「劉鎮華」の版間の差分
→北京政府から国民政府へ: リンク調整 |
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣介石) - log |
||
46行目: | 46行目: | ||
同年秋、劉鎮華は閻錫山の仲介を経て[[張作霖]]・呉佩孚の連合の下に復帰する。討賊聯軍陝甘総司令として、胡景翼を後継した[[岳維峻]]を攻撃し、これを撃破した。さらに、[[楊虎城]]ら率いる国民軍が篭る西安を圧倒的な兵力で包囲したが、なかなか攻め落とすことができなかった。[[1926年]](民国15年)9月、[[五原誓師]]を行った馮玉祥率いる国民軍本隊が反撃に転じる。劉は陝西の国民軍と[[綏遠省|綏遠]]から出撃してきた国民軍本隊に挟撃されて大敗した。 |
同年秋、劉鎮華は閻錫山の仲介を経て[[張作霖]]・呉佩孚の連合の下に復帰する。討賊聯軍陝甘総司令として、胡景翼を後継した[[岳維峻]]を攻撃し、これを撃破した。さらに、[[楊虎城]]ら率いる国民軍が篭る西安を圧倒的な兵力で包囲したが、なかなか攻め落とすことができなかった。[[1926年]](民国15年)9月、[[五原誓師]]を行った馮玉祥率いる国民軍本隊が反撃に転じる。劉は陝西の国民軍と[[綏遠省|綏遠]]から出撃してきた国民軍本隊に挟撃されて大敗した。 |
||
その後、直隷派も奉天派も敗北濃厚と見た劉鎮華は、馮玉祥に降伏している。劉の軍は[[国民革命軍]]第8方面軍として改編され、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]にも参加した。北伐終了後、劉は第11路軍総指揮として閻錫山の指揮下となったが、馮玉祥や閻錫山が[[ |
その後、直隷派も奉天派も敗北濃厚と見た劉鎮華は、馮玉祥に降伏している。劉の軍は[[国民革命軍]]第8方面軍として改編され、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]にも参加した。北伐終了後、劉は第11路軍総指揮として閻錫山の指揮下となったが、馮玉祥や閻錫山が[[蔣介石]]と対立するようになると、劉はこれに巻き込まれることを嫌い、日本、ドイツへ外遊した。 |
||
劉鎮華が外遊している間に、第11路軍総指揮を引き継いだ弟の[[劉茂恩]]は |
劉鎮華が外遊している間に、第11路軍総指揮を引き継いだ弟の[[劉茂恩]]は蔣介石に寝返っている。そのため[[1930年]](民国19年)に帰国した劉鎮華もまた、蔣介石支持に転じた。劉鎮華は豫陝晋辺区綏靖督弁として新郷に駐屯し、閻に備えた。 |
||
[[1932年]](民国21年)の第4次[[中国共産党]]掃討作戦では、劉鎮華は豫鄂陝辺区綏靖督弁として[[南陽市 (河南省)|南陽]]に駐屯した。さらに、[[1933年]](民国22年)5月には、[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命され、まもなく豫鄂皖辺区剿匪総司令も兼任している。 |
[[1932年]](民国21年)の第4次[[中国共産党]]掃討作戦では、劉鎮華は豫鄂陝辺区綏靖督弁として[[南陽市 (河南省)|南陽]]に駐屯した。さらに、[[1933年]](民国22年)5月には、[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命され、まもなく豫鄂皖辺区剿匪総司令も兼任している。 |
2020年9月15日 (火) 13:56時点における版
劉鎮華 | |
---|---|
Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年)[1] |
死去: |
1955年(民国44年)11月18日[2] 中華民国台北市 |
出身地: | 清河南省河南府鞏県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉鎮華 |
簡体字: | 刘镇华 |
拼音: | Liú Zhènhuá |
ラテン字: | Liu Chen-hua |
和名表記: | りゅう ちんか |
発音転記: | リウ チェンホワ |
劉 鎮華(りゅう ちんか)は、中華民国時代の軍人。河南省・陝西省一帯で活動した鎮嵩軍の統領として知られる人物。最初は北京政府、後に国民政府(国民革命軍)に参加した。字は雪亜。
事績
鎮嵩軍統領
清末の附生で、後に直隷省の保定府法政専門学堂の監獄科で学ぶ。卒業後は河南省法政専門学堂の庶務長をつとめた。
辛亥革命の際には、河南省の視学の身分で豫西(河南省西部)一帯を奔走して、反清活動に参加し、幇会(民間秘密結社)や遊侠の士と交流した。革命派の陝西軍政府が成立すると、劉は民軍を組織して同軍政府の張鈁率いる軍に加わる。これにより、大都督府書記官に任命され、さらに参議に昇進して対外交渉事務を担当した。
中華民国成立後、陝西軍政府は軍縮を迫られたため、劉鎮華率いる軍は豫西22県に移る事になった。張鈁の推薦もあって、劉は袁世凱から豫西監察使(後に道尹)兼鎮嵩軍統領に任命された。鎮嵩軍とは、嵩山の近くを根拠地としたことから命名されたものである。これにより、劉は豫西に割拠し、勢力を確立することになった。
1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、劉鎮華は袁世凱を支持した。1916年(民国5年)6月に袁が死去して後は、劉は安徽派に与している。
1917年(民国6年)9月、陝西省の革命派軍人胡景翼が、孫文の側近于右任を迎え入れ、護法戦争に参加する陝西靖国軍を組織する。これにより胡は、安徽派の陝西督軍陳樹藩に対抗した。1918年(民国7年)2月、劣勢となった陳は、陝西省長の地位をもって劉鎮華に援軍を打診する。劉は鎮嵩軍を率いて西安に駆けつけ、3月に陝西省長に就任した。
陝西省の支配者に
1920年(民国9年)7月に安直戦争が勃発して安徽派が敗北すると、それを後ろ盾にしていた陳樹藩の権威は揺らぐ。そして、まもなく直隷派の第20師師長閻相文が陝西督軍として赴任してきた。劉鎮華は閻に寝返って陳の掃討に協力し、陝西省長の地位を維持した。
その後まもなく、閻相文が自殺すると、第11師師長の馮玉祥が後任督軍に就任する。劉鎮華は馮に接近してその信任を得ることに成功し、義兄弟の契り(「換譜兄弟」)を結んだ。1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争で馮が河南省へ出撃すると、陝西督軍の地位は劉に委譲された。
1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争でも、劉鎮華は直隷派として奉天派と戦い、配下の憨玉琨を河南方面に出撃させた。しかし同年10月に馮玉祥が北京政変(首都革命)を発動するという新たな事態に直面し、劉の姿勢や立場が混迷し始める。当初劉自身は、呉佩孚率いる直隷派をそのまま頼みとして、馮の国民軍と戦うよう憨に命じた。ところが憨は国民軍の方が頼りになるとみなし、独断で国民軍側に寝返り、呉を撃破して洛陽を占拠してしまう。これにより、劉も情勢に流されるまま、国民軍支持に転じたのである。
しかし同年12月、河南督軍に任命された国民軍副司令兼第2軍軍長胡景翼と憨玉琨との間で、河南省をめぐる地盤争い(「胡憨之戦」)が勃発する。当初、馮玉祥は両者を調停させようとして、国民軍副司令兼第3軍軍長孫岳を派遣した。しかし、劉鎮華と憨の野心は深く、1925年(民国14年)2月25日には劉自ら洛陽に乗り込み、胡軍を攻撃する。これにより、3月6日に交渉は決裂し、全面対決に至った。
精鋭部隊である国民軍を率いる胡景翼の方が優勢となり、3月9日には、劉鎮華は洛陽から駆逐されてしまう。さらに4月2日、憨玉琨も撃破されて自決した。こうして胡憨之戦は、胡の完勝に終わったのである(ただし、4月10日に胡は急逝している)。劉は逃走して山西省の閻錫山に投降した。
北京政府から国民政府へ
同年秋、劉鎮華は閻錫山の仲介を経て張作霖・呉佩孚の連合の下に復帰する。討賊聯軍陝甘総司令として、胡景翼を後継した岳維峻を攻撃し、これを撃破した。さらに、楊虎城ら率いる国民軍が篭る西安を圧倒的な兵力で包囲したが、なかなか攻め落とすことができなかった。1926年(民国15年)9月、五原誓師を行った馮玉祥率いる国民軍本隊が反撃に転じる。劉は陝西の国民軍と綏遠から出撃してきた国民軍本隊に挟撃されて大敗した。
その後、直隷派も奉天派も敗北濃厚と見た劉鎮華は、馮玉祥に降伏している。劉の軍は国民革命軍第8方面軍として改編され、北伐にも参加した。北伐終了後、劉は第11路軍総指揮として閻錫山の指揮下となったが、馮玉祥や閻錫山が蔣介石と対立するようになると、劉はこれに巻き込まれることを嫌い、日本、ドイツへ外遊した。
劉鎮華が外遊している間に、第11路軍総指揮を引き継いだ弟の劉茂恩は蔣介石に寝返っている。そのため1930年(民国19年)に帰国した劉鎮華もまた、蔣介石支持に転じた。劉鎮華は豫陝晋辺区綏靖督弁として新郷に駐屯し、閻に備えた。
1932年(民国21年)の第4次中国共産党掃討作戦では、劉鎮華は豫鄂陝辺区綏靖督弁として南陽に駐屯した。さらに、1933年(民国22年)5月には、安徽省政府主席に任命され、まもなく豫鄂皖辺区剿匪総司令も兼任している。
しかし1936年(民国25年)10月、劉は精神に失調を来たす。そのため、しばらく後に軍事・政治の各役職を退いた。1949年(民国38年)、家族とともに台湾に移った。
注
参考文献
- 林炯如「劉鎮華」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第3巻』中華書局、1981年。
- 劉紹唐主編『民国人物小伝 第3冊』伝記文学出版社、1980年。
- 黄中岩「劉鎮華」『民国高級将領列伝 2』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-0682-3。
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
中華民国(国民政府)
|