コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

呉新田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉新田
プロフィール
出生: 1886年3月2日
(光緒12年正月27日)[1]
死去: 1945年民国34年)2月16日[2]
中華民国の旗 中華民国 天津特別市
出身地: 清の旗 安徽省廬州府合肥県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 吳新田
簡体字 吴新田
拼音 Wú Xīntián
ラテン字 Wu Hsin-t'ien
和名表記: ご しんでん
発音転記: ウー シンチィエン
テンプレートを表示

呉 新田(ご しんでん)は中華民国の軍人。北京政府安徽派に属した。豈蓀

事績

[編集]

保定陸軍速成学堂を卒業した後に、北洋第6鎮に任官する。1913年民国2年)、陸軍第6師第3混成旅で団長に任命された。1914年(民国3年)、張敬尭率いる陸軍第7師歩兵第14旅旅長に昇進する。1918年(民国7年)11月、湖南省岳陽鎮守使を兼任する。1920年(民国9年)、張敬尭の後任として第7師師長に昇進した。

1921年(民国10年)、第7師を率いて陝西省入りし、同年12月に陝南鎮守使を兼任した。1922年(民国11年)、藩威将軍の位を授かる。1923年(民国12年)3月、陸軍上将銜の位を授かる。

1925年(民国14年)5月、執政段祺瑞から陝西督弁に任命されたが、同年8月、督弁の地位は孫岳に移った。1926年(民国16年)、馮玉祥に敗北して陝西省から駆逐され、天津に逃げ込む。その後、国民政府により1928年(民国17年)11月に河南省政府委員に任命され、翌年までその地位にあった。これを最後に政治・軍事からは引退、天津で寓居する。親日政権から再任用を打診されても応じなかった[2]

1945年(民国34年)2月16日、天津で脳溢血により病没[3]。享年60(満58歳)。

[編集]
  1. ^ 張(2013)による。徐(2007)、638頁によれば、1888年光緒14年)
  2. ^ a b 張(2013)。
  3. ^ 張(2013)によると、呉新田が台湾へ逃れたという説もあるとされるが、張は誤りと見なしている。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 張翔「关于吴新田」『今晩報』(副刊)、2013年10月6日、9面。
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
劉鎮華
陝西督弁
1925年5月 - 8月
次代
孫岳