「中国国民党」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣介石) - log |
||
36行目: | 36行目: | ||
[[2000年]]に[[民主進歩党]](民進党)の[[陳水扁]][[中華民国総統|総統]]が就任し、史上初めて[[野党]]となった。[[2001年]]には[[立法院 (中華民国)|立法院]](国会)第1党の座も奪われた。しかし、[[2008年]]に国民党の[[馬英九]]総統が就任し、立法院第1党も奪回、[[政権]][[与党]]に復帰した。 |
[[2000年]]に[[民主進歩党]](民進党)の[[陳水扁]][[中華民国総統|総統]]が就任し、史上初めて[[野党]]となった。[[2001年]]には[[立法院 (中華民国)|立法院]](国会)第1党の座も奪われた。しかし、[[2008年]]に国民党の[[馬英九]]総統が就任し、立法院第1党も奪回、[[政権]][[与党]]に復帰した。 |
||
台湾及び[[福建省 (中華民国)|福建省]]のごく一部のみを基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお[[孫文]]を党[[総理]]とし<ref>国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党首は「主席」。</ref>、また[[ |
台湾及び[[福建省 (中華民国)|福建省]]のごく一部のみを基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお[[孫文]]を党[[総理]]とし<ref>国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党首は「主席」。</ref>、また[[蔣介石]]をも[[2014年]]から「永久[[総裁]]」としており、いまだ党名に「[[中国]]」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した[[李登輝]]時代には党の台湾化、いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した[[2000年]]頃からは党内「本土派」が退潮し、[[中華民国副総統|副総統]]だった[[連戦]]が党主席に就任してからは「[[中華民族]]アイデンティティ」から大陸との繋がりを強調する傾向に回帰している。 |
||
孫文と |
孫文と蔣介石が[[日中戦争]]の前から[[日本]]と関わりが深かったこと(敵としても友としても)や、[[冷戦]]時代は[[一党独裁制|一党独裁]]を敷いて[[世界自由民主連盟|世界反共連盟]]を主導して[[反共主義]]による外交を展開し、日本の[[自由民主党 (日本)|自民党]](とりわけ[[清和会]])と太いパイプを持ったため、[[知日派]]を多数擁しているといわれ、国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある(ただし、日本語版は2016年末以降は更新されず、現在は消失、2020年からは新たにツイッター上において日本語で情報発信する活動を開始している<ref>{{Cite web|title=中国国民党公式ツイッターアカウント|url=https://twitter.com/kuomintang/status/1283330290589429760|website=Twitter|accessdate=2020-07-16|language=|publisher=}}</ref>)。冷戦終結後は[[中国共産党]]との党間交流を再び図るも、かつて孫文と蔣介石によって二度行われた[[国共合作]]の失敗から尚早な中台統一に慎重な声も根強く、前主席の[[呉敦義]]は{{仮リンク|統派|zh|統派}}と距離を置く現状維持を志向する本土派の人間である<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/030/067000c|title=国民党主席に呉敦義氏|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2017-05-20|accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
60行目: | 60行目: | ||
[[1921年]]に[[中国共産党]]が樹立されると、中国国民党は当初は容共の立場をとり、[[1922年]]のコミンテルン極東民族大会において「[[植民地]]・半植民地における[[反帝国主義]]統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「[[孫文・ヨッフェ共同宣言]]」が発表される<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1923年]]6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1924年]][[1月20日]]には、中国共産党との[[第一次国共合作]]が成立し、[[軍閥]]に対抗するための素地が形成された。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときに中国国民党に入党した<ref>[http://cpc.people.com.cn/GB/64107/65708/65722/4445334.html 中国共产党“三大”确立同国民党实行“党内合作”的政策][[人民網]]</ref>。 |
[[1921年]]に[[中国共産党]]が樹立されると、中国国民党は当初は容共の立場をとり、[[1922年]]のコミンテルン極東民族大会において「[[植民地]]・半植民地における[[反帝国主義]]統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「[[孫文・ヨッフェ共同宣言]]」が発表される<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1923年]]6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1924年]][[1月20日]]には、中国共産党との[[第一次国共合作]]が成立し、[[軍閥]]に対抗するための素地が形成された。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときに中国国民党に入党した<ref>[http://cpc.people.com.cn/GB/64107/65708/65722/4445334.html 中国共产党“三大”确立同国民党实行“党内合作”的政策][[人民網]]</ref>。 |
||
孫文の死後、[[1925年]]に[[上海]]で発生した[[五・三〇事件]]を背景にして、汪兆銘を主席とする[[広東省|広東]][[国民政府]]を樹立、[[1926年]]には、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始した。[[1927年]]に、[[ |
孫文の死後、[[1925年]]に[[上海]]で発生した[[五・三〇事件]]を背景にして、汪兆銘を主席とする[[広東省|広東]][[国民政府]]を樹立、[[1926年]]には、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始した。[[1927年]]に、[[蔣介石]]の[[上海クーデター]]により[[国共合作]]は崩壊したものの、北伐は継続され、[[1928年]][[6月9日]]には[[北京]]に入城し、[[北京政府]]を倒すことに成功した。 |
||
==== 南北統一・国民政府成立後 ==== |
==== 南北統一・国民政府成立後 ==== |
||
北伐の完了を受けて、[[1928年]]、南京に |
北伐の完了を受けて、[[1928年]]、南京に蔣介石を主席とする[[国民政府]]が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蔣介石の動きを1つの契機として、[[中原大戦]]([[1930年]][[5月1日]]~[[10月10日]])を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。 |
||
[[1932年]]には、強大な[[軍事力]]と[[ブルジョアジー]]の支持を背景に、 |
[[1932年]]には、強大な[[軍事力]]と[[ブルジョアジー]]の支持を背景に、蔣介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や[[満州事変]]以降勢力拡大する[[日本軍]]に脅かされることになる。 |
||
蔣介石は、[[抗日]]戦より[[反共主義]]を優先し、[[1930年]]から[[1934年]]にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、[[共産党]]は[[井崗山]]の革命根拠地を撤収・放棄して[[長征]]を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の[[国民革命軍|国民党軍]]は[[ドイツ国防軍]]からファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。[[1936年]]には、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蔣介石が軟禁され ([[西安事件]])、これが、国共両党の接近をもたらした。[[1937年]]に[[日中戦争]]が開始され、同年 [[9月22日]]、[[第二次国共合作]]が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は[[重慶]]に移転して日本軍の攻撃をしのぎ、執行機関を[[武漢]]に置いた。民国27年([[1938年]])3月29日、[[漢口]]に於いて臨時全国代表大会を開き、三民主義を再確認するとともに、憲章改正で総裁制が定められた<ref>孫文が総理として有した同格の地位が蔣介石に与えられ、総裁に蔣介石、汪兆銘が副総裁となる。</ref>。 |
|||
[[太平洋戦争]]期には遠征軍が[[ビルマの戦い]]に参加し、10万名の戦死者を出した([[抗日老兵]])。 |
[[太平洋戦争]]期には遠征軍が[[ビルマの戦い]]に参加し、10万名の戦死者を出した([[抗日老兵]])。 |
||
75行目: | 75行目: | ||
1945年10月にアメリカの調停で結ばれた[[双十協定]]は失敗し、同年11月から[[国共内戦]]が再開されるが、国共内戦中にアメリカからの支援が打ち切られたことや[[法幣]]の濫発が災いして、ソ連が支援する[[中国共産党|共産党]]に対して劣勢に陥り、[[1949年]][[10月1日]] には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。 |
1945年10月にアメリカの調停で結ばれた[[双十協定]]は失敗し、同年11月から[[国共内戦]]が再開されるが、国共内戦中にアメリカからの支援が打ち切られたことや[[法幣]]の濫発が災いして、ソ連が支援する[[中国共産党|共産党]]に対して劣勢に陥り、[[1949年]][[10月1日]] には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。 |
||
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、 |
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、蔣介石に従わなかった国民党の一部は中国大陸にとどまり、[[中国国民党革命委員会]]として中国共産党の衛星政党となった。また、四川・雲南方面の部隊は[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、[[ラオス]]など[[東南アジア]]に逃れ、東南アジアの[[政治]]的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。 |
||
特に[[内戦]]の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていない[[シャン州]]に逃れた。有力な[[ワ族]]など[[少数民族]]と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、[[アメリカ]]は[[中央情報局|CIA]]を用いて公然と国民党軍(KMT)への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。 |
特に[[内戦]]の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていない[[シャン州]]に逃れた。有力な[[ワ族]]など[[少数民族]]と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、[[アメリカ]]は[[中央情報局|CIA]]を用いて公然と国民党軍(KMT)への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。 |
||
86行目: | 86行目: | ||
台湾に本拠地を移して以降は、長期的な視野では[[中国大陸]]との統一を主張しているが、短期的な視野では現状維持を志向している。 |
台湾に本拠地を移して以降は、長期的な視野では[[中国大陸]]との統一を主張しているが、短期的な視野では現状維持を志向している。 |
||
台湾移転後は臨時[[立法]]だった筈の[[動員戡乱時期臨時条款]]により、40年近く[[一党独裁体制]]で政権を担ってきたが、[[1979年]]の[[美麗島事件]]をきっかけに、[[1987年]]に[[ |
台湾移転後は臨時[[立法]]だった筈の[[動員戡乱時期臨時条款]]により、40年近く[[一党独裁体制]]で政権を担ってきたが、[[1979年]]の[[美麗島事件]]をきっかけに、[[1987年]]に[[蔣経国]]総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、[[一党独裁体制]]は終結した。 |
||
=== 野党への転落と政権復帰 === |
=== 野党への転落と政権復帰 === |
||
[[1996年]]には[[総統民選期の中華民国|中華民国の国民による総統選挙]]に移行し、[[2000年]]の総統選挙で民進党の[[陳水扁]]に敗れて歴史的に初めて野党になり、[[2001年]]には[[中華民国立法院|立法院]](議会)でも第2党になった。 |
[[1996年]]には[[総統民選期の中華民国|中華民国の国民による総統選挙]]に移行し、[[2000年]]の総統選挙で民進党の[[陳水扁]]に敗れて歴史的に初めて野党になり、[[2001年]]には[[中華民国立法院|立法院]](議会)でも第2党になった。 |
||
[[2005年]]に、国民党主席の[[連戦]]らが[[北京]]を訪問。[[中国共産党]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]・[[中華人民共和国主席]]の[[胡錦濤]]と会談した。両党トップの会談は1945年の |
[[2005年]]に、国民党主席の[[連戦]]らが[[北京]]を訪問。[[中国共産党]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]・[[中華人民共和国主席]]の[[胡錦濤]]と会談した。両党トップの会談は1945年の蔣介石と[[毛沢東]]による[[重慶]]会談以来60年ぶりで、[[台湾独立]]反対という姿勢で一致した。翌[[2006年]]には中国共産党との交流協議の枠組みである[[両岸経済貿易文化フォーラム]](国共フォーラム)を設置した。 |
||
[[2008年]]に立法院第1党に返り咲くとともに、中国国民党の[[馬英九]]が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。同年には[[呉伯雄]]主席が与党党首としては初めて訪中して胡錦濤総書記と会見し、[[北京オリンピックの開会式]]と[[上海万博]]開幕式にも出席した<ref>{{cite news |
[[2008年]]に立法院第1党に返り咲くとともに、中国国民党の[[馬英九]]が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。同年には[[呉伯雄]]主席が与党党首としては初めて訪中して胡錦濤総書記と会見し、[[北京オリンピックの開会式]]と[[上海万博]]開幕式にも出席した<ref>{{cite news |
||
150行目: | 150行目: | ||
|- |
|- |
||
! style="background:#eee"|3 |
! style="background:#eee"|3 |
||
|style="text-align:center"|[[ |
|style="text-align:center"|[[蔣介石]] |
||
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]] |
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]] |
||
|[[1926年]][[7月6日]]||[[1927年]][[3月11日]] |
|[[1926年]][[7月6日]]||[[1927年]][[3月11日]] |
||
164行目: | 164行目: | ||
|- |
|- |
||
! style="background:#eee"|5 |
! style="background:#eee"|5 |
||
|style="text-align:center"|[[ |
|style="text-align:center"|[[蔣介石]]<br />(永久総裁) |
||
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]] |
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]] |
||
|[[1938年]][[4月1日]]||[[1975年]][[4月5日]](死亡) |
|[[1938年]][[4月1日]]||[[1975年]][[4月5日]](死亡) |
||
171行目: | 171行目: | ||
|- |
|- |
||
! style="background:#eee"|6 |
! style="background:#eee"|6 |
||
|style="text-align:center"|[[ |
|style="text-align:center"|[[蔣経国]]<br />(中央委員會主席) |
||
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Ching-Kuo in 1954.png|80px]] |
|style="text-align:center"|[[ファイル:Chiang Ching-Kuo in 1954.png|80px]] |
||
|[[1975年]][[4月28日]]||[[1988年]][[1月13日]](死亡) |
|[[1975年]][[4月28日]]||[[1988年]][[1月13日]](死亡) |
||
189行目: | 189行目: | ||
|[[2000年]][[3月24日]]||[[2005年]][[8月19日]] |
|[[2000年]][[3月24日]]||[[2005年]][[8月19日]] |
||
|2001年3月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年12月に訪日(党主席の訪日は初)。2005年4月、北京で[[胡錦涛]]共産党総書記と60年ぶりの国共トップ会談。 |
|2001年3月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年12月に訪日(党主席の訪日は初)。2005年4月、北京で[[胡錦涛]]共産党総書記と60年ぶりの国共トップ会談。 |
||
| |
|蔣経国政権で [[中華民国交通部|交通部長]]、行政院副院長(副首相)、李登輝政権で[[中華民国外交部|外交部長]]、行政院長(首相)。1996年副総統。[[2000年中華民国総統選挙|2000年総統選]]、[[2004年中華民国総統選挙|2004年総統選]]にいずれも惨敗。2005年から党名誉主席。 |
||
|- |
|- |
||
! style="background:#eee"|9 |
! style="background:#eee"|9 |
||
196行目: | 196行目: | ||
|[[2005年]][[8月19日]]||[[2007年]][[2月13日]] |
|[[2005年]][[8月19日]]||[[2007年]][[2月13日]] |
||
|党政治綱領を改訂し、「[[九二共識]]」の受入れ、「[[一国二制度]]」の反対を盛込む。2006年3月、党本部ビルを売却。同年4月、[[両岸経済貿易文化フォーラム]]発足。同年8月、党資産の情報公開。 |
|党政治綱領を改訂し、「[[九二共識]]」の受入れ、「[[一国二制度]]」の反対を盛込む。2006年3月、党本部ビルを売却。同年4月、[[両岸経済貿易文化フォーラム]]発足。同年8月、党資産の情報公開。 |
||
| |
|蔣経国総統の英語通訳、李登輝政権では台北市長、[[中華民国法務部|法務部長]]。2008年から総統。2012年に総統再選。 |
||
|- |
|- |
||
! style="background:#eee"|10 |
! style="background:#eee"|10 |
2020年9月15日 (火) 13:09時点における版
中国国民党 中國國民黨 | |
---|---|
主席 | 江啓臣 |
秘書長 | 李乾龍 |
成立年月日 | 1919年10月10日[2] |
前身政党 |
興中会 中国革命同盟会[3] 国民党 中華革命党[2][3] |
本部所在地 | 中華民国台北市中山区八徳路2段232-234号(中央委員会本部) |
立法院 |
38 / 113 |
党員・党友数 |
899,668人[4] (2017年1月21日) |
政治的思想・立場 |
中道右派[5][6] - 右派[7] 保守主義 自由保守主義 国民保守主義[8] 三民主義[9][10][1] 三不政策[11] 反共[10] 立憲主義 共和主義 |
機関紙 | 『中央日報』[12] |
シンボル | |
国際組織 |
国際民主同盟[13] 中道民主インターナショナル[14] |
公式サイト | 中國國民黨全球資訊網 |
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字:中國國民黨, 拼音:Zhōngguó Guómíndǎng[1]、英語: Chinese Nationalist Party、Kuomintang[9])は、中華民国の政党である。略称は国民党[15]、またはKMT(Kuomintang)[9]。イメージカラーは藍色で、ニュース報道等では、民主進歩党の「緑」に対して「藍」と呼ばれることがある。民主進歩党と共に二大政党制を形成している。
概要
1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した。
ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて1945年10月25日に中華民国が台湾を編入し、中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、1949年10月1日に内戦で敗れた中華民国政府が台北に事実上遷都した1949年12月7日以後は、台湾省を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾化・本土化)を経て今日に至っている。
2000年に民主進歩党(民進党)の陳水扁総統が就任し、史上初めて野党となった。2001年には立法院(国会)第1党の座も奪われた。しかし、2008年に国民党の馬英九総統が就任し、立法院第1党も奪回、政権与党に復帰した。
台湾及び福建省のごく一部のみを基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお孫文を党総理とし[16]、また蔣介石をも2014年から「永久総裁」としており、いまだ党名に「中国」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した李登輝時代には党の台湾化、いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した2000年頃からは党内「本土派」が退潮し、副総統だった連戦が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」から大陸との繋がりを強調する傾向に回帰している。
孫文と蔣介石が日中戦争の前から日本と関わりが深かったこと(敵としても友としても)や、冷戦時代は一党独裁を敷いて世界反共連盟を主導して反共主義による外交を展開し、日本の自民党(とりわけ清和会)と太いパイプを持ったため、知日派を多数擁しているといわれ、国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある(ただし、日本語版は2016年末以降は更新されず、現在は消失、2020年からは新たにツイッター上において日本語で情報発信する活動を開始している[17])。冷戦終結後は中国共産党との党間交流を再び図るも、かつて孫文と蔣介石によって二度行われた国共合作の失敗から尚早な中台統一に慎重な声も根強く、前主席の呉敦義は統派と距離を置く現状維持を志向する本土派の人間である[18]。
歴史
黎明時代
1894年11月、清朝を打倒し共和制国家樹立を目的とした興中会が孫文を中心としてハワイで結成された。興中会はたびたび武装蜂起を試みたが失敗した。
1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会、光復会が合併して日本の東京で中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義の思想を発表した。
1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京で中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して「国民党」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。
1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁は上海で暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外に逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党(こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。
中国大陸時代
中国国民党の成立
1919年10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ[19]、党総理には孫文が就任した。
第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[20]。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[21]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボルシェビキをモデルとした[22]。ロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[23]。他にもソビエト連邦共産党のシステムを学び、ソビエト連邦と同様の党国体制を布いた。
1921年に中国共産党が樹立されると、中国国民党は当初は容共の立場をとり、1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される[24]。1923年6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[25]。1924年1月20日には、中国共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。陳独秀や毛沢東もこのときに中国国民党に入党した[26]。
孫文の死後、1925年に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蔣介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
南北統一・国民政府成立後
北伐の完了を受けて、1928年、南京に蔣介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蔣介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日~10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蔣介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や満州事変以降勢力拡大する日本軍に脅かされることになる。
蔣介石は、抗日戦より反共主義を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の国民党軍はドイツ国防軍からファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。1936年には、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蔣介石が軟禁され (西安事件)、これが、国共両党の接近をもたらした。1937年に日中戦争が開始され、同年 9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は重慶に移転して日本軍の攻撃をしのぎ、執行機関を武漢に置いた。民国27年(1938年)3月29日、漢口に於いて臨時全国代表大会を開き、三民主義を再確認するとともに、憲章改正で総裁制が定められた[27]。 太平洋戦争期には遠征軍がビルマの戦いに参加し、10万名の戦死者を出した(抗日老兵)。
国共内戦
1945年8月18日に満州国がソビエト連邦の赤軍の侵攻で崩壊(三日前の15日には大日本帝国が降伏勧告を受け入れ無条件降伏と全軍の武装放棄を決定・発令している)、1945年9月2日にはポツダム宣言受諾の調印があり、10月25日に台湾は国民党政府に明け渡され、日本軍は中国本土から撤退し、国民党政府は旅順・大連・香港・マカオを除く中国大陸と、台湾の両地域を領土とした(満州は翌年1946年5月までソ連軍政下に置かれて東北問題という外交問題になった)。
1945年10月にアメリカの調停で結ばれた双十協定は失敗し、同年11月から国共内戦が再開されるが、国共内戦中にアメリカからの支援が打ち切られたことや法幣の濫発が災いして、ソ連が支援する共産党に対して劣勢に陥り、1949年10月1日 には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、蔣介石に従わなかった国民党の一部は中国大陸にとどまり、中国国民党革命委員会として中国共産党の衛星政党となった。また、四川・雲南方面の部隊はタイ、ミャンマー、ラオスなど東南アジアに逃れ、東南アジアの政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。
特に内戦の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていないシャン州に逃れた。有力なワ族など少数民族と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、アメリカはCIAを用いて公然と国民党軍(KMT)への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。
当時、1950年代のビルマ政府は少数民族の武装蜂起やビルマ共産党の政権からの離脱などが相次いでいた。KMTのシャン州での占領はビルマの動揺を増幅するものであった。当時のウー・ヌ首相は、国際連合において、KMTのシャン州占領を不法行為とみなし、KMT将兵の国外退去を要求している。また、後に政権を獲得する事になるネ・ウィン国防大臣は、少数民族の反乱を鎮圧にこぎつけたのを機に、シャン州にて抵抗を続けるKMT残党の掃討作戦も開始。時には中国人民解放軍と連携して共同作戦を取りながら、KMT勢力の追放に取り掛かった。
こうしたビルマ政府の反発によって、シャン州にいた元KMT将兵の大半は台湾やタイなどに出国するか、麻薬王となったクン・サのように地元に土着化していった。
台湾移転
台湾に本拠地を移して以降は、長期的な視野では中国大陸との統一を主張しているが、短期的な視野では現状維持を志向している。
台湾移転後は臨時立法だった筈の動員戡乱時期臨時条款により、40年近く一党独裁体制で政権を担ってきたが、1979年の美麗島事件をきっかけに、1987年に蔣経国総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、一党独裁体制は終結した。
野党への転落と政権復帰
1996年には中華民国の国民による総統選挙に移行し、2000年の総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて歴史的に初めて野党になり、2001年には立法院(議会)でも第2党になった。
2005年に、国民党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年の蔣介石と毛沢東による重慶会談以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。翌2006年には中国共産党との交流協議の枠組みである両岸経済貿易文化フォーラム(国共フォーラム)を設置した。
2008年に立法院第1党に返り咲くとともに、中国国民党の馬英九が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。同年には呉伯雄主席が与党党首としては初めて訪中して胡錦濤総書記と会見し、北京オリンピックの開会式と上海万博開幕式にも出席した[28][29]。2009年に馬英九総統が国民党主席に当選した際は胡錦濤総書記から祝電がおくられている[30]。
2012年の立法院選挙では第1党を守り、総統選挙でも再選を果たした。同年の中国共産党第十八回全国代表大会では国民党中央委員会が初めて祝電を打ち[31]、習近平が中国共産党総書記に選出された際は馬英九総統が異例の祝電をおくった[32]。習近平総書記も国民党で新たな主席が当選するたびに祝電をおくっている[33][34][35]。
2015年11月7日[36]、シンガポールのシャングリラホテルで、馬英九総統は中国共産党の習近平総書記(中国最高指導者の役職)と1949年の中台分断後初となる中台首脳会談を行った。
2016年に行われた総統選挙にて、総統候補の朱立倫主席は、民主進歩党の蔡英文主席に敗れて、国民党は再び野党となった。
2018年に行われた統一地方選挙にて躍進し、民進党の牙城だった高雄でも議席を獲得した[37]。
2020年に行われた総統選挙では国民党候補の韓国瑜が現職の蔡英文に敗北し、同時に行われた立法委員選挙でも3議席を増しただけで民進党に過半数を維持されることとなった[38]。香港で民主化デモが起きてから国民党の総統選候補は支持率が逆転しており[39]、香港情勢で対中姿勢が警戒された影響とされる。
組織
歴代の党首
代 | 姓名 | 肖像 | 在任期間 | 在任中の出来事 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
就任 | 退任 | ||||||
1 | 孫文 (国民党理事長) |
1912年8月25日 | 1914年7月8日 | ||||
1 | 孫文 (中華革命党総理) |
1914年7月8日 | 1919年10月10日 | ||||
1 | 孫文 (永久総理) |
1919年10月10日 | 1925年3月12日(死亡) | ||||
2 | 張静江 (中央執行委員會常務委員會主席) |
1926年5月19日 | 1926年7月6日 | ||||
3 | 蔣介石 | 1926年7月6日 | 1927年3月11日 | ||||
4 | 胡漢民 | 1935年12月7日 | 1936年5月12日(死亡) | ||||
5 | 蔣介石 (永久総裁) |
1938年4月1日 | 1975年4月5日(死亡) | ||||
6 | 蔣経国 (中央委員會主席) |
ファイル:Chiang Ching-Kuo in 1954.png | 1975年4月28日 | 1988年1月13日(死亡) | 十大建設 を推進。1987年7月14日、戒厳令を解除し、政党結成を自由化。 | 浙江省 生まれ。国防部長、行政院長(首相)を経て、1978年総統。 | |
7 | 李登輝 | 1988年1月27日 | 2000年3月24日 | 1991年、動員戡乱時期臨時条款を廃止、国家統一綱領策定。1996年、初の総統直接選挙を実施。同年、台湾海峡危機。1999年、二国論(両国論)を提唱。 | 1971年入党。台北市長、台湾省主席、副総統を経て、1988年総統。2000年総統選敗北の責任をとって辞任後、台湾団結連盟結成。2001年、党籍剥奪。 | ||
8 | 連戦 | 2000年3月24日 | 2005年8月19日 | 2001年3月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年12月に訪日(党主席の訪日は初)。2005年4月、北京で胡錦涛共産党総書記と60年ぶりの国共トップ会談。 | 蔣経国政権で 交通部長、行政院副院長(副首相)、李登輝政権で外交部長、行政院長(首相)。1996年副総統。2000年総統選、2004年総統選にいずれも惨敗。2005年から党名誉主席。 | ||
9 | 馬英九 | 2005年8月19日 | 2007年2月13日 | 党政治綱領を改訂し、「九二共識」の受入れ、「一国二制度」の反対を盛込む。2006年3月、党本部ビルを売却。同年4月、両岸経済貿易文化フォーラム発足。同年8月、党資産の情報公開。 | 蔣経国総統の英語通訳、李登輝政権では台北市長、法務部長。2008年から総統。2012年に総統再選。 | ||
10 | 呉伯雄 | 2007年4月11日 | 2009年10月17日 | 2008年5月、台湾の与党党首として初めて中国を訪問し、胡錦濤 中国共産党総書記と初会談。2008年12月に訪日。 | 李登輝政権で内政部長、台北市長、総統府秘書長など歴任。2009年から党名誉主席。 | ||
11 | 馬英九 | 2009年10月17日 | 2014年12月3日 | 2010年6月、中国との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)を締結。2012年に総統再選。2013年に主席再選。2014年11月の統一地方選挙大敗に伴い引責辞任。 | 第9代を参照。 | ||
12 | 朱立倫 | 2015年1月17日 | 2016年1月16日 | 前任の馬英九主席辞任に伴い、2015年1月に実施された主席選挙で当選。 | 2001年から2期に渡り桃園県長を務める。2008年11月から党副主席。2009年9月、行政院副秘書長。2010年10月、新北市長に当選。2014年11月、新北市長に再選。2016年1月16日に総選挙大敗の責任を取り辞任し、新北市長の職務に戻った[40]。 | ||
12 | 黄敏恵 | 2016年1月18日 | 2016年3月26日 | 朱立倫主席辞任に伴い、主席代理就任 | |||
12 | 洪秀柱 | 2016年3月28日 | 2017年8月20日 | 朱立倫の後任を決める主席選挙で黄敏恵らを退けて当選 | |||
13 | 呉敦義 | 2017年8月20日 | 2020年1月15日 | 前副総統。洪秀柱の後任を決める主席選挙で洪秀柱らを退けて当選。2020年1月15日に総統選挙大敗の責任を取り辞任。 | |||
14 | 江啓臣 | 2020年3月9日 | 現職 |
党役員
党章上、党員が総統在任中は党主席を兼任すると定めていたが、2019年7月に開かれた第20期第3回党大会でこの規定は削除された[41]。なお、野党時には党員の直接選挙により選出される[42]。
なお、総統在職中だった馬英九は2014年11月に実施された統一地方選挙で大敗し、主席を引責辞任した。これに伴い、総統が党主席を兼任する条文は空文化した。2015年1月、党主席選挙が実施され、新北市長朱立倫が当選した。しかし2016年1月に行われた総選挙大敗の責任を取り党主席を辞任し、前嘉義市長の黄敏恵が主席代理に就任した[43]。その後3月26日に主席選挙が行われ、統一志向の洪秀柱が主席代行を務めていた黄敏恵らを退け初当選した。洪は、黄埔軍校同学会などで中国大陸と繋がりの強い退役軍人や年金改革に反発する公務員といった軍公教を支持基盤にしている[44]。また総統選の際にいったんは党の公認候補に選ばれたのに支持低迷を理由に途中で交代させられ、党内に同情論が強かったことも追い風になった模様[45]。
秘書長(党幹事長に相当)は、李四川。なお連戦と呉伯雄の両元主席は「名誉主席」の称号を与えられている。
脚注
- ^ a b c 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ a b デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ 中國國民黨黨員數暨各縣市審核中人數表 中國國民黨全球資訊網. (2017年1月21日) 2018年12月6日閲覧。
- ^ ISBN 0252090810
- ^ “Missionaries of Revolution”. July 4, 2015閲覧。
- ^ ““Breaking The Birdcage And Returning Power To The People””. International Democracy Community. 8 May 2020閲覧。 “The celebration followed the passage of major revisions to the Referendum Act December 12 after a 63-0 vote boycotted by lawmakers of the right-wing Chinese Nationalist Party (Kuomintang or KMT).”
- ^ “'Tsai wants to continue her balancing act'”. International Politics and Society Journal (2020年1月13日)
- ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ a b 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) - 中国国民党 #多党制時代(2000年~ ) コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 中央日報 コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ IDU Member Parties 2019.11.21閲覧。
- ^ partys2020.6.12閲覧
- ^ デジタル大辞泉 - こくみん‐とう〔‐タウ〕【国民党】 コトバンク. 2018年12月6日閲覧。
- ^ 国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党首は「主席」。
- ^ “中国国民党公式ツイッターアカウント”. Twitter. 2020年7月16日閲覧。
- ^ “国民党主席に呉敦義氏”. 毎日新聞. (2017年5月20日) 2017年12月31日閲覧。
- ^ 深町英夫、「中国国民党形成史の研究 : 「孫文革命」の展開と党国体制の成立 (第6章 中国国民党と地域社会)」博士論文 博甲第2号, 1995年, NCID 1000191503識別子"1000191503"は正しくありません。, 東京外国語大学
- ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史 11>(講談社、2004 年)61 頁
- ^ 天児慧同書 63頁
- ^ 天児慧同書 63頁
- ^ 天児慧 同書 63 頁
- ^ 天児慧 同書 64頁
- ^ 天児慧 同書 64頁
- ^ 中国共产党“三大”确立同国民党实行“党内合作”的政策人民網
- ^ 孫文が総理として有した同格の地位が蔣介石に与えられ、総裁に蔣介石、汪兆銘が副総裁となる。
- ^ “胡錦濤會見連戰吳伯雄宋楚瑜”. 国務院台湾事務弁公室. (2008年8月8日) 2017年4月23日閲覧。
- ^ “胡錦濤総書記、万博開幕式出席の台湾各界有力者と面会”. 人民網. (2010年4月30日) 2017年11月25日閲覧。
- ^ “馬英九総統が国民党主席に当選=胡錦濤国家主席が祝電―台湾”. Record China. (2009年7月28日) 2017年5月27日閲覧。
- ^ “中国国民党中央委員会が中国共産党の党大会開催に祝電”. 人民網. (2012年11月9日) 2017年4月23日閲覧。
- ^ “馬総統、習近平氏に初祝電 国民党主席名義で”. 中央通訊社. (2012年11月15日) 2017年4月23日閲覧。
- ^ “習近平総書記、国民党の朱立倫主席に祝電”. 人民網. (2015年1月18日) 2017年5月27日閲覧。
- ^ “中国・習近平氏、台湾・国民党主席に当選の洪秀柱氏に祝電―中国メディア”. Record China. (2016年3月27日) 2017年5月27日閲覧。
- ^ “習近平総書記、国民党主席当選の呉敦義氏に祝電”. 中央通訊社. (2017年5月21日) 2017年5月27日閲覧。
- ^ “中台が首脳会談 歴史的握手交わす”. 日本経済新聞. (2015年11月7日) 2016年2月5日閲覧。
- ^ “蔡総統が党主席辞任へ 台湾地方選で与党が大敗”. 日本経済新聞 朝刊. (2018年11月25日) 2019年1月3日閲覧。
- ^ “台湾議会選、与党・民進党が過半数を維持”. 日本経済新聞 朝刊. (2020年1月12日) 2020年1月12日閲覧。
- ^ “【国際情勢分析】香港デモが台湾・蔡総統に追い風 野党候補との支持率逆転”. 産経ニュース (2019年7月2日). 2020年1月12日閲覧。
- ^ http://news.ifeng.com/a/20160118/47118374_0.shtml 朱立伦辞党主席不接受慰留 回锅任新北市长
- ^ 【全代會通過黨章修正案 刪除總統兼任黨主席條文內容】 中国国民党公式サイト - 2019年7月28日閲覧。
- ^ 党主席の選出方法は 2001年3月に初めて党員直接選挙で実施された。
- ^ http://news.sina.com.cn/c/gat/2016-01-18/doc-ifxnrahr8467881.shtml 朱立伦辞去国民党主席 副主席黄敏惠暂代党主席
- ^ “年金改革に反発、大規模デモ 蔡政権発足後、初”. 毎日新聞 (2016年9月3日). 2017年5月7日閲覧。
- ^ “国民党主席に洪秀柱氏 対中国では統一志向”. 毎日新聞. 2016年3月26日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 中国国民党公式サイト(中国語版)
- 中国国民党公式サイト(日本語版)2017年2月26日付のキャッシュ。
- 2020年においては、元のアドレスである中国国民党公式サイト(日本語版)にアクセスすると中国語版に転送される。