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それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、[[定]](サマーディ)、[[涅槃]]に至る道である。
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=== 四諦===
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要するに[[五蘊|五取蘊]]は苦である。
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つまりは、欲愛(カーマタンハー, [[感覚器|感官]]によって得られる刺激・快楽への渇愛)、有愛(バヴァタンハー, 存在への渇愛)、無有愛(ヴィバヴァタンハー, 存在しないことへの渇愛)である。
つまりは、欲愛(カーマタンハー, [[感覚器|感官]]によって得られる刺激・快楽への渇愛)、有愛(バヴァタンハー, 存在への渇愛)、無有愛(ヴィバヴァタンハー, 存在しないことへの渇愛)である。
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比丘たちよ、[[苦 (仏教)|苦]](ドゥッカ)を滅する聖諦([[四諦]])とはこれである。
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すなわち[[八正道]]であり、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
すなわち[[八正道]]であり、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年9月6日 (日) 04:42時点における版

仏教用語
初転法輪
日本語 初転法輪
(ローマ字: shoten-horin)
英語 Setting in Motion the Wheel of the Dharma,
The First Turning of the Wheel
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サールナート
カナダ・ケベック州のモニュメント

初転法輪(しょてんぽうりん)とは、釈迦が初めて仏教の教義(法輪)を人びとに説いた出来事を指す。そこでは仏教の中核概念である四諦八正道中道が説かれた[1]

釈迦は菩提樹下で悟りを開いた後(成道)、ヴァーラーナスィー(波羅奈国)のサールナート(仙人堕処)鹿野苑(施鹿林)において、元の5人の修行仲間(五比丘)に初めて仏教の教義を説いた[1]

経緯

梵天勧請

成道した直後の釈迦は当初、仏法の説明は甚だ難しく、衆生に教えを説いても理解されず徒労に終わるだろうと、教えを説くことをためらったとされる。『マハー・ワッガ』をはじめとする初期仏典には、沈黙を決した釈尊をサハンパティ梵天(brahmã sahampati)が説得したという伝説(梵天勧請)が記されている。

梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいることを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。(「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。)

伝道の旅へ

釈迦はまず、修行時代のかつての師匠、アーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知った[1]。そこで釈迦は、かつての修行仲間(五比丘)に教えを説こうとヴァーラーナスィーに向かった[1]

ヴァーラーナスィーに向かう途中、アージーヴィカ教徒の修行者ウパカに無師独覚を話したが軽く受け流されている。これは仏法を説いたことにはなっていない(ウパカは後、釈迦に帰依して出家した)。

五比丘との再会

当初、この元の5人の修行仲間は、修行を捨てた釈迦が遠くから来るのを見て軽蔑の念を抱き、歓迎を拒むことを決めた[1]。彼らは苦行を放棄した釈迦を堕落したとみなしたためである[1]

しかし釈迦が徐々に近づくにつれ、その堂々とした姿を見て畏敬の念を抱き、自然に立ち上がって座に迎えた[1]。自らが阿羅漢であり正等覚者(仏陀)であることを宣言した釈迦は、なお教えを受けることを拒む5人を説得して、最初の説法をなした。このとき説かれた教えは、中道とその実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる。

5人の修行者は釈迦の説法を歓喜して受けた。また、この時、5人のうちコンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである。」という法眼が生じた(悟りを得た)。伝統的に、これは四沙門果の第一、預流果に達したことと説明されている。釈迦による五比丘への教導は比丘が3人ずつ順に托鉢を行い6人が食する合宿式に続けられ、ワッパバッディヤマハーナーマンアッサジの4名にも次々と法眼が生じた。釈迦は次に「無我相」の教えを説き、五人比丘に五蘊無我の修習を指導した。五人はじき阿羅漢果(四沙門果の第四)に達して、釈迦を含めて6人の阿羅漢が誕生した[1]

彼らは釈迦と共に初期仏教教団を創設し[1]、インド各地で布教活動を行ったことから、「説法波羅奈」(せっぽうはらな)として釈迦の人生の4つの転機の1つに数えられている。

内容

釈迦は初転法輪において中道四諦八正道を教えたとされる[1][2]

中道

快楽主義苦行主義を否定するものである[1]

(パーリ語)
Katamā ca sā bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhukaraṇi ñāṇakaraṇī upasamāya abhīññāya sambodhāya nibbāṇāya saṃvattīti? Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājivo sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi, ayaṃ kho sā bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abisambuddhā cakkhukaraṇi ñāṇakaraṇī upasamāya abhīññāya sambodhāya nibbaṇāya saṃvattati. "

(日本語;南伝大蔵経)
比丘等よ、世に二邊あり、出家者は親近すべからず。何をか二邊と為すや。
一に諸欲に愛欲貧著を事とするは下劣、卑賤にして凡夫の所業なり、賢聖に非ず、無義相應なり。
二に自ら煩苦を事とするは苦にして賢聖に非ず、無義相應なり。
比丘等よ、如来は此二邊を捨てゝ中道を現等覺せり、
此、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覺涅槃に資するなり。

(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。出家者はそれに近づいてはならない。何が二つの極端なのか。
一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。
二つめは、自分に苦難を味合わせることは、苦痛であり、無意味で無益である。
比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのである。
それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、(サマーディ)、涅槃に至る道である。

—  大犍度

四諦

四諦とは、生とは苦である、苦には原因がある、苦とは滅することができる、その方法は八正道である、という4点からなる。

苦諦

(パーリ語)
Idaṃ kho pana bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccaṃ: jāti’pi dukkhā. Jarā’pi dukkhā, vyādhi’pi dukkhā. Maraṇampi dukkhaṃ, appiyehi sampayogo dukkho. Piyehi vippayogo dukkho, yampicchaṃ na labhati, tampi dukkhaṃ. Saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.

(日本語;南伝大蔵経)
比丘等よ、苦聖諦とは、此の如し、
生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、
怨憎するものに曾ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、
略説するに五蘊取蘊は苦なり。

(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、(ドゥッカ)の真理(サッチャ)とは以下である。
すなわち、出生は苦である、老は苦である、病は苦である、死は苦である、
怨憎するものに会うことは苦である、愛するものと別居するのは苦である、求めて得られないのは苦である。
要するに五取蘊は苦である。

—  大犍度

集諦

(パーリ語)
Idaṃ kho pana bhikkhave dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ: yā’yaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatra tatrābhīnandanī,
yeyyathīdaṃ: kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā

(日本語;南伝大蔵経)
比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し、後有を齎し、喜貧倶行にして随處に歓喜する渇愛なり、
謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。

(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、(ドゥッカ)の集起についての真理(サッチャ)とは以下である。
繰り返す(再生)をもたらし、喜び(ナンディ)と(ラーガ)を伴って随所に歓喜する渇愛(タンハー)である。
つまりは、欲愛(カーマタンハー, 感官によって得られる刺激・快楽への渇愛)、有愛(バヴァタンハー, 存在への渇愛)、無有愛(ヴィバヴァタンハー, 存在しないことへの渇愛)である。

—  大犍度

滅諦

(パーリ語)
Idaṃ kho pana bhikkhave dukkhanirodhaṃ ariyasaccaṃ: yo tassāyeva taṇhāya asesavirāganirodho cāgo paṭinissaggo mutti anālayo

(日本語;南伝大蔵経)
比丘等よ、苦滅聖諦とは此の如し、此渇愛を餘無く離滅し棄捨し定棄し解脱して執著なきなり。

(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、(ドゥッカ)を滅する真理(サッチャ)とは以下である。
渇愛(タンハー)から限りなく離れ、滅し、捨て去り、放棄し、執着しないことである。

—  大犍度

道諦

(パーリ語)
Idaṃ kho pana bhikkhave, dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṃ: ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo,
seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammākammanto, sammāājivo sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi,

(日本語;南伝大蔵経)
比丘等よ、滅道聖諦とは此の如し、八正道なり、 謂く、正見正思正語正業正命正精進正念正定なり。

(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、(ドゥッカ)を滅する聖諦(四諦)とはこれである。 すなわち八正道であり、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

—  大犍度

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 丸山勇『ブッダの旅』岩波書店〈岩波新書〉、2007年4月20日、84-90頁。ISBN 978-4004310723 
  2. ^ 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』新潮社、2015年4月25日、pp58-60頁。ISBN 978-4103391715 

参考文献

外部リンク