「河辺百枝」の版間の差分
壁掛成蛸は三考する葦である (会話 | 投稿記録) カテゴリーを追加。 |
|||
64行目: | 64行目: | ||
*[[劉仁軌]] |
*[[劉仁軌]] |
||
*[[文武王]] |
*[[文武王]] |
||
*[[ |
*[[金庾信]] |
||
*[[難波京]] - 同時に官職を授けられた丹比公麻呂は[[摂津職]]の長官になった。 |
*[[難波京]] - 同時に官職を授けられた丹比公麻呂は[[摂津職]]の長官になった。 |
||
2020年9月14日 (月) 23:11時点における版
時代 | 飛鳥時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 小錦上・民部卿 |
主君 | 天智天皇→弘文天皇→天武天皇 |
氏族 | 河辺臣 |
河辺 百枝(かわべ の ももえ)は、飛鳥時代の豪族。姓は臣。冠位は小錦上・民部卿。
出自
河辺氏(川辺氏)の名前は、河内国石川郡河野辺に由来する。この地は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に当たる。『新撰姓氏録』右京皇別上には、「武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也」と掲載されている。同族に、『日本書紀』巻第十九の欽明天皇23年7月条(562年)に名前のあがっている河辺臣瓊缶(かわべ の おみ にえ)、巻第二十二の推古天皇31年是歳条(623年)で征新羅副将軍の1人とされた河辺臣禰受(かわべ の おみ ねず)、巻第二十五・二十六の、孝徳天皇の白雉5年2月(623年)に遣唐大使に選ばれ、翌年の斉明天皇元年8月1日に帰朝した河辺臣麻呂(かわべ の おみ まろ)などが存在する。主として対外関係の方面で活躍した一族である。
経歴
『書紀』巻第二十六によると、斉明天皇7年(661年)7月24日に天皇が崩御したのち、皇太子の葛城中大兄皇子(のちの天智天皇)は素服(あさものみそ=麻衣の御服)を着て、「称制」を行い、即位しない状態で政務をとった。筑前国の朝倉宮(あさくらのみや、現在の福岡県朝倉市山田)から長津宮(ながつのみや、現在の福岡市南区三宅)へ遷幸してから、海外への軍政をとった[1]。この地は那津(博多)に近く、水軍動員の利があった。
8月になってから、軍の編成を行い、百済救援軍を組織した。
- 前軍の将軍 - 大花下(だいけげ)の阿曇比羅夫連(あづみ の ひらぶふ の むらじ)、そして小花下(しょうけげ)の河辺百枝臣(かわべ の ももえ の おみ).
- 後軍の将軍 - 大花下の阿倍引田比羅夫臣(あべのひけた の ひらふ の おみ)、大山上(だいせんじょう)の物部連熊(もののべ の むらじ くま)、大山上守君大石(もり の きみ おおいわ)
- 別働隊 - 大山下(だいせんげ)の狭井連檳榔(さい の むらじ あじまさ)・小山下(せうせんげ)の秦造田来津(はた の みやつこ たくつ)
武器や五穀(食糧)も同時に送られている[2]。
翌年5月、阿曇比羅夫らは船師(ふないくさ)170艘を率いて、豊璋と途中で加わった鬼室福信らを百済に送り、豊璋を百済王位につけた[3]。百枝たちの任務はいちおう終了した。この後、河辺百枝がどのような働きをしたのかは、描写されてはいない。
天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いは唐・新羅軍の圧勝に終わり、大和政権が百済に擁立した王、余豊璋は、数人の供と船に乗って高句麗へ亡命した[4]。翌月7日、百済軍の拠点であった州柔城(つぬさし)は、唐に降伏した(『資治通鑑』では降伏の日を9月8日としている)。百済の遺民たちは、「百済も今日でおしまいだ」と言い、今後のことを相談する目的で日本軍の駐屯する弖礼城(てれさし)へ行った。そして、日本の軍将に従い、妻子共々船で日本へと向かった[5]。
それから14年後、『書紀』巻第二十九によると、天武天皇6年(677年)10月、内小錦上(うちしょうきんじょう)の河辺臣百枝は、民部卿(かきべのかみ)に任命された[6]。
一族の河辺臣子首(かわべ の おみ こびと)は天武天皇10年(681年)12月に筑紫国へ派遣されて、新羅使の金忠平(きんちゅうぴょう)を饗応したという[7]。川辺臣は、天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、第2位の「朝臣」の姓を授与されている[8]。
脚注
参考文献
- 『日本書紀』(五)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年