「国鉄EF63形電気機関車」の版間の差分
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:*(軽井沢)電車もしくは気動車+EF63形+EF63形(横川) |
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:また編成両数以外にも電車側には以下の制約が課された。 |
:また編成両数以外にも電車側には以下の制約が課された。 |
2021年4月20日 (火) 11:02時点における版
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国鉄EF63形電気機関車 | |
---|---|
EF63 16(2次形) | |
基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 東日本旅客鉄道 |
製造所 |
東京芝浦電気 三菱電機・新三菱重工業 川崎電機製造・川崎車輛→富士電機・川崎重工業 |
製造年 | 1962年 - 1976年 |
製造数 | 25両 |
運用開始 | 1963年7月15日 |
引退 | 1997年9月30日 |
投入先 | 信越本線(碓氷峠) |
主要諸元 | |
軸配置 | Bo - Bo - Bo |
軌間 | 1,067 mm |
電気方式 |
直流1,500V (架空電車線方式) |
全長 | 18,050 mm |
全幅 | 2,800 mm |
全高 | 4,060 mm |
運転整備重量 | 108.0 t |
台車 |
DT125形(両端) DT126形(中間) |
軸重 | 17 - 19 t |
動力伝達方式 | 1段歯車減速吊り掛け式 |
主電動機 | MT52 (MT52A) 形直流直巻電動機×6基 |
歯車比 | 16:71 (4.44) |
制御方式 | 抵抗制御、直並列3段組合せ、弱め界磁(バーニア制御付) |
制御装置 | 自動進段電動カム軸制御器 |
制動装置 |
EL14AS形自動空気ブレーキ 抑速発電ブレーキ 電磁吸着ブレーキ 電機子短絡ブレーキ |
保安装置 |
ATS-SN(JR移行後) 過速度検知装置 |
設計最高速度 | 100 km/h |
定格速度 | 39 km/h |
定格出力 | 2,550 kW |
定格引張力 | 23,400 kg |
EF63形は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流電気機関車である。
概要
信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠専用の補助機関車としての役割に特化して開発された機関車である。このことから「峠のシェルパ」、もしくは形式称号から「ロクサン」の愛称がある。
開発の背景
最大勾配 66.7 ‰に達する碓氷峠区間は1893年の開業時からラック式鉄道の一種「アプト式」を採用し、1934年からは同区間専用のED42形電気機関車による運転を行っていた。
第二次世界大戦終結以降の経済復興 - 高度経済成長期への時代趨勢に対応し、国鉄は主要幹線の輸送力増強に着手した。碓氷峠を含む信越本線系統においては所要時間の短縮を企図し、ラック式鉄道を廃止し一般的な粘着運転への切替方針が決定したが、諸案検討の結果、最大勾配 66.7 ‰ を存置した複線の新線が1963年までに完成することとなった。このため、急勾配の諸条件に対応し、かつED42形に代わって同区間の列車の牽引・推進を行う新形式機関車が必要となり、EF60形をベースに開発されたのが本形式である。
構造
本務機EF62形とは、下り列車ではプッシュプル運転、上り列車では協調運転を行うことを前提としており、常に重連運用とされることから前面に貫通扉を装備。また傾斜したサッシ支持前面窓や大型の側面通風フィルターが外観上の特徴である。
常に2両1組で急勾配の横川 - 軽井沢間を通過する電車も含む全列車の横川側に連結する補機という特殊な運用ならびに運転特性や安全性確保の観点から、数多くの独自かつ特殊な装備が搭載される。このため運転整備重量は108tで、EF60形以降の新性能直流電気機関車では最大であり、引き通しも総括制御可能な構造を持つ機関車では異例の片渡り構造とされた。
- 横川側(1エンド側)基準でジャンパ連結器は、協調制御用KE70形1基・EF62形を含む総括制御用にKE63形(先行試作車から2次形まで)またはKE77A形[注 1](3次形以降)2基が運転席側に、MRP管(元空気溜管)・釣り合い引き通し管が助手席側スカート部にそれぞれ設置されている。なお、軽井沢側(2エンド側)は横川側と逆配置で、併せて後述する独自の電車との連結用ジャンパ連結器等が設置されている。
主要機器
主電動機はEF70形交流電気機関車に続き端子電圧750V時1時間定格出力425kWのMT52形直流直巻電動機をEF60形2次車およびEF62形と共に直流電気機関車として初めて採用した。
制御装置は勾配区間での空転防止の観点から、ノッチを細分化し主電動機のトルク変動を小さくすることを目的に従来の単位スイッチ方式を取りやめ、CS16形電動カム軸式自動進段抵抗制御器・CS17形バーニア制御器[1]・CS18形電動カム軸式転換制御器[2]を搭載する。
MH91-FK34形主電動機送風機は、発電ブレーキ使用時の抵抗器熱をより素早く冷却させるために、6基設置である他形式とは異なり、出力電圧を250Vから375Vに増圧した4基設置とした。これにより発生する送風音は甲高い音となり、本形式の大きな特徴の一つとして挙げられている[注 2]。
台車はEF62形の3軸ボギー台車(軸配置Co - Co)と異なり2軸ボギー台車(軸配置Bo - Bo - Bo)としたが、電磁吸着ブレーキなどの特殊装置が装備されることから本形式専用設計とした。両端台車はED72形が装着するDT119A形をベースに逆ハリンク機構を採用したDT125形[3]、中間台車はDT125形に直径115mmの過速度検知装置用遊輪を装着したDT126形である。また各台車の軸重は、軽井沢方にデッドウェイトを偏って搭載しているため、横川側17t・中間18t・軽井沢側19tとアンバランスな状態に調整された。これは、勾配区間での軸重移動を考慮し均等にするための措置である[注 3][4]。なお軽井沢側台車の軸重は国鉄車両としては最大である。
保安装置
- 抑速ブレーキ
- 勾配区間の抑速ブレーキとして電機子転換方式発電ブレーキ[注 4]を搭載している。
- 本形式は大容量抵抗器による発電ブレーキ強化のため、冷却用通風フィルターは通常より大型の物を採用している。
- 電磁吸着ブレーキ(レールブレーキ)
- 鉄製の電磁石でできており、直接レールに電磁吸着し制動力を得る。
- 本ブレーキは主に車輪ロック時、発電ブレーキの失効を防ぐ事を目的とし、踏面ブレーキの補助として使用される。
- 過速度検知装置 (OSR)
- 下り勾配通過時に速度を正確に計測する装置であり、中間台車に設置された直径340mm[注 5]の小型車輪により正確な速度検知を行う。これは、下り勾配での走行では、旅客列車38km/h・貨物列車は25km/hの上限を超えてしまうと列車停止が不可能となるからである。運転時には制限最高速度設定を高(38km/h)もしくは低(25km/h)のいずれかに設定し、旅客列車では35km/h、貨物列車では22km/hを超えると警報が鳴り、制限速度を超えると非常ブレーキを作動させる。また、非常ブレーキが作動して速度が10km/hとなると本形式と牽引列車とのブレーキ力を協調させるため20秒間非常ブレーキ力を約33%弱めて本形式と牽引列車の間を連結する連結器破損や車輪滑走を防止する速度検知装置(SR1段ユルメ)を装備する。さらに1975年10月に発生した脱線事故の対策としてOSR機器の改造、更新が1979年から実施され、更新後は速度照査部分をデジタル化し三重系に強化、電源機器の変更により信頼性の向上を図った[5]。
- カム式転動防止ブレーキ装置[3]
- 空気ブレーキ作動後の空気漏れによるブレーキ緩解を防止するものであり、空気ブレーキが作動した状態で機械的にロックする。
- 非常スイッチ[3]
- 勾配で停電時に長時間停止させる場合には機関車および列車のブレーキシリンダ空気漏れのために転動する恐れがあるので、このスイッチを投入することにより主抵抗器が短絡された発電ブレーキ回路を構成し、転動を防止する。万が一転動が生じても低速(荷重により相異するが3重連550tけん引の場合約3km/h約400A)で強力な発電ブレーキが作用して機関車の加速を防止する。使用する際にはCS18形転換制御器を下り勾配に対する発電ブレーキ位置にしておかなければならない[6]。
電車との連結運転用装備
当区間の運転はすべて横川側に連結される本形式[注 10]に乗務する機関士が担当する。以下で解説する装備を搭載する。
- 双頭型両用連結器
- 本形式には日本で初めて電車と連結する軽井沢側に連結器頭部を横方向に76°回転させることで[7]、密着連結器[注 11]との連結を可能にした双頭型両用連結器を装備した。本連結器の採用により、従来は異なる連結器を持つ車両を連結させる場合は中間連結器(アダプター)の用意あるいは控車の連結を必要としていたが、連結器の高さの調節が可能でこれらの措置が不要となった[注 12]。
- 連結運転時に本形式から電車の踏面ブレーキを操作するため機関車からブレーキ管(BP)が連結器を介して接続される[注 13]。
- ジャンパ連結器
- 多様な形式と連結する必要からそれぞれに対応する各種ジャンパ連結器を軽井沢側助手席下側スカートに装備する。また軽井沢向きとなる下り列車では、前方の安全・信号確認は先頭になる電車運転士が担当するため連絡回線も内蔵する。
- 協調運転装置
- 当初の電車列車は本形式による牽引・推進運転のみで最大8両編成までの制約から慢性的な輸送力不足が浮上したため本形式と同調した制御が可能で最大12両編成[注 14]までの組成を可能とした協調運転機能を持つ169系・189系・489系の各系列が開発され、本形式にも対応する装置ならび協調制御指令用KE70形ジャンパ連結器が追加搭載された。
- 協調制御は本形式のMC35A形主幹制御器から電車側各電動車ユニット主制御器を介して主電動機の制御を行う。協調運転対応可否・電動車ユニットの状態・横軽スイッチの確認が本形式運転台表示灯により可能である。なお横軽スイッチは、牽引・推進運転で対応する形式にも装備されており、協調対応の169系・189系・489系では協調運転設定を兼ねるほか、通過対応電車側に装備された本スイッチを投入するとATS信号受信は本形式側で行う設定になる。
- 上り勾配(下り列車)では主幹制御器の逆転機スイッチ[注 15]を後進力行位置にして、本形式と電車側各電動車ユニット主制御器を介して主電動機の制御を行う。また定格速度の違いから電車側では並列段を使わず189系・489系では直列制御3段目以降最終段まで常に70%までの、169系で直列最終段以降50%までの弱界磁制御を行い同調させる[8]。
- 下り勾配(上り列車)では主幹制御器の逆転機スイッチを前進発電ブレーキ位置に切替えて抑速ブレーキノッチとして機能させることで、本形式主電動機による発電ブレーキと電車側各電動車ユニット主制御器を介して主電動機による抑速ブレーキの制御を行う。その際には、より高い安全性を要求される観点から電車側主電動機の抑速ブレーキ発生電流が100A以下もしくは故障した場合には空気ブレーキを併用するが、250A以上となり効果が充分な状態になると空気ブレーキは開放される。
列車無線
EF62形と協調運転を行う関係上本形式には当初から150kHz帯の誘導無線が装備されていたが、トンネル区間を中心に雑音が問題となった。横川機関区や横川・軽井沢両駅との連絡を確実にする観点から本形式とEF62形には1975年から新たに敷設した専用漏洩同軸ケーブルを使うUHF400MHz帯列車無線を搭載。軽井沢側運転室側面と屋上にアンテナを設置した。さらに1980年代に入り異常時に他列車への連絡を可能とする防護機能を追加。1990年以降は山岳区間での了解度向上を目的に通称『C'アンテナ』と呼ばれる八木アンテナ製コーリニアアレイアンテナを軽井沢側運転席前と横川側助手席前へ設置した。
製造時期別詳説
製造次 | 車両番号 | 製造メーカー | 予算 | 製造年 | 廃車年 |
---|---|---|---|---|---|
試作車 | 1 | 東芝 | 昭和36年度第3次債務 | 1962年 | 1986年(余剰廃車) |
1次車 | 2 - 6 | 昭和37年度民有 | 1963年 | 1975年(5・事故廃車) 1997年 | |
7 - 13 | 新三菱重工業 三菱電機 |
昭和37年度債務 | 1975年(9・事故廃車) 1997年 | ||
2次車 | 14 - 17 | 東芝 | 昭和40年度第2次民有 | 1966年 | 1986年(14・余剰廃車) 1997年 |
18・19 | 川崎車両 川崎電機 |
昭和41年度第2次債務 | 1967年 | 1997年 | |
20・21 | 川崎重工業 富士電機 |
昭和43年度第4次債務 | 1969年 | ||
3次車 | 22・23 | 昭和49年度第1次債務 | 1974年 | ||
24・25 | 昭和50年度第2次債務 | 1976年 |
以下で製造年次別による詳細を解説する。
- 先行試作車 (1)
- 1962年に東芝で製造されEF62 1とともに試験運転に投入された。
- 試験の結果量産機から内部機器配置を変更したほか、中間台車の外側に装備されていた速度検知用遊輪が分岐器通過時に浮き上がるといった不具合を起こしたこと、第2エンド側(軽井沢側)の連結器も製造当初は通常の自動連結器で電車・気動車との連結運転用に整備されていなかったことから1963年3月から5月にかけて遊輪の移設や双頭型両用連結器への交換、内部機器の撤去・交換で各部を量産機に合わせる統一改造を実施。さらに量産機の製造、新線の工事進展により実施した急勾配区間での重連試運転で発生した脱線・連結器破損等に対処するためブレーキ関連の改修、連結器の緩衝器や復心装置の変更、碓氷新線の全面運用開始に備えて連結対象となる電車・気動車用の電話設備取付、さらにATS機器搭載といった追加工事を1次改造・2次改造として量産1次型を含む1 - 13の全車へ1963年9月までに施工した[9]。
- 外観上は前面窓上部のツララ切りが未装備でスカートや屋上機器の形状なども量産機とは異なるほか、製造当初は非常用蓄電池搬入口が量産車より小型で細長い形状となっていたため1972年に量産車と同一形状に改造されるまでは側面通風フィルターの形状と配置が両側面左右対称だった[10]。また、1963年の新線営業運転初期は試験的に第4動輪と第6動輪の砂箱を大型のものに改造していた[11]。
- 引き続き1963年から1976年までの間に2 - 25が、東芝、三菱電機+新三菱重工業、川崎電機製造→富士電機+川崎車輛→川崎重工業[注 16]により製造されたが、製造時期により1次形から3次形に分類される。
- 1次形 (2 - 13)
- 1963年に製造されたグループ。
- 前面窓のワイパーの形状変更並びに運転台窓上にツララ切りを追加装備。スカート形状は四角形。
- 先行試作車の運用実績に基づき速度検知用遊輪の設計と装備位置変更(中間台車の内側に装備)、双頭型両用連結器の装備、側面非常用蓄電池搬入口の位置変更と大型化を実施。
- 本グループまでがぶどう色2号(茶色)で落成した後に青15号・クリーム1号への塗装変更を施工。その際に以下の特異機が発生した。
- 2:前面アンチクライマー部が銀ではなく車体と同色の青色。
- 13:前面の塗り分けでクリームの幅が他の1次形に比べ広い。
- 2次形 (14 - 21)
- 1966年 - 1969年に製造されたグループ。
- 尾灯は先行試作車・1次形と異なり外周に赤色円板を装備しない形状へ変更された[注 17]ほか、運転台上の水切り形状、屋根上の避雷器の位置が中間に統一された。
- 車体塗色も当初から青15号とクリーム1号に変更されたが、クリーム1号塗装範囲が落成時の14・15は他機と若干の差異が確認できるほか、17は本形式中で最も広範囲で、他機に比べクリームが上に広い。
- 16以降は非常用蓄電池搬入口上部に製造当初から水切りを追加。
- 20・21は主電動機送風機が改良され低騒音化を実施[注 18]。送風時の音域が低くなったが、20は試作品で高い音も同時に出る。
- 3次形 (22 - 25)
- 1974年・1976年に製造されたグループ。
- 22・23は1975年3月10日ダイヤ改正での特急「あさま」増発用である[12]。
- 同時期に製造された他形式と同様にブロック式ナンバープレート・外ハメ式尾灯・メートルネジ全面的使用のほか水切り形状再度変更が行われたが、前面ガラス熱線化は見送られデフロスタが引き続き採用された[12]。
- 主要機器のうち抵抗制御器はCS16AからCS16Cへ、バーニア制御器はCS17AからCS17Cへ、転換制御器はCS18からCS18Bへ変更された[12]。
- 軽井沢方ジャンパ連結器は気動車列車全廃後に製造されたため気動車用が未装備のほか、配置も2次形までとは異なる。
- 24・25は、1975年に5・9が脱線大破事故で廃車となったため補充代替として1976年に急遽製造された。
- 主電動機送風機は23・24・25が21と同様の低騒音化対策品。22は20と同じ試作品を搭載する。
運用
当初の計画では車両定数によって1両のみで運用する計画もあったが、車両故障など非常事態への対策を考慮して常に2両1組の形態で運用することが原則化され、電車・気動車・客車・貨物を問わず横川 - 軽井沢を通過するすべての列車に補機として連結運用された。
通過車両への対策
最大66.7‰の急勾配という条件で峠の下側から本機による推進・牽引運転のため、連結器の破損や座屈による浮き上がり脱線の予防、車両の逸走を防止する点から当区間を通過する車両には以下の対策(通称:『横軽対策』)が必須になった。
対策施工車両には識別のため車両番号の頭に直径40mmの「●(Gマーク)」を付した。塗色は白色または赤2号とされ、特急型車両など形式番号がステンレス切抜文字となっている場合でもいずれかの色で塗装している。
貨物列車の車掌車は、推進運転時の坐屈問題から1段リンク式足回りをもつヨ3500形が限定使用された[注 20]。
運転形態
当初は以下の運転形態が計画された[14]。
- 本形式1両+EF62形
- 定数320tの貨物列車または最大実荷重360tの旅客列車
- 本形式2両+EF62形
- 定数500tの貨物列車または最大実荷重550tの旅客列車
- 本形式3両重連
- 最大12両の電車・気動車による列車推進・牽引
しかし実地試験を行った結果一部で不具合や問題が発生したため修正を加え、EF62形が牽引する客車・貨物列車と動力分散方式の電車・気動車列車とでは以下に示す方式に変更され、若干の差異が発生した。
- EF62形牽引列車の場合(単機回送を含む)
- 牽引定数を旅客列車360t・貨物列車400tに制限した上で以下の方式を採用。
- 下り列車
- 上り列車
- (軽井沢)客車もしくは貨車+EF62形+EF63形+EF63形(横川)
- 勾配麓側に機関車三重連となり、最前部の本形式(本務機)から3両の総括制御を行う。
- 電車・気動車列車の場合
- 無動力での推進・牽引運転では新性能電車が最大8両、旧性能電車[注 21]・気動車[注 22]が最大7両、後に開発された協調運転可能の電車では最大12両までの編成組成制約を課した上で上り下り問わず勾配麓側に本形式2両を連結する形態を採用[15]。
- (軽井沢)電車もしくは気動車+EF63形+EF63形(横川)
- また編成両数以外にも電車側には以下の制約が課された。
- 協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線の予防から自重が大きい電動車ユニットを峠の下側にしたために新前橋電車区(現・高崎車両センター)・長野運転所(後の長野第一運転区→北長野運転所→長野総合車両所→現・長野総合車両センター)配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きに編成が組成されていたほか、後に松本運転所(現・松本車両センター)配置の115系1000番台[注 23]・新前橋電車区配置の185系200番台[注 24]も電動車ユニットが本来と逆向きに組成された。
- 詳細は#電車との連結運転用装備も参照。
運用
1962年5月に先行試作車の1が製造され数々の試験を実施、1963年7月15日に横川 - 軽井沢間粘着運転新線が開通し営業運転を開始した。アプト式は同年9月30日で廃止となり、全面的に粘着運転へ切り替えられる翌10月1日までに13両が高崎第二機関区(現・JR貨物高崎機関区)に新製配置された。
- これはED42形では28両体制で列車一本につき4両を使用していたのに対して、本形式では2両1組で使用するためである。
粘着運転への切替により本形式はED42形を完全に置換え、1964年8月には横川機関区(1987年に横川運転区へ改組・改称)に転出した[16]。
その後は輸送量の増加に伴い数回にわたり増備が行われた。特殊な構造であるため他区間への転用はできないものの碓氷峠区間には必要不可欠な補助機関車という特殊性から、国鉄分割民営化時にはそれまでに廃車となった4両を除く21両が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。
またお召し列車が1964年や1978年に同区間を走行した際には以下の車両が特別装備の上で運用された。
- 1964年5月・6月:8・9(EF62 17と三重連で上り列車を牽引。前頭には国旗を掲揚)
- 1978年10月:11・13(EF62 11が牽引する下り列車を推進。EF62 11のみ国旗を掲揚)
1997年10月1日に北陸新幹線高崎 - 長野間が先行開業したため横川 - 軽井沢間の在来線区間は前日の9月30日限りで廃止となり[注 25]、用途を喪失した本形式は在籍全車が同時に廃止された横川運転区から高崎運転所(現・高崎車両センター)に転出となり1998年に廃車・廃形式となった。
- これに先立ち同年2月に18、3月に19、4月に24、6月に25の4両[注 26]が本形式最後の全般検査出場を記念して初期の「ぶどう色2号」へ塗装変更された。
- 9月10日に横川で開催された「さよなら祭り」から廃線当日まで横川運転区が制作したさまざまな「さよならヘッドマーク」を横川側前面に順次取り付け[注 27]。
- 最後の営業列車「あさま37号」3037列車の補機仕業に就いたのは3(青)・19(茶)[注 28]である。これは当日朝に軽井沢保存のために切り離された2(青)と組んでいた3(青)と、臨時回送列車の牽引から戻った18(茶)・19(茶)をばらして、3(青)・19(茶)の2色コンビを結成させ、最終列車の花道を飾った。
- 本形式の最後の本線自走運転は、高崎運転所転出後1997年10月18日深夜に19号機が大宮工場(現・大宮総合車両センター)で開催の「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」展示のため、高崎操車場から大宮までの回送列車牽引で、EF55 1・EF60 19を牽引した(イベント後の高崎運転所への回送は無動力)。翌日に同フェア内のイベントである構内運転「横軽再現体験乗車」が、本形式最後の営業運転となった[注 29]。
廃車
1997年の用途廃止後による廃車以外では事故により2両、余剰により2両の計4両の廃車がある。
保存機
全車廃車となっており車籍のある車両はないが、碓氷峠鉄道文化むらでは動態保存・静態保存合わせて7両、それ以外の場所に3両の計10両が保存されている。
碓氷峠鉄道文化むら保存機
碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市松井田町横川)では4両が動態保存され運転体験ができるほか、3両が静態保存されている。
- 11・12・24・25:碓氷峠鉄道文化むら内で動態保存
- 1・10・18:碓氷峠鉄道文化むら内で静態保存。
- 18の横川側運転台は、CGによる運転シミュレータに改造され使用中。
保存車両のうち1と廃止間際の全検出場で塗り替え施工を行った18の計2両は茶色塗装。18と同様の施工を行った24・25は後に本来の青色塗装へ復元された。
また車両としての現状は留めていないが、横川駅前には3の動輪が保存展示されている。
運転体験
碓氷峠鉄道文化むら内では、1,500Vを750Vに降圧させた環境ではあるものの動態保存されている11・12・24・25を用いての運転体験が行われている。すべて有料・予約制ではあるが、学科講習および実技講習を受け修了試験に合格すると『EF63形電気機関車運転体験証明書』が交付され、軌道上を走行させることが一般人でも可能である。
証明書交付後に単機通常運転体験を重ねることによって、その都度認定を受けその「腕章」が贈呈される。
- 10回→機関士見習
- 30回→補助機関士
- 50回→本務機関士
- 100回→優良機関士
- 500回→優秀機関士
本務機関士になると「単機推進運転」・「1エンド連結訓練」の資格が与えられ、さらに体験を重ねることで以下の資格を取得することができる。
- 単機推進運転を重ねることで「2エンド連結訓練」および「重連推進運転」の資格取得。
- 1エンド連結体験を重ねることでは「2エンド連結訓練」のみの資格取得
- 1エンド連結訓練をこなし、当該検定試験に合格することにより「1エンド連結」資格取得。
- 2エンド連結訓練をこなし、当該検定試験に合格することにより「2エンド連結」資格取得。
- 2エンド連結体験かつ所定の重連推進運転を重ねることにより「重連推進連結訓練」資格取得。
- 重連推進連結訓練をこなし、当該検定試験に合格することで「重連推進連結」資格取得。
これにより、かつて行われた「EF63形重連での車両への連結・推進運転と牽引運転・解放」のすべてを体験することができる。
碓氷峠鉄道文化むら以外の保存機
画像 | 番号 | 所在地 |
---|---|---|
EF63 2 | 長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢 しなの鉄道 軽井沢駅前[注 31] | |
EF63 13[注 32] | 埼玉県さいたま市大宮区錦町 JR東日本大宮総合車両センター ※第2エンド前頭部のみ | |
EF63 22[注 33] | 群馬県安中市松井田町坂本 ※個人所有[注 34] |
脚注
注釈
- ^ KE77A形はKE63形の改良タイプで共に定格電圧100V 27芯で互換性がある。
- ^ その後の改良品の登場については後述の製造時期別詳説を参照のこと。
- ^ 大宮工場(現・大宮総合車両センター)への検査入場などで高崎線・信越本線高崎 - 横川間を走行する際は、デッドウェイトを外すなどの措置が必要となる。
- ^ 後にEF64形にも採用。
- ^ 製造当初は直径300mm、機器更新時に340mmへ変更。
- ^ 連絡回線用。
- ^ 後に181系・185系との連結にも使用。
- ^ 当初は80系電車用KE53形を装備。
- ^ 2・14・15・16・17はキハ82系運転終了に伴い撤去。
- ^ 軽井沢方へは逆向き推進運転となる。
- ^ ただしクハ180形・クハ489形500番台は自動連結器を装備・使用。
- ^ これらの技術は2020年現在もJR東日本では系列の総合車両製作所新津事業所で製造された電車を各車両基地への配給運搬や廃車や工場入出場への回送などに充当される長岡車両センター所属のEF64形、長岡車両センター・田端運転所・秋田車両センター所属のEF81形、宇都宮運転所所属で大宮総合車両センターで入替作業に充当されるDE11 1031・1035などに装備される双頭型両用連結器に応用された。
- ^ 本形式に装備される双頭型両用連結器の密着連結器にはMRP管(元空気溜管)は装備されない。これは協調/牽引・推進を問わずブレーキの制御指令は本形式から行うとともに自動空気ブレーキ動作に必要な空気圧は電車・気動車側に搭載する空気圧縮機から供給されるためである。
- ^ 協調運転対応形式であっても8両編成以下の列車は、従前どおり牽引・推進での運転とされた。
- ^ MC35A形主幹制御器左側に装備される逆転機スイッチには前進・後進それぞれに力行・発電ブレーキ位置がある。
- ^ 川崎電機製造は1968年に富士電機に、川崎車輛は1969年に川崎重工業にそれぞれ合併された。
- ^ 1 - 13が当初備えていた赤色円板も順次撤去された。
- ^ 18・19も1972年に主電動機送風機を低騒音化品に交換した。
- ^ 165系10両編成との下り勾配試験運転中に非常ブレーキを作動させたところ、機関車次位のクモハ165形の車体後部が浮上し車体と台車が分離した。そのため8両までの連結両数と空気バネパンクの制約が決定。
- ^ 新線開業直後の1963年10月以降3回にわたり2段リンク式足回りを持つ緩急車の脱線事故が発生し、検証の結果大きな横圧が発生することが判明したことからヨ3500形の限定使用となった。
- ^ 当該区間で営業運転に投入されたのは80系電車のみ。
- ^ キハ57系による定期列車の運転は1966年9月30日までの「妙高」1往復、キハ82系では1965年10月1日のダイヤ改正以前が「白鳥(信越白鳥)」で、以後が1969年9月30日まで「はくたか」で運転。
- ^ 後に長野へ移管。
- ^ 2020年現在は大宮総合車両センターに配置。
- ^ 廃止時点で本形式と共に当区間を通過した定期列車は、エル特急「あさま」19往復(189系・489系)・「白山」1往復(489系)、急行「能登」1往復(489系)、普通列車7往復(115系6往復・185系1往復)で、「あさま」は新幹線へ愛称を承継、「白山」は廃止、「能登」は上越線経由に変更。
- ^ この4両は製造当初から国鉄新標準色の青色であったため茶色塗装となったのは初。
- ^ 7種類以上存在し、このうち25号機に関するヘッドマークが数種類も用意された[17]。
- ^ ただし組成順は横川側から19・3の順番であった。
- ^ 過去にも大宮工場での検査入出場時には他車入出場の兼ね合いで牽引機として使用される場合も度々あった。
- ^ 1・14共に車両の状態がよくなく1984年から長期休車となっていた。
- ^ 廃線前日の1997年9月30日に横川14:23発、定期単機回送の単171列車にて軽井沢へ回送。補機は24、25号機。
- ^ 最終日は21と組み、489系ボンネット車の下りとして最後の列車となった「あさま」23号(3023M)を担当。最後の仕業は上り「あさま」32号(3032M)。
- ^ 最終日は20と組み、この日通過した唯一のジョイフルトレイン、「パノラマエクスプレスアルプス」を担当した。最後の旅客仕業は臨時の下り「あさま」93号(9023M)。軽井沢到着後は単9174として4、17を牽引して4重連で横川へ戻り、これが最終仕業となった。
- ^ 「碓氷峠の森公園交流館 峠の湯」付近
出典
- ^ 日本国有鉄道 編『最近10年の国鉄車両』交友社、1963年、p.26頁。
- ^ 日本国有鉄道 編『最近10年の国鉄車両』交友社、1963年、p.25頁。
- ^ a b c 日本国有鉄道 編『最近10年の国鉄車両』交友社、1963年、p.24頁。
- ^ 『日本の鉄道史セミナー』(p199, p200)
- ^ 電気車研究会 『鉄道ピクトリアル』 1988年1月号 p47
- ^ 電気車研究会 『電気車の科学』 1963年4月号、1964年9月号
- ^ 『鉄道ジャーナル 特集「列車編成と連結器」』鉄道ジャーナル社、2005年9月。
- ^ Rail Magazine No. 161 1997-2
- ^ 電気車研究会 『鉄道ピクトリアル』 1988年1月号 p.44 - 45
- ^ 電気車研究会 『鉄道ピクトリアル』 1988年1月号 p.31
- ^ 電気車研究会 『鉄道ピクトリアル』 1988年1月号 p.44、『鉄道ピクトリアル』 1997年8月号 p.40掲載写真
- ^ a b c 『鉄道ファン』通巻304号、p.65
- ^ 列車の座屈現象 (PDF) 鉄道総合技術研究所
- ^ 日本国有鉄道 編『最近10年の国鉄車両』交友社、1963年、p.18頁。
- ^ 真宅正博・渡辺登 「信越線横川-軽井沢間の電気機関車と電車の協調運転」 『鉄道ピクトリアル』 No.213 電気車研究会 1968年8月 p.26。
- ^ 『Rail Magazine』153、ネコ・パブリッシング、1996年、p.50
- ^ 『鉄道ファン』1997年12月号、交友社、1997年、p.122
参考文献
- 久保田博『日本の鉄道史セミナー』(初版)グランプリ出版、2005年5月18日。ISBN 978-4876872718。
- 藤本勝久「直流新形電機出生の記録8」『鉄道ファン』第304号、交友社、1986年8月、62 - 67頁。
- 電気車研究会 『電気車の科学』 1962年10月号〜1965年12月号 「EF62・63形電気機関車」
- 電気車研究会 『鉄道ピクトリアル』 1988年4月号 No.494 特集:碓氷峠
- 三栄書房 『鉄道車両のテクノロジー』Vol11 2011年8月4日 ISBN 978-4-7796-1252-7
関連項目
碓氷と彼女とロクサンの。:ヒロインが同機関車を運転する。また、表紙にもEF63が書かれている。2017年にはサウンドドラマCD「碓氷と彼女とロクサンの。 最後の夜=始まりの灯」がリリースされた。