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'''丸岡城'''(まるおかじょう)は、[[福井県]][[坂井市]][[丸岡町]]霞にあった[[日本の城]]である。別名'''霞ヶ城'''。[[江戸時代]]には[[丸岡藩]]の藩庁であった。現在は[[天守]]のみ残る。 |
'''丸岡城'''(まるおかじょう)は、[[福井県]][[坂井市]][[丸岡町]]霞にあった[[日本の城]]である。別名'''霞ヶ城'''。[[江戸時代]]には[[丸岡藩]]の藩庁であった。現在は[[天守]]のみ残る。 |
2021年5月13日 (木) 21:37時点における版
丸岡城 (福井県) | |
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丸岡城天守 (2013年(平成25年)8月) | |
別名 | 霞ヶ城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | 独立式望楼型 2重3階(寛永年間 木造 現存) |
築城主 | 柴田勝豊 |
築城年 | 天正4年(1576年) |
主な城主 | 柴田氏、本多氏、有馬氏、青山氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 現存天守、移築門、石垣 |
指定文化財 | 重要文化財(天守) |
位置 | 北緯36度9分8.72秒 東経136度16分19.72秒 / 北緯36.1524222度 東経136.2721444度座標: 北緯36度9分8.72秒 東経136度16分19.72秒 / 北緯36.1524222度 東経136.2721444度 |
地図 |
丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現在は天守のみ残る。
概要
福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市の興善寺および、あわら市の蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
地元の坂井市では2013年(平成25年)、国宝化を目指し丸岡城国宝化推進室を設置した[1][2][3]。
2019年3月26日、坂井市から委嘱を受けて調査を行っていた丸岡城調査研究委員会は、現存する天守が建造された時期を江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)と推定する報告を明らかにした[4]。
歴史・沿革
安土桃山時代・江戸時代
- 1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
- 1582年(天正10年) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
- 1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
- 1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
- 1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重[5]が4万3千石で新たな城主となった。
- 1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
- 1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。
近現代
- 1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり天守以外は全て解体・破棄された。
- 1901年(明治34年) 残された天守は、丸岡町(当時)により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。
- 1934年(昭和9年)1月30日 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される[6]。
- 1948年(昭和23年) 福井地震のために倒壊。
- 1950年(昭和25年) 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される[7]
- 1955年(昭和30年) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
- 1990年(平成2年) 「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(36番)に選定された。
国宝化運動
現行法での国宝指定に向け必要な歴史資料を見付ける為、2013年に坂井市は丸岡城国宝化推進事業を立ち上げ丸岡城国宝化推進室を設置、2017年に丸岡城天守を国宝にする市民の会(一般社団法人)が発足した[8][9][10]。
天守
北陸地方で現存する天守は丸岡城のみである。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で江戸期の寛永年間(1624 - 44年)に建造されたことが判明し、同委員会が2019年3月26日に発表した[11]。
現在見られる天守は、1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した後、1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものである[11]。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変されている。
独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる[12]。
天守内の階段は急なため観光用の補助縄が取り付けられている[13]。
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望楼型の天守
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天守内部
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急な階段
天守の建造年
江戸期の1628年(寛永5年)に建造されたことが判明[14]。
天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあり、それについて犬山城天守との論争があった。
柴田勝豊の建造である場合1576年(天正4年)との説や、建築史の観点では慶長期の特徴を多く見ることができるとして1596年(慶長元年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もあった[15]。
伝説
- 人柱お静
- 丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった[16]。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼び、「堀の藻刈りに降る雨は いとしお静の涙雨」と謡われた。現在城内にはお静の慰霊碑が残っている[17]。
現地情報
所在地
- 福井県坂井市丸岡町霞町1-59
交通アクセス
- 京福バス
- 31 丸岡線(明道中学校前・森田経由)「丸岡城前」下車。
- 32 丸岡線(町屋町・森田経由)「丸岡城前」下車。
- 36 県立病院・丸岡線(福井新聞社前・下安田経由)「丸岡城前」下車。
- 北陸自動車道 丸岡ICから約2km。
イベント
- 日本100名城スタンプ設置場所
- 一筆啓上茶屋(霞ヶ城公園内)
※柴田勝家とご対面!?
舞台となった作品
※発表順
映画
脚注
- ^ 重文丸岡城を「国宝」へ 推進室を設置 福井・坂井市
- ^ 丸岡城に関連する資料を探しています
- ^ 知られざる丸岡城
- ^ “丸岡城の天守、最古でない可能性”. 福井新聞 (2019年3月27日). 2019年7月31日閲覧。
- ^ “鬼作左”の渾名で知られる本多重次の嫡子
- ^ 丸岡城天守 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 丸岡城天守に関して「福井地震により倒壊したため、国宝から重要文化財に格下げされた」という説は誤りである。文化財保護法附則第3条に「この法律施行前に行つた国宝保存法第一条の規定による国宝の指定は、第二十七条第一項の規定による重要文化財の指定とみなし(後略)」とあるように、旧法である国宝保存法に規定する「国宝」(旧国宝)は、現行法である文化財保護法(1950年8月29日施行)に規定する「重要文化財」に相当するものであり、「国宝」から「重要文化財」へ「格下げ」されたわけではない。
- ^ 丸岡城国宝化推進室
- ^ 丸岡城国宝化推進事業
- ^ 丸岡城天守を国宝にする市民の会
- ^ a b 富山新聞 2019年3月28日付31面『丸岡城天守 最古でない 部材調査で判明』より。
- ^ 同時期に現・福井市に築城された北の庄城も同様の石葺であったと伝わる。
- ^ 坂井市丸岡観光協会公式サイト
- ^ 吉田純一「丸岡城天守の建築年代」『FUT福井城郭研究所年報・研究紀要』No7 2019年
- ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年(ISBN 978-4-05-604634-2)
- ^ お静の供養碑
- ^ お静慰霊碑
- ^ “たび・あそび 丸岡 春のイベント”. 坂井市丸岡観光協会. 2017年2月14日閲覧。
- ^ “たび・あそび 丸岡 秋のイベント”. 坂井市丸岡観光協会. 2017年2月14日閲覧。
- ^ 「プロダクションノート」(パンフレット)『戦国自衛隊』、角川春樹事務所、1979年12月15日、26 - 27頁。
関連項目
- 日本の城一覧
- 日本100名城
- 現存天守
- 日本さくら名所100選
- 一筆啓上 日本一短い手紙の館
- マルクスブルク城 - 丸岡城と姉妹城の提携を結んでいる。
- 丸岡古城まつり
- 乱 - 炎上する城(三の城)のモデルとなり、事前に黒澤明監督が視察に訪れた。