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2021年4月3日 (土) 05:58時点における版
北京の歴史(ぺきんのれきし)とは、中華人民共和国河北省北京直轄市の歴史について記載する。
名称
中国地名の変遷 | |
建置 | 古代 |
使用状況 | 北京市 |
周 | 薊(薊) |
---|---|
春秋 | 薊(薊→燕) |
戦国 | 薊(燕) |
秦 | 薊県 広陽郡 |
前漢 | 燕国 広陽郡 燕国 広陽郡 広陽国 |
後漢 | 上谷郡 広陽郡 |
三国 | 燕国 |
西晋 | 燕国 |
東晋十六国 | 燕郡 |
南北朝 | 燕郡 |
隋 | 幽州 涿郡 |
唐 | 幽州 幽都県 幽州 |
五代 | 幽州 |
北宋/遼 | 薊北県 幽都府 南京 燕京 析津府 析津県 宛平県 |
南宋/金 | 中都 大興府 大興県 |
元 | 大都 大都路 |
明 | 北平府 順天府 北京 |
清 | 順天府 北京 |
中華民国 | 京兆地方 北平特別市 北平市 |
現代 | 北京市 |
周の時代、現在の北京には薊(けい)国の首都がおかれた。春秋戦国時代には薊を燕が滅ぼし薊へ遷都した。秦の時代には薊とともに「広陽(こうよう)」の名称も用いられ、前漢では「広陽郡」(一時中断するも後漢時代に復活[1])、「燕国」、「広陽国」、「上谷郡(じょうこくぐん)」[2]などの名称が用いられた。そこから魏晋南北朝時代までは「燕国(えんこく)」「燕郡」が用いられ、隋では「涿郡(たくぐん)」、唐帝国の時代は「幽州」「幽都国」など、五胡十六国では「幽州」であった。宋の時代は「薊北県」「幽都府」、燕雲十六州が割譲されたのちは「南京」「燕京」「析津府」「析津県」「宛平県」、金王朝支配下では「中都」「燕京(えんけい)」「大興府」「大興県」と呼ばれ、首都となった。元帝国時代には大規模に拡張され、「大都」「大都路」といった。明帝国では「北平順天府」、首都となったのちは「北京(順天府)」といった。満州族の王朝・清帝国では引き続き「北京(順天府)」、中華民国では「京兆地方」「北平特別市」「北平市」、中華人民共和国では「北京」となった。
歴史
有史以前
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王朝誕生以前の北京の地
北京原人
1921年にスウェーデンの地質学者 ユハン・アンデショーンとオットー・ズダンスキーが人類のものと思われる歯の化石を発見した[3]。さらに、その後の調査で1929年12月2日、中国の考古学者 裴文中が完全な頭蓋骨を発見した[4]。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。それが後に「北京原人」と名付けられるもので、当初は東アジア民族の祖先ともいわれたが、科学の発達により現在ではその学説は否定されるに至った。
その他の原人たち
北京原人は約50万年前、更新世時代(考古学的には旧石器時代)に属する化石人類であったと言われ、また、彼のものと思われる石器、遺跡なども後に発掘された。その後、最初に発掘された竜骨山では、後に新洞人(約10万年前)、山頂洞人(約1万8000年前)などの化石も発掘された。
周代・春秋戦国
紀元前11世紀頃から紀元前222年[注釈 1]は燕がこの地を支配した。殷王朝(商帝国、首都は殷墟)を倒して、全中華の王朝となった周王朝の時代に、殷討伐や周の建国に功績のあった重臣・召公奭(姓は姫または姞[注釈 2]、斉の太公望や魯の周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人で、周初で最も長く活躍し、四代の周王に仕えた、三公の一人。)を燕の国に封じた。
紀元前770年、申侯や犬戎の侵攻・掠奪により周が都を鎬京から洛邑に遷都、衰退し、分裂状態に陥り春秋戦国時代となった。春秋時代中期に薊という諸侯国を滅ぼした。このときに遷都して首都となったのが、「薊(けい)」と言う現在の北京で、そこ薊を都城とし、燕王の宮廷も築かれた。この出来事が都市としての北京の出発点と言われている。戦国時代、燕は領土を拡張し、後に「戦国七雄」の一国となるまでに勢力を拡大し、国力を蓄えた。特に紀元前3世紀前期に登場した昭王は、郭隗の進言を取り入れて優秀な人材集めに専念し、楽毅や劇辛などの名将を得て、斉の国の70余城を落とす(合従攻斉の戦い)など、強勢を誇った。しかし、子の恵王が即位すると、その強勢を誇った勢力も陰りを見せ始め、斉の名将田単によって70余城を次々と奪還されて衰退し、次第に勢力を失っていった。紀元前227年、太子丹が隣国・趙が秦王政(のちの始皇帝)の軍勢により滅ぼされた事件に危機感をおぼえ、荊軻という刺客を放ったが暗殺は失敗した。怒れる秦王政は王翦率いる軍勢を差し向け[5][6]、首都・薊を陥落させた[7][8]。紀元前222年、北方(遼東)に落ち延びていた燕王喜をとらえ、遂に燕は滅亡した[9][10][11][12]。
秦~魏晉南北朝
秦帝国の時代、始皇帝が開始した郡県制により、燕の地は「広陽郡」と名を変えた。しかし、以前の燕のように政治の中心地とすることはなく、北方の騎馬民族(匈奴など)に対する要としての役割を果たした。また、同時に燕・趙が築いていた長城を連結させ、今に残る「万里の長城」を作り、匈奴との国境を定めた。
漢の時代、現在の北京市周辺地域は、秦帝国時代と同じような扱いを受け、北方の要として重要な位置づけであった。また、漢王朝が滅亡し、三国時代や魏晋南北朝時代頃になると兵家必争の地となった[13]。
隋王朝~唐王朝
隋の支配と大運河
3世紀頃の動乱の時代を強大な軍事力を持って制したのは、鮮卑族の隋王朝であり[14]、初代の文帝は制度を整え、国力の増大に努めた。2代皇帝は楊勇で、煬帝として即位した。煬帝は、610年に、河南地方の杭州と北京(当時の名前は幽州)をつなぐ大経済動脈「京杭運河」の掘削に乗り出し、100万人もの男女含めた民衆が集められ[15]、運河の開削を行うための労働にあたった。[注釈 3]この運河の建設は5年という短時間で終わったが、その運河の建設で利益を享受することができたのは、掘削にあたった農民ではなく、商人や貴族、更には煬帝本人が主であった。
唐の幽州と范陽節度使
煬帝の高句麗遠征などで財政が破綻した隋を滅ぼし、建国された唐帝国は、隋の支配の悪さと煬帝がいかに暴君であったかを書き記すとともに、隋の制度を受け継ぎ、国内を安定させ、西はカスピ海、東はオホーツク海に及ぶ大帝国を築き上げた。また、国内を安定すると、周辺部の平定に乗り出した[16]。そのための軍事拠点が幽州[注釈 4]に置かれ[17]、北方・東方に対する最重要都市となった。また、やがて中国東北地方と首都・長安(現在の西安)をつなぐ大運河の中継地点となり、唐帝国の辺境貿易の中心地と成った為、商業都市として大いに栄え、城壁なども築かれることとなった。
また、713年にはその地域の高度な軍事権と行政権を持つ節度使の内の一つ、范陽節度使がこの地に設置された。その後、755年には范陽節度使に就任していた安禄山が、中央政府の楊国忠らに対して反乱を起こした。これが世にいう「安史の乱」であり、唐の軍勢を破り[18]、安禄山は洛陽を平定するとそこで燕の皇帝を自称、光烈帝を名乗り、燕帝国を築き上げた。その後も安禄山は反乱をつづけ(安禄山方から見れば「討伐」であった)、間接的にも、世にいう「馬嵬駅の悲劇」を引き起こした。また、安禄山死後も安禄山の重臣の子である史朝義(燕帝国第4代皇帝末帝)が自殺し、完全に平定されるには約8年もの月日が費やされる事と成った。そのため、唐の国力は大いにそがれることとなった[19]。このころの名残としては、高句麗遠征の戦死者を弔うために創建された、憫忠寺(現在の法源寺)などである[20]。
五代十国~遼帝国
遼帝国の副都、南京
安史の乱の後、細々としながらも存続していた唐帝国であったが、末期には事実上各地の節度使、有力な豪族、大名らが半独立国となって割拠していた。
そんな中、907年に朱全忠によって皇帝・哀帝が暗殺され、後梁を建国すると、もはや唐王朝は滅亡したため、と各地の節度使出身者が独立し、相争う、五代十国時代となった。華北に建国された王朝のうち、石敬塘の後晋は、南にある後唐を滅ぼすための援軍を、北方の契丹(遼帝国)に頼んだ。その時、援軍との交換として北京を含む燕雲十六州を遼に割譲した。その結果、後晋は後唐の末帝を自殺させ、滅亡させることができたが、中国王朝にとって守りの要であった万里の長城の一部を、北方の王朝に奪われる結果となった。また、北京の奪還を目指して後晋やその他の五代王朝、または各王朝は両相手に善戦したが、遂に奪取できなかった。
この時、遼は都の中京に対して北京を副都とし、名を「南京」、又は「燕京」と改名した。この地を獲得した遼帝国は、中華地方への足掛かりとなすため、町を唐の時代の約4倍に拡張・整備し、北方帝国の副都たる姿に改めた。その規模は、法源寺~会城門まで程の規模であったという。このころ、天寧寺の塔などが創建された[21]。
金の支配
しかし、強勢を誇り、北方帝国として君臨し、中華王朝にも影響を及ぼした遼であったが、次第に内部分裂などから衰退の兆候を見せ、それと相対するようにして、北方の女真族が力を伸ばすようになった。流域にいて、遼に対して服属していた女真族であったが、遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。そして、遂に女真族の王朝「金」を完顔阿骨打のもとに建国すると、次第に勢力圏が圧迫されるようになった。後に、北京の地が首都となるのだが、この時点で首都は会寧(上京)であり、按出虎水の河畔の現在のハルビン市阿城区にあたる場所に追存在した[22]。
この状況を知った中華王朝の北宋は、これを燕雲十六州と北京の奪回の好機ととらえ、金と盟約を結んだ。1120年に結ばれたこの条約は「海上の盟」と称され、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束するものであった。この盟約で、北宋は悲願の燕雲十六州・北京奪還を自ら果たすはずだったが、北宋は攻略にてこずったために金が南京を落とし、宋に割譲する、という形となった。また、金の完顔阿骨打の死後も、弟の太宗完顔呉乞買が後を継いで遼帝国との戦いを続け、1125年に逃亡していた最後の遼帝国皇帝天祚帝耶律阿果を捕らえ、遼帝国を滅ぼした(しかし、後に徳宗耶律大石が西遼帝国を立て、北方王朝を中央アジアで再興した)。
これで、遼討伐の戦は終わるはずであった。しかし、北宋はこの盟約を反故する様な行動をとったため、金王朝の逆鱗に触れた。そのため、1127年に金に都の東京開封府(旧称:汴京、現在の開封市)を包囲され、陥落したのちは皇帝欽宗と上皇徽宗が北方に連れ去られる、という事件が起こる。しかし、同年高宗が南方に逃れ、宋を再興し、南宋をたてたが、二度と北京の地は取り戻すことはなかった。
金王朝の首都として
燕雲十六州の新たな主人となった金王朝は、第四代海陵王の時代にこの地に遷都し、1151年、中都と名を変えた。このことにより、中都は一躍華北地域の中心都市となり、ここから、中国王朝のすべての王朝は、短い期間を除いて全てここ北京を都とするまでの発展を遂げた[23]。また、政治のほかに文化・経済の中心地と成った中都は当時としては異例の約50万人を有する大都市となった[注釈 5]。
このころの遺構には、後に盧溝橋事件が起こることとなった盧溝橋等を挙げることができる[24]。
元帝国の支配
世界都市・大都
北方で勢力を拡大していたモンゴル帝国が金王朝・南宋帝国を滅ぼし、中国を統一したのは、1280年のことであった。しかし、その最中に大ハーン、モンケ・ハーンが没し、キヤット・ボルジギン家の中で後継を争う内紛が起こった。そこで、その内乱を制し、見事第5代大ハーンに即位したのは、建国者・チンギス・ハンの孫、フビライであった。中国地域を征服した元帝国は、漢人・モンゴル人両方の都とするべく、草原地帯と穀倉地帯のちょうど中間に位置し、かつて煬帝が掘削させた大運河も通る、金のかつての都・燕京に目を付け、都とした[25]。
その当時、北京の地はモンゴルの征服により荒れ果てた状態であり、その再建が急務であった。そこで、フビライは金の中都よりも北東の地に「大都」と名付けた都を建造した。建築を任されたのは河北出身の劉秉忠(りゅうへいちゅう)で、1267年に建設が始まり、やく20年近い年月をかけ、完成を見た。その規模は金の中都の約4倍もある規模であった。
そこには、現在の故宮を彷彿とさせるような大宮殿が築かれ、その位置は現在の紫禁城のやや北に存在した[26]。また、貴族たちの大邸宅も築かれた[27]。また、この都市は、元帝国では内蒙古の上都開平府を夏営地、北京の大都大興府を冬営地と定めた。
大都は地方政権の一中核都市からモンゴルという世界帝国の首都として躍進し、モンゴル帝国連合の中でも有数の経済的中心都市として位置付けられ、以前にもまして繁栄を謳歌した。また、西方の地域から色目人と呼ばれる人種の商人たちがやってきたりもして、西方の珍品を輸入し、逆に元帝国のシルクや陶磁器を輸出したりもし、実質、東西交流の中心の都として機能した。西方から訪れた商人の中でもっとも著名なのは、『世界の記述』を著したマルコ・ポーロであり、彼は1271年にヴェネツィア商人であった叔父とともにフビライに謁見し、元の宮廷につかえて各地を視察し[28]、重用されたことで有名である[29][30]。
さらに、14世紀にはいるとモンゴル帝国の連合内での内紛も緩和され、陸のシルクロードを伝っての交易も盛んになった。活況を呈した大都の町の繁栄ぶりは、遠くヨーロッパまで伝わった。また、ここからネストリウス派キリスト教、イスラム教等の宗教も大都にもたらされた。
また、世界各地の富だけでなく、中国の南方の富も、ここ大都に集められた。そのような仕組みを作ったのはフビライ・ハーンで、そのための制度を勅するとともに、旧南宋帝国治下で繁栄を謳歌した華南の富を一挙に大運河を利用して集めることに成功した。
この都には様々な経済路が連結されており、上都やカラコルムに通じ、更には『草原の道』に通ずる路も造られ、『通恵河』と呼ばれる運河も建造され、京杭大運河や経済都市・直沽(現在の天津)を経由して『海のシルクロード』へと繫がった[31]。
この都の規模は、明の時代の約3~2倍の規模を誇り、東西約7キロメートル、南北約8キロメートルの城壁で囲まれ、広大な都城であった。周の時代の官僚制度を書き記した『周礼』に基づき、金の中都、北宋の開封(当時は汴京)などの町割り・役所の配置などを参考にし造られた街路は、現在の北京市の町割りの大元となっている[32][33]。
街の正門は「麗正門」と言い、高さ・華麗さを誇った[注釈 6]。
宮殿と寺院
このころ、フビライ・ハーンがラーマ僧のパスパ(パスパ文字を制作)を登用し、また、チベット仏教や禅宗を厚く保護し、そのほかの歴代の皇帝も仏教を厚く保護し、大都に寺院を次々と寄進した。その一つが、現在でも残る北京・妙王寺の白塔であり、この塔はもともと元帝国の時代に創建された物であった。また、東岳廟もこの時代に建設された。
また、宮殿も壮観なものであった。この宮殿は中国風に「宮城」と呼ばれ、金の時代の皇帝の離宮の跡に建造された。宮城内には「大明殿」と呼ばれる中国様式の大謁見殿や、「延春閣」と呼ばれる内廷の高層建築(閣)などをはじめとする建物で埋め尽くされており、それらは全て皇帝の象徴である黄色い瓦で葺かれていた。これらの建物はすべて中国風で、城壁に囲まれた宮城内部は石畳ですべて敷かれ、正門の崇天門から主要な建物はすべて、一直線上に並べられた[34][35]。
外城の正殿である大明殿の南側には、文武百官がハーンに礼拝するための広い段(丹陛)が設けられ、周礼などに基づいた儀式が執り行われた。大明殿の背後には、現在の紫禁城の小和殿、保和殿の役割を果たした建造物群があった。また、内廷部分は皇帝の私生活が行われたとともに、文官の上奏を行ったりする場所であり、皇帝の政務室の役割も兼ねた。正殿は「春延閣」と呼ばれる楼閣であり、中国の伝統的な「閣」の建築様式であり、その背後に皇帝の生活を行った場所があり、御苑の中にはモンゴル的なゲルも張られた。
内装には、モンゴルや西方的な絨毯やインテリアが用いられ、皇帝の部屋を飾った。
明帝国
「北平」と明の首都としての「北京」
14世紀に入ると、栄華を誇った元帝国は内乱と財政難、権力争い、そして漢民族に対する圧政に反抗する反乱が広がりを見せ、陰りが見え始めた。1368年にトゴン・テムル皇帝が北方へ逃げ落ちるとともに放棄された。そして、新たに朱元璋(太祖)が興した明帝国が、中華王朝として中国に君臨することとなった。当時の都は金陵(現在のの南京古城)が首都であり、その時点で北京は一地方都市としての格付けであった[注釈 7]。そのため、新たな北京の主人となった明帝国のもとで「大都」の名は「北平」と改められた。
また、北京は市街地の規模を縮小されて、明の皇帝・太祖の四男であった朱棣(後の成祖永楽帝)に与えられ、燕王としてこの地に封じた。太祖の死後、太祖の孫の朱允炆(建文帝)が皇帝に即位し、甥達にあたる各国の王(粛王、秦王など)の反乱を恐れて次々と粛清し始めた。その事態に危機感をおぼえた朱棣が反乱を起こし(靖難の変)、遂に南京の建文帝を打倒し、明の帝位を簒奪した。
朱棣が明の皇帝に即位すると、元来の本拠地であり、宿敵・北元の近くでもあった北平に目を付け、北元の南下に対する軍事政策の拠点として再び重視されるようになった。そして、都の3分の2~1程度の規模で、現在の名と同じ「北京」が建設され、完成すると遷都し、南京に代わって明帝国の首都となった。
元帝国時代の北京は各国の商人で賑う国際都市であった。しかし、明帝国は、貿易を朝貢貿易のみに限定し、「海禁政策」の体制をしき、朝貢貿易いがいの密業者を徹底的に弾圧したため、元帝国の時代のような「国際的な繁栄」を見せることはなくなった。
明の支配と紫禁城
また、成祖は北平に、元の宮城を基礎とした宮殿を計画し、自身の宮廷にする計画を立てた。そして、実行に移されたのが1406年で、元帝国のフビライ・ハーンが築いたハーンの宮殿を徹底的に破壊・略奪・壊滅・荒廃させ、元の時代の遺構をなくしたうえで、その跡地の上に新たに紫禁城(現在の故宮博物院)を建設した。元の宮城の敷地を大部分受け継いだものの、南へ約500メートル移動させ、明の宮殿として使用した。また、現在の故宮博物院の北にある景山は、このとき宮殿の堀を掘った際に出た余り土を積み上げて造られた、人工の山である。
その後、永楽帝が作らせた城壁では北京の人口は抱えきれなくなり、新たに「回」の字の城壁、即ち外城の建設に取り掛かった。計画は回の字状であったが、予算の都合で内城の周囲をぐるりと囲むことはなく、内城の南側に長方形の町が連結される形となった。
明の衰退と滅亡
15世紀後期以降、北方のモンゴル高原ではタタール(北元)の勢力が再び勢力を巻き返し、1449年には皇帝・正統帝がオイラトへの遠征をする途上、軍に捕虜にされるという、いわゆる「土木の変」が起き、遂に北京が包囲される、と言う事件が起こる。その時は、重臣于謙の機転によって、見事オイラト軍を撃退して北京を守り抜いたが、この一連の事件によっていよいよ明は衰退を始めた。また、海禁政策に反対する中国商人たちが「倭寇」として沿岸部を荒らして回り[注釈 8]、北からは新たに勢力を伸ばした韃靼のアルタン・ハーンが侵攻し、そんな時でも皇帝・嘉靖帝は淫乱にふける有様で、明の国力は日が没するように落ちていった。
そんな中、明の皇帝に即位したのは、齢僅か10歳の万暦帝であった。彼は最後の「中興」をした偉大な皇帝ともされる一方、「明は崇禎に滅んだのではなく、万暦に滅んだ」ともいわれる通り、暴君とも称された皇帝であった。治世の前半は、有能な官吏たちに支えられて善政を敷き、経済的な繁栄を見出したが、自らの親政が始まると一転、政治への熱意を失い、財政は破綻状態に陥り、そこから明帝国は急激に崩壊を始めたのであった。
万暦帝から4代ほど後の崇禎帝が即位すると間もなく各地での農民反乱が相次ぎ、北方の女真族の後金(後の清帝国)からの圧力も強まった。腐敗した宮廷を改革し、農政に詳しい徐光啓を登用し、悪徳宦官である魏忠賢を自殺に追い込むなど善政を敷こうと政治に熱意を示し、名君であった崇禎帝だが、それらの強力な軍事力を持つ外敵にはかなわず、遂に1644年、反乱軍の首謀者の一人・李自成が北京の城内になだれ込み、崇禎帝は紫禁城の背後の煤山(現在の景山公園)で首吊自殺をした。
李自成が北京へなだれ込もうとしたとき、民衆は自ら門を開け、迎え入れたという。
その後、李自成は紫禁城の占領後に「順帝国」の独立を宣言し、太祖帝を名乗った。しかし、農民反乱軍に北京を占領されるよりも北方の清に支配されるほうがましである、と考えた山海関の守備将軍・呉三桂は、抗争中であった清の太宗・ホンタイジとその軍勢を万里の長城内に招き入れた。この軍勢に恐れをなした李自成は逃げ出し、後に殺された。
その後、南方で抵抗を続ける明の残党(南明帝国)との抗争が始まった。
清の時代
支配初期
明帝国末期の17世紀に入ると、北方の半狩猟民族であった女真族(後に文殊菩薩に因んで『満州族』と名を変えた)が、明帝国との銀(馬蹄銀)とテンの毛皮の貿易などの交易により財力を蓄え、遂に後金が太祖ヌルハチ[注釈 9]が現れた。ヌルハチの死後は、その子の太宗ホンタイジ[注釈 10]はモンゴルのオイラトや朝鮮北部にまで勢力を伸ばし、1636年には国号を「清」とした。
1644年に李自成により北京が陥落すると、清は当時抗争中であった山海関の守備将軍・呉三桂が地下の通路からホンタイジとその軍勢を招き入れ、北京を包囲・占領し、李自成を逃亡させ、瀋陽故宮から北京へと遷都した。幸いなことに、一連の抗争の間に傷ついたのはごくわずかな建物だけで、引き続き明帝国の宮殿が清の帝宮として用いられることとなった。しかし、明の時代の建物の呼称の多くは変更された(例:皇極殿→太和殿、中極殿→中和殿、建極門→保和殿 など)。これらは、明の傲慢な支配体制(皇が極まる→皇極殿)から、「和」を重んじる支配体制(太いなる和→太和殿)への変化を宣明する為であったと言われる。
三世の春と離宮の数々と北京
ホンタイジの死後、その跡を継いだ第三代皇帝・順治帝は南明帝国を壊滅に追い込み、南方を平定し、真の中国統一を成し遂げた。また、その跡を継いだ康煕・雍正・乾隆の三名君の三代にかけて、清帝国は今までにないほどの繁栄、いわゆる「三世の春」の時代となり、清帝国は繁栄の時を謳歌した。その時代に、北京には数々の皇帝の離宮が建造された。これらの巨額の資金をつぎ込んだ離宮は「三山五園」と呼ばれ、その中でも特に著名なのが円明園と頤和園であった[36]。
円明園は1709年(康熙48年)、4代清帝国皇帝康熙帝が、皇子の胤禛(後の雍正帝)に下賜した庭園と宮殿がその起源である。胤禛が皇帝に即位(1722年、雍正1年)して以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。 また、乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられ、この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となった。長春園の北側には、イエズス会士のブノワ、カステリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、「ヴェルサイユ宮殿にも負けないような宮殿」を望む乾隆帝の望みにこたえて西洋風の建物・西洋楼も建てられた(これらの建物は、後に八カ国連合軍によって徹底的に破壊された)。また、嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。その壮麗さは、イエズス会を通じて遠くヨーロッパまで届くほどであったという[37]。
頤和園は乾隆帝が母后の60歳を祝う目的で建造され[38]、江南風の壮大な庭園もあった。頤和園の前身は「清漪園」と呼ばれた庭園であり、明の離宮後に1750年、乾隆帝は西湖掘削と西山・玉泉山・寿安山の造営、更に西湖・高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、昆明湖を掘削し[注釈 11]、甕山を万寿山と改称するなどの事業を行い、1764年には洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成することとなった。
また、1884年から1895年(光緒9年から20年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令され、今に残る豪奢な離宮が建造される事と成った。その後庭園は再建され頤和園と改称されて離宮という位置づけとなり、西太后の「避暑地」として利用された。しかし、実際には自身の住居として使用した。
欧米列強の侵略と清帝国の衰退
19世紀に入ると、清帝国は各地で相次ぐ自然災害や反乱により、徐々に衰退した。加えて、財政難と今や世界各国を支配下に置いていた欧米列強により、中国の豊富な技術を求めて貿易を迫った。
1840年、イギリスとの間に「アヘン戦争」が起き、強力な軍事力の前にイギリスに屈服した清は、不平等条約を締結することを余儀なくされた。また、「眠れる龍」とこれまで恐れてきたほかの列強もイギリスに続いて次々と理不尽な戦争を押し掛け、不平等条約の締結を強要した。この時に起きたアロー戦争によって、北京は攻撃を受け、焼け野原と化した。
また、このような中で洪秀全を首領とした「太平天国の乱」が勃発、西洋の力を借りて鎮圧に成功したが、この一軒によって清帝国の国力は大いにそがれることとなった。また、一連の事件で国家は風前の灯火となった清帝国は西洋の制度の導入を進めたが、保守勢力の妨害もあって挫折を繰り返した。
清朝末期、そして中華民国への統一
同治中興
このころ、清帝国は同治中興と呼ばれる中興期にあった。同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。また、西太后に信任された李鴻章により、軍隊設備の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せ、洋務運動は清帝国により推進された。この時期に僅かながら清の国勢は復活し、同治中興と呼ばれる事となった。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれ、最後の清帝国の威信を保った時期であったとされる。
義和団の乱と北京
しかし、西洋下の国民の西洋やキリスト教への不満は高まる一方であり、遂に国民の怒りが爆発する形で1900年に義和団の乱が発生した。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。その緊急事態に浮足立った清帝国であったが、6月21日の宣戦布告に先だって、最高権力者であった西太后は「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べ[39]、義和団に協調して列強に宣戦布告した。
そんな中でも義和団の横暴は強まるばかりであり、義和団は遂に北京へ入ると、北京の公使館区域は中国軍の武威部隊といくらかの義和団員によって6月20日から8月14日までの55日間包囲された。合計473人の外国人民間人、8カ国からの409人の兵士、約3000人の中国人キリスト教徒は公使館の区画に避難した[40]。
その事態に遺憾の意をおぼえた諸外国は軍を差し向け、北京での包囲を解こうと試みた。しかし、実際は義和団の乱中の中国に干渉し、権益を守るためであった。軍の内訳はオーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、大日本帝国、ロシア帝国、イギリスとアメリカからなる連合軍であり、1900年の夏に北京の外交公使館の包囲を解くことに成功した。この結果、北京は列強の占領下となり、義和団の多くは処刑されるか、投獄されるかの運命を辿った。また、義和団に協調して宣戦布告、諸国を追い出そうと試みた西太后は光緒帝とともに北京をいったん離れて西安へ移住し(諸説あり)、帰還したのは12年後の事であった。
- 「義和団」の処刑
また、この一軒の後に、北京では数えきれないほどの「義和団」だと疑われた人々(西洋に不満を抱き一般人も疑われ、極刑に処された)が義和団の乱の最中やその後に斬首されることとなった。そのほとんどは街頭処刑であり、ことにより、北京市民の内、何万人もの人々が殺されたという。また、この北京での悲劇的な出来事は短編映画の主題になった[41]。
- 強姦事件
西洋諸国は征服後の国で強姦を働くのは常であったが、それは北京市内でも同じであった。その事実は、アメリカの海兵隊員が記した記録の中で、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて惨殺し、見世物とするのを見た、と記しており[42]、残虐行為を今に伝える。
- 紫禁城の占領
アメリカ兵は、清の宮城であった紫禁城を占領し、皇帝しか座すことを許されない宝座(玉座)に座ったり、宮殿におさめられていた美術品を奪ったり、冒涜したりした。
清朝末期の動乱期の北京
1911年、武昌で軍隊の蜂起があり(武昌蜂起)、辛亥革命が勃発した。翌年の1912年の1月にを期して革命家・孫文が率いる中華民国政府が発足・成立することとなった。しかし、この時点ではいまだに北京は清帝国の支配下におかれ、皇帝には愛新覚羅溥儀(宣統帝)が即位、内閣には袁世凱という最大の軍閥が控え、うかつには手が出せない状況であった。
しかし、事態が一転する出来事があった。それが袁世凱の裏切りであり、「自身を中華民国大総統に就任させること」を条件に、清帝国の皇帝を退位させる、と迫った。これは、もはや風前の灯火であった清帝国での実権を握るより、新興で勢いのあった中華民国のトップとなるほうが得である、という算段であったが、孫文たち中華民国の大臣たちはそれを受け入れ、代わりに民主制の絶対保持を求めた。その結果、2月には宣統帝が退位、長年中国を支配した清帝国と皇帝制は終焉を遂げた。また、この際、中華民国との間に「皇室優待条件」がむすばれ、宣統帝とその家族たちは紫禁城内で今までと変わらぬ豪奢な暮らしと、名目上の「皇帝(今までのような実権も、どの地も実効支配していなかった)」の位を保持することが認められることとなった。
軍閥の時代と中華民国統治下の「北平」
これ以降、
孫文の中華民国大総統の位の譲位後、袁世凱は中華民国の最大の実権者となり、保守的な政治をすすめ、革命派を弾圧し、孫文の右腕であった宋教仁を暗殺した。こうした袁世凱の動きに反発した国民党は反乱を起こしたが、たちまち鎮圧された。しかし、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たったことが評価される。さらに、議会政治を停止させ、一時帝政に復活させ、北京を首都とする中華帝国を築き上げたが、内外の反発を買って廃止帝政、失意のうちに没した。
失意に内に袁世凱が死去した翌年の1917年、中華民国の政府内では対ドイツ問題で黎元洪大総統とその政敵の段祺瑞の確執が表面化し、さらに激化するに至った。また、同年5月23日には黎元洪が段祺瑞を罷免に追い込んだ。
しかし、中華民国期になっても自身と軍の辮髪を止めず、清帝国の制度を守るという保守派であり、革命後も清帝国に忠義を捧げていた張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言した。これが、いわゆる「張勲復辟事件」に発展したものであり、張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄するなど、復古的な政治をすすめた。
張勲は、共和制廃止と清帝国の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難し、溥儀の復辟は最終的に僅か13日間で挫折し、失敗に終わった。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を北京は迎え、これから中華人民共和国の成立まで安定した期間はないこととなる。
北京は首都に非ず
1928年、蒋介石率いる国民党軍が『北伐』を行い、蒋介石軍によって北京周辺の旧袁世凱系の軍閥を駆逐し、北伐を完遂させると、中華民国国民政府を建てた。その時、首都の地位は国民党の本拠地であった南京に移され、北京は首都の地位から転落し、「北平」と名を変える事と成った。
日本統治下と抗日戦争
一方、1931年の満州事変以降、満洲地域だけでなく華北地方にも勢力を伸ばしつつあった大日本帝国は、1937年の盧溝橋事件があった後、北京とその周辺を占領し、日中戦争が勃発した。南京の蒋介石は日本軍から逃れて重慶にて「重慶政府」を建てた一方で日本は反蒋介石の汪兆銘を担いで「南京国民政府」を対抗するようにして建て、国民政府を相手としない旨のの声明を発表した。また、大日本帝国の治下の北京では、名称は再び「北京」となった[43][44][45]。日本の影響回に置かれた北京では華北経済の中心地として日系人が数多く居住し、日系機関も設置されるなどした。
中華人民共和国
建国と北京
日本軍を駆逐することに成功し勝利したものの、国民党と中国共産党の対立は深まるばかりであり、遂に国共内戦が起こり、中国近代史上最大の内戦が始まった。次第に優勢となった共産党軍は国民党軍と蒋介石を追い詰め、台湾島に敗走させた[注釈 12]。1949年には共産党軍に北京は無血開城され、10月1日に毛沢東が天安門から中華人民共和国の成立を宣言し、新たな中国の首都となり、再び北京という名称も復活した[注釈 13]。新中国の首都にふさわしい姿とするべく政府は北京の改造に着手し、1950年には城壁の取り壊しが行われ、天安門広場の整備や北京駅の移転などの事業も行われ、現在の北京に近い様相を呈するようになった。
しかし、政権は安定したものの中国の政情は安定せず、今度は共産党内での勢力争いからきた内紛が激化した。1950年代から行われた大躍進性政策が失敗し、毛沢東は共産党内での勢力を失った。
文化大革命の被害と鄧小平の改革
政情がいまだ不安定であった中国共産党内では、大躍進政策の失敗によって毛沢東は国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲位することを余儀なくされた。しかし、1966年には中国共産党中央委員会主席が毛沢東の復権を画策し、後の世に言う「文化大革命」を起こした。官製暴動であったこの事件は、毛沢東の政敵を攻撃、失脚に追い込む為に学生運動や大衆から成る紅衛兵を扇動し、その結果、毛沢東の政敵は失脚し、中国共産党内部での権力闘争は終結を迎えることとなった。
この何人もの人が死んだ混乱の名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動であったが、その結果、北京はもちろんのこと、中国全土で旧体制の痛烈な批判と文化の破壊活動が行われ、中国経済は大いに大打撃を受けた。しかし、文化大革命では毛沢東の復権と経済停滞のみが得られる結果となった。
文化大革命終結後の1978年には鄧小平が中国の新最重要指導者となり、文化大革命に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体し、文化大革命によって疲労した中国経済を立て直すために、改革開放を開始することによって共産主義から市場経済体制への移行を試みたのであった[47]。以後、鄧小平による改革開放路線で中国経済は回復してゆく。
現在の課題、そして未来へ
1977年の正式な文化大革命の終了後、中国経済は好転する。また、大国・中国の首都として北京の経済も発展、1990年代の驚異的な経済成長を経た後の現在でも、発展は止まらず進展する。
現在も、行政区画上は直轄市であり、北京は中華人民共和国の首都としての地位を保ち続けている。2008年には念願の北京夏季五輪が開かれた。しかし、その一方で近年の深刻な大気汚染などの経済成長のマイナス面が懸念される。現在、人口は2152万人(2014年)を誇る中国の政治の中枢である、アジア屈指の世界都市となっている。また、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。
脚注
注釈
- ^ 首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した。
- ^ 『史記』燕世家では周王家と同姓の姫姓としているが、殷墟から発掘された『卜辞』によれば、姓は姞である。
- ^ この運河開削は煬帝の悪行の一つに数えられ、隋滅亡の要因に挙げられることが多いが、近年は経済力を高めたとして、再評価の声もある。
- ^ 現在の北京、麗沢路
- ^ 諸説あり、この数字は推定である
- ^ 現在の天安門付近に存在した
- ^ しかし、人口は中国トップクラスであり続けたとされる
- ^ 諸説あり
- ^ 諡号:承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝
- ^ 諡号:応天興国弘徳彰武寬温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝
- ^ 西湖を漢の武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因んだといわれる
- ^ この時からのいざこざが、現在も燻り続ける問題となっている。
- ^ 台湾に移転した中華民国での北京の正式名称は長らくは「北平」のままだったが、現在では「北京当局」という名称で「北京」を用いる例がある[46]。
出典
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- ^ 『後漢書』光武帝紀下
- ^ コパン 2002, p. 116.
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- ^ 《史記・巻六・秦始皇本紀第六》秦王覺之,體解軻以徇,而使王翦、辛勝攻燕。燕、代發兵擊秦軍,秦軍破燕易水之西。
- ^ 《史記・巻八十六・刺客列傳第二十六》於是秦王大怒,益發兵詣趙,詔王翦軍以伐燕。
- ^ 《史記・巻六・秦始皇本紀第六》二十一年,王賁攻薊。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。
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関連項目
- 北京
- 北京原人‐かつてこの地に居住した
- 幽州‐かつての名称
- 北平‐かつての名称
- 紫禁城‐北京市内にある皇帝の宮殿
- 大都‐旧称
- 永楽帝‐北京の実質的な開府者
- 崇禎帝‐明帝国末代皇帝
- 永暦帝‐明の最後の皇帝
- ヌルハチ‐後金の建国者
- 頤和園‐北京市内にある離宮
- 円明園‐北京市内にある離宮
- 八カ国連合軍‐北京を占領した