陳樹藩
陳樹藩 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年) |
死去: |
1949年11月2日 中華人民共和国浙江省杭州市 |
出身地: | 清陝西省興安府安康県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳樹藩 |
簡体字: | 陈树藩 |
拼音: | Chén Shùfān |
ラテン字: | Ch'en Shu-fan |
和名表記: | ちん じゅはん |
発音転記: | チェン・シューファン |
陳 樹藩(ちん じゅはん)は、清末・中華民国の軍人。北京政府・安徽派に属した。字は柏森・柏生。陝西省興安府安康県の出身。本貫は湖南省長沙府寧郷県。
事績
[編集]21歳のときに陝西陸軍小学に入学し、24歳で保定陸軍速成学堂に入学し砲兵科で学んだ。1910年(宣統2年)に卒業し、陝西陸軍で軍械官に任命された。翌年、中国同盟会に加入した。辛亥革命の際には、陝西東路招討使として同州に駐屯し、間もなく河東節度使に異動した。
1912年(民国元年)、陝西陸軍第3混成旅旅長に任命された。1915年(民国4年)、署陝南鎮守使に任じられる。同年12月、袁世凱が皇帝に即位すると、三等男に封じられた。
護国戦争勃発後の1916年(民国5年)1月、陝北鎮守使(渭北剿匪総司令も兼任)に任命された。しかし、胡景翼らが陝西将軍陸建章の子の陸承武(陝西第1混成旅旅長)を捕えて護国軍のために蜂起する。陳樹藩も胡景翼らに接近し、同年5月、陝西護国軍総司令となった。陳樹藩は陸承武の身柄の引渡しを受けると、これを取引条件として、陸建章から将軍(督軍)の地位を奪う。袁世凱死後の6月、漢武将軍の位を授与された。7月、陝西督軍兼省長に就任(省長の地位は1918年(民国7年)3月に辞任)している。
袁世凱死後、陳樹藩は安徽派に属した。陝西省の統治権を得た陳樹藩だったが、その後は胡景翼との対立を深める。1918年(民国7年)1月、胡景翼は陝西靖国軍を組織して、護法戦争に呼応し、陳樹藩との戦いを開始した。さらに、胡景翼は護法軍政府(南方政府)から于右任を迎え入れ、陳樹藩との拮抗状態を生み出した。一時、陳樹藩は胡景翼を捕虜としたが、処断はせずに勧誘を続ける。しかし、胡景翼は最後まで屈服しなかった。
1920年(民国9年)7月、安直戦争が勃発すると、陳樹藩は省内の人心を得るために、胡景翼を釈放した。しかし、安徽派敗北で後ろ盾を失った陳樹藩は次第に勢威を失っていく。翌1921年(民国10年)5月、いよいよ曹錕より陝西督軍の解任を通達され、後任に直隷派の閻相文が付くこととなった。陳樹藩は武力抵抗の準備を進めていたが、7月に馮玉祥と胡景翼により挟撃され、南山に撤退。陝西督軍の地位から駆逐された[1]。
その後、陳樹藩率いる軍は、陝西省・湖北省・四川省などの省境を漂流する流浪集団となってしまう。同年12月に四川軍により撃破されると、陳樹藩は天津へ逃げ込んだ。以後、仏教の研究に勤しみ、軍事・政治の舞台には戻らなかった。
脚注
[編集]- ^ 楊保森『西北軍人物志』中国文史出版社、2001年、797頁。ISBN 9787503453564 。
参考文献
[編集]- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 徐輝琪「胡景翼」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
中華民国(北京政府)
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