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魏王朝での評価は極めて高く、[[233年]]([[曹叡]]の代)に魏の功臣の中で功勲が顕著な者が選ばれた際は、夏侯惇・[[曹仁]]・程昱の三人が選ばれ、曹操の廟庭に祭られた(「明帝紀」)。功臣の合祀は度々行われたが、この三人が最初であった。 |
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== 創作・伝承 == |
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2020年9月15日 (火) 15:16時点における版
程昱 | |
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魏 安郷侯・衛尉 | |
出生 |
141年(永和6年) 兗州東郡東阿県 |
死去 | 220年(黄初元年) |
拼音 | Chéng Yù |
字 | 仲徳 |
諡号 | 粛侯 |
別名 | 旧名:程立(てい りつ) |
主君 | 曹操→曹丕 |
程 昱(てい いく、永和6年(141年) - 黄初元年(220年))は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。魏の創業時代に活躍した。兗州東郡東阿県(現在の山東省聊城市東阿県)の人。字を仲徳(ちゅうとく)。子は程武・程延・他1名。孫は程克・程暁。曾孫は程良。『三国志』魏志「程郭董劉蔣劉伝」に伝がある。
生涯
東阿の策士
身長は八尺三寸(約191cm)という巨漢で、見事な髭を蓄えていた。初めは程立という名前であった。若い頃、泰山に登り両手で太陽を掲げる夢をよく見たという(『魏書』)。
黄巾の乱が勃発すると、東阿県丞の王度が賊に同調し、放火や略奪を働き、県令は城壁を越えて逃走し行方知れずとなり、官吏や民衆は家族を連れて東の山に避難していた。程立は王度の様子を偵察したところ、王度が城を保つことができず、外に駐屯していることが分かった。そこで程立は豪族の薛房らに対し、「逃亡した県令を探し出し、城を堅守すれば勝てる」と勧めた。薛房らは同意したが、東の山に避難した官吏と民衆は協力しようとしなかった。程立は「愚民は事を計れない」と言い、官民を計略にかけて城に呼び戻した。程立は逃亡した県令の所在も探し当て、ともに城を守った。王度が攻撃してきたが、程立は官吏と民衆を率いて城から出撃し、これを敗走させた。これにより東阿県は安全となった。
初平年間に、兗州刺史である劉岱の招きを受けたが応じなかった。袁紹と公孫瓚が対立すると、劉岱はその帰趨に迷い、程立を呼び寄せて対応を相談した。程立は状況を分析し、袁紹に味方するよう勧めた。果たして公孫瓚が袁紹に打ち破られると、劉岱は改めて程立を招き、騎都尉に任命しようとしたが、程立は病気を理由にこれを拒絶した。
まもなく劉岱が青州黄巾賊の戦いで戦死すると、代わって曹操が兗州を支配することになった。曹操が程立を招くと、程立はこれに応じた。郷里の人には行動が矛盾するといぶかしがられたが、程立は笑ってとりあわなかったという。曹操は程立と語らって気に入り、寿張県令を代行させた。
兗州を守る
曹操が徐州に遠征するとき、荀彧・程立に鄄城を任せ、夏侯惇・張邈・陳宮らと共に留守を任せた。張邈と陳宮が呂布を引き込んで反乱を起こすと、兗州のほとんどが呂布に呼応したが、鄄城・東阿・范の三城だけは動揺しなかった。陳宮が東阿を、汎嶷が范を攻撃する動きを見せていたため、荀彧は程立に東阿と范の安定を任せた。范の令である靳允は呂布に妻子一族を人質にとられていたが、程立は靳允を説得し味方に引き留め、靳允の手で汎嶷を殺害させることに成功した。東阿の防衛には騎兵隊を派遣し、倉亭津を絶ち切って陳宮の侵攻を阻止した。東阿県令の棗祗は元々曹操に味方する意向だったため、程立は任務を果たすことができた。兗州従事の薛悌の協力も得て、程立達は曹操の帰還まで三城を堅守した。これ以前、程立は荀彧に、若い頃に見た夢について相談していたが、荀彧が帰還した曹操にこの夢の話をしたところ、曹操は程立が自身の腹心となる人物であると確信し、名を昱と改めるよう命令したという(『魏書』)。
その後、濮陽で呂布に撃退された曹操が弱気になり、袁紹の言われるままに家族を人質に差し出そうとした時は、それを押し留めた。
献帝が長安から洛陽に逃亡して来ると、程昱は荀彧と共に曹操に献帝を迎え入れるよう進言した(「武帝紀」)。献帝が許昌に都を定めると、程昱は尚書に任命された。兗州の安定のため、東中郎将として済陰太守を兼ね、都督兗州諸軍事となった。
劉備が曹操の下に身を寄せていた時は、劉備を殺すように進言したが、曹操は聞き入れなかった。その後、袁術を防ぐため曹操が劉備を徐州に赴かせたことを聞き、程昱は郭嘉とともに再び曹操に諫言した。曹操は後悔したが間に合わず、はたして程昱が予期したとおり劉備は車胄を殺害し、曹操に反旗を翻した。
程昱は振威将軍に昇進した。袁紹はかねてより、黎陽より南下の機会を伺っていたが、あるとき程昱が兵700で鄄城を守っていたところに、袁紹の大軍が近づいてきたという知らせが入った。これを知った曹操が兵2000を増援しようとしたが、程昱はこれを断った。兵が少なければ、相手は見くびって見逃すであろうが、増援されれば黙って通過しないだろうというのがその理由だった。果たして程昱の読みどおり、袁紹は攻撃してこなかった。曹操は感嘆して「程昱の度胸は、孟賁・夏育(戦国時代の秦の武王に仕えた勇士)を凌ぐものがある」と言った。
袁譚・袁尚との戦いでは、程昱は李典とともに兵糧を輸送し、それを妨害する袁尚の魏郡太守高蕃を撃破した(「李典伝」)。その後程昱は、山や沼沢に隠れていた人々を掻き集めて、精兵数千人に編成し曹操と黎陽で合流し、袁譚・袁尚を打ち破った。奮武将軍に昇進し、安国亭侯となった。
晩年
曹操が荊州を支配し、劉備が孫権の下に向かった時、孫権が劉備を殺すという意見があったが、程昱は孫権が劉備を引き入れて対抗する事を予測し「孫権は謀略があり、もう劉備を殺すことは不可能だろう」と言った。果たして孫権は劉備に兵士を与え、曹操に抵抗し、赤壁の戦いで曹操は敗北した。
曹操が馬超討伐に向かった時、程昱は留守をあずかる曹丕の軍事に参加した。この時、田銀・蘇伯らが河間で反乱を起こし、将軍の賈信を派遣して彼らを討伐した。このとき賊のうち千余人が降伏を願い出たが、旧法の通り処置する(包囲された後に降伏した者は処刑する)という意見が圧倒的だった。しかし程昱は次のように反対した。
「投降者を処刑したのは、天下に雲の如く英雄が湧き起こった騒乱時代の事。包囲後に投降した者を許さぬ事によって、天下に威光を示し、賊にとるべき道を悟らせ、包囲するまでもなく降服させるためでした。今天下はほぼ平定され、しかも今回は領内のことです。降伏する以外ない賊を殺しても、震え上がる者もおりません。わたくしは処刑すべきでないと考えます。たとえ処刑するにしても、その前に殿の承認を受けるべきでしょう」。
しかし衆議は「軍事では専断が許される。判断を仰がなくてもよい」とし、これに対して程昱は返答しなかった。そこで曹丕は奥に入り、程昱を引見して「まだ言い足りない事があるようだが」と尋ねた。程昱は「そもそも専断というのは、事が緊急で、息をつく間もない場合にのみ許されます。今この賊らは完全に賈信の手中にあり、事態が急変する恐れもありません。だから老臣は将軍が強行することを望まないのです」と答えた。
曹丕は程昱の意見をもっともであるとして、即座に曹操の判断を仰いだところ、はたして処刑を許さなかった。曹操は帰還後、事の次第を聞いて喜び「そなたは軍略に明るいだけではないな。わが家の父と子の間もうまく捌いてくれた」と言った(以上、『魏書』による)。
その後、曹操は程昱に対し、「兗州での敗北の折り、おぬしの諫言を無視しておったら、今日のわしはなかったであろう」という賞讃の言葉を送った。一門の者は大宴会を開き祝福したが、程昱は「満足することを弁えておれば、恥辱を受けない(「老子」の言葉)。退く潮時だ」と言い、兵権を返上し門を閉ざし引退を申し出た。
元々性格が強情で他人と衝突することが多く、程昱が謀反をたくらんでいると讒言されることも多かったが、曹操の程昱に対する厚遇は変わらなかった。魏国が建国されると、程昱は衛尉(皇宮警察長官)となったが、中尉(憲兵隊指令)の邢貞と儀礼をめぐって争い、免職となった。
曹丕(文帝)が即位すると衛尉に復職し、安郷侯に昇進し300戸の加増を受け、領邑は800戸となった。そして三公に抜擢されようとする矢先、80歳で死去した。曹丕は涙を流し車騎将軍を追贈した。粛侯と諡された。
かつて曹操の軍勢が食糧難に陥った際に、程昱は略奪を行い食料を確保したが、その干し肉の中には人肉も混じっていたのだという。程昱はそれによって声望を失い、ついに公の位まで昇らなかったのだという逸話がある(『世語』)。この事柄に対して、盧弼の『三国志集解』では「『世語』之妄不可信(『世語』の嘘は信じられない)」としている。
魏王朝での評価は極めて高く、233年(曹叡の代)に魏の功臣の中で功勲が顕著な者が選ばれた際は、夏侯惇・曹仁・程昱の三人が選ばれ、曹操の廟庭に祭られた(「明帝紀」)。功臣の合祀は度々行われたが、この三人が最初であった。
陳寿は、程昱を郭嘉・董昭・劉曄・蔣済と並べて、荀攸と同じく謀略に優れた策士だが、荀攸と違って徳業は無かったと評している。
創作・伝承
小説『三国志演義』では将軍としての側面が失われ、袁紹との戦いで十面埋伏の計略を献策するなど、参謀としての側面が強調されている。劉備配下であった徐庶の引き抜きを進言し、徐庶の母親を人質として彼女の筆跡を真似た偽手紙を書き、徐庶を無理やり招き寄せている。赤壁の戦い敗走時には、義に厚い関羽が曹操を斬れないことを知り、命乞いを提案している。
子孫
子
- 程武 - 程昱の子。その後を継いだ。
- 程延 - 程昱の末子。甥(または子)の程暁と共に父の遺領を分け与えられ、諸侯にとりたてられた。
孫
- 程克 - 程武の子。
- 程暁 - 程武の甥。字は季明(『世語』)。見識を持った人物であったという(『世語』)。文帝のとき、祖父の功績によって列侯に封ぜられた。嘉平年間に黄門侍郎となり、上書して勝手な振る舞いの多かった校事の官を廃止させた事蹟が残り、そのときの上奏文が記録されている。汝南太守にまで昇るものの、40余歳で死去した。文章を多く書いたが、ほとんどが散逸してしまったという(『程暁別伝』)。
曾孫
- 程良 - 程克の子。