]
  8. ^ サラオとは、スペイン語で「最悪の事態」を意味する[62]

出典

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参考文献

翻訳・評論

  • アーネスト・ヘミングウェイ 著、福田恆存 訳『老人と海』新潮文庫、1966年。 
  • アーネスト・ヘミングウェイ 著、高見浩 訳『老人と海』新潮文庫、2020年。ISBN 978-4-10-210018-9 
  • 宮本陽一郎 著「老人とカリブの海―冷戦、植民地主義、そして二つの解釈共同体」、日本ヘミングウェイ協会 編『ヘミングウェイを横断する―テクストの変貌』本の友社、1999年。ISBN 4-89439-296-8 
  • 生井英考 著「ある文学者の肖像―アーネスト・ヘミングウェイと一九五七年の『ライフ』ポートレイト」、日本ヘミングウェイ協会 編『ヘミングウェイを横断する―テクストの変貌』本の友社、1999年。ISBN 4-89439-296-8 
  • 島村法夫『ヘミングウェイ―人と文学』勉誠出版、2005年。ISBN 4-585-07164-4 
  • 船山良一『ヘミングウェイとスペイン内戦の記憶―もうひとつの作家像』彩流社、2007年。ISBN 978-4-7791-1302-4 
  • 都甲幸治『NHK 100分de名著 2021年10月 ヘミングウェイ スペシャル』NHK出版、2021年。ISBN 978-4-14-223130-0 

論文・講演

外部リンク