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'''バンブトンコート'''([[1975年]][[4月10日]] - [[1995年]])は、[[日本中央競馬会]]に所属していた[[競走馬]][[種牡馬]]。
'''バンブトンコート'''(欧字名:{{Lang|en|Bambton Court}}、[[1975年]][[4月10日]] - [[1995年]][[12月21日]])は、[[日本]][[競走馬]][[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=バンブトンコート|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000080665/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-02}}</ref>


1977年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬]]<ref name="jbis" />。主な勝ち鞍は、1977年の[[阪神3歳ステークス]]<ref name="jbis" />、重賞は7勝した。
[[馬齢]]は[[2000年]]以前まで使用されていた旧表記([[数え年]])を用いる。


== 来歴 ==
== 生涯 ==
父・ロードリージは[[サーゲイロード系]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]産馬で、現役時は[[イタリア]]で走って4戦1勝と平凡な成績に終わったが、[[サーアイヴァー]]の全弟という血統を買われて1972年に輸入された。


=== デビューまで ===
バンブトンコート以外の代表産駒には[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳S]]を勝って[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳S]]で2着に入ったニホンピロポリシー<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000086531/|title=ニホンピロポリシー |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>、[[京阪杯]]・[[CBC賞]]2着、[[阪急杯]]3着のハンピンオー<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000061704/|title=ハンピンオー |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>などがいる。また、[[ブルードメアサイアー]]としては、ナイスナイスナイス<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000189946/|title=ナイスナイスナイス |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>・トシグリーン<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000199694/|title=トシグリーン |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>・セントシーザー<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000149502/|title=セントシーザー |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>・マルシゲアトラス<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000175540/|title=マルシゲアトラス |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>・メイショウジェニエ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000268126/|title=メイショウジェニエ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>・チヤンピオンスター<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000170326/|title=チヤンピオンスター |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref>を出した。
イチバンブは、1968年に生産された[[テューダーペリオッド]]産駒だった<ref>{{Cite web|title=イチバンブ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000023633/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-02}}</ref>。新馬戦では、後に1970年の[[阪神3歳ステークス]]など重賞5勝を挙げる[[ロングワン]]を下して勝利した<ref name="優駿1991-2-41">『優駿』1991年2月号 41頁</ref>。200万円以下まで勝ち進み、19戦2勝の成績を残した。


競走馬引退後は、[[北海道]][[様似郡]][[様似町]]の修栄牧場、中村義繁の下で繁殖牝馬となり、初年度は父[[プロント (競走馬)|プロント]]の牝馬(後のプロバンス<ref>{{Cite web|title=プロバンス|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000061730/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-02}}</ref><ref group="注釈">10戦3勝。[[伊藤修司]]厩舎所属</ref>)、2年目は父ファバージの牝馬(後のフロークラック<ref>{{Cite web|title=フロークラツク|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000072232/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-02}}</ref><ref group="注釈">18戦2勝。伊藤修司厩舎所属。</ref>)を産んだ。3年目の種付けには、ロードリージの種付けされた。
馬主の[[樋口正蔵]]は元[[プロ野球選手]]で、現役時は[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]で[[外野手]]として10年間プレー。主に[[400フィート打線]]の1番打者を務め、[[1964年]]のリーグ優勝・日本一に貢献。現役引退後は家業と馬主業を同時に引き継いだ。冠名の「バンブトン」は、14勝を挙げた[[ニュージーランド]]産馬・ミスバンブトンから取ったものである。[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・[[伊藤修司]]厩舎の管理馬として、伊藤の娘婿の[[上野清章|伊藤清章]]が鞍上を任された。


ロードリージは[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[サーゲイロード系]]に属している。競走馬としては[[アイルランド]]で1勝を挙げ、4戦のみで引退<ref name="優駿1991-2-41"/>。全弟に[[2000ギニーステークス]]、[[ダービーステークス]]など8勝を挙げた[[サーアイヴァー]]が評価され、種牡馬として1971年から日本に導入された<ref name="優駿1991-2-41"/>。
=== 戦績 ===
==== 3歳時 ====
バンブトンコートは[[1977年]][[6月18日]]、[[札幌競馬場|札幌]]でデビューした。デビュー戦を大差勝ちすると、2連勝で挑んだ3走目の[[札幌2歳ステークス|北海道3歳S]]ではラブリトウショウの3着と初めて敗戦を喫するが、続く[[8月]]の[[函館競馬場|函館]]で行われた平場のオープン特別では初の芝と初の1番人気で3勝目を挙げた。


1975年4月10日、修栄牧場にてイチバンブの3番仔である鹿毛の牡馬(後のバンブトンコート)が誕生。生後15分で立ち上がり、周囲を驚かせた<ref name="優駿1991-2-41"/>。当歳の時は、気が強く賢そうな馬であった。牧場では、首を大きく使い、柔らかい動きをしていた<ref name="優駿1991-2-41" />。中村は、母と姉のようにスピードがあり、短距離馬になると見込んでいた<ref name="優駿1991-2-41" />。
[[函館2歳ステークス|函館3歳S]]では人気の[[ファンタスト]]が競走中止するアクシデントもあったが、6馬身差の圧勝で重賞初制覇。同じ札幌デビュー組のラブリトウショウ・[[インターグシケン]]と共に「'''関西3羽ガラス'''」と云われ、関西に戻った後はデイリー杯3歳Sで重賞2連勝をマークし、暮れの阪神3歳Sでは重賞3連勝で見事3歳王者となった。2着・インターグシケン、3着・ラブリトウショウと3羽ガラスが上位を独占し、実況の[[杉本清]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]][[アナウンサー]])がレース後「'''これが午年に送る関西の新しい星です'''」と謳った。


南海ホークスで[[400フィート打線]]の1番打者として活躍し、家業と馬主業を引き継いだ[[樋口正蔵]]は、当歳時にその牡馬を見て「もう一つピンとくるものがなかった<ref name="優駿1991-2-41" />」ものの、900万円で姉2頭に続いて所有することとなった<ref name="優駿1991-2-41" />。14勝を挙げた[[ニュージーランド]]産馬ミスバンブトンに由来する冠名「バンブトン」に「コート」を組み合わせた「バンブトンコート」と命名された。
関東の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]で無敗のタケデンに初めて土をつけた[[ギャラントダンサー]]を抑え、同年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]に選出されたバンブトンコートは、[[クラシック (競馬)|クラシック]]の最有力候補に躍り出たが、3歳王者になった翌日に右前脚の剥離骨折が判明し休養を余儀なくされることになる。


栗東トレーニングセンターの[[伊藤修司]]厩舎に入厩した<ref name="優駿1991-2-41" />。厩務員は田中幹三、[[調教助手]]は幹三の父である田中義一郎が担当した<ref name="優駿1991-2-41" />。伊藤の娘婿の[[上野清章|伊藤清章]]が主に騎乗することとなった。
==== 4歳時 ====
年が明けて[[1978年]]、バンブトンコートは[[皐月賞]]をスキップして[[東京優駿|日本ダービー]]を照準に絞ることとなり、初戦は[[5月14日]]の[[東京競馬場|東京]]で行われた平場のオープン特別だった。バンブトンコートはこのオープン特別を楽勝、阪神3歳Sでバンブトンコートに完敗したインターグシケンがソエを気にしながら皐月賞でクビ差の2着であったことから陣営はダービーへの手応えを感じた。


=== 競走馬時代 ===
バンブトンコートは、日本ダービーでは1番人気に支持された。しかし、強行ローテーションが響いたのか、レースでは終始好位を追走するも直線残り1ハロンで脚が止まり、優勝した[[サクラショウリ]]の4着に終わった。なお、このダービーではバンブトンコートと同枠に入った[[アグネスホープ]]が2着に入ったため、いわゆる代用品決着となっている。
==== 3歳(1977年) ====
[[1977年]][[6月18日]]、[[札幌競馬場]]の[[新馬戦]](ダート1000メートル)に7頭中4番人気で出走<ref name="優駿1991-2-42">『優駿』1991年2月号 42頁</ref>。スタートから逃げの手に出て、後方に1.9秒差を離す大差で勝利した<ref name="優駿1991-2-42" />。続いてはまなす賞(ダート1200メートル)では1番人気のサクラパナソに半馬身差をつけて、2連勝とした<ref name="優駿1991-2-42" />。[[北海道3歳ステークス]]では、砂を被る不利を受けながら3着<ref name="優駿1991-2-42" />。[[函館競馬場]]に移り、初めての芝となるオープン特別に出走し、1番人気に応えて3勝目を挙げた<ref name="優駿1991-2-42" />。


[[函館3歳ステークス]]では、[[ファンタスト]]に次ぐ2番人気で出走<ref name="優駿1991-2-42" />。スタート直後にファンタストが体勢を崩して[[落馬]]し、[[競走中止]]した<ref name="優駿1991-2-42" />。バンブトンコートは最終コーナーでまくりを決めて抜け出すと、後方に6馬身離して勝利し、重賞初制覇となった<ref name="優駿1991-2-42" />。本州に戻り、関西圏で初めてとなる[[デイリー杯3歳ステークス]]に出走<ref name="優駿1991-2-42" />。10頭立ての2番人気の支持を集め、[[単枠指定]]となった<ref name="優駿1991-2-42" />。中団から追い込み、[[インターグシケン]]に1馬身4分の3差をつけて重賞連勝となった<ref name="優駿1991-2-42" />。
ダービー後、バンブトンコートは夏の[[函館記念]]でトップハンデを背負いながらも快勝、続く[[神戸新聞杯]]でも[[河内洋]]が騎乗して快勝し、重賞を連勝した。ところが、[[菊花賞]][[トライアル競走|トライアル]]の[[京都新聞杯]]ではサクラショウリとの[[単枠指定制度|単枠指定]]同士の対決だったが、バンブトンコートと同厩だったメジロイーグルに逃げ切りを許し、6着と初めて掲示板を外した。本番の菊花賞でもサクラショウリとの単枠指定対決になったが、7着と完全に株を下げる結果となり、クラシックは無冠に終わった。


続いて、[[阪神3歳ステークス]]に出走。他がバンブトンコートを嫌って回避したため、5頭立てとなった。逃げの手を打ち、最終コーナーでは内からラブリトウショウ、外からインターグシケンが追い上げたが、逃げ切りを果たした。1分35秒1のコースレコードタイで入線し、重賞3連勝となった<ref name="優駿1991-2-42" />。しかし、勝利した翌日の朝に歩様に異状をきたした<ref name="優駿1991-2-42" />。[[X線撮影|レントゲン検査]]が行われ、右前膝の[[剥離骨折]]が判明<ref name="優駿1991-2-42" />。軽度な骨折で、剥離した骨の切除手術が施された<ref name="優駿1991-2-42" />。東の3歳重賞、[[朝日杯3歳ステークス]]では[[外国産馬]]の[[ギャラントダンサー]]が優勝したが、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬]]はバンブトンコートが選出された<ref name="優駿1991-2-42" />。
==== 5歳時 ====
[[1979年]]、古馬になったバンブトンコートは[[マイラーズカップ]]から始動し、[[インターグロリア]]に1/2馬身差を付けて勝利したが、続く[[天皇賞 #天皇賞 (春)|天皇賞・春]]は7着に終わった。


==== 4歳(1978年) ====
続く[[阪神競馬場|阪神]]で行われた平場のオープン特別では伊藤清章に替わって[[栗田伸一]]が騎乗して快勝、上り調子のまま[[第20回宝塚記念]]に向かうことになった。宝塚記念では河内が騎乗。レースではサクラショウリを徹底マークするが、直線で[[グリーングラス]]は交わしたものの2着とまたしてもサクラショウリの前に屈することになった。
2月8日、[[福島県]][[いわき市]]の[[競走馬総合研究所#馬の温泉|競走馬総合研究所常盤支所]]にある温泉に移動し、3月27日に栗東トレーニングセンターに戻った<ref name="優駿1991-2-42" />。[[皐月賞]]を回避し、[[東京優駿]]を目標に据えた。4月17日、[[東京競馬場]]に入厩し、追い切りが再開<ref name="優駿1991-2-42" />。5月14日、東京競馬場で行われたオープン特別で5か月ぶりに復帰し、馬体重が絞り切れず、太めで出走した<ref name="優駿1991-2-43">『優駿』1991年2月号 43頁</ref>。逃げ粘るメジロホークとミノルジンデンを捕らえるのに苦労したが、残り100メートルから馬場の内から伸びて、先頭で入線し5連勝となった<ref name="優駿1991-2-43" />。


続く[[東京優駿]](日本ダービー)では1番人気に支持された。調教を経て状態は良化し、[[あばら]]が見えるほどの「絶好調」な状態で出走した<ref name="優駿1991-2-43" />。[[メジロイーグル]]がハイペースで逃げを展開し、バンブトンコートは2.3番手の好位に位置した<ref name="優駿1990-6-42">『優駿』1990年6月号 42頁</ref>。メジロイーグルが最後の直線コース中間まで粘り、それにバンブトンコートや、アグネスホープ、[[サクラショウリ]]が争いに加わり4頭が横一線になって競り合った<ref name="優駿1990-6-42" />。アグネスホープとバンブトンコートの進路が狭くなって後退、代わってサクラショウリが伸び先頭で入線した。バンブトンコートは、追い込んだカンパーリに差される4着に敗れた<ref name="優駿1990-6-42" />。
次走の[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]では4歳馬のネーハイジェットに敗れ2着。函館記念では伊藤清章に鞍上を戻して連覇を狙ったが、エンペラーエースの3着に敗れ、連覇に失敗した。


夏の[[函館記念]]でトップハンデを背負いながらも、メジロイーグルやファンタストを相手に勝利<ref name="優駿1991-2-43" />。秋の始動戦である[[神戸新聞杯]]では[[河内洋]]に乗り替わり、函館記念から馬体重を16キログラム増やしながらも勝利し、重賞を連勝した<ref name="優駿1991-2-43" />。[[菊花賞]][[トライアル競走|トライアル]]の[[京都新聞杯]]では、サクラショウリとともに[[単枠指定制度|単枠指定]]となった。バンブトンコートと同じ厩舎のメジロイーグルに逃げ切りを許し、6着と初めて掲示板を外した<ref name="優駿1991-2-43" />。本番の菊花賞でもサクラショウリとともに単枠指定となったが、7着に敗れた<ref name="優駿1991-2-43" />。
秋は[[中京競馬場|中京]]で行われた[[チャレンジカップ|朝日チャレンジカップ]]から始動し快勝したが、続く[[目黒記念 #目黒記念 (秋)|目黒記念・秋]]は7着、[[天皇賞 #天皇賞 (秋)|天皇賞・秋]]は13着、[[有馬記念]]は11着と距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗し、この年を終えた。


菊花賞の後、左トモの状態が悪く、再びいわき市の温泉に向かった<ref name="優駿1991-2-43" />。
==== 6歳時 ====
[[1980年]]は[[鳴尾記念]]から始動したが、60キロの斤量が祟って6着に終わった。それでも函館で行われた巴賞で9頭中8番人気ながらサーペンプリンスを退けて1着となり復活したか見えたが、その後故障し、これが引退レースとなった。


==== 5歳 - 6歳(1979 - 80年) ====
=== 引退後 ===
古馬となった[[1979年]]、いわき市から戻って[[マイラーズカップ]]から始動し、[[インターグロリア]]に半馬身差をつけて勝利した<ref name="優駿1991-2-44">『[[優駿]]』1991年2月号 44頁</ref>。しかし、続く[[天皇賞(春)]]では第3コーナーの下り坂で不利を受けて後退し、7着に敗れた<ref name="優駿1991-2-44" />。阪神競馬場で行われたオープン特別では、新人の[[栗田伸一]]が騎乗して勝利。続く宝塚記念では河内に乗り替わり、サクラショウリに及ばず2着に敗れた。(レースに関する詳細は[[第20回宝塚記念]]を参照。)以降、高松宮杯は2着、連覇を狙った函館記念は3着に敗れた<ref name="優駿1991-2-44" />。
引退後は[[1981年]]に[[日高スタリオンステーション]]で種牡馬入りするが、あまり牝馬は集まらず、[[地方競馬|地方]]の重賞勝ち馬を2頭輩出するに過ぎなかった<ref>[http://blog.livedoor.jp/organa_jpn/archives/52475459.html 年度別種付け情報 - 1981年その2:父系馬鹿]</ref>。


秋は[[中京競馬場]]で行われた[[チャレンジカップ|朝日チャレンジカップ]]から始動し、続く[[目黒記念(秋)]]は7着<ref name="優駿1991-2-44" />。[[天皇賞(秋)]]は不良馬場で行われ、障害馬[[バローネターフ]]に先着されるなど最下位13着<ref name="優駿1991-2-44" />。[[有馬記念]]では、16頭が出走する中、14番人気という評価となり11着に敗れた<ref name="優駿1991-2-44" />。いわき市の温泉で休養された後、[[1980年]][[3月23日]]の[[鳴尾記念]]で6歳初戦に出走するも、6着敗退<ref name="優駿1991-2-44" />。レース後に左前脚の状態が悪く、予定していた天皇賞(春)の出走を諦め、北海道の[[荻伏牧場]]に放牧された<ref name="優駿1991-2-44" />。8月の函館競馬場、巴賞で復帰。以前よりも細い状態で、9頭中ブービー8番人気で出走した。最終カーブの中間から馬場の内側を突いて位置を上げると、後続を離して先頭で入線。11か月ぶりの勝利を挙げた<ref name="優駿1991-2-45">『[[優駿]]』1991年2月号 45頁</ref>。
ファンであった[[サラリーマン]]の人物が引き取り、故郷・[[北海道]][[様似郡]][[様似町]]の修栄牧場で繋養。[[1990年]]からは様似を離れ、[[宮城県]][[玉造郡]][[鳴子町]](現・[[大崎市]])の斉藤牧場で安い種付け料で種牡馬生活を送り、[[1994年]]引退。その後は[[山梨県]]の信玄牧場で余生を過ごしていたが、[[1995年]]に死亡した。21歳没。

その後、函館記念に出走を予定するも、62.5キログラムの負担重量と馬場状態が悪いことから回避<ref name="優駿1991-2-45" />。秋は[[京都大賞典]]から天皇賞(秋)に参戦し引退する予定であったが、右前脚の[[球節炎]]を発症し、前倒しで競走馬を引退した<ref name="優駿1991-2-45" />。

=== 種牡馬時代 ===
引退後は[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が結成され、[[1981年]]から[[北海道]][[浦河郡]][[浦河町]]の[[日高スタリオンステーション]]にて[[種牡馬]]となった<ref name="優駿1990-6-42" />。初年度は17頭、2年目の[[1982年]]は15頭の[[繁殖牝馬]]を集めたが、産駒の成績が悪く、種付けの申し込みが減少したため一旦は引退した<ref name="優駿1990-6-42" />。[[1987年]]から生まれ故郷である修栄牧場にて余生を送っていたが<ref name="優駿1990-6-42" />、[[1988年]]に修栄牧場を訪れたファンである[[東京都]]の[[サラリーマン]]の男性が、引退後のバンブトンコートを見て寂しく思い、バンブトンコートの譲渡を申し出て牧場から了承を得た<ref name="優駿1990-6-42" />。

サラリーマンの男性でも負担できる安い預託料を求めて[[宮城県]][[玉造郡]][[鳴子町]]の斉藤米造牧場に移動し、体調が回復すると[[1989年]]から再び種牡馬生活を始めた<ref name="優駿1991-2-43" /><ref name="優駿1991-2-45" />。1989年は宮城県内の繁殖牝馬12頭に種付けし、12頭全てが受胎した<ref name="優駿1991-2-43" />。サラリーマンの男性には婚約者がいたが、バンブトンコートに貢いだことで彼の下から離れてしまった<ref name="優駿1991-2-43" />。[[1994年]]に再び引退し、その後は[[山梨県]]の信玄牧場で余生を過ごしていたが、[[1995年]]に死去。21歳没。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=バンブトンコートの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1975105593/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-05-02|language=ja}}</ref>及びJBISサーチ<ref>{{Cite web|title=競走成績:年度別累計成績/主な成績|バンブトンコート|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000080665/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-02}}</ref>の情報に基づく。
※太字は[[グレード制|GI]]級レース。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
*1977年(9戦4勝)
!競走日
** 1着 - '''阪神3歳ステークス'''、デイリー杯3歳ステークス、函館3歳ステークス、はまなす賞
! nowrap="" |競馬場
*1978年(6戦2勝)
!競走名
** 1着 - 函館記念、神戸新聞杯
!距離(馬場)
*1979年(11戦3勝)
!頭
** 1着 - マイラーズカップ、朝日チャレンジカップ
** 2着 - '''宝塚記念'''、高松宮杯
!枠
** 3着 - 函館記念、[[地方競馬招待競走]]
*1980年(2戦1勝)
!馬
** 1着 - 巴賞
!オッズ
(人気)
!着順
!タイム
!騎手
!斤量
!1着馬(2着馬)
|-
|[[1977年|1977]].{{0}}[[6月18日|6.18]]
|[[札幌競馬場|札幌]]
|[[新馬|3歳新馬]]
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|(サーペンプリンス)
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== 種牡馬成績 ==
== 種牡馬成績 ==
* リベラルワールド<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000147630/|title=リベラルワールド |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref> - [[1985年]]新春ジュニア([[名古屋競馬場|名古屋]])、[[1989年]]天山賞・大天山賞・サラブレッドグランプリ([[佐賀競馬場|佐賀]])・サラブレッド大賞典([[中津競馬場|中津]])
* リベラルワールド<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000147630/|title=リベラルワールド |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref> - [[1985年]]新春ジュニア([[名古屋競馬場|名古屋]])、[[1989年]]天山賞・大天山賞・サラブレッドグランプリ([[佐賀競馬場|佐賀]])・サラブレッド大賞典([[中津競馬場|中津]])
* アーバンカーボーイ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000179236/|title=アーバンカーボーイ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref> - [[1991年]]中津王冠・サラブレッドチャンピオン(中津)
* アーバンカーボーイ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000179236/|title=アーバンカーボーイ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-03-06}}</ref> - [[1991年]]中津王冠・サラブレッドチャンピオン(中津)

== エピソード ==
バンブトンコートの資質を買っていた[[大橋巨泉]]が再三に渡り騎手交代を求めていたと言われている。その候補に[[福永洋一]]や河内などの名が上がっていた。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references />
<references />

== 参考文献 ==

* 『[[優駿]]』
** 1990年6月号
*** 「【サラブレッド・ヒーロー列伝 番外編】ダービー1番人気で散った馬たち」
** 1991年2月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 58】無冠の名馬 バンブトンコート」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2021年5月16日 (日) 08:45時点における版

バンブトンコート
欧字表記 Bambton Court[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
白斑 左後一白[2]
生誕 1975年4月10日[1]
死没 1995年12月21日
ロードリージ[1]
イチバンブ[1]
母の父 テューダーペリオッド[1]
生国 日本の旗 日本
北海道様似郡様似町[1]
生産者 中村義繁[1](修栄牧場[2]
馬主 樋口正蔵[1]
調教師 伊藤修司[1]栗東
調教助手 田中義一郎[2]
厩務員 田中幹三[2]
競走成績
タイトル 優駿賞最優秀3歳牡馬(1977年)
生涯成績 26戦13勝[1]
獲得賞金 2億3309万0000円[1]
勝ち鞍
オープン 阪神3歳ステークス 1977年
オープン デイリー杯3歳ステークス 1977年
オープン 函館3歳ステークス 1977年
オープン 神戸新聞杯 1978年
オープン 函館記念 1978年
オープン マイラーズカップ 1979年
オープン 朝日チャレンジカップ 1979年
テンプレートを表示

バンブトンコート(欧字名:Bambton Court1975年4月10日 - 1995年12月21日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1977年の優駿賞最優秀3歳牡馬[1]。主な勝ち鞍は、1977年の阪神3歳ステークス[1]、重賞は7勝した。

生涯

デビューまで

イチバンブは、1968年に生産されたテューダーペリオッド産駒だった[3]。新馬戦では、後に1970年の阪神3歳ステークスなど重賞5勝を挙げるロングワンを下して勝利した[2]。200万円以下まで勝ち進み、19戦2勝の成績を残した。

競走馬引退後は、北海道様似郡様似町の修栄牧場、中村義繁の下で繁殖牝馬となり、初年度は父プロントの牝馬(後のプロバンス[4][注釈 1])、2年目は父ファバージの牝馬(後のフロークラック[5][注釈 2])を産んだ。3年目の種付けには、ロードリージの種付けされた。

ロードリージはアメリカ合衆国で生産され、サーゲイロード系に属している。競走馬としてはアイルランドで1勝を挙げ、4戦のみで引退[2]。全弟に2000ギニーステークスダービーステークスなど8勝を挙げたサーアイヴァーが評価され、種牡馬として1971年から日本に導入された[2]

1975年4月10日、修栄牧場にてイチバンブの3番仔である鹿毛の牡馬(後のバンブトンコート)が誕生。生後15分で立ち上がり、周囲を驚かせた[2]。当歳の時は、気が強く賢そうな馬であった。牧場では、首を大きく使い、柔らかい動きをしていた[2]。中村は、母と姉のようにスピードがあり、短距離馬になると見込んでいた[2]

南海ホークスで400フィート打線の1番打者として活躍し、家業と馬主業を引き継いだ樋口正蔵は、当歳時にその牡馬を見て「もう一つピンとくるものがなかった[2]」ものの、900万円で姉2頭に続いて所有することとなった[2]。14勝を挙げたニュージーランド産馬ミスバンブトンに由来する冠名「バンブトン」に「コート」を組み合わせた「バンブトンコート」と命名された。

栗東トレーニングセンターの伊藤修司厩舎に入厩した[2]。厩務員は田中幹三、調教助手は幹三の父である田中義一郎が担当した[2]。伊藤の娘婿の伊藤清章が主に騎乗することとなった。

競走馬時代

3歳(1977年)

1977年6月18日札幌競馬場新馬戦(ダート1000メートル)に7頭中4番人気で出走[6]。スタートから逃げの手に出て、後方に1.9秒差を離す大差で勝利した[6]。続いてはまなす賞(ダート1200メートル)では1番人気のサクラパナソに半馬身差をつけて、2連勝とした[6]北海道3歳ステークスでは、砂を被る不利を受けながら3着[6]函館競馬場に移り、初めての芝となるオープン特別に出走し、1番人気に応えて3勝目を挙げた[6]

函館3歳ステークスでは、ファンタストに次ぐ2番人気で出走[6]。スタート直後にファンタストが体勢を崩して落馬し、競走中止した[6]。バンブトンコートは最終コーナーでまくりを決めて抜け出すと、後方に6馬身離して勝利し、重賞初制覇となった[6]。本州に戻り、関西圏で初めてとなるデイリー杯3歳ステークスに出走[6]。10頭立ての2番人気の支持を集め、単枠指定となった[6]。中団から追い込み、インターグシケンに1馬身4分の3差をつけて重賞連勝となった[6]

続いて、阪神3歳ステークスに出走。他がバンブトンコートを嫌って回避したため、5頭立てとなった。逃げの手を打ち、最終コーナーでは内からラブリトウショウ、外からインターグシケンが追い上げたが、逃げ切りを果たした。1分35秒1のコースレコードタイで入線し、重賞3連勝となった[6]。しかし、勝利した翌日の朝に歩様に異状をきたした[6]レントゲン検査が行われ、右前膝の剥離骨折が判明[6]。軽度な骨折で、剥離した骨の切除手術が施された[6]。東の3歳重賞、朝日杯3歳ステークスでは外国産馬ギャラントダンサーが優勝したが、優駿賞最優秀3歳牡馬はバンブトンコートが選出された[6]

4歳(1978年)

2月8日、福島県いわき市競走馬総合研究所常盤支所にある温泉に移動し、3月27日に栗東トレーニングセンターに戻った[6]皐月賞を回避し、東京優駿を目標に据えた。4月17日、東京競馬場に入厩し、追い切りが再開[6]。5月14日、東京競馬場で行われたオープン特別で5か月ぶりに復帰し、馬体重が絞り切れず、太めで出走した[7]。逃げ粘るメジロホークとミノルジンデンを捕らえるのに苦労したが、残り100メートルから馬場の内から伸びて、先頭で入線し5連勝となった[7]

続く東京優駿(日本ダービー)では1番人気に支持された。調教を経て状態は良化し、あばらが見えるほどの「絶好調」な状態で出走した[7]メジロイーグルがハイペースで逃げを展開し、バンブトンコートは2.3番手の好位に位置した[8]。メジロイーグルが最後の直線コース中間まで粘り、それにバンブトンコートや、アグネスホープ、サクラショウリが争いに加わり4頭が横一線になって競り合った[8]。アグネスホープとバンブトンコートの進路が狭くなって後退、代わってサクラショウリが伸び先頭で入線した。バンブトンコートは、追い込んだカンパーリに差される4着に敗れた[8]

夏の函館記念でトップハンデを背負いながらも、メジロイーグルやファンタストを相手に勝利[7]。秋の始動戦である神戸新聞杯では河内洋に乗り替わり、函館記念から馬体重を16キログラム増やしながらも勝利し、重賞を連勝した[7]菊花賞トライアル京都新聞杯では、サクラショウリとともに単枠指定となった。バンブトンコートと同じ厩舎のメジロイーグルに逃げ切りを許し、6着と初めて掲示板を外した[7]。本番の菊花賞でもサクラショウリとともに単枠指定となったが、7着に敗れた[7]

菊花賞の後、左トモの状態が悪く、再びいわき市の温泉に向かった[7]

5歳 - 6歳(1979 - 80年)

古馬となった1979年、いわき市から戻ってマイラーズカップから始動し、インターグロリアに半馬身差をつけて勝利した[9]。しかし、続く天皇賞(春)では第3コーナーの下り坂で不利を受けて後退し、7着に敗れた[9]。阪神競馬場で行われたオープン特別では、新人の栗田伸一が騎乗して勝利。続く宝塚記念では河内に乗り替わり、サクラショウリに及ばず2着に敗れた。(レースに関する詳細は第20回宝塚記念を参照。)以降、高松宮杯は2着、連覇を狙った函館記念は3着に敗れた[9]

秋は中京競馬場で行われた朝日チャレンジカップから始動し、続く目黒記念(秋)は7着[9]天皇賞(秋)は不良馬場で行われ、障害馬バローネターフに先着されるなど最下位13着[9]有馬記念では、16頭が出走する中、14番人気という評価となり11着に敗れた[9]。いわき市の温泉で休養された後、1980年3月23日鳴尾記念で6歳初戦に出走するも、6着敗退[9]。レース後に左前脚の状態が悪く、予定していた天皇賞(春)の出走を諦め、北海道の荻伏牧場に放牧された[9]。8月の函館競馬場、巴賞で復帰。以前よりも細い状態で、9頭中ブービー8番人気で出走した。最終カーブの中間から馬場の内側を突いて位置を上げると、後続を離して先頭で入線。11か月ぶりの勝利を挙げた[10]

その後、函館記念に出走を予定するも、62.5キログラムの負担重量と馬場状態が悪いことから回避[10]。秋は京都大賞典から天皇賞(秋)に参戦し引退する予定であったが、右前脚の球節炎を発症し、前倒しで競走馬を引退した[10]

種牡馬時代

引退後はシンジケートが結成され、1981年から北海道浦河郡浦河町日高スタリオンステーションにて種牡馬となった[8]。初年度は17頭、2年目の1982年は15頭の繁殖牝馬を集めたが、産駒の成績が悪く、種付けの申し込みが減少したため一旦は引退した[8]1987年から生まれ故郷である修栄牧場にて余生を送っていたが[8]1988年に修栄牧場を訪れたファンである東京都サラリーマンの男性が、引退後のバンブトンコートを見て寂しく思い、バンブトンコートの譲渡を申し出て牧場から了承を得た[8]

サラリーマンの男性でも負担できる安い預託料を求めて宮城県玉造郡鳴子町の斉藤米造牧場に移動し、体調が回復すると1989年から再び種牡馬生活を始めた[7][10]。1989年は宮城県内の繁殖牝馬12頭に種付けし、12頭全てが受胎した[7]。サラリーマンの男性には婚約者がいたが、バンブトンコートに貢いだことで彼の下から離れてしまった[7]1994年に再び引退し、その後は山梨県の信玄牧場で余生を過ごしていたが、1995年に死去。21歳没。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[11]及びJBISサーチ[12]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 騎手 斤量 1着馬(2着馬)
1977.06.18 札幌 3歳新馬 ダ1000m(良) 7 3 3 009.10(4人) 01着 01:00.9 0伊藤清章 52 (ニッソウエース)
0000.07.09 札幌 はまなす賞 ダ1200m(良) 7 6 6 006.10(3人) 01着 01:13.9 0伊藤清章 53 (サクラパナソ)
0000.08.07 札幌 北海道3歳S ダ1200m(良) 9 8 8 007.10(4人) 03着 01:13.8 0伊藤清章 52 ラブリトウショウ
0000.08.20 函館 3歳オープン 芝1200m(良) 10 8 9 003.30(1人) 01着 01:11.8 0伊藤清章 53 (トウフクモンスター)
0000.09.04 函館 函館3歳S 芝1200m(重) 10 7 7 003.70(2人) 01着 01:11.9 0伊藤清章 52 (ユウズミ)
0000.10.01 阪神 デイリー杯3歳S 芝1200m(良) 10 4 4 003.60(2人) 01着 01:10.0 0伊藤清章 53 (インターグシケン)
0000.12.11 阪神 阪神3歳S 芝1600m(良) 5 1 1 002.10(1人) 01着 01:35.1 0伊藤清章 54 (インターグシケン)
1978.05.14 東京 4歳オープン 芝1800m(良) 5 1 1 001.70(1人) 01着 01:50.0 0伊藤清章 56 (ミノルジンデン)
0000.05.28 東京 東京優駿 芝2400m(良) 21 3 5 005.40(1人) 04着 02:28.1 0伊藤清章 57 サクラショウリ
0000.07.09 函館 函館記念 芝2000m(良) 7 3 3 001.50(1人) 01着 02:01.0 0伊藤清章 57 (アランフェス)
0000.10.01 阪神 神戸新聞杯 芝2000m(良) 8 7 7 001.60(1人) 01着 02:02.4 0河内洋 56 (タマペンダス)
0000.10.22 京都 京都新聞杯 芝2000m(良) 16 3 5 004.70(1人) 06着 02:02.1 0伊藤清章 57 メジロイーグル
0000.11.12 京都 菊花賞 芝3000m(良) 20 2 4 005.40(2人) 07着 03:06.9 0伊藤清章 57 インターグシケン
1979.04.07 阪神 マイラーズC 芝1600m(稍) 13 4 4 006.40(2人) 01着 01:36.0 0伊藤清章 56 (インターグロリア)
0000.04.29 京都 天皇賞(春) 芝3200m(良) 21 1 1 009.50(3人) 07着 03:21.8 0伊藤清章 58 カシュウチカラ
0000.05.20 阪神 4歳上オープン 芝2000m(良) 12 4 4 001.90(1人) 01着 02:02.4 0栗田伸一 57 (リネンジョオー)
0000.06.03 阪神 宝塚記念 芝2200m(良) 13 5 8 004.00(2人) 02着 02:12.5 0河内洋 55 サクラショウリ
0000.06.24 阪神 高松宮杯 芝2000m(良) 9 2 2 001.70(1人) 02着 02:00.0 0河内洋 58 ネーハイジェット
0000.08.19 函館 函館記念 芝2000m(良) 11 5 5 006.40(3人) 03着 01:59.7 0伊藤清章 61 エンペラーエース
0000.09.23 中京 朝日チャレンジC 芝2000m(良) 10 8 9 002.70(1人) 01着 01:59.9 0伊藤清章 61 (リネンジョオー)
0000.10.07 中京 地方競馬招待競走 芝1800m(不) 11 6 7 001.80(1人) 03着 01:53.1 0伊藤清章 56 リュウアラナス
0000.11.04 東京 目黒記念 芝2500m(稍) 10 2 2 011.90(5人) 07着 02:33.2 0伊藤清章 62 シービークロス
0000.11.25 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(不) 13 8 12 017.70(7人) 13着 03:37.4 0伊藤清章 58 スリージャイアンツ
0000.12.16 中山 有馬記念 芝2500m(良) 16 5 10 033.0(14人) 11着 02:37.3 0伊藤清章 56 グリーングラス
1980.03.23 阪神 鳴尾記念 芝2400m(重) 9 8 8 006.80(3人) 06着 02:30.9 0伊藤清章 61 リンドプルバン
0000.08.03 函館 巴賞 芝1800m(良) 9 2 2 015.20(8人) 01着 01:47.5 0伊藤清章 61 (サーペンプリンス)

種牡馬成績

  • リベラルワールド[13] - 1985年新春ジュニア(名古屋)、1989年天山賞・大天山賞・サラブレッドグランプリ(佐賀)・サラブレッド大賞典(中津
  • アーバンカーボーイ[14] - 1991年中津王冠・サラブレッドチャンピオン(中津)

血統表

バンブトンコート血統ロイヤルチャージャー系/Selene 5×5、Pharos 5×5(母内)) (血統表の出典)

*ロードリージ
Lord Liege
1969 鹿毛
父の父
Sir Gaylord
1959 鹿毛
Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Somethingroyal Princequillo
Imperatrice
父の母
Attica
1953 栗毛
Mr.Trouble Mahmoud
Motto
Athenia Pharamond
Salaminia

イチバンブ
1968 鹿毛
*テューダーペリオッド
Tudor Period
1957 栃栗毛
Owen Tudor Hyperion
Mary Tudor
Cornice Epigram
Cordon
母の母
マルセイユ
1963 鹿毛
*フェリオール Fastnet
Aisse
*ミスバンブトン Boissier
Cerealia F-No.2-f


脚注

注釈

  1. ^ 10戦3勝。伊藤修司厩舎所属
  2. ^ 18戦2勝。伊藤修司厩舎所属。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q バンブトンコート|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』1991年2月号 41頁
  3. ^ イチバンブ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月2日閲覧。
  4. ^ プロバンス|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月2日閲覧。
  5. ^ フロークラツク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月2日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『優駿』1991年2月号 42頁
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』1991年2月号 43頁
  8. ^ a b c d e f g 『優駿』1990年6月号 42頁
  9. ^ a b c d e f g h 優駿』1991年2月号 44頁
  10. ^ a b c d 優駿』1991年2月号 45頁
  11. ^ バンブトンコートの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年5月2日閲覧。
  12. ^ 競走成績:年度別累計成績/主な成績|バンブトンコート|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月2日閲覧。
  13. ^ リベラルワールド”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
  14. ^ アーバンカーボーイ”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。

参考文献

  • 優駿
    • 1990年6月号
      • 「【サラブレッド・ヒーロー列伝 番外編】ダービー1番人気で散った馬たち」
    • 1991年2月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 58】無冠の名馬 バンブトンコート」

外部リンク