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[[後漢]]のとき、泰山郡は奉高・博・梁父・鉅平・嬴・山茌・莱蕪・蓋・南武陽・南城・費・牟の12県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志三</ref>。 |
[[後漢]]のとき、泰山郡は奉高・博・梁父・鉅平・嬴・山茌・莱蕪・蓋・南武陽・南城・費・牟の12県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志三</ref>。 |
2020年9月11日 (金) 21:05時点における版
泰山郡(たいざん-ぐん)は、太山郡ともいい、中国にかつて存在した郡。漢代から南北朝時代にかけて、現在の山東省中部に設置された。
概要
紀元前178年(前漢の文帝2年)、劉興居が済北王となると、斉国から済北国が分離された[1]。紀元前122年(元狩元年)、済北王が泰山付近の地を武帝に献上すると、泰山郡が置かれた[2]。紀元前87年(後元2年)、済北王劉寛が自殺する[3]と、済北国は廃止され、泰山郡に併合された[4]。泰山郡は兗州に属し、奉高・博・山茌・盧・肥成・蛇丘・剛・柴・蓋・梁父・東平陽・南武陽・莱蕪・鉅平・嬴・牟・蒙陰・華・寧陽・乗丘・富陽・桃山・桃郷・式の24県を管轄した。前漢末に17万2086戸、72万6604人があった[5]
後漢のとき、泰山郡は奉高・博・梁父・鉅平・嬴・山茌・莱蕪・蓋・南武陽・南城・費・牟の12県を管轄した[6]。
晋のとき、泰山郡は奉高・博・嬴・南城・梁父・山茌・新泰・南武陽・莱蕪・牟・鉅平の11県を管轄した[7]。
南朝宋のとき、泰山郡は奉高・鉅平・嬴・牟・南城・武陽・梁父・博の8県を管轄した[8]。
北魏のとき、泰山郡は鉅平・奉高・博平・嬴・牟・梁父の6県を管轄した[9]。
北斉のとき、泰山郡は東平郡と改められ、泰山郡の呼称は姿を消した[10]。