「ヘンリー・フィッツロイ (初代グラフトン公)」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
33行目: | 33行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[1663年]][[9月28日]]、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]とその愛人[[バーバラ・パーマー|バーバラ・ヴィリアーズ]](後の初代[[クリーヴランド公爵|クリーヴランド女公爵]]バーバラ・パーマー。第2代{{仮リンク|グラディソン子爵|en|Viscount Grandison}}[[ウィリアム・ヴィリアーズ (第2代グラディソン子爵)|ウィリアム・ヴィリアーズ]]の娘)の間の3人の非嫡出男子の次男として生まれる<ref name="CP DG">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
[[1663年]][[9月28日]]、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]とその愛人[[バーバラ・パーマー|バーバラ・ヴィリアーズ]](後の初代[[クリーヴランド公爵|クリーヴランド女公爵]]バーバラ・パーマー。第2代{{仮リンク|グラディソン子爵|en|Viscount Grandison}}[[ウィリアム・ヴィリアーズ (第2代グラディソン子爵)|ウィリアム・ヴィリアーズ]]の娘)の間の3人の非嫡出男子の次男として生まれる<ref name="CP DG">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/grafton1675.htm|title=Grafton, Duke of (E, 1675)|accessdate= 2016-2-5 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="DNB">{{cite DNB|wstitle=Fitzroy, Henry (1663-1690)|volume=19}}</ref>。同母兄に初代[[サウサンプトン公爵]]・第2代クリーヴランド公爵[[チャールズ・フィッツロイ (第2代クリーヴランド公爵)|チャールズ・フィッツロイ]]、同母弟に初代[[ノーサンバーランド公爵]][[ジョージ・フィッツロイ (初代ノーサンバランド公)|ジョージ・フィッツロイ]]がある{{sfn|森護|1987|p=139-140}}。 |
||
ただしヘンリーには母の愛人{{仮リンク|ヘンリー・ジャーミン (初代ドーヴァー男爵)|label=ヘンリー・ジャーミン|en|Henry Jermyn, 1st Baron Dover}}の子ではないかという疑惑がある。チャールズ2世も当初それを疑って認知を渋ったが、バーバラが強く抗議したため、結局認知されたという経緯があった{{sfn|森護|1987|p=141-142}}。 |
ただしヘンリーには母の愛人{{仮リンク|ヘンリー・ジャーミン (初代ドーヴァー男爵)|label=ヘンリー・ジャーミン|en|Henry Jermyn, 1st Baron Dover}}の子ではないかという疑惑がある。チャールズ2世も当初それを疑って認知を渋ったが、バーバラが強く抗議したため、結局認知されたという経緯があった{{sfn|森護|1987|p=141-142}}。 |
2020年12月4日 (金) 05:06時点における版
ヘンリー・フィッツロイ Henry FitzRoy 1st Duke of Grafton | |
---|---|
初代グラフトン公 | |
在位 | 1675年9月11日 – 1690年10月9日 |
称号 | 初代グラフトン公爵、初代ユーストン伯爵、初代イプスウィッチ子爵、初代サドバリー男爵、ガーター勲章勲爵士(KG) |
出生 |
1663年9月28日 |
死去 |
1690年10月9日(27歳没) |
配偶者 | イザベラ・ベネット |
子女 | チャールズ |
家名 | フィッツロイ家 |
父親 | チャールズ2世 |
母親 | バーバラ・パーマー |
初代グラフトン公ヘンリー・フィッツロイ(英: Henry FitzRoy, 1st Duke of Grafton, KG, PC、1663年9月28日 - 1690年10月9日)は、イングランドの貴族・軍人。
イングランド王チャールズ2世と愛人バーバラ・パーマーとの間に生まれた私生児。1672年にユーストン伯爵、1675年にグラフトン公に叙された。グラフトン公爵フィッツロイ家の祖である。
経歴
1663年9月28日、チャールズ2世とその愛人バーバラ・ヴィリアーズ(後の初代クリーヴランド女公爵バーバラ・パーマー。第2代グラディソン子爵ウィリアム・ヴィリアーズの娘)の間の3人の非嫡出男子の次男として生まれる[1][2]。同母兄に初代サウサンプトン公爵・第2代クリーヴランド公爵チャールズ・フィッツロイ、同母弟に初代ノーサンバーランド公爵ジョージ・フィッツロイがある[3]。
ただしヘンリーには母の愛人ヘンリー・ジャーミンの子ではないかという疑惑がある。チャールズ2世も当初それを疑って認知を渋ったが、バーバラが強く抗議したため、結局認知されたという経緯があった[4]。
1672年8月1日にチャールズ2世の側近の初代アーリントン伯ヘンリー・ベネットの1人娘イザベラと結婚した[2][1][5]。
母バーバラは、ルイーズ・ケルアイユ(初代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの母)らチャールズ2世の他の愛人たちにライバル意識を燃やしており、自分の3人の息子に爵位を確保しようと必死に宮廷工作を行った[3]。その結果、ヘンリーには1672年8月16日に弟ジョージ(ノーサンバーランド公)への特別継承権を認めたイングランド貴族爵位ユーストン伯爵(Earl of Euston)、イプスウィッチ子爵(Viscount Ipswich)、サドバリー男爵(Baron Sudbury)が与えられた[1][5]。さらに1675年9月11日にはグラフトン公爵に叙せられた[1][5]。
1680年にガーター勲章を受勲した[2]。1681年から1688年にかけてと1688年から1689年にかけて第1近衛歩兵連隊連隊長(Colonel)を務めた[2]。また1682年から1683年にかけてトリニティ・ハウス長官(master of the Trinity House)を務めた[2]。1682年にカンバーランド公ルパートが死去すると代わって海軍副提督に就任し、1689年まで務めた[2][1]。
1685年4月23日のジェームズ2世の戴冠式で大司馬を務めた[2][5]。同年6月にはモンマスの反乱鎮圧に参加[2][5]。同年7月28日に岳父アーリントン伯が死去し、妻が第2代アーリントン女伯爵位と財産を継承した[6]。同年11月9日から貴族院議員となった[2]。また同年から1689年までサフォーク統監を務めた[5]。
ジョン・チャーチル(後のマールバラ公)と行動を共にするようになり、1688年の名誉革命ではチャーチルと共にジェームズ2世の軍から脱走してウィリアム3世に寝返った。1690年にもチャーチルにしたがって南アイルランド遠征(ウィリアマイト戦争)に参加したが、コーク包囲戦で重傷を負い、10月9日に戦死した[2][6]。
イザベラとの間の1人息子チャールズ・フィッツロイがグラフトン公位を継承した。彼は後にイザベラからアーリントン伯位も継承している[7]。
栄典
爵位
1672年8月16日に以下の爵位を新規に叙される[1][5]。
- サフォーク州における初代ユーストン伯爵 (1st Earl of Euston, in the County of Suffolk)
- サフォーク州における初代イプスウィッチ子爵 (1st Viscount Ipswich, in the County of Suffolk)
- (勅許状によるイングランド貴族爵位。特別継承権規定で直系の他、弟ジョージに継承可能)
- サフォーク州におけるサドバリーの初代サドバリー男爵 (1st Baron Sudbury of Sudbury, in the County of Suffolk)
- (勅許状によるイングランド貴族爵位。特別継承権規定で直系の他、弟ジョージに継承可能)
1675年9月11日に以下の爵位を新規に叙される[1][5]。
- ノーサンプトン州における初代グラフトン公爵 (1st Duke of Grafton, in the County of Northampton)
- (勅許状によるイングランド貴族爵位)
勲章
1680年、ガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)[2]
家族
1672年8月1日に初代アーリントン伯ヘンリー・ベネットの1人娘イザベラと結婚した。彼女は父から第2代アーリントン女伯爵位と財産を継承した。彼女との間に爵位を継承する一人息子チャールズ・フィッツロイを儲けた[7][2][1][5]。
脚注
- ^ a b c d e f g h Heraldic Media Limited. “Grafton, Duke of (E, 1675)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l Stephen, Leslie, ed. (1889). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 19. London: Smith, Elder & Co.
- ^ a b 森護 1987, p. 139-140.
- ^ 森護 1987, p. 141-142.
- ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Henry Fitzroy, 1st Duke of Grafton” (英語). thepeerage.com. 2016年2月5日閲覧。
- ^ a b 森護 1987, p. 144.
- ^ a b 森護 1987, p. 144-145.
参考文献
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年(昭和62年)。ISBN 978-4469240979。
公職 | ||
---|---|---|
先代 カンバーランド公 |
イングランド海軍副提督 1682年–1689年 |
次代 初代トリントン伯爵 |
名誉職 | ||
空席 (次の就任者 第10代ノーサンバランド伯) |
大司馬 1685年 |
空席 (次の就任者 第2代オーモンド公) |
先代 初代アーリントン伯 |
サフォーク統監 1685年 – 1689年 |
次代 第3代コーンウォリス男爵 |
軍職 | ||
先代 ジョン・ラッセル |
第1近衛歩兵連隊 連隊長(Colonel) 1681年 – 1688年 |
次代 初代リッチフィールド伯 |
先代 初代リッチフィールド伯 |
第1近衛歩兵連隊 連隊長(Colonel) 1688年 – 1689年 |
次代 ヘンリー・シドニー |
イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | 初代グラフトン公爵 1675年 – 1690年 |
次代 チャールズ・フィッツロイ |
初代ユーストン伯爵 1672年 – 1690年 |