コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「喜多誠一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
24行目: 24行目:
[[1920年]](大正9年)2月、[[歩兵第68連隊]][[中隊]]長となり、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、[[歩兵第19連隊]][[大隊]]長などを歴任。[[1925年]](大正14年)5月、参謀本部員に就任し、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付([[南京市|南京]]駐在)などを経て、[[1931年]](昭和6年)8月8日、歩兵[[大佐]]に進級し[[歩兵第37連隊]]長に就任。
[[1920年]](大正9年)2月、[[歩兵第68連隊]][[中隊]]長となり、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、[[歩兵第19連隊]][[大隊]]長などを歴任。[[1925年]](大正14年)5月、参謀本部員に就任し、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付([[南京市|南京]]駐在)などを経て、[[1931年]](昭和6年)8月8日、歩兵[[大佐]]に進級し[[歩兵第37連隊]]長に就任。


[[1932年]](昭和7年)2月、[[上海派遣軍]]情報[[参謀]]となり、参謀本部付(支那出張)、[[関東軍]]参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、[[1936年]](昭和11年)3月、陸軍[[少将]]に進級して支那公使館付[[駐在武官|武官]]となった。[[1937年]](昭和12年)8月、[[天津市|天津]][[特務機関]]長に就任。中国通として[[第二次上海事変]]発生時に、[[介石]]総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、[[北支那方面軍]]特務部長を経て、[[1939年]](昭和14年)3月、陸軍[[中将]]に進級し[[興亜院]]華北連絡部長官となる。
[[1932年]](昭和7年)2月、[[上海派遣軍]]情報[[参謀]]となり、参謀本部付(支那出張)、[[関東軍]]参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、[[1936年]](昭和11年)3月、陸軍[[少将]]に進級して支那公使館付[[駐在武官|武官]]となった。[[1937年]](昭和12年)8月、[[天津市|天津]][[特務機関]]長に就任。中国通として[[第二次上海事変]]発生時に、[[介石]]総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、[[北支那方面軍]]特務部長を経て、[[1939年]](昭和14年)3月、陸軍[[中将]]に進級し[[興亜院]]華北連絡部長官となる。


[[1940年]](昭和15年)3月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補され、[[第6軍 (日本軍)|第6軍]][[司令官]]、[[第12軍 (日本軍)|第12軍]]司令官などを経て、[[1944年]](昭和19年)9月、[[満州国]][[敦化市|敦化]]に[[司令部]]を置く[[第1方面軍 (日本軍)|第1方面軍]]司令官に就任。翌年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。
[[1940年]](昭和15年)3月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補され、[[第6軍 (日本軍)|第6軍]][[司令官]]、[[第12軍 (日本軍)|第12軍]]司令官などを経て、[[1944年]](昭和19年)9月、[[満州国]][[敦化市|敦化]]に[[司令部]]を置く[[第1方面軍 (日本軍)|第1方面軍]]司令官に就任。翌年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。

2020年9月15日 (火) 13:41時点における版

喜多 誠一
生誕 1886年12月20日
日本の旗 日本 滋賀県
死没 (1947-08-07) 1947年8月7日(60歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ハバロフスク近郊
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907 - 1945
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

喜多 誠一(きた せいいち、1886年明治19年)12月20日 - 1947年昭和22年)8月7日[1])は、日本陸軍軍人陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位勲一等功四級

経歴

滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。

1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。1925年(大正14年)5月、参謀本部員に就任し、陸軍省軍務局課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1931年(昭和6年)8月8日、歩兵大佐に進級し歩兵第37連隊長に就任。

1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍情報参謀となり、参謀本部付(支那出張)、関東軍参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級して支那公使館付武官となった。1937年(昭和12年)8月、天津特務機関長に就任。中国通として第二次上海事変発生時に、蔣介石総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、北支那方面軍特務部長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進級し興亜院華北連絡部長官となる。

1940年(昭和15年)3月、第14師団長に親補され、第6軍司令官第12軍司令官などを経て、1944年(昭和19年)9月、満州国敦化司令部を置く第1方面軍司令官に就任。翌年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。

戦後はシベリアに抑留され、1947年にハバロフスク近郊のホール野戦病院にて没。享年62。

栄典

脚注

  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、54頁では「6月7日」。
  2. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。