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'''寬仁親王妃信子'''(ともひとしんのうひ のぶこ、[[1955年]]〈[[昭和]]30年〉[[4月9日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。[[寬仁親王]]の妃。[[身位]]は[[親王妃]]。[[敬称]]は[[殿下]]<ref>[[皇室典範]]第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」</ref>。[[お印]]は'''[[ハナモモ|花桃]]'''(はなもも)。[[勲等]]は[[勲一等宝冠章]]。旧名は'''麻生 信子'''(あそう のぶこ)。 |
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2021年4月27日 (火) 14:44時点における版
寬仁親王妃 信子 | |
---|---|
三笠宮家 | |
2017年(平成29年)撮影 | |
続柄 | 麻生太賀吉第3女子 |
全名 | 信子(のぶこ) |
身位 | 親王妃 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 花桃 |
出生 |
1955年4月9日(69歳) 日本・東京都渋谷区松濤町(現:神山町) |
配偶者 | 寬仁親王 |
子女 |
彬子女王 瑶子女王 |
父親 | 麻生太賀吉 |
母親 | 麻生和子 |
栄典 | |
役職 |
東京慈恵会総裁 日本赤十字社名誉副総裁 日本童謡学会名誉総裁 日本ばら会名誉総裁 他多数 |
称号:親王妃 | |
---|---|
敬称 |
殿下(妃殿下) Her Imperial Highness the Princess |
皇室 |
---|
|
寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ、1955年〈昭和30年〉4月9日 - )は、日本の皇族。寬仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下[1]。お印は花桃(はなもも)。勲等は勲一等宝冠章。旧名は麻生 信子(あそう のぶこ)。
伯爵・牧野伸顕の曾孫。第45・48 ・49・50・51代内閣総理大臣・吉田茂の孫。第92代内閣総理大臣麻生太郎の末妹。子女に彬子女王、瑶子女王がいる。
経歴
生い立ち
1955年(昭和30年)4月9日、麻生セメント会長の麻生太賀吉の三女として生まれる。母は第45代内閣総理大臣吉田茂の長女・和子。兄に麻生太郎がいる。
松濤幼稚園に入園する。聖心女子学院初等科、中等科を経て、英国・ランカシャーのインデペンデント・スクール、ロスリンハウス・コレッジ(Roselyn House College)へ入学した。
卒業後は、彼女自身も通っていた松濤幼稚園に英語講師として勤める。
親王妃として
結婚
1972年(昭和47年)2月、16歳の時に寬仁親王(当時26歳)から求婚されたが、当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年(昭和55年)4月18日の皇室会議を経て婚約。同年の11月7日に成婚した。同日付で勲一等宝冠章を受章した。この時から、東京都千代田区三番町の仮寓所に居住する。
翌1981年(昭和56年)12月20日に長女彬子女王、1983年(昭和58年)10月25日に次女瑶子女王の女子2人を出産した。
日本赤十字社名誉副総裁のほか、社団法人東京慈恵会総裁、一般社団法人日本童謡学会名誉総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁などに就任している。料理を得意としており、料理に関する著作もある。特に次女・瑶子女王は「とても自慢」と記者会見で語ったほどである[2]。
静養
2004年(平成16年)5月に一過性脳虚血の発作が起こり、7月より長野県軽井沢町の相馬家(元子爵・実姉の婚家)の別邸にて療養した。更年期障害も重なり静養を続けていたが[3]、2006年(平成18年)に新年の祝詞を述べるため一度帰京した。再び軽井沢にて療養に入るも症状が治まったため、5月帰京を予定していた。しかし寬仁親王の体調不良から延期され、同年8月に2年ぶりに宮邸に戻ったものの[4]、式典への欠席が続いていた。
さらに2008年(平成20年)暮れになると気管支喘息を患い、入退院を繰り返していた。姉や兄たちの別邸に長期療養し、東京に戻っても宮邸には戻らず、宮内庁長官公邸(千代田区三番町)に住まうなどしていた[5]。
2012年(平成24年)6月の寛仁親王薨去に際しては、表に出ることはなく、喪主を第一女子の彬子女王が務めることになった[6]。また、信子妃も彬子女王も寛仁親王家の当主を継承することがないまま、寬仁親王家が三笠宮本家に合流することになった[7]。
寛仁親王薨去後
2013年(平成25年)11月に、ようやく公務復帰を果たしたと報じられた[3][8]。
さらに2014年には、義弟・桂宮宜仁親王の薨去に際し、同宮邸に弔問に訪れていたことも報じられた。10月12日には日本青年会議所第63回全国大会松山大会へ出席、10月29日のオランダ国王夫妻歓迎の宮中晩餐会へ11年ぶりに出席、11月6日の園遊会には2004年春以来10年半ぶりに出席、2015年1月2日の一般参賀には19年ぶりに出席した。
2019年には、ライフワークとして寛仁親王とともに尽力してきた「童謡」の再興を掲げる日本童謡学会の名誉総裁に就任し、同団体を通じた被災地支援活動にも積極的に参画している。
年譜
- 1955年(昭和30年)4月9日、麻生太賀吉・和子夫妻の三女として誕生。
- 1962年(昭和37年)、松濤幼稚園を卒園。
- 1968年(昭和43年)、聖心女子学院初等科を卒業。
- 1971年(昭和46年)、聖心女子学院中等科を卒業。
- 1974年(昭和49年)、英国ロスリンハウス・コレッジを卒業。
- 1980年(昭和55年)11月7日、皇室会議を経て婚約し寬仁親王と成婚。
- 同日付で勲一等宝冠章を受章。
子女
家系
- 高祖父:大久保利通(明治維新元勲、薩摩藩士)
- 曾祖父:竹内綱(衆議院議員、自由党役員、京釜鉄道社長)
- 曾祖父:牧野伸顕(華族・第27代外務大臣、第20代文部大臣、枢密顧問官)
- 祖父:吉田茂(第45・48・49・50・51代内閣総理大臣)
- 祖母:雪子(牧野伸顕伯爵令嬢、吉田茂夫人)
- 父:麻生太賀吉(麻生セメント会長)
- 母:和子(吉田茂の三女、勲二等宝冠章)
- 兄:太郎 (衆議院議員、第92代内閣総理大臣、第23代自由民主党総裁、麻生派会長)
- 兄:次郎(学習院大学ヨット遭難事故で死去。22歳没)
- 兄:泰(実業家・アソウヒューマニーセンター代表兼麻生セメント社長)
- 姉:雪子(元華族、相馬氏33代当主・相馬和胤夫人)
- 姉:旦子(駐日スペイン大使・荒船清彦夫人)
- 伯父:吉田健一(小説家・中央大学教授)
野田勢三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野田健三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野田宏一郎 (野田昌宏) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツヤ子 | 鈴木俊一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鈴木善幸 (首相) | 千賀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加納久宜 | 加納久朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏子 | 麻生太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生太賀吉 | 麻生次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生賀郎 | 麻生太吉 | 麻生太郎 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内綱 | 吉田茂 (首相) | 吉田健一 | 相馬和胤 | (相馬家第33代当主 ミングオブジャパン社長) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉田正男 | 旦子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雪子 | 江子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大久保利通 | 牧野伸顕 | 桜子 | 荒船清彦 | (駐スペイン大使) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三島通庸 | 峰子 | 彬子女王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利武子 | 寬仁親王 | 瑶子女王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生泰 (麻生社長) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
英子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋月種英 | 武見太郎 (日医会長) | 武見敬三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 系図2
- 大久保利通からの系図。
大久保利通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
牧野伸顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋月種英 | 利武子 | 伸通 | 雪子 | 吉田茂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武見太郎 | 英子 | 伸和 | 健一 | 和子 | 麻生太賀吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敬三 | 力 | 太郎 | 寛仁親王妃信子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栄典
日本
外国
名誉役職
宮号の表記に関して
1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは、宮家の数が多く、現在の悠仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王・王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王・王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。慣習に従えば、寬仁親王は「三笠若宮」、同妃信子は「三笠若宮妃」となる。
なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王妃信子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。
著作
- 『四季の家庭料理―お惣菜80種』 光文社、1992年5月。ISBN 4334780075
- 『思い出の先にはいつも家庭料理』 マガジンハウス、2013年10月。ISBN 4838726201
脚注
- ^ 皇室典範第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」
- ^ “瑶子女王殿下の記者会見の内容(要旨)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
- ^ a b “故ヒゲの殿下の妻・信子さま 7年10カ月ぶりに公務復帰”. 週刊文春 (2013年6月10日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ “信子さま2年ぶりに宮邸に 寛仁さまも退院へ”. 共同通信 (2006年8月15日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ “信子さまが退院 宮邸に戻らず療養”. 共同通信 (2009年10月17日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ “ご逝去から100日…寛仁親王家に前代未聞の“跡目争い” 【寛仁親王家】”. 女性自身 (2012年9月21日). 2021年2月1日閲覧。
- ^ “故寛仁さまご一家、三笠宮家の一員に”. 日本経済新聞 (2013年6月10日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ “三笠宮家の信子さま7年ぶり公務 被災地見舞いで福島に”. 共同通信 (2013年11月1日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ “New Year Greeting” (PNG). Katemiddletonreview.com. 2017年3月11日閲覧。
- ^ Omsa.org