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'''藤原 経清'''(ふじわら の つねきよ)は |
'''藤原 経清'''(ふじわら の つねきよ)は[[平安時代]]中期の、日本における[[貴族]]や[[武士]]などの身分である[[位階]]が、'''[[五位]]以上の貴族'''である。 |
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[[陸奥国]][[亘理郡]]の[[領主]]である[[豪族]]で、軍事力をもつ軍事貴族であった。 |
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'''”日本で唯一の[[鎮守府]]”'''があり'''[[陸奥国府|陸奥国]]の [[国府]]'''でもあった'''地方軍政府・[[多賀城]]の事実上のナンバーツー'''である。 |
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なお、鎮守府([[鎮守府将軍]])とは常時(平時)の地方軍政府のことで、臨時の地方軍政府が[[幕府]]([[征夷大将軍]])である。 |
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先祖には、[[関東地方]]8ヵ国(関八州)を征服して「[[新皇]]」を称し”関東独立”に挑んだ[[平将門]]による'''[[平将門の乱|将門の乱]]'''を鎮圧した、'''[[従二位]]'''・'''[[公卿]]'''・'''[[鎮守府将軍]]'''・'''[[武門の棟梁]]'''・'''[[武蔵守]]'''・'''[[下野守]]'''の'''[[藤原秀郷]]'''がいる。 |
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離婚した母の再婚相手は、[[朝廷]]の朝議メンバーである'''[[従三位]]'''・'''[[公卿]]'''の'''[[藤原経輔]]'''。 |
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妻は、朝廷に降伏した'''[[エミシ]]'''の[[豪族]]達の中の最大勢力である[[陸奥国]]の[[俘囚]]長、'''[[安倍頼良]]'''(改名し'''[[安倍頼時]]''')([[安倍晋三]]元[[首相]]の先祖)の長女である。 |
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息子は'''[[平泉]]政権'''の'''[[奥州藤原氏]]'''初代[[当主]]・'''[[藤原清衡]]'''('''[[世界遺産]][[中尊寺金色堂]]'''等の建造者)であり、藤原経清は'''[[奥羽]](奥州)藤原氏5代の祖'''である。 |
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なお、「[[奥州]]」は「[[陸奥国]]」([[宮城県]]、[[福島県]]、[[岩手県]]、[[青森県]])を意味する言葉であり、[[奥羽]]([[東北地方]]、[[北日本]])には「[[羽州]]」である「[[出羽国]]」([[山形県]]、[[秋田県]])も存在するが、「奥州」という言葉には[[鎌倉幕府]]の東北地方における長官である「[[奥州総奉行]]」のように「東北地方全域の」という意味もあり、日本の歴史学者達が名付けた「[[奥州藤原氏]]」という名称には、「東北地方全域の藤原氏」という意味がる。 |
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このことは、日本を代表する「[[大国 (令制国)]]」である陸奥国の、「中国(律令制)」である出羽国への、優越性を示していることでもある。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[陸奥国司|陸奥権守]][[従七位|従七位下]]に叙せられたのち[[散位]]。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の[[官人]]の異称)。『[[尊卑分脈]]』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・[[藤原清衡|清衡]]も権大夫<ref>http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_21.html</ref>であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、[[在庁官人]]として陸奥国府[[多賀城]]に勤務していたと見られている。 |
[[陸奥国司|陸奥権守]][[従七位|従七位下]]に叙せられたのち[[散位]]。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の[[官人]]の異称)。『[[尊卑分脈]]』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・[[藤原清衡|清衡]]も権大夫<ref>http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_21.html</ref>であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、[[在庁官人]]として陸奥国府[[多賀城]]に勤務していたと見られている。 |
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日本では9世紀前半まで[[東北地方]]([[陸奥国]]と[[出羽国]])の北部([[岩手県]]・[[青森県]]・[[山形県]]・[[秋田県]])に、それ以前の[[出雲]]や[[吉備]]や[[毛野]]などのような[[朝廷]]から独立した地方王国が、朝廷([[大和]])から征服されずにまだ生き残っていた。 |
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その名が登場する史料は、長年『[[陸奥話記]]』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、[[永承]]2年([[1047年]])の五位以上の[[藤原氏]][[交名]]を記した『[[造興福寺記]]』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と記されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏から認められており、[[従五位]]に昇叙し散位であったようである。 |
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しかし朝廷は首都・[[平城京]]([[奈良県]])に次ぐ新たな首都・[[平安京]]([[京都府]])を造営した[[桓武天皇]]のとき東北地方北部を征服し、朝廷は[[北海道]]([[蝦夷島]])を除く日本の統一を達成した。当時蝦夷ヶ島には日本人とは異なる[[アイヌ語]]を話す異民族・[[アイヌ]]が住んでいて、蝦夷ヶ島はその後も長い間”外国”のままだった。 |
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そのような流れの中、朝廷は東北地方北部の住民を「[[エミシ]]」と呼んで敵視・侮蔑し、その後も朝廷は朝廷に降伏したエミシを、「[[エミシ|俘囚]]」として差別していた。 |
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藤原経清の名が登場する史料は当初『[[陸奥話記]]』のみだったため藤原姓は私称ではないかと疑問視されていたが、'''藤原氏の[[氏長者]]'''であり'''[[関白]]を50年間も務め[[摂関政治]]の最盛期を現出した史上最大の関白'''である'''[[藤原頼通]]'''(父は[[藤原道長]])が元[[首都]]・[[奈良]]の大寺院である[[興福寺]]を全面修築した際の永承2年(1047年)の歴史資料'''『造興福寺記』'''によって、藤原経清が'''[[首都]]・[[京都府|京都]]の藤原氏と同じ藤原氏'''であるということが既に1990年代前半に確認されている。この『造興福寺記』には'''[[位階]](身分)が五位以上の[[貴族]]である藤原氏の名前'''が書かれていて、その中には東北地方では数人しかいない藤原氏の貴重な貴族である藤原経清の名前も書かれている。 |
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[[長久]]元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により[[修理職|修理大夫]]として[[京都市|京都]]で暮らしていたとみられるとする説がある。 |
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首都・[[京都]]で暮らしていた藤原経清は、[[陸奥国司|陸奥守]]・[[藤原登任]]の側近として'''”日本唯一の[[鎮守府]]”兼[[陸奥国]]の[[国府]]'''である'''[[多賀城]]'''([[宮城県]][[多賀城市]])に赴任するため、藤原登任らと共に陸奥国へ下向したとみられる。 |
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'''[[位階]]が[[従五位|五位]]以上の軍事[[貴族]]'''として陸奥国[[亘理郡]]の[[領主]]となり、'''中島城'''([[宮城県]]亘理郡[[山元町]])を[[居城]]とした。 |
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藤原経清が'''”鎮守府兼陸奥国府・多賀城のナンバーツー”'''となったことには、朝廷の中枢にいる藤原経清の生母の夫,[[従三位]]・[[藤原経輔]]が藤原経清の後ろ盾になっていたということも強く影響していた。 |
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なお、藤原経清の居城があった場所については、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の[[鹿島神社]](現[[亘理町]]逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ<ref>[[菅野円蔵]]『大鳥城記』[[山川出版社]]、1970年</ref>、さらに[[平国妙]]の外戚と言う記述が『[[奥州御舘系図]]』に見えることから2~3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある<ref>[[高橋富雄]]『<small>奥州藤原四代</small>平泉』[[教育社]]、1993年、ISBN 4-315-40158-7</ref>。 |
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その[[奥羽]]([[東北地方]]、[[北日本]])の[[陸奥国]]([[宮城県]]、[[福島県]]、[[山形県]]、[[岩手県]]、[[秋田県]] 、[[青森県]])において数人しかいない藤原氏の貴族である藤原経清は、現在の[[岩手県]]([[陸奥国]])・[[青森県]](陸奥国)・[[秋田県]](出羽国)を範囲とする'''東北地方北部(北東北)の[[俘囚]]の[[豪族]]達の中の最大勢力である俘囚長'''であり、'''[[奥六郡]]'''の支配者でもある'''[[安倍頼時|安倍頼良]]([[安倍頼時]])の長女と結婚'''した(藤原経清の妻の名は史料では「[[有加一乃末陪]]」と記されている)。こうして藤原経清は、安倍頼良の娘婿となった。 |
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「東北地方北部の住民であるエミシの最大勢力」であり「俘囚の最大勢力」でもある安倍頼良の長女と結婚した藤原経清は、居城を亘理郡の中島城から安倍頼良の居城である衣川城(衣川柵)([[岩手県]][[奥州市]]旧[[衣川村]])に近い豊田城([[豊田館跡]])(岩手県奥州市旧[[江刺市]])へ遷した。 |
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現在、奥州市江刺地区の豊田館跡のすぐそばには、'''藤原経清と奥州藤原氏4代の歴史[[テーマパーク]]'''である'''[[えさし藤原の郷]]'''が存在する。 |
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この頃、衣川を本拠地とする安倍頼良の勢力が、朝廷とエミシとの”事実上の国境の川”である[[衣川|衣]][[衣川|川]]を越えて南へ拡大し、安部頼良の勢力が[[宮城県]]北部一帯([[大崎市]]など)にまで及んだ。更に安倍頼良が、朝廷への納税を怠った(安倍依頼良が納税ミスをしたとの説もある)。 |
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[[永承]]6年([[1051年]])、[[陸奥守]]・[[藤原登任]]は[[国司]]不在となっていた隣国・[[出羽国]]で[[出羽守]]代行を務めていた[[平氏]]一族の[[秋田城介]]・[[平重成]]に、安倍頼良追討のための東北地方連合軍の結成を呼びかけた。平繁成は藤原登任の要請に応じ、藤原登任と平繁成の陸奥出羽連合軍(朝廷軍)は、安倍頼良の安部軍との戦いを開始した([[前九年の役]]の始まり)。この戦いで陸奥守・藤原登任の側近である藤原経清は、当然のことながら朝廷側に属していた。 |
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しかし朝廷軍は、陸奥国の現在の[[宮城県]][[大崎市]](旧[[鳴子町]][[鬼首温泉]]付近)での[[前九年の役#鬼切部の戦い|鬼切部の戦い]]で、安倍頼良・[[安倍貞任]]親子の安部軍に大敗した。朝廷軍の司令官・平繁成は安倍軍に捕らわれた。 |
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翌年の永承7年([[1052年]])、鬼切部の戦いで安倍頼良に敗れた陸奥守・藤原登任、および安倍頼良に解放された平繁成は、[[藤原氏]]の同族であり[[朝廷]]の”事実上のナンバーワン”でもある[[関白]]・'''[[藤原頼通]]'''によって、陸奥守と秋田城介を共に解任された(のち藤原登任は首都[[京都府|京都]]の[[山城守]])。藤原経清は藤原登任なきあとの多賀城で陸奥守代理となった。 |
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関白・藤原頼通は藤原登任の後任の陸奥守として、有力な軍事貴族である[[源氏]]の当主・[[源頼義]]を陸奥守に任じた。こうして藤原頼通は、安倍頼良への対決姿勢を示した。 |
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その一方で藤原頼通は、”[[国母]]”である自分の姉,[[上東門院]]・[[藤原彰子]](父は[[関白]]・[[藤原道長]]、[[一条天皇]]の[[中宮]]、[[後一条天皇]]の母、[[後朱雀天皇]]の母)の病気治癒を祈願する非常[[大赦]]を発令し、安倍頼良の反乱罪を許した。 |
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これを知った安倍頼良(あべのよりよし)は大いに喜んで朝廷に帰服すると共に、新任の陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし)の名前と自分の名前の発音が同じ「よりよし」であることを恐縮して、自分の名前を「頼良」(よりよし)から「頼時」(よりとき)に改名した。 |
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こうして朝廷軍が大敗を喫した安倍頼良との戦争は、安倍頼良が罪を問われることなく一件落着した。 |
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以後4年間、安倍頼良は[[陸奥守]]・源[[源頼義|頼義]]をもてなして頼義の機嫌を取り、東北地方の平和を保った。 |
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ところが、鬼切部の戦いから4年後の[[天喜]]4年([[1056年]])、陸奥守・源頼義の4年の任期が満了目前となったとき、源頼義が[[安倍頼時]]の長男である[[安倍貞任]]を罠にはめて謀反人に仕立て上げる[[阿久利川事件]]を起こし、源頼義は安部頼時に安倍貞任の首(処刑)を要求した。 |
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安倍頼時は源頼義からの要求を断り、陸奥守・源頼義との戦いを開始した。このときも藤原経清は、陸奥守・源頼義に従って朝廷側として参戦した。 |
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ところが、藤原経清と同様に安倍頼時の娘が妻である[[平氏]]一族の[[宮城県]][[伊具郡]]の[[領主]]・[[平永衡]](藤原経清の義兄弟)が、源頼義からの謀反の疑い(4年前の鬼切部の戦いのとき、平永衡が銀色の甲冑を身に着けていたため、平永衡が安倍軍から矢を射られないようにしたという疑い)で、戦争中の陣中で源頼義に斬り殺されるという事件が起きた。この事件を知った藤原経清は、自分も平永衡同様に”安倍頼時の娘婿”であるため、源頼義に殺されてしまうことを怖れた。 |
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そこで藤原経清は安倍軍による[[多賀城]]奇襲の噂を流して源頼義を多賀城に引き上げさせると、現地に残っていた多賀城軍(朝廷軍)を率いて安倍頼時側に寝返った。こうして鬼切部の戦いで朝廷の陸奥出羽連合軍に圧勝した強力な安倍軍の戦力は、更に増強された。 |
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天喜5年(1057年)、陸奥守・源頼義は、安倍頼時の支配下にある[[陸奥国]]・[[青森県]][[八戸市]]の俘囚の豪族である親戚・[[安倍富忠]]を、朝廷側に寝返らせることに成功した。安倍富忠が反乱を起こすと安倍頼時は反乱鎮圧のため出陣したが、安倍頼時は待ち伏せをしていた安倍富忠方の伏兵の矢に当たり戦死した。 |
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しかし安倍家の新当主には安倍頼時の長男である[[安倍貞任]]が就き、安部・藤原連合軍の勢いはそのまま保たれた。こうして安倍・藤原連合軍(東北独立軍)は、安倍貞任と貞任の1歳年下である藤原経清の”義兄弟”が支配する体制となった。 |
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同年の天喜5年([[1057年]])、安倍・藤原連合軍は[[黄海の戦い]]で朝廷軍に大勝し、安倍・藤原陣営は更に優勢となった。 |
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[[康平]]2年([[1059年]])頃になると[[衣川]]より南の地域([[岩手県]]南部および[[宮城県]]北部)の住民は、[[国府]]([[朝廷]])が発した[[徴税]]の札である「赤符」に従わず、'''藤原経清が発した徴税の札である「白符」に従って税金を払うようになった'''。こうして”[[関東地方]]の約2倍の面積”がある東北地方において、東北地方中部は'''朝廷から独立した地域'''となった。しかも[[安倍貞任]]の勢力圏は[[陸奥国]]の[[岩手県]]と[[多賀城]]がある[[宮城県]]の北部だけではなく、[[青森県]]にも及んでいた。 |
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窮地に陥っていた陸奥守・源頼義は、安倍氏の親戚である”朝廷に降伏したエミシの豪族達の中で[[出羽国]]のナンバーワンである俘囚長”、[[仙北三郡]]の支配者・[[清原光頼]](本拠地は[[秋田県]][[横手市]])に多くの財宝を贈り、清原光頼に朝廷軍として参戦してくれるようしつこく懇願した。 |
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そして、ついに清原光頼は亡き安倍頼時の長男・安倍貞任を裏切って、[[前九年の役]]に朝廷軍として参戦することを決意した。清原光頼は弟の[[清原武則]]を清原軍の司令官として武則に兵1万5千を与えた。 |
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清原武則は大軍を率いて前九年の役に参戦し、朝廷軍の主力軍として安倍・清原連合軍2万と戦った。勢いづいた朝廷軍は戦局を逆転させ、安倍・藤原連合軍は安倍氏の居城である衣川城(衣川柵)を攻略されてしまった。 |
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安倍・清原連合軍は北へと退き始め、白鳥城(白鳥柵)・小松城(小松柵)・鳥海城(鳥海柵)・黒沢尻城(黒沢尻柵)・鶴脛城(鶴脛柵)・比与鳥城(比与鳥柵)などを次々に失った。 |
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康平5年([[1062年]])、安倍・藤原連合軍は最後の拠点である安倍氏の新たな居城・厨川城([[厨川柵]])(岩手県[[盛岡市]])で徹底抗戦したが、[[厨川の戦い]]で敗れた。 |
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安倍貞任は戦死し、安倍貞任の息子・千代童丸も殺され、藤原経清は捕らわれたあと、源頼義自らが刀の刃を打ち欠いて切れ味を鈍くした鈍刀で首を切られ殺された。こうして'''安部氏と[[陸奥]],藤原氏は滅亡'''し、前九年の役は終結した。 |
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処刑された藤原経清の妻である安倍頼時の長女は、清原武則の長男である[[清原武貞]]に気に入られ、清原武貞の妻となった。 |
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この藤原経清の妻の連れ子である藤原経清の一人息子・[[藤原清衡]]が、のちの寛治1年([[1087年]])に清原氏の内紛である[[後三年の役]]で兄弟達を倒し、自分に協力した陸奥守・[[源義家]](父は源頼義)の影響力も排除して、戦争の最終勝利者となった。 |
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藤原清衡は本拠地を亡き父・藤原経清および母と共に暮らした[[豊田館跡]]([[岩手県]][[奥州市]]江刺)に遷し、間もなく本拠地を近くの[[平泉]](岩手県[[平泉町]])に遷し、'''東北地方全域を[[自治]]支配する”日本初の地方政権”である平泉政権・[[奥州藤原氏]]4代'''の初代[[当主]]となった。 |
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前九年の役では、厨川の戦いで朝廷軍に降伏した安倍頼時の次男である[[安倍宗任]]が、源頼義に殺されず西日本への追放処分となった。のちに安倍宗任の孫娘が藤原清衡の長男である奥州藤原氏第2代当主・[[藤原基衡]]の妻となった他に、安倍宗任の子孫から、”癌で死ななければ首相確実”だった[[安倍晋太郎]][[自民党]][[幹事長]]や、その長男である'''[[安部晋三|安倍晋三]]元[[首相]]'''らが誕生した。 |
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また、'''安倍首相の祖父・[[岸信介]]首相の弟である[[佐藤栄作]]首相'''の先祖には、[[天皇]]の[[御所]] の警護に当たる[[北面の武士]]だった'''”日本を代表する[[歌人]]”[[西行法師]]こと[[佐藤義清]]'''、奥州藤原氏第3代当主・'''[[藤原秀衡]]([[貴族]]・[[陸奥守]]・[[鎮守府将軍]])の側近'''であり藤原秀衡の元で育った'''[[源義経]]の側近'''でもある'''[[佐藤継信]]・[[佐藤忠信]]の佐藤兄弟'''、'''[[従二位]]・[[公卿]]・[[藤原公清]]こと佐藤公清([[佐藤氏]]の祖)'''などがいる。 |
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前九年の役で”清原氏の援軍”のおかげで勝利することが出来た源頼義は、[[関白]]・[[藤原頼通]]によって「前九年の役は[[奥羽]]に野心を抱いた源頼義の私戦である」と裁定され、朝廷は前九年の役の論功行賞で源頼義に一切恩賞を与えなかった。 |
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関白・藤原頼通は前九年の役で清原軍の大軍を率いて戦い朝廷軍に勝利をもたらした[[清原武則]]を、'''[[エミシ]]史上初の[[鎮守府将軍]]'''に任じた。こうして清原武則は、'''エミシ史上初の[[武門の棟梁]]'''となった。このとき清原武則は兄・[[清原光頼]]に代わって清原家の当主となり、以後清原家の当主の座は清原武則の子孫が受け継ぐこととなった。 |
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[[長久]]元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により、[[修理職|修理大夫]]として在京し、[[陸奥国司|陸奥守]]・[[藤原登任]]の下向に同行したとの説がある。[[俘囚]]長で[[奥六郡]]の支配者である[[安倍頼時|安倍頼良]](頼時)の娘(史料では「[[有加一乃末陪]]」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の[[鹿島神社]](現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ<ref>[[菅野円蔵]]『大鳥城記』[[山川出版社]]、1970年</ref>、さらに[[平国妙]]の外戚と言う記述が『[[奥州御舘系図]]』に見えることから2~3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある<ref>[[高橋富雄]]『<small>奥州藤原四代</small>平泉』[[教育社]]、1993年、ISBN 4-315-40158-7</ref>。 |
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[[東北地方]]([[奥羽]])支配の野望を打ち砕かれた[[源頼義]]・[[源義家]]([[八幡太郎]])親子だったが、”源義家のひ孫”に当たる[[源頼朝]]のとき、源頼朝は奥州藤原氏第3代当主・[[藤原秀衡]]が擁立した”源頼朝の弟”である[[源義経]]の大活躍によって[[平氏政権]]の[[平氏]]を滅ぼすと、源頼朝は[[治天の君]]・[[後白河法皇]]を脅迫して[[守護]]・[[地頭]]の任命権を獲得し、奥州藤原氏第4代当主・'''[[藤原泰衡]]を騙して内紛を起こさせて源義経を殺させ'''、更に”源頼朝との約束を守った藤原泰衡”の'''奥州藤原氏をも攻め滅ぼして東北地方を征服'''した。そして、源頼朝は'''藤原清衡が確立した平泉政権'''をお手本として、[[関東地方]]の[[鎌倉市|鎌倉]]に'''日本初の武家政権・[[鎌倉幕府]]'''を成立させた。 |
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[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]が朝廷への貢租を怠る状態になったため、[[永承]]6年([[1051年]])に、陸奥守・藤原登任は安倍氏征討の兵を出したが[[前九年の役#鬼切部の戦い|鬼切部の戦い]]で敗れた([[前九年の役]]の始まり)。この戦いで経清は安倍氏側に属していたが、翌永承7年([[1052年]])に、更迭された登任の後任として[[源頼義]]が陸奥守に任じられ、大赦によって許された頼時が[[朝廷]]に帰服すると、経清もまた頼義に従った。 |
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'''首都・京都に次ぐ人口第2位の大都市・[[平泉]]'''を占領した田舎育ちの源頼朝は、奥州藤原氏初代当主・[[藤原清衡]]が造営した[[国宝]]・[[中尊寺]]の一部である[[中尊寺金色堂]]や2階建ての寺院・二階大堂([[大長寿院]])などを見て、大きな感銘を受けた。そして、源頼朝は自分の”大先輩”である藤原清衡にあやかり、自らの本拠地である鎌倉に'''二階大堂(大長寿院)を真似た2階建ての寺院・[[永福寺]](現[[永福寺跡]])を造営'''した。 |
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[[天喜]]4年([[1056年]])、[[阿久利川事件]]をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、経清は陸奥守頼義に従って参戦するが、経清と同じく頼時の娘を妻に迎えていた[[平永衡]]が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅の頼時に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺された。我が身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。翌天喜5年([[1057年]])の[[黄海の戦い]]で安倍氏が大勝した後、戦況は膠着し、[[康平]]2年([[1059年]])ごろには[[衣川]]以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。 |
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康平5年([[1062年]])、頼義は膠着した戦況を打開するため、安倍氏と同じ俘囚の長であった[[出羽国]][[仙北三郡]]の[[出羽清原氏|清原氏]]に多くの財宝を送って援兵を求めた。清原氏の協力で頼義は安倍氏を滅ぼし、前九年の役は終結した。頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の経済力によるところや計略があったとする説もあり<ref>菅野円蔵『大鳥城記』山川出版社、1970年</ref>、経清に対する頼義の恨みは殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で[[鋸挽き]]によって斬首された<ref>『陸奥話記』の述べる所では、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とある。</ref>。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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*生母不明の子女 |
*生母不明の子女 |
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**男子:刈田経元 |
**男子:刈田経元 |
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**男子:藤原経光 |
** 男子:藤原経光 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年7月4日 (日) 14:18時点における版
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 康平5年9月17日(1062年10月22日) |
別名 | 亘権守、亘理権大夫 |
官位 | 陸奥権守、従七位下、従五位、散位、修理大夫? |
氏族 | 奥州藤原氏 |
父母 | 父:藤原頼遠、母:平国妙姉妹 |
兄弟 | 経清、連国[1] |
妻 | 安倍頼時娘・有加一乃末陪 |
子 | 清衡、刈田経元[2]、経光[3] |
藤原 経清(ふじわら の つねきよ)は平安時代中期の、日本における貴族や武士などの身分である位階が、五位以上の貴族である。
陸奥国亘理郡の領主である豪族で、軍事力をもつ軍事貴族であった。
”日本で唯一の鎮守府”があり陸奥国の 国府でもあった地方軍政府・多賀城の事実上のナンバーツーである。
なお、鎮守府(鎮守府将軍)とは常時(平時)の地方軍政府のことで、臨時の地方軍政府が幕府(征夷大将軍)である。
先祖には、関東地方8ヵ国(関八州)を征服して「新皇」を称し”関東独立”に挑んだ平将門による将門の乱を鎮圧した、従二位・公卿・鎮守府将軍・武門の棟梁・武蔵守・下野守の藤原秀郷がいる。
離婚した母の再婚相手は、朝廷の朝議メンバーである従三位・公卿の藤原経輔。
妻は、朝廷に降伏したエミシの豪族達の中の最大勢力である陸奥国の俘囚長、安倍頼良(改名し安倍頼時)(安倍晋三元首相の先祖)の長女である。
息子は平泉政権の奥州藤原氏初代当主・藤原清衡(世界遺産中尊寺金色堂等の建造者)であり、藤原経清は奥羽(奥州)藤原氏5代の祖である。
なお、「奥州」は「陸奥国」(宮城県、福島県、岩手県、青森県)を意味する言葉であり、奥羽(東北地方、北日本)には「羽州」である「出羽国」(山形県、秋田県)も存在するが、「奥州」という言葉には鎌倉幕府の東北地方における長官である「奥州総奉行」のように「東北地方全域の」という意味もあり、日本の歴史学者達が名付けた「奥州藤原氏」という名称には、「東北地方全域の藤原氏」という意味がる。
このことは、日本を代表する「大国 (令制国)」である陸奥国の、「中国(律令制)」である出羽国への、優越性を示していることでもある。
経歴
陸奥権守従七位下に叙せられたのち散位。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の官人の異称)。『尊卑分脈』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・清衡も権大夫[4]であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。
日本では9世紀前半まで東北地方(陸奥国と出羽国)の北部(岩手県・青森県・山形県・秋田県)に、それ以前の出雲や吉備や毛野などのような朝廷から独立した地方王国が、朝廷(大和)から征服されずにまだ生き残っていた。
しかし朝廷は首都・平城京(奈良県)に次ぐ新たな首都・平安京(京都府)を造営した桓武天皇のとき東北地方北部を征服し、朝廷は北海道(蝦夷島)を除く日本の統一を達成した。当時蝦夷ヶ島には日本人とは異なるアイヌ語を話す異民族・アイヌが住んでいて、蝦夷ヶ島はその後も長い間”外国”のままだった。
そのような流れの中、朝廷は東北地方北部の住民を「エミシ」と呼んで敵視・侮蔑し、その後も朝廷は朝廷に降伏したエミシを、「俘囚」として差別していた。
藤原経清の名が登場する史料は当初『陸奥話記』のみだったため藤原姓は私称ではないかと疑問視されていたが、藤原氏の氏長者であり関白を50年間も務め摂関政治の最盛期を現出した史上最大の関白である藤原頼通(父は藤原道長)が元首都・奈良の大寺院である興福寺を全面修築した際の永承2年(1047年)の歴史資料『造興福寺記』によって、藤原経清が首都・京都の藤原氏と同じ藤原氏であるということが既に1990年代前半に確認されている。この『造興福寺記』には位階(身分)が五位以上の貴族である藤原氏の名前が書かれていて、その中には東北地方では数人しかいない藤原氏の貴重な貴族である藤原経清の名前も書かれている。
長久元年(1040年)より数ヵ年国府の推挙により修理大夫として京都で暮らしていたとみられるとする説がある。
首都・京都で暮らしていた藤原経清は、陸奥守・藤原登任の側近として”日本唯一の鎮守府”兼陸奥国の国府である多賀城(宮城県多賀城市)に赴任するため、藤原登任らと共に陸奥国へ下向したとみられる。
位階が五位以上の軍事貴族として陸奥国亘理郡の領主となり、中島城(宮城県亘理郡山元町)を居城とした。
藤原経清が”鎮守府兼陸奥国府・多賀城のナンバーツー”となったことには、朝廷の中枢にいる藤原経清の生母の夫,従三位・藤原経輔が藤原経清の後ろ盾になっていたということも強く影響していた。
なお、藤原経清の居城があった場所については、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の鹿島神社(現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ[5]、さらに平国妙の外戚と言う記述が『奥州御舘系図』に見えることから2~3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある[6]。
その奥羽(東北地方、北日本)の陸奥国(宮城県、福島県、山形県、岩手県、秋田県 、青森県)において数人しかいない藤原氏の貴族である藤原経清は、現在の岩手県(陸奥国)・青森県(陸奥国)・秋田県(出羽国)を範囲とする東北地方北部(北東北)の俘囚の豪族達の中の最大勢力である俘囚長であり、奥六郡の支配者でもある安倍頼良(安倍頼時)の長女と結婚した(藤原経清の妻の名は史料では「有加一乃末陪」と記されている)。こうして藤原経清は、安倍頼良の娘婿となった。
「東北地方北部の住民であるエミシの最大勢力」であり「俘囚の最大勢力」でもある安倍頼良の長女と結婚した藤原経清は、居城を亘理郡の中島城から安倍頼良の居城である衣川城(衣川柵)(岩手県奥州市旧衣川村)に近い豊田城(豊田館跡)(岩手県奥州市旧江刺市)へ遷した。
現在、奥州市江刺地区の豊田館跡のすぐそばには、藤原経清と奥州藤原氏4代の歴史テーマパークであるえさし藤原の郷が存在する。
この頃、衣川を本拠地とする安倍頼良の勢力が、朝廷とエミシとの”事実上の国境の川”である衣川を越えて南へ拡大し、安部頼良の勢力が宮城県北部一帯(大崎市など)にまで及んだ。更に安倍頼良が、朝廷への納税を怠った(安倍依頼良が納税ミスをしたとの説もある)。
永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任は国司不在となっていた隣国・出羽国で出羽守代行を務めていた平氏一族の秋田城介・平重成に、安倍頼良追討のための東北地方連合軍の結成を呼びかけた。平繁成は藤原登任の要請に応じ、藤原登任と平繁成の陸奥出羽連合軍(朝廷軍)は、安倍頼良の安部軍との戦いを開始した(前九年の役の始まり)。この戦いで陸奥守・藤原登任の側近である藤原経清は、当然のことながら朝廷側に属していた。
しかし朝廷軍は、陸奥国の現在の宮城県大崎市(旧鳴子町鬼首温泉付近)での鬼切部の戦いで、安倍頼良・安倍貞任親子の安部軍に大敗した。朝廷軍の司令官・平繁成は安倍軍に捕らわれた。
翌年の永承7年(1052年)、鬼切部の戦いで安倍頼良に敗れた陸奥守・藤原登任、および安倍頼良に解放された平繁成は、藤原氏の同族であり朝廷の”事実上のナンバーワン”でもある関白・藤原頼通によって、陸奥守と秋田城介を共に解任された(のち藤原登任は首都京都の山城守)。藤原経清は藤原登任なきあとの多賀城で陸奥守代理となった。
関白・藤原頼通は藤原登任の後任の陸奥守として、有力な軍事貴族である源氏の当主・源頼義を陸奥守に任じた。こうして藤原頼通は、安倍頼良への対決姿勢を示した。
その一方で藤原頼通は、”国母”である自分の姉,上東門院・藤原彰子(父は関白・藤原道長、一条天皇の中宮、後一条天皇の母、後朱雀天皇の母)の病気治癒を祈願する非常大赦を発令し、安倍頼良の反乱罪を許した。
これを知った安倍頼良(あべのよりよし)は大いに喜んで朝廷に帰服すると共に、新任の陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし)の名前と自分の名前の発音が同じ「よりよし」であることを恐縮して、自分の名前を「頼良」(よりよし)から「頼時」(よりとき)に改名した。
こうして朝廷軍が大敗を喫した安倍頼良との戦争は、安倍頼良が罪を問われることなく一件落着した。
以後4年間、安倍頼良は陸奥守・源頼義をもてなして頼義の機嫌を取り、東北地方の平和を保った。
ところが、鬼切部の戦いから4年後の天喜4年(1056年)、陸奥守・源頼義の4年の任期が満了目前となったとき、源頼義が安倍頼時の長男である安倍貞任を罠にはめて謀反人に仕立て上げる阿久利川事件を起こし、源頼義は安部頼時に安倍貞任の首(処刑)を要求した。
安倍頼時は源頼義からの要求を断り、陸奥守・源頼義との戦いを開始した。このときも藤原経清は、陸奥守・源頼義に従って朝廷側として参戦した。
ところが、藤原経清と同様に安倍頼時の娘が妻である平氏一族の宮城県伊具郡の領主・平永衡(藤原経清の義兄弟)が、源頼義からの謀反の疑い(4年前の鬼切部の戦いのとき、平永衡が銀色の甲冑を身に着けていたため、平永衡が安倍軍から矢を射られないようにしたという疑い)で、戦争中の陣中で源頼義に斬り殺されるという事件が起きた。この事件を知った藤原経清は、自分も平永衡同様に”安倍頼時の娘婿”であるため、源頼義に殺されてしまうことを怖れた。
そこで藤原経清は安倍軍による多賀城奇襲の噂を流して源頼義を多賀城に引き上げさせると、現地に残っていた多賀城軍(朝廷軍)を率いて安倍頼時側に寝返った。こうして鬼切部の戦いで朝廷の陸奥出羽連合軍に圧勝した強力な安倍軍の戦力は、更に増強された。
天喜5年(1057年)、陸奥守・源頼義は、安倍頼時の支配下にある陸奥国・青森県八戸市の俘囚の豪族である親戚・安倍富忠を、朝廷側に寝返らせることに成功した。安倍富忠が反乱を起こすと安倍頼時は反乱鎮圧のため出陣したが、安倍頼時は待ち伏せをしていた安倍富忠方の伏兵の矢に当たり戦死した。
しかし安倍家の新当主には安倍頼時の長男である安倍貞任が就き、安部・藤原連合軍の勢いはそのまま保たれた。こうして安倍・藤原連合軍(東北独立軍)は、安倍貞任と貞任の1歳年下である藤原経清の”義兄弟”が支配する体制となった。
同年の天喜5年(1057年)、安倍・藤原連合軍は黄海の戦いで朝廷軍に大勝し、安倍・藤原陣営は更に優勢となった。
康平2年(1059年)頃になると衣川より南の地域(岩手県南部および宮城県北部)の住民は、国府(朝廷)が発した徴税の札である「赤符」に従わず、藤原経清が発した徴税の札である「白符」に従って税金を払うようになった。こうして”関東地方の約2倍の面積”がある東北地方において、東北地方中部は朝廷から独立した地域となった。しかも安倍貞任の勢力圏は陸奥国の岩手県と多賀城がある宮城県の北部だけではなく、青森県にも及んでいた。
窮地に陥っていた陸奥守・源頼義は、安倍氏の親戚である”朝廷に降伏したエミシの豪族達の中で出羽国のナンバーワンである俘囚長”、仙北三郡の支配者・清原光頼(本拠地は秋田県横手市)に多くの財宝を贈り、清原光頼に朝廷軍として参戦してくれるようしつこく懇願した。
そして、ついに清原光頼は亡き安倍頼時の長男・安倍貞任を裏切って、前九年の役に朝廷軍として参戦することを決意した。清原光頼は弟の清原武則を清原軍の司令官として武則に兵1万5千を与えた。
清原武則は大軍を率いて前九年の役に参戦し、朝廷軍の主力軍として安倍・清原連合軍2万と戦った。勢いづいた朝廷軍は戦局を逆転させ、安倍・藤原連合軍は安倍氏の居城である衣川城(衣川柵)を攻略されてしまった。
安倍・清原連合軍は北へと退き始め、白鳥城(白鳥柵)・小松城(小松柵)・鳥海城(鳥海柵)・黒沢尻城(黒沢尻柵)・鶴脛城(鶴脛柵)・比与鳥城(比与鳥柵)などを次々に失った。
康平5年(1062年)、安倍・藤原連合軍は最後の拠点である安倍氏の新たな居城・厨川城(厨川柵)(岩手県盛岡市)で徹底抗戦したが、厨川の戦いで敗れた。
安倍貞任は戦死し、安倍貞任の息子・千代童丸も殺され、藤原経清は捕らわれたあと、源頼義自らが刀の刃を打ち欠いて切れ味を鈍くした鈍刀で首を切られ殺された。こうして安部氏と陸奥,藤原氏は滅亡し、前九年の役は終結した。
処刑された藤原経清の妻である安倍頼時の長女は、清原武則の長男である清原武貞に気に入られ、清原武貞の妻となった。
この藤原経清の妻の連れ子である藤原経清の一人息子・藤原清衡が、のちの寛治1年(1087年)に清原氏の内紛である後三年の役で兄弟達を倒し、自分に協力した陸奥守・源義家(父は源頼義)の影響力も排除して、戦争の最終勝利者となった。
藤原清衡は本拠地を亡き父・藤原経清および母と共に暮らした豊田館跡(岩手県奥州市江刺)に遷し、間もなく本拠地を近くの平泉(岩手県平泉町)に遷し、東北地方全域を自治支配する”日本初の地方政権”である平泉政権・奥州藤原氏4代の初代当主となった。
前九年の役では、厨川の戦いで朝廷軍に降伏した安倍頼時の次男である安倍宗任が、源頼義に殺されず西日本への追放処分となった。のちに安倍宗任の孫娘が藤原清衡の長男である奥州藤原氏第2代当主・藤原基衡の妻となった他に、安倍宗任の子孫から、”癌で死ななければ首相確実”だった安倍晋太郎自民党幹事長や、その長男である安倍晋三元首相らが誕生した。
また、安倍首相の祖父・岸信介首相の弟である佐藤栄作首相の先祖には、天皇の御所 の警護に当たる北面の武士だった”日本を代表する歌人”西行法師こと佐藤義清、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡(貴族・陸奥守・鎮守府将軍)の側近であり藤原秀衡の元で育った源義経の側近でもある佐藤継信・佐藤忠信の佐藤兄弟、従二位・公卿・藤原公清こと佐藤公清(佐藤氏の祖)などがいる。
前九年の役で”清原氏の援軍”のおかげで勝利することが出来た源頼義は、関白・藤原頼通によって「前九年の役は奥羽に野心を抱いた源頼義の私戦である」と裁定され、朝廷は前九年の役の論功行賞で源頼義に一切恩賞を与えなかった。
関白・藤原頼通は前九年の役で清原軍の大軍を率いて戦い朝廷軍に勝利をもたらした清原武則を、エミシ史上初の鎮守府将軍に任じた。こうして清原武則は、エミシ史上初の武門の棟梁となった。このとき清原武則は兄・清原光頼に代わって清原家の当主となり、以後清原家の当主の座は清原武則の子孫が受け継ぐこととなった。
東北地方(奥羽)支配の野望を打ち砕かれた源頼義・源義家(八幡太郎)親子だったが、”源義家のひ孫”に当たる源頼朝のとき、源頼朝は奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡が擁立した”源頼朝の弟”である源義経の大活躍によって平氏政権の平氏を滅ぼすと、源頼朝は治天の君・後白河法皇を脅迫して守護・地頭の任命権を獲得し、奥州藤原氏第4代当主・藤原泰衡を騙して内紛を起こさせて源義経を殺させ、更に”源頼朝との約束を守った藤原泰衡”の奥州藤原氏をも攻め滅ぼして東北地方を征服した。そして、源頼朝は藤原清衡が確立した平泉政権をお手本として、関東地方の鎌倉に日本初の武家政権・鎌倉幕府を成立させた。
首都・京都に次ぐ人口第2位の大都市・平泉を占領した田舎育ちの源頼朝は、奥州藤原氏初代当主・藤原清衡が造営した国宝・中尊寺の一部である中尊寺金色堂や2階建ての寺院・二階大堂(大長寿院)などを見て、大きな感銘を受けた。そして、源頼朝は自分の”大先輩”である藤原清衡にあやかり、自らの本拠地である鎌倉に二階大堂(大長寿院)を真似た2階建ての寺院・永福寺(現永福寺跡)を造営した。
系譜
藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡
脚注
- ^ 官位は出羽輔介(『尊卑分脈』)。
- ^ 官職は左衛門尉。白石氏の祖と伝わる(『白石氏系図』)。
- ^ 『陸奥話記』
- ^ http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_21.html
- ^ 菅野円蔵『大鳥城記』山川出版社、1970年
- ^ 高橋富雄『奥州藤原四代平泉』教育社、1993年、ISBN 4-315-40158-7
関連項目
- 経清を扱った作品