「小野和義」の版間の差分
獰猛スイマー1000 (会話 | 投稿記録) m →近鉄時代 |
自称大将の中の大将恵野木 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: 差し戻し済み ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
74行目: | 74行目: | ||
{{by|2008年}}からは埼玉西武ライオンズの一軍投手コーチに就任。{{by|2009年}}はリーグワーストとなるサヨナラ負けを14回記録するなど中継ぎ陣が低迷、救援防御率は4.15、5.31と2年連続でリーグ最下位となった。他のパ・リーグ5球団はいずれも400個代の四球数だったが、西武だけは両リーグ最多の550四球を献上しBクラスに終わった一因だった<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2010/07/16/article35/ 【プロ野球】コーチの真髄(2)〜西武・潮崎哲也「厳しい言葉で投手陣をあおる常勝王国の継承者」] スポーツナビ 2010年7月16日</ref>。{{by|2010年}}は同球団の二軍投手コーチ、{{by|2011年}}は再び一軍投手コーチになるも、同年[[11月7日]]に来季のコーチ契約を更新しないと発表された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/07/kiji/K20111107001981600.html 西武V逸で粛清 5コーチと契約せず] Sponichi Annex 2011年11月7日</ref>。{{by|2012年}}からは同球団の編成部プロ担当としてフロント入りし<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/19/kiji/K20111119002059550.html 西武配置転換 小野前投手コーチが編成部プロ担当に] Sponichi Annex 2011年11月19日</ref>、{{by|2019年}}から一軍投手コーチとして現場に復帰。リーグ連覇は達成したものの、チーム防御率4.35はリーグ最下位(12球団中11位)に終わり、[[2019年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|CS]]では4戦32失点、防御率7.25と投手陣が低迷したため4連敗でCSで敗退となり、試合終了後に来季コーチ契約を結ばないと発表された<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910130001156.html 西武は小野コーチと来季契約結ばず スタッフで残留] 日刊スポーツ、2019年10月13日</ref>。[[2020年]]からは再度球団本部チーム統括部編成グループプロ担当に就くと発表された<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2019/10/25/0012819564.shtml 西武が来季コーチングスタッフ発表 新任は豊田1軍投手コーチ、田辺3軍統括コーチら] デイリースポーツ、2019年10月25日</ref>。 |
{{by|2008年}}からは埼玉西武ライオンズの一軍投手コーチに就任。{{by|2009年}}はリーグワーストとなるサヨナラ負けを14回記録するなど中継ぎ陣が低迷、救援防御率は4.15、5.31と2年連続でリーグ最下位となった。他のパ・リーグ5球団はいずれも400個代の四球数だったが、西武だけは両リーグ最多の550四球を献上しBクラスに終わった一因だった<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2010/07/16/article35/ 【プロ野球】コーチの真髄(2)〜西武・潮崎哲也「厳しい言葉で投手陣をあおる常勝王国の継承者」] スポーツナビ 2010年7月16日</ref>。{{by|2010年}}は同球団の二軍投手コーチ、{{by|2011年}}は再び一軍投手コーチになるも、同年[[11月7日]]に来季のコーチ契約を更新しないと発表された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/07/kiji/K20111107001981600.html 西武V逸で粛清 5コーチと契約せず] Sponichi Annex 2011年11月7日</ref>。{{by|2012年}}からは同球団の編成部プロ担当としてフロント入りし<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/19/kiji/K20111119002059550.html 西武配置転換 小野前投手コーチが編成部プロ担当に] Sponichi Annex 2011年11月19日</ref>、{{by|2019年}}から一軍投手コーチとして現場に復帰。リーグ連覇は達成したものの、チーム防御率4.35はリーグ最下位(12球団中11位)に終わり、[[2019年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|CS]]では4戦32失点、防御率7.25と投手陣が低迷したため4連敗でCSで敗退となり、試合終了後に来季コーチ契約を結ばないと発表された<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910130001156.html 西武は小野コーチと来季契約結ばず スタッフで残留] 日刊スポーツ、2019年10月13日</ref>。[[2020年]]からは再度球団本部チーム統括部編成グループプロ担当に就くと発表された<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2019/10/25/0012819564.shtml 西武が来季コーチングスタッフ発表 新任は豊田1軍投手コーチ、田辺3軍統括コーチら] デイリースポーツ、2019年10月25日</ref>。 |
||
元西武の[[岡本慎也]]は「話が長いのは西武の小野コーチ。マウンド上で次の打者はこう攻めろとか助言してくれるのだがなかなか話が終わらない。頼むからもうベンチへ戻ってくださいよ」と述べてい |
元西武の[[岡本慎也]]は「話が長いのは西武の小野コーチ。マウンド上で次の打者はこう攻めろとか助言してくれるのだがなかなか話が終わらない。頼むからもうベンチへ戻ってくださいよ」と述べている。この事から、直後に投手が失点する傾向が多いのは、マウンドでは根性論と精神論しか話していない事が推測される<ref>元中日、西武、楽天 04年最優秀中継ぎ投手 岡本真哉 スライダー放談 マウンド上での長話の小野コーチには参った - [[日刊ゲンダイ]]2012年2月22日付</ref>。 |
||
== 選手としての特徴 == |
== 選手としての特徴 == |
2021年2月17日 (水) 14:00時点における版
西武一軍投手コーチ時代 (2011年8月30日、こまちスタジアム) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県宇都宮市 |
生年月日 | 1965年11月13日(59歳) |
身長 体重 |
179 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
初出場 | 1984年5月3日 |
最終出場 | 1997年6月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
小野 和義(おの かずよし、1965年11月13日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
経歴
プロ入り前
創価高等学校時代は大型左腕投手として江夏二世の声があった。2年生時の1982年秋季東京大会では準決勝に進むが、桜美林高に惜敗。翌1983年の夏の甲子園予選西東京大会では、準決勝で明大中野高の武田一浩に投げ勝ち、決勝でも帝京大高を降して第65回全国高等学校野球選手権大会への出場を決める。大会では1回戦で東山高に敗退した。
1983年度ドラフト会議にて3球団競合の末に近鉄バファローズから1巡目指名を受けて入団。
近鉄時代
1984年、高卒ルーキーながら1年目から24試合に登板。プロ初勝利、初セーブもマークした[1]。
1986年、開幕から近鉄の2連敗で迎えた第3戦(藤井寺)では1点のリードを守り抜いて2失点の完投勝利。その後は必ずしも安定した投球でなかったが、以降3連勝、6月5日の阪急戦(日生)からは5連勝、7月3日の日本ハム戦(後楽園)では救援のマウンドながら勝利投手となり、両リーグ一番乗りで10勝に到達した。前半戦だけでプロ初完封を含む12勝を挙げ、同年のオールスターに出場した。だが、後半戦に入ると疲労もあって急失速し、最終的にはリーグ最多の自責点、被本塁打を喫する。防御率5.02はリーグ最下位。それでも自己最多の14勝で、先発ローテーションの一角を不動のものとした[1]。
1987年、オールスターゲーム第2戦に出場、3イニングを無失点、3奪三振の好投で優秀選手賞を受賞した。前年に続き2年連続でリーグ最多の被本塁打を喫するも、11勝を挙げる[1]。
1988年、2連勝で優勝が決まるロッテとの最終戦ダブルヘッダー(10.19)の第1戦に先発、7回3失点と踏ん張って、逆転勝ちにつなげた。同年は10勝を挙げる[1]。
1989年、12勝を挙げ、2年連続リーグ4位の防御率3.39でリーグ優勝に貢献[1]。しかしシーズン終盤に肘を故障し、優勝決定時は出場選手登録を外れる[2]。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第4戦に先発するが6回に打ち込まれ降板、敗戦投手となった。シーズン終了後には左肘の手術を受ける[1]。
1990年は故障のため僅か3勝に終わった。
1992年は開幕投手を任されたもののシーズン未勝利に終わる。
1993年は当時近鉄の監督だった鈴木啓示と調整方法を巡って対立、その影響で同年限りで自由契約となり西武ライオンズへ移籍。
西武時代
1994年には豪快なフォームで遅いボールを投げる技術を身につけ貴重な先発左腕として復活、7勝を挙げる。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第3戦に先発、8回を1失点と好投するが勝ち負けはつかなかった。
翌1995年も7勝を記録するが、1996年は再び故障に苦しみ未勝利に終わる。1997年の開幕直後に金村義明との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍する。
中日時代
8試合に登板したが勝ち星なく、故障も癒えなく二軍での登板もままならなかった、オフに現役を引退[1]。
引退後
1998年から2001年までは古巣・近鉄の一軍投手コーチ、2002年から2003年までは二軍投手コーチ、2004年は再び一軍投手コーチを務めた。1998年と1999年は2年連続チーム防御率リーグ最下位、2001年のチームは優勝したが、チーム防御率4.98は12球団ワーストを記録し翌年二軍投手コーチに配置転換になっている。
2005年からは新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチに就任したが、チーム防御率が5.67と12球団最下位に低迷。2006年からは同球団の二軍投手コーチとなったが、2007年9月22日に来季の契約を結ばないことが発表された[4]。
2008年からは埼玉西武ライオンズの一軍投手コーチに就任。2009年はリーグワーストとなるサヨナラ負けを14回記録するなど中継ぎ陣が低迷、救援防御率は4.15、5.31と2年連続でリーグ最下位となった。他のパ・リーグ5球団はいずれも400個代の四球数だったが、西武だけは両リーグ最多の550四球を献上しBクラスに終わった一因だった[5]。2010年は同球団の二軍投手コーチ、2011年は再び一軍投手コーチになるも、同年11月7日に来季のコーチ契約を更新しないと発表された[6]。2012年からは同球団の編成部プロ担当としてフロント入りし[7]、2019年から一軍投手コーチとして現場に復帰。リーグ連覇は達成したものの、チーム防御率4.35はリーグ最下位(12球団中11位)に終わり、CSでは4戦32失点、防御率7.25と投手陣が低迷したため4連敗でCSで敗退となり、試合終了後に来季コーチ契約を結ばないと発表された[8]。2020年からは再度球団本部チーム統括部編成グループプロ担当に就くと発表された[9]。
元西武の岡本慎也は「話が長いのは西武の小野コーチ。マウンド上で次の打者はこう攻めろとか助言してくれるのだがなかなか話が終わらない。頼むからもうベンチへ戻ってくださいよ」と述べている。この事から、直後に投手が失点する傾向が多いのは、マウンドでは根性論と精神論しか話していない事が推測される[10]。
選手としての特徴
スリークォーターから投げる140km/h台中後半のストレート、フォーク(スプリットフィンガード・ファストボール)、カーブ、スライダーを武器にしていた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | 近鉄 | 24 | 8 | 1 | 0 | 0 | 2 | 3 | 1 | -- | .400 | 304 | 68.0 | 78 | 11 | 24 | 1 | 1 | 34 | 3 | 0 | 44 | 40 | 5.29 | 1.50 |
1985 | 39 | 16 | 3 | 0 | 0 | 3 | 6 | 1 | -- | .333 | 512 | 113.1 | 119 | 28 | 57 | 3 | 0 | 96 | 0 | 0 | 74 | 66 | 5.24 | 1.55 | |
1986 | 31 | 30 | 11 | 1 | 0 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 846 | 195.1 | 201 | 41 | 65 | 1 | 3 | 165 | 2 | 0 | 116 | 109 | 5.02 | 1.36 | |
1987 | 28 | 27 | 14 | 3 | 0 | 11 | 11 | 0 | -- | .500 | 776 | 190.1 | 169 | 36 | 56 | 4 | 2 | 138 | 0 | 0 | 91 | 86 | 4.07 | 1.18 | |
1988 | 30 | 30 | 10 | 4 | 1 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 851 | 208.2 | 194 | 14 | 60 | 3 | 2 | 144 | 5 | 0 | 69 | 60 | 2.59 | 1.22 | |
1989 | 25 | 24 | 13 | 1 | 0 | 12 | 9 | 1 | -- | .571 | 744 | 180.1 | 167 | 23 | 59 | 5 | 1 | 149 | 2 | 0 | 82 | 68 | 3.39 | 1.25 | |
1990 | 13 | 13 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 260 | 60.2 | 61 | 9 | 20 | 1 | 3 | 22 | 0 | 0 | 38 | 34 | 5.04 | 1.34 | |
1991 | 21 | 21 | 4 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | -- | .750 | 594 | 144.2 | 128 | 16 | 49 | 0 | 2 | 65 | 2 | 0 | 49 | 46 | 2.86 | 1.23 | |
1992 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 126 | 25.1 | 35 | 6 | 17 | 1 | 1 | 9 | 0 | 0 | 27 | 26 | 9.24 | 2.05 | |
1993 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 49 | 9.2 | 12 | 2 | 8 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 9 | 9 | 8.38 | 2.07 | |
1994 | 西武 | 28 | 17 | 3 | 1 | 1 | 7 | 5 | 0 | -- | .583 | 447 | 102.0 | 99 | 15 | 47 | 1 | 2 | 73 | 5 | 0 | 53 | 44 | 3.88 | 1.43 |
1995 | 21 | 19 | 4 | 3 | 0 | 7 | 9 | 1 | -- | .438 | 515 | 123.0 | 107 | 12 | 47 | 3 | 3 | 87 | 2 | 0 | 44 | 39 | 2.85 | 1.25 | |
1996 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 57 | 12.1 | 9 | 4 | 10 | 1 | 0 | 14 | 1 | 0 | 8 | 5 | 3.65 | 1.54 | |
1997 | 中日 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 61 | 11.2 | 20 | 2 | 6 | 1 | 0 | 6 | 0 | 0 | 15 | 15 | 11.57 | 2.23 |
通算:14年 | 284 | 217 | 64 | 13 | 2 | 82 | 78 | 4 | -- | .513 | 6142 | 1445.1 | 1399 | 219 | 525 | 25 | 20 | 1005 | 23 | 0 | 719 | 647 | 4.03 | 1.33 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1984年5月3日、対南海ホークス4回戦(日生球場)、3回表2死に2番手で救援登板、3回1/3を3失点
- 初奪三振:同上、4回表にジェフ・ドイルから
- 初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1984年6月17日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点
- 初セーブ:1984年7月31日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、7回裏1死に3番手で救援登板・完了、2回2/3無失点
- 初完封勝利:1986年5月1日、対日本ハムファイターズ6回戦(後楽園球場)
- 節目の記録
- 1000投球回:1990年9月23日、対福岡ダイエーホークス21回戦(平和台球場)、5回裏1死に達成
- 1000奪三振:1997年5月9日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤドーム)、6回表に木村拓也から ※史上98人目
- その他の記録
背番号
- 26 (1984年 - 1993年)
- 24 (1994年 - 1997年途中)
- 18 (1997年途中 - 同年終了)
- 74 (1998年 - 2007年)
- 80 (2008年 - 2011年)
- 88 (2019年 - )
脚注
- ^ a b c d e f g “小野和義 “10.19”初戦に先発してVへの夢をつないだ猛牛の左腕/プロ野球1980年代の名選手”. ベースボール・マガジン社. (2019年4月19日) 2020年7月2日閲覧。
- ^ 1989年10月26日 日刊スポーツ2頁
- ^ パ・リーグbluebook2011
- ^ 楽天・小野投手コーチらが退団、スポーツニッポン2007年9月22日
- ^ 【プロ野球】コーチの真髄(2)〜西武・潮崎哲也「厳しい言葉で投手陣をあおる常勝王国の継承者」 スポーツナビ 2010年7月16日
- ^ 西武V逸で粛清 5コーチと契約せず Sponichi Annex 2011年11月7日
- ^ 西武配置転換 小野前投手コーチが編成部プロ担当に Sponichi Annex 2011年11月19日
- ^ 西武は小野コーチと来季契約結ばず スタッフで残留 日刊スポーツ、2019年10月13日
- ^ 西武が来季コーチングスタッフ発表 新任は豊田1軍投手コーチ、田辺3軍統括コーチら デイリースポーツ、2019年10月25日
- ^ 元中日、西武、楽天 04年最優秀中継ぎ投手 岡本真哉 スライダー放談 マウンド上での長話の小野コーチには参った - 日刊ゲンダイ2012年2月22日付
- ^ 『ベースボール・レコード・ブック1992』ベースボール・マガジン社、1991年12月発売、788頁。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 小野和義 - NPB.jp 日本野球機構