コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「乙巳の変」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 涿汶涪戢愷异彧などを含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (金庾信) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
54行目: 54行目:
=== 半島諸国モデル説 ===
=== 半島諸国モデル説 ===
蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、[[高句麗]]における[[淵蓋蘇文]]のクーデターを意識しており、乙巳の変は[[新羅]]における[[金庾信]](『[[三国史記]]』によれば、[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫<ref group="注釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、[[高句麗]]における[[淵蓋蘇文]]のクーデターを意識しており、乙巳の変は[[新羅]]における[[金庾信]](『[[三国史記]]』によれば、[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫<ref group="注釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
: 金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>)らによる{{lang|ko|[[毘曇|毗曇]]}}の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解<ref>[[吉田孝]]『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101</ref>がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された[[扶余豊璋|王子・豊璋]]が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解<ref>[[鈴木靖民]]『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館、2011年、ISBN 9784642024846</ref>もある。
: 金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>)らによる{{lang|ko|[[毗曇]]}}の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解<ref>[[吉田孝]]『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101</ref>がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された[[扶余豊璋|王子・豊璋]]が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解<ref>[[鈴木靖民]]『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館、2011年、ISBN 9784642024846</ref>もある。


=== 反動クーデター説 ===
=== 反動クーデター説 ===

2020年9月18日 (金) 21:50時点における版

乙巳の変
江戸時代住吉如慶具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市

乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)とは中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした飛鳥時代政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺害された事件を「大化の改新」と言う場合もあるが、厳密にはクーデター「乙巳の変」に始まる一連の政治制度改革が「大化の改新」であり「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階である[1]

乙巳の変の経過

蘇我氏の専横

推古天皇30年2月22日622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、摂政・厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政[注釈 1]としている。

推古天皇34年5月20日626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。

有力な皇位継承権者には田村皇子山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。これが舒明天皇である。

蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。大派皇子敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。

舒明天皇13年10月9日641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。

皇極天皇元年(642年)7月、日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺菩薩像四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。

同年、蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。

皇極天皇2年10月6日(643年11月22日)、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。

上宮王家の滅亡

皇極天皇2年11月1日(643年12月16日)、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。入鹿は巨勢徳多土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。そこで側近の三輪文屋君からは東国へ逃れて再挙することを勧められるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると採り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺。このことによって聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。

蘇我入鹿暗殺

蘇我入鹿首塚と甘樫丘(2005年9月撮影)

神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心にたりえる人物を探した。

法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌足は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅百済高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める。(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂葛城稚犬養網田に与えた。

入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌足は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。

中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。

蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った(この時皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を伝え、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった。

6月13日(7月11日)、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船恵尺がこの内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

6月14日(7月12日)、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。

日本書紀の潤色について

20世紀中後期頃までは、『日本書紀』の信憑性が評価され乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている[2][3]。詔が実践できていない矛盾や事実から、これらを書紀の編纂者らによる潤色とする意見[誰?]もあるが、乙巳の変を機序とする大化の改新は後世の律令制に至る端緒であったことは間違いなく、また大化年間だけにとどまらず以降の律令完成までの一連の諸改革をいうとする解釈が近年は強い[誰?]。なお、編年については日本書紀以外の史料による多面的な検討が必要となっている。

諸説

軽皇子首謀者説

遠山美都男は中臣鎌足・中大兄皇子はクーデターグループの一部にすぎず、軽皇子が変の首謀者だと推測している。変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている[4]

半島諸国モデル説

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[注釈 2])らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解[5]がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された王子・豊璋が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解[6]もある。

反動クーデター説

2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(はざまのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。

当時618年に成立した朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる[7][8]

皇極王権否定説

乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。その意義について佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極天皇は殺害される代わりに強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。

ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄皇子は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたというのである[9]

関連作品

ドラマ
漫画
小説

脚注

注釈

  1. ^ 後漢末の董卓は、皇帝であった劉弁(少帝)を廃し、その弟の劉協(献帝)を即位させ、朝政を牛耳ったとされる。
  2. ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
    金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也

出典

  1. ^ [大化改新]『国史大辞典吉川弘文館1997年
  2. ^ 木下正史『藤原京―よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年、ISBN 4121016815、p64
  3. ^ 市大樹『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』中公新書、2012年、ISBN 9784121021687、p49
  4. ^ 遠山美都男『大化改新―六四五年六月の宮廷革命』中公新書 1993年
  5. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  6. ^ 鈴木靖民『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館、2011年、ISBN 9784642024846
  7. ^ NHKスペシャル「大化改新 隠された真相 〜飛鳥発掘調査報告〜」(2007年2月2日放送)
  8. ^ 『ここまで解けた!「古代史」残された謎』PHP研究所
  9. ^ 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6

関連項目