コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「新昌郡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 稹湄湞滁漳潢滎を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (滁州) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 稹湄湞滁漳潢滎を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (滁州市) - log
 
11行目: 11行目:


== 滁州の新昌郡 ==
== 滁州の新昌郡 ==
[[473年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]元年)、[[宋 (南朝)|南朝宋]]により[[秦郡]][[頓丘県]]・[[梁郡]][[穀熟県]]・[[歴陽郡]][[酇県]]を分割して、新昌郡が立てられた<ref>『[[宋書]]』州郡志一</ref>。この新昌郡は現在の[[安徽省]][[ジョ州市|滁州市]]一帯に相当し、はじめは[[徐州]]に属した。
[[473年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]元年)、[[宋 (南朝)|南朝宋]]により[[秦郡]][[頓丘県]]・[[梁郡]][[穀熟県]]・[[歴陽郡]][[酇県]]を分割して、新昌郡が立てられた<ref>『[[宋書]]』州郡志一</ref>。この新昌郡は現在の[[安徽省]][[滁州市]]一帯に相当し、はじめは[[徐州]]に属した。


[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、新昌郡は[[北徐州]]に属し、[[頓丘県|頓丘]]・[[穀熟県|穀熟]]・[[尉氏県 (安徽省)|尉氏]]の3県を管轄した<ref name="nanseisho14"/>。
[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、新昌郡は[[北徐州]]に属し、[[頓丘県|頓丘]]・[[穀熟県|穀熟]]・[[尉氏県 (安徽省)|尉氏]]の3県を管轄した<ref name="nanseisho14"/>。

2020年9月11日 (金) 21:15時点における最新版

新昌郡(しんしょう-ぐん)は、かつて中国王朝が設置した魏晋南北朝時代に別の2カ所で立てられ、併存した時期もある。

交州の新昌郡

[編集]

271年建衡3年)、三国により交阯郡を分割して、新昌郡が立てられた[1]。この新昌郡は現在の中国とベトナムの国境地帯にあり、交州に属した。

のとき、新昌郡は麊泠嘉寧呉定封山西道の6県を管轄した[2]

南朝斉のとき、新昌郡は范信・嘉寧・封山・西道・臨西・呉定・新道晋化の8県を管轄した[3]

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、新昌郡は廃止されて、興州に編入された[4]

滁州の新昌郡

[編集]

473年元徽元年)、南朝宋により秦郡頓丘県梁郡穀熟県歴陽郡酇県を分割して、新昌郡が立てられた[5]。この新昌郡は現在の安徽省滁州市一帯に相当し、はじめは徐州に属した。

南朝斉のとき、新昌郡は北徐州に属し、頓丘穀熟尉氏の3県を管轄した[3]

南朝梁のとき、新昌郡は西徐州に転属した。

東魏のとき、新昌郡は譙州に転属し、赤湖荻港薄陽・頓丘の4県を管轄した[6]

552年天保3年)、北斉により南譙州が立てられると、新昌郡に州治が置かれた。

583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新昌郡は廃止されて、滁州に編入された[4]

脚注

[編集]
  1. ^ 三国志』呉書三嗣主伝
  2. ^ 晋書』地理志下
  3. ^ a b 南斉書』州郡志上
  4. ^ a b 隋書』地理志下
  5. ^ 宋書』州郡志一
  6. ^ 魏書』地形志二中