「衆生」の版間の差分
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衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。[[十界]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]]、[[声聞]]、[[縁覚]]、[[菩薩]]、[[仏]])の中でも前半の[[六道]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]])ないしは[[五趣]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[人間]]、[[天上]])のいずれかに属して生きている{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。衆生が死ねば、また[[六道]]ないしは[[五趣]]のいずれかの中に生まれる([[天 (仏教)|天]]人とても寿命は永遠ではなく、[[輪廻]]を離れてはいない){{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。[[仏教]]、少なくとも[[阿毘達磨倶舎論]]においては、[[植物]]までを含まないが、[[ジャイナ教]]では[[植物]]を含む{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。人間は、[[サンスクリット]]語でマヌシャ({{lang|sa|manuṣya मनुष}})といわれ、ヨーロッパでのマン({{lang-en-short|[[:en:man|man]]}})やメンシュ({{lang-de-short|[[:de:Mensch|Mensch]]}})と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、[[パーリ語]]のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、[[涅槃経]]獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、[[非情 (仏教)|非情]]の存在は除外されるという意味を含む{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}}。 |
衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。[[十界]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]]、[[声聞]]、[[縁覚]]、[[菩薩]]、[[仏]])の中でも前半の[[六道]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[阿修羅|修羅]]、[[人間]]、[[天上]])ないしは[[五趣]]([[地獄 (仏教)|地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[人間]]、[[天上]])のいずれかに属して生きている{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。衆生が死ねば、また[[六道]]ないしは[[五趣]]のいずれかの中に生まれる([[天 (仏教)|天]]人とても寿命は永遠ではなく、[[輪廻]]を離れてはいない){{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。[[仏教]]、少なくとも[[阿毘達磨倶舎論]]においては、[[植物]]までを含まないが、[[ジャイナ教]]では[[植物]]を含む{{sfn|櫻部・上山|p = 40}}。人間は、[[サンスクリット]]語でマヌシャ({{lang|sa|manuṣya मनुष}})といわれ、ヨーロッパでのマン({{lang-en-short|[[:en:man|man]]}})やメンシュ({{lang-de-short|[[:de:Mensch|Mensch]]}})と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、[[パーリ語]]のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、[[涅槃経]]獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、[[非情 (仏教)|非情]]の存在は除外されるという意味を含む{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=408}}。 |
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== 類語 == |
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=== 異生 === |
=== 異生 === |
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サンスクリット語のプリタグジャナ({{lang|sa|pṛthagjana पृथग्जन}})、[[チベット語]]のソソル・キェボ (<span lang="bo">so-so-skye-bo སོ་སོ་སྐྱེ་བོ་</span> ) であり、[[凡夫]](ぼんぶ)と同じ意味である。 |
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=== 縁生 === |
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いろいろな原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出し、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではないとされる。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年4月27日 (火) 22:38時点における版
仏教用語 衆生 | |
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パーリ語 | satta |
サンスクリット語 | sattva |
中国語 | 有情 |
日本語 |
衆生 (ローマ字: しゅじょう) |
英語 | Sattva |
衆生(しゅじょう、梵: sattva सत्त्व、巴: satta[1]、梵: bahujana बहुजन、梵: jantu、梵: jagat)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと[2]。普通は、迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある[2]。
原義については、衆多の法が仮に和合して生ずるので衆生と名づける(大法鼓経)とする説や、衆多の生死を経るので衆生と名づける(大乗義章)などの説がある[3]。
訳語
玄奘訳では有情(うじょう、梵: sattva[4])と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記)といわれるように、情(心の働き)を持つもの、という意味[4]で、非精神的存在である非情(ひじょう)[3](無情(むじょう)ともいう[3])に対して、一切の生きとし生けるものを含めていう。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(梵: bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。
衆生・有情のほか、含識、含霊、含生、含情、群生、群萌、群類などの訳語がある[2][注釈 1]。
意味
衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)ないしは五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)のいずれかに属して生きている[5]。衆生が死ねば、また六道ないしは五趣のいずれかの中に生まれる(天人とても寿命は永遠ではなく、輪廻を離れてはいない)[5]。仏教、少なくとも阿毘達磨倶舎論においては、植物までを含まないが、ジャイナ教では植物を含む[5]。人間は、サンスクリット語でマヌシャ(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでのマン(英: man)やメンシュ(独: Mensch)と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、涅槃経獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、非情の存在は除外されるという意味を含む[3]。
類語
異生
サンスクリット語のプリタグジャナ(pṛthagjana पृथग्जन)、チベット語のソソル・キェボ (so-so-skye-bo སོ་སོ་སྐྱེ་བོ་ ) であり、凡夫(ぼんぶ)と同じ意味である。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 櫻部建 ; 上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)