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城陽郡は[[秦]]の三十六郡に含まれていないが、秦の[[封泥]]の中に「城陽侯印」があり、秦代に城陽郡が置かれていた可能性がある<ref>辛徳勇「秦始皇三十六郡新考」</ref>。 |
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[[紀元前201年]]([[劉邦|高帝]]6年)、[[前漢]]により[[劉肥]]が斉王に封じられ、[[膠東郡]]・[[膠西郡]]・[[臨シ郡|臨菑郡]]・[[済北郡]]・[[博陽郡]]・城陽郡の73県を封邑とされた<ref>『[[漢書]]』高帝紀下</ref>。[[紀元前193年]]([[恵帝 (漢)|恵帝]]2年)、斉王劉肥が城陽郡を魯元公主の湯沐邑として献上した<ref>『漢書』恵帝紀</ref>。[[紀元前179年]]([[文帝 (漢)|文帝]]元年)、斉国に復帰した。[[紀元前178年]](文帝2年)、朱虚侯劉章が城陽王となり、'''城陽国'''が置かれた<ref>『漢書』文帝紀</ref>。[[紀元前168年]](文帝12年)、城陽王劉喜が淮南王に改封され、城陽国は廃止されて城陽郡となった。[[紀元前164年]](文帝16年)、淮南王劉喜が再び城陽王となり、城陽郡は城陽国と改められた<ref>『漢書』高五王伝</ref>。城陽国は[[兗州]]に属し、[[莒県|莒]]・[[沂南県|陽都]]・[[沂水県|東安]]・[[蒙陰県|慮]]の4県を管轄した。[[王莽]]のとき、莒陵郡と改称された<ref>『漢書』地理志下</ref>。 |
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[[26年]]([[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]2年)、劉祉が城陽王となり、城陽国が置かれた<ref>『[[後漢書]]』光武帝紀上</ref>。[[37年]](建武13年)、城陽国が廃止され、[[琅邪郡]]に編入された<ref>『後漢書』光武帝紀下</ref>。[[90年]]([[永元 (漢)|永元]]2年)、劉淑が城陽王となり、城陽国が置かれた。[[94年]](永元6年)、城陽王劉淑が死去し、城陽国は廃止されて、琅邪郡にもどされた<ref>『後漢書』和帝紀</ref>。 |
2021年3月1日 (月) 05:07時点における版
城陽郡(じょうよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代以前から晋代にかけて、現在の山東省の臨沂市・日照市・棗荘市にまたがる地域に設置された。
概要
城陽郡は秦の三十六郡に含まれていないが、秦の封泥の中に「城陽侯印」があり、秦代に城陽郡が置かれていた可能性がある[1]。
紀元前201年(高帝6年)、前漢により劉肥が斉王に封じられ、膠東郡・膠西郡・臨菑郡・済北郡・博陽郡・城陽郡の73県を封邑とされた[2]。紀元前193年(恵帝2年)、斉王劉肥が城陽郡を魯元公主の湯沐邑として献上した[3]。紀元前179年(文帝元年)、斉国に復帰した。紀元前178年(文帝2年)、朱虚侯劉章が城陽王となり、城陽国が置かれた[4]。紀元前168年(文帝12年)、城陽王劉喜が淮南王に改封され、城陽国は廃止されて城陽郡となった。紀元前164年(文帝16年)、淮南王劉喜が再び城陽王となり、城陽郡は城陽国と改められた[5]。城陽国は兗州に属し、莒・陽都・東安・慮の4県を管轄した。王莽のとき、莒陵郡と改称された[6]。
26年(後漢の建武2年)、劉祉が城陽王となり、城陽国が置かれた[7]。37年(建武13年)、城陽国が廃止され、琅邪郡に編入された[8]。90年(永元2年)、劉淑が城陽王となり、城陽国が置かれた。94年(永元6年)、城陽王劉淑が死去し、城陽国は廃止されて、琅邪郡にもどされた[9]。
198年(建安3年)、曹操が琅邪郡・東海郡・北海郡を分割して、城陽郡・利城郡・昌慮郡を置いた[10]。
西晋のとき、城陽郡は青州に属し、莒・姑幕・諸・淳于・東武・高密・壮武・黔陬・平昌・昌安の10県を管轄した。299年(元康9年)、城陽郡は廃止され、高密国に編入された[11]。