「モラヴィア君主一覧」の版間の差分
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| 8 || '''[[ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ3世]]''' || [[ファイル:Vencel rézkarc.jpg|70px|Вацлав III]] || 1289年10月6日 || 1306年8月4日 || [[1305年]]—[[1306年]] || ヴァーツラフ2世の息子、1305年—1306年にボヘミア兼ポーランド王。 |
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2021年5月19日 (水) 21:46時点における版
モラヴィアの君主は9世紀以降が知られている。君主の一覧では、王国の中核であった9世紀から最終的にボヘミア国王に服属することが明白になった1611年までのモラヴィアの領域において封建的に育まれた君主をも含む。封建的な育みは、その形成や年代順に選び出された君主に乗っ取った形で位置付けられている。
大モラヴィア公
初期のモラヴィアはサモの国の構成部を成していた。822年にモラヴィアはチェコ、スロヴァキア、ハンガリー及びシレジアの一部の領域をも含む大モラヴィアの中核となった。王国を統治したのはスラヴ人の家系であるモイミール家である。しかし、9世紀末に内乱に陥り、907年のマジャール人侵入後に王国は崩壊した。
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | モイミール1世 | 795年頃? | 846年? | 830年?—846年 | 最初に確実に知られるモラヴィアの君主、大モラヴィアの創始者でモイミール家出身。 | |
2 | ロスチスラフ | ??? | 870年後 | 846年—870年 | モイミール1世の甥。東フランク国王 ルートヴィヒ2世に臣従する。870年に廃位された上に盲目にされる。 | |
3 | スヴァトプルク1世 | 830年頃 | 894年 | 871年—894年 | ロスチスラフの甥で850年末にニトラ公となる。871年にロスチスラフに対して反乱を起こして国権を掌握する。スヴァトプルク1世統治下で大モラヴィアの権威は頂点に達する。 | |
4 | モイミール2世 | ??? | ??? | 894年—907年? | スヴァトプルク1世の息子。領地の一部を受け取り、兄弟のスヴァトプルク2世はニトラを、同じく兄弟の プレドスラフは現代のブラチスラヴァの地域を受け取った。モイミール2世は最後に知られた大モラヴィア公であり、マジャール人侵入後に王国は消滅した。 |
モラヴィア公
10世紀前半のモラヴィアはチェコ人諸侯とマジャール人の緩衝地帯となった。恐らくは、その地域諸侯は存在したであろうが、名前は知られてはいない。10世紀後半にモラヴィアはボヘミアのプシェミスル朝の支配下に置かれ且つボレスラフ1世残酷公によってボヘミアに併合された。1003年にモラヴィアはポーランド国王ボレスワフ1世勇敢王によって占領された。モラヴィアは1019年までポーランドの支配下に置かれたが、その間、オルドジフ はモラヴィアを奪還することが出来なかった。
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ブジェチスラフ1世 | 1002/1005年 | 1054年 | 1019年—1033年 | オルドジフの息子で1019年に父のモラヴィアに据え置く。 | |
2 | オルドジフ | ? | 1034 | 1033年—1034年 | 1012年以降ボヘミア公、1033年に息子により追われた。 | |
3 | ブジェチスラフ1世 | 1002/1005年 | 1055年1月10日 | 1034年—1049年 | 再位。父の死後にボヘミアとモラヴィアの公となる。 | |
4 | スピチフニェフ2世 | 1031年 | 1061年1月28日 | 1049年—1054年 | ブジェチスラフ1世の長子、1049年にモラヴィア公となり同地を父が死ぬまで統治した。 |
1054年にボヘミア公ブジェチスラフ1世は、年長の者がプラハを統治し、年少の者がモラヴィアを相続して年長の公に服従すべきであると決めた。これに従う形でブジェチスラフ1世の長子であるスピチフニェフ2世が1055年にボヘミア公の位についた。モラヴィアはブジェチスラフ1世の次男、三男が互いに二つに分けることで相続した。 ヴラチスラフ2世はオロモウツの支配者としてのモラヴィアの一部(オロモウツ公国)を、コンラード1世はその残りをブルノの支配者として(ブルノ公国として再編)それぞれ相続した。後にズノイモ公国が分離した。
ブルノのモラヴィア公
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | コンラード1世 | ? | 1093年9月6日 | 1054年—1055年 | ブジェチスラフ1世の三男。 | |
2 | スピチフニェフ2世 | 1031年 | 1061年1月28日 | 1055年—1061年 | 1055年以降ボヘミア公。 | |
3 | コンラード1世 | ? | 1093年9月6日 | 1061年—1092年 | 再位、1092年にボヘミア公。 | |
4 | オルドジフ | ? | 1113年3月27日 | 1092年—1097年 | コンラード1世の息子、1097年にボヘミア公ブジェチスラフ2世により更迭される。 | |
5 | ボジヴォイ2世 | 1065年頃 | 1124年2月2日 | 1097年—1101年 | ブジェチスラフ2世の兄弟で、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の三男。1100年—1107年、並びに1117年—1120年にボヘミア公。 | |
6 | オルドジフ | ? | 1113年3月27日 | 1101年—1113年 | 再位 | |
7 | ヴラジスラフ1世 | ? | 1125年4月12日 | 1113年—1115年 | ヴラチスラフ2世の四男。1109年—1117年、並びに1120年—1125年にボヘミア公。 | |
8 | ソビェスラフ1世 | 1075年頃 | 1140年2月14日 | 1115年—1123年 | ヴラチスラフ2世の五男。 1125年—1140年にボヘミア公。 | |
9 | オタ2世 | ? | 1126年2月18日 | 1123年—1126年 | 1107年—1110年、並びに1113年—1126年にオロモウツ公。 | |
10 | ヴラチスラフ | ? | 1155年 | 1126年—1129年 | オルドジフの息子。 | |
11 | ソビェスラフ1世 | 1075年頃 | 1140年2月14日 | 1129年—1130年 | 再位。 | |
12 | ヴラチスラフ | ? | 1155年 | 1130年—1155年 | 再位。 | |
13 | コンラード2世 | ? | 1161年以降 | 1156年 — 1161年以降 | 1123年 — 1161年以降にズノイモ公。 | |
14 | ヴラジスラフ2世 | ? | 1174年1月18日 | 1161年以降—1172年 | 1140年—1158年にボヘミア公、1158年—1172年にボヘミア王。 | |
15 | ベドジフ | ? | 1189年3月25日 | 1172年—1173年 | ヴラジスラフ2世の息子、1172年—1173年、並びに1178年—1189年にボヘミア公。 | |
16 | ヴァーツラフ2世 | 1137年 | 1192年 | 1173年—1177年 | ソビェスラフ1世の息子で1191年—1192年にボヘミア公。 | |
17 | コンラード2世・オタ | ? | 1191年9月9日 | 1177年—1189年 | ズノイモ公コンラード2世の息子、1161年以降—1191年にズノイモ公、1182年—1189年にオロモウツ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。 | |
18 | スピチフニェフ | ? | 1198年 | 1189年—1192年 | ヴラチスラフの息子、共同統治。 | |
スヴァトプルク | ? | 1201年6月5日まで | ||||
19 | ヴラジスラフ | ? | 1222年8月12日 | 1192年—1194年 | ヴラジスラフ2世の息子、1192年—1194年、1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。 | |
20 | スピチフニェフ | ? | 1198年 | 1194年—1198/1200年 | 再位 | |
スヴァトプルク | ? | 1201年6月まで |
スヴァトプルク没後にブルノ公国はヴラジスラフが統治するところのモラヴィア辺境伯領に編入された。
オロモウツのモラヴィア公
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ヴラチスラフ2世 | 1032年頃 | 1093年1月14日 | 1054年—1061年 | ブジェチスラフ1世の次男、1061年—1085年にボヘミア公。 | |
2 | オタ1世 | ? | 1087年6月9日 | 1061年—1087年 | ブジェチスラフ1世の五男。 | |
3 | ボレスラフ | ? | 1091年8月11日 | 1087年—1091年 | ヴラチスラフ2世の息子、父のオロモウツ公国を割り当てられる。 | |
4 | スヴァトプルク | ? | 1109年9月21日 | 1095年—1109/1110年 | オタ1世の息子で共同統治者。1095年頃まで幼少であったことから両人の公国は母エウフェミアの統治下におかれた。 | |
オタ2世 | ? | 1126年2月18日 | ||||
5 | ヴラジスラフ1世 | ? | 1125年4月12日 | 1110年—1113年 | ヴラチスラフ2世の四男、1109年—1117,年及び1120年—1125年にボヘミア公。 | |
6 | オタ2世 | ? | 1126年2月18日 | 1113年—1126年 | 再位、1123年—1126年にブルノ公。 | |
7 | ヴァーツラフ1世 | ? | 1130 年3月1日 | 1126年—1130年 | スヴァトプルクの息子。 | |
8 | ソビェスラフ1世 | 1075年頃 | 1140年2月14日 | 1130年—1135年 | ヴラチスラフ2世の五男、1125年—1140年にボヘミア公。 | |
9 | ルポルト | ? | 1137年以降 | 1135年—1137年 | ボジヴォイ2世の息子、ソビェスラフ1世の意向によりオロモウツを領有。 | |
10 | ヴラジスラフ2世 | ? | 1165年 | 1137年—1140年 | ソビェスラフ1世の息子、1138年にプラハを相続することを認められるものの、その死後は承認されなかった。 | |
11 | オタ3世 | 1122年 | 1160年5月12日 | 1140年—1160年 | オタ2世の息子。 | |
12 | ヴラジスラフ3世 | ? | 1174年1月18日 | 1160年—1162年 | 1140年—1158年にボヘミア公、1158年—1172年にボヘミア王。 | |
13 | ベドジフ | ? | 1189年3月25日 | 1162年—1173年 | ヴラジスラフ2世の息子、1172年—1173年及び1178年—1189年にボヘミア公。 | |
14 | オルドジフ | 1134年 | 1177年10月18日 | 1173年—1177年 | ソビェスラフ1世の息子、兄弟のボヘミア公ソビェスラフ2世により擁立される。 | |
15 | ヴァーツラフ2世 | 1137年 | 1192年 | 1174年—1179年 | ソビェスラフ1世の息子、1173年—1174年にブルノ公、1191年—1192年にボヘミア公。 | |
16 | オタカル1世 | 1155/1167年 | 1230年12月15日 | 1179年—1182年 | ヴラジスラフ2世の息子、兄弟のベドジフにより擁立される。1192年—1193年及び1197年—1198年にボヘミア公、1198年にボヘミア王。 | |
17 | コンラード2世 | ? | 1191年9月9日 | 1182年—1189年 | ズノイモ公コンラード2世の息子、1161年以降—1191年にボヘミア公、1177年—1189年にブルノ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。 | |
18 | ヴラディミール | 1145年 | 1200年12月11日まで | 1189年—1192年 | オタ3世の息子で共同統治。 | |
ブジェチスラフ | ? | 1201年まで | ||||
19 | ヴラジスラフ | ? | 1222年8月12日 | 1192年—1194年 | ヴラジスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。 | |
20 | ヴラディミール | 1145年 | 1200年12月11日 | 1194年—1200/1201年 | 再位。 | |
ブジェチスラフ | ? | 1201年まで |
1200/1201年にオロモウツ公国はモラヴィア辺境伯ヴラジスラフの領域に編入された。
ズノイモのモラヴィア公
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | リトルド | ? | 1112年3月15日 | 1092年—1097年 | コンラード1世の息子 | |
2 | ボジヴォイ2世 | 1065年頃 | 1124年2月2日 | 1097年—1101年 | ブジェチスラフ2世の兄弟、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の三男。1097年—1101年にブルノ公、1100年—1107年及び1117年—1120年にボヘミア公。 | |
3 | リトルド | ? | 1112年3月15日 | 1101年—1112年 | 再位。 | |
4 | オルドジフ | ? | 1113年3月27日 | 1112年—1113年 | リトルドの兄弟。 | |
5 | ソビェスラフ1世 | 1075年頃 | 1140年2月14日 | 1113年—1123年 | ボヘミア公ヴラチスラフ2世の五男、1125年—1140年にボヘミア公。 | |
6 | コンラード2世 | ? | 1161年以降 | 1123年—1128年 1134年 — 1161年以降 |
リトドの息子、1156年 — 1161年以降にブルノ公。1128年—1134年にボヘミア公ソビェスラフ1世の拘禁下におかれる。 | |
7 | コンラード2世 | ? | 1191年9月9日 | 1161年以降—1189年 | ズノイモ公コンラード2世の息子、1182年—1189年にオロモウツ公、1177年—1189年にブルノ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。 | |
8 | ヴラジスラフ | ? | 1222年8月12日 | 1192年—1194年 | ボヘミア王ヴラチスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。 | |
9 | インジヒ | ? | 1197年6月15日 | 1194年—1197年 | ボヘミア公ヴラジスラフ1世の四男インジヒの息子、1182年—1197年にプラハ司教、1193年—1197年にボヘミア公。 |
1197年にズノイモ公国はモラヴィア辺境伯ヴラジスラフの領域に編入された。
モラヴィア辺境伯
1182年に神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世赤髭王はモラヴィア辺境伯の称号を設けて3つのモラヴィアの公国を統一したボヘミア公コンラード2世に授けた。1212年に皇帝フリードリヒ2世が発布したシチリアの金印勅書に従ってボヘミア王オタカル1世の弟であるモラヴィア辺境伯ヴラジスラフに一連の特権が与えられた。ボヘミア王の封土としてのモラヴィア辺境伯領は相続人がいない場合には死後に国王に返還されることになった。
プシェミスル家
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | コンラード2世 | ? | 1191年9月9日 | 1182年—1189年 | ズノイモ公コンラード2世の息子、1182年—1189年にオロモウツ公、1177年—1189年にブルノ公、1162年以降 — 1191年にズノイモ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。 | |
2 | ヴラジスラフ | ? | 1222年8月12日 | 1192年—1194年 1197年—1222年 |
ボヘミア王ヴラチスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。 | |
3 | ヴラジスラフ(2世) | 1207年 | 1228年2月10日 | 1224年—1228年 | ボヘミア王オタカル1世の息子。 | |
4 | プシェミスル | 1209年 | 1239年10月16日 | 1228年—1239年 | ボヘミア王オタカル1世の息子。 | |
5 | ヴラジスラフ(3世) | ? | 1247年1月3日 | 1246年—1247年 | ボヘミア王ヴァーツラフ1世の息子。 | |
6 | オタカル2世 | 1233年 | 1278年8月26日 | 1247年—1278年 | ボヘミア王ヴァーツラフ1世の次男、1253年にボヘミア王 | |
7 | ヴァーツラフ2世 | 1271年9月17日 | 1305年6月21日 | 1283年—1305年 | オタカル2世の息子、1283年—1305年にボヘミア王、1300年—1305年にポーランド王。 | |
8 | ヴァーツラフ3世 | 1289年10月6日 | 1306年8月4日 | 1305年—1306年 | ヴァーツラフ2世の息子、1305年—1306年にボヘミア兼ポーランド王。 |
諸家
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | インジフ | 1265年頃 | 1335年4月2日 | 1306年 | ゲルツ家出身、1306年にボヘミア王、1307年—1310年にチロル伯、1310年—1335年にケルンテン公及びカルニオラ辺境伯。1306年8月にヴァーツラフ2世の娘アンナと結婚することでボヘミア王となるものの、一か月後にオーストリア公ルドルフ3世により廃位。 | |
2 | ルドルフ1世 | 1281年 | 1307年6月3/4日 | 1306年—1307年 | 1298年—1307年にオーストリア公及びシュタイアーマルク公(ルドルフ3世)、1306年—1307年にボヘミア王及び名目上のポーランド王。帝国の支配体制からの脱却を唱えてボヘミア王位を請求し、1306年に王位を簒奪するものの翌年に死去。 | |
3 | インジフ | 1265年頃 | 1335年4月2日 | 1307年—1310年 | 再位。ルドルフ1世没後に王位を奪還するものの、1310年にルクセンブルク家により廃位。 |
№ | Имя | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ヤン | 1296年8月10日 | 1346年8月26日 | 1310年—1333年 | 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子。1310年—1346年にルクセンブルク伯、1310年—1346年にボヘミア王。ヴァーツラフ2世の娘エリシュカと結婚することでボヘミア王位を継承。 | |
2 | カレル | 1316年5月14日 | 1378年11月29日 | 1333年—1349年 | ボヘミア王ヤンの息子。1346年—1378年にボヘミア王、1346年—1353年にルクセンブルク伯、1349年—1378年にローマ王、1355年—1378年にイタリア王、1355年—1378年に神聖ローマ皇帝(カール4世)。 | |
3 | ヤン・インジフ (ヨハン・ハインリヒ) |
1322年2月12日 | 1375年11月12日 | 1349年—1375年 | ボヘミア王ヤンの次男。1335年—1341年にチロル伯、ローマ王に擁立されるもののカレルからモラヴィアを授けられる。 | |
4 | ヨシュト | 1375年—1411年 | モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの長男。1388年—1411年にブランデンブルク選帝侯、1388年—1411年にルクセンブルク公、1410年—1411年に対立ローマ王。公的にはモラヴィアはヨシュトを含めた3兄弟の共同統治下におかれた。 | |||
5 | プロコプ | 1356/1358年 | 1405年9月24日 | 1375年—1405年 | モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの息子。兄ヨシュトに封建的な忠誠を誓う。 | |
6 | ヤン・ソビェスラフ | 1356/1358年 | 1394年10月12日 | 1375年—1380年 | モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの息子。1380年—1387年にリトミシュル司教、1387年にオロモウツ司教、1387年—1394年にアクイレイア総大司教。兄ヨシュトに封建的な忠誠を誓う。 | |
7 | ヴァーツラフ4世 | 1361年2月26日 | 1419年8月16日 | 1411年—1419年 | カレルの息子、1378年—1419年にボヘミア王、1373年—1378年にブランデンブルク選帝侯(ヴェンツェル)、1383年—1388年にルクセンブルク公(ヴェンツェル2世)、1376年—1400年にローマ王(ヴェンツェル)。 | |
8 | ジクムント | 1368年2月15日 | 1437年12月9日 | 1419年—1423年 | カレルの息子、1378年—1388年及び1411年—1415年にブランデンブルク選帝侯、1386年—1437年にハンガリー王、1410年—1437年にローマ王、1410年—1437年にボヘミア王、1419年—1437年にルクセンブルク公、1431年—1437年にイタリア王、1433年—1437年に神聖ローマ皇帝。 |
諸王家
№ | Имя | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
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1 | アルブレヒト | 1397年8月10日 | 1439年10月27日 | 1423年—1439年 | ジクムントの婿(妻のアルジュビェタはジクムントの娘)、1437年—1439年にハンガリー王(アルベルト)、1437年—1439年にボヘミア王(アルブレヒト)、1438年—1439年にローマ王(アルブレヒト)、1404年—1439年にオーストリア公(アルブレヒト4世)。 | |
2 | ラジスラフ | 1440年2月22日 | 1457年11月23日 | 1453年—1457年 | アルブレヒトの息子、1440年及び1445年—1457年にハンガリー王(ラースロー5世)、1453年—1457年にボヘミア王(ラジスラフ)。 | |
3 | イジー・ス・ポジェブラト | 1420年4月23日 | 1471年3月22日 | 1458年—1469年 | 1458年にボヘミア王に推戴、1458年—1471年にボヘミア王、1456年—1462年にミュンスターベルク公、1458年—1469 年に上下ラウジッツ辺境伯。 | |
4 | マティアス1世 | 1443年2月23日 | 1490年4月6日 | 1469年—1490年 | 1458年—1490年にハンガリー王(マーチャーシュ1世)、1469年—1490,年に上下ラウジッツ辺境伯、1469年—1490年にボヘミア王、1469年にモラヴィアとラウジッツを掌握。 |
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
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1 | ヴラジスラフ | 1456年3月1日 | 1516年3月13日 | 1490年—1516年 | ポーランド王カジミェシュ4世の息子、1471年—1516年にボヘミア王(ヴラジスラフ4世)、1490年—1516年にハンガリー王(ウラースロー2世)。イジー没後にボヘミア王に推戴されるもマティアス1世との対立は避けられず、モラヴィア、ラウジッツ及びボヘミア王の称号のみが残った。マティアス1世没後にその支配地はヴラジスラフに帰した。 | |
2 | ルドヴィーク | 1506年7月1日 | 1526年8月29日 | 1516年—1526年 | ヴラジスラフの息子でヤギェウォ朝最後の君主、1516年—1526年にボヘミア兼ハンガリー王。 |
№ | 名前 | 肖像画 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 備考 |
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1 | フェルディナンド | 1503年3月10日 | 1564年7月25日 | 1526年—1564年 | 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫、ルドヴィーク戦死後にその姉アンナを妻としていたことからボヘミア及びハンガリー王位の権利を相続。1526年—1564年にボヘミア王、1526年—1564年にハンガリー王、1521年—1564年にオーストリア大公、1556年—1564年に神聖ローマ皇帝(フェルディナント1世)。 | |
2 | マクミリアン | 1527年7月31日 | 1576年10月12日 | 1564年—1576年 | フェルディナンドの息子、1562年—1576年にボヘミア王、1564年—1576年にローマ王、1563年—1576年にハンガリー王、1564年—1576年にオーストリア大公、1564年—1576年に神聖ローマ皇帝(マクシミリアン2世)。 | |
3 | ルドルフ2世 | 1552年7月18日 | 1612年1月20日 | 1576年—1608年 | マクミリアンの息子、1575年—1611年にボヘミア王、1575年—1612年にローマ王、1572年—1608年にハンガリー王、1576年—1612年にオーストリア大公(ルドルフ5世)、1576年—1608年に神聖ローマ皇帝(ルドルフ2世)。 | |
4 | マティアス2世 | 1557年2月24日 | 1619年3月20日 | 1608年—1619年 | マキミリアンの息子、1611年—1617年にボヘミア王、1612年—1619年にローマ王、1608年—1618年にハンガリー王、1608年—1619年にオーストリア大公、1612年—1619年に神聖ローマ皇帝(マティアス)。 |
1611年にマティアスはモラヴィア辺境伯の称号をボヘミア王の名に組み入れた。
参考文献
- "Восточная Европа.". Правители Мира. Хронологическо-генеалогические таблицы по всемирной истории в 4 тт (ロシア語). М. Автор-составитель В.В. Эрлихман. 2002.
- Генеалогические таблицы по истории европейских государств (Издание третье исправленное и дополненное (166 таблиц) ed.). Екатеринбург — Ташкент. Авторы-составители: Коновалов Ю. В., Шафров Г. М. 2008.
関連項目
外部リンク
- “MORAVIA”. Foundation for Medieval Genealogy. 2010年10月17日閲覧。
- “The Periphery of Francia: Spain, Britain, Eastern Europe, & Scandinavia”. Philosophy of History. 2010年10月17日閲覧。
- “Familie der Premysliden”. Mittelalterliche Genealogie im Deutschen Reich bis zum Ende der Staufer. 2011年3月20日閲覧。
- “Familie der Luxemburger”. Mittelalterliche Genealogie im Deutschen Reich bis zum Ende der Staufer. 2011年3月20日閲覧。