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2020年9月2日 (水) 13:06時点における版
初代バーリントン伯爵 リチャード・ボイル Richard Boyle 1st Earl of Burlington | |
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生年月日 | 1612年10月20日 |
出生地 | アイルランド王国、コーク県、ヨール(英語版) |
没年月日 | 1698年1月15日(85歳没) |
配偶者 | エリザベス・クリフォード |
子女 | 一覧参照 |
初代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(Richard Boyle, 1st Earl of Burlington, 2nd Earl of Cork, PC, 1612年10月20日 - 1698年1月15日)は、アイルランド大蔵卿[注 1]を務めたアングロ・アイリッシュ[注 2]のイングランド貴族、アイルランド貴族である。清教徒革命(イングランド内戦)における騎士党(王党派)のメンバーでもあった。
生い立ち
リチャードはアイルランド王国、コーク県南東部のヨール(英語版)にある今日では「ザ・カレッジ」[注 3]と呼ばれる大邸宅で、初代コーク伯爵リチャード・ボイルとその2番目の妻、キャサリンとの間の第6子で次男として生まれた。キャサリンは国務長官(Principal Secretary of State)(英語版)ジェフリー・フェントン(英語版)の娘だった。「近代化学の祖」とされる化学者ロバート・ボイルは弟である。
1624年8月13日、リチャードはヨールにあった父の家で、アイルランド総督の初代フォークランド子爵ヘンリー・ケアリーからナイトの称号を得た。彼はそれから毎年、年間1,500ポンドの手当で海外旅行へ行くようになった[3] :169 。
イングランド内戦
1639年、リチャードはチャールズ1世によるイングランド北部(英語版)への対スコットランド遠征に従軍させるために、100頭の馬を育て訓練を施し供給することを引き受けた。この件とまた別の件もあり、父はリチャードに5,553ポンドを提供した。リチャードは1640年に召集された長期議会のアップルビー選挙区の議員として帰還し、イングランド枢密院のメンバーとなったが、イングランド内戦勃発後王党派であったため除名された。
リチャードと初代インチクィン伯爵マロー・オブライエンは、1642年9月3日のリスカロールの戦いで軍隊を指揮しアイルランド非正規軍を破って、その後10年間南アイルランドにおけるプロテスタントの勢力を維持した。アイルランドとの停戦協定は、1年後の1643年9月15日に締結された。彼はその後11月に、彼の軍隊をイングランドで仕えさせることの同意をチャールズ1世から得て、翌年2月にはチェスター近くに軍隊を上陸させた。それからリチャードはドーセットにいたチャールズ1世の援助のために行軍し、多額の支援を行った。
リチャードはイングランド内戦において、国王軍の最終的な敗北まで戦った。議会は彼に1,631ポンドの罰金を科し、彼はその後国外へ出た。1651年1月2日、リチャードは政府の要請でアイルランドに戻った[3]:169-170。
爵位と役職
1642年9月2日、リチャードは弟ルイスの死により、第2代キナルミーキーのボイル子爵 (英語版) 位を承継した。翌1643年9月15日に父が亡くなり、第2代コーク伯爵位を承継、さらに翌1644年11月4日、チャールズ1世によりヨークシャーにおいてクリフォード・オブ・レーンズボロー男爵に叙爵された。
王政復古後、1660年2月22日にリチャードはヨークシャー州とウォーターフォード県の主席治安判事 [4] (Custos Rotulorum) になり、1660年3月19日には、前年11月30日のチャールズ2世の宣言に基づき、アイルランドとの和解を検討する協議会委員の一人に任命された。さらに1660年11月16日に枢密顧問官とアイルランド大蔵卿に任命された。1661年6月25日には、リチャードはアイルランド大蔵卿として、アイルランド貴族院 (英語版) において全ての貴族の上に立つこととなった [3] :172 。
1664年3月20日、リチャードはチャールズ2世によりバーリントン伯爵位を叙爵され、1666年3月13日にはヨークシャー統監に任命された[3] :172 。
リチャードは、他の貴族やアイルランド国教会主教達とともに、ジェームズ2世によるカトリック教会尊重の企てに反対し、1688年11月17日にジェームズ2世に対し議会を「いかなる状況下でも規則的かつ自由に」(regular and free in all its circumstances) 招集できるよう請願を行ったが、この申し出は拒絶された。ウィレム3世(後のウィリアム3世)がイングランドに到着すると、ジェームズ2世は議会を招集したアイルランドへ移り、反プロテスタント法を成立させて領地を没収した。その中にはリチャードの不動産も含まれていた。この処分は翌年にウィリアム3世により覆された[3] :173 。
家族
リチャードは1635年7月5日、スキップトン城 (英語版) で、第5代カンバーランド伯爵ヘンリー・クリフォードの娘エリザベスと結婚した。リチャードは22歳、エリザベスは21歳だった。2人は以下の6人の子をもうけた[3] :174 。
- チャールズ・ボイル(1639年 – 1694年) - 第3代ダンガーヴァン子爵
- リチャード・ボイル(1665年没) - ローストフトの海戦で戦死した。
- フランシス・ボイル - フランシス・コートニーと結婚し別れた後、第4代ロスコモン伯爵ウェントワース (英語版) と再婚した。
- エリザベス・ボイル - 第3代サネット伯爵ニコラス・タフトンと結婚した。
- メアリー・アン・ボイル - 第2代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューと結婚した。
- ヘンリエッタ・ボイル(1646年 - 1687年)(英語版) - 初代ロチェスター伯爵ローレンス・ハイドと結婚した。
バーリントン伯爵は1698年1月6日に亡くなり、2月3日にヨークシャーのロンデスボロー (英語版) で埋葬された。バーリントン伯爵位は孫のチャールズ・ボイルが承継した。
系譜図
リチャード・ボイル 初代コーク伯爵 初代ダンガーヴァン子爵 (1566-1643) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード・ボイル 初代バーリントン伯爵 第2代コーク伯爵 第2代ダンガーヴァン子爵 (1612-1698) | ロジャー・ボイル 初代オーラリー伯爵 (1621-1679) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ・ボイル 第3代ダンガーヴァン子爵 (1639-1694) | リチャード・ボイル (1640年代-1665) | ロジャー・ボイル 第2代オーラリー伯爵 (1649-1682) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ・ボイル 第2代バーリントン伯爵 第3代コーク伯爵 第4代ダンガーヴァン子爵 (1660-1704) | ライオネル・ボイル 第3代オーラリー伯爵 (1671-1703) | チャールズ・ボイル 第4代オーラリー伯爵 (1674-1731) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード・ボイル 第3代バーリントン伯爵 第4代コーク伯爵 第5代ダンガーヴァン子爵 (1694-1753) | ヘンリエッタ・ハミルトン (-1732) | ジョン・ボイル 第5代コーク伯爵 第5代オーラリー伯爵 第6代ダンガーヴァン子爵 (1707-1762) | マーガレット・ハミルトン (1710-1758) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハミルトン・ボイル 第6代コーク伯爵 第6代オーラリー伯爵 第7代ダンガーヴァン子爵 (1729-1764) | エドマンド・ボイル 第7代コーク伯爵 第7代オーラリー伯爵 第8代ダンガーヴァン子爵 (1742-1798) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
脚注
- ^ The Anglo-Irish, Fidelma Maguire, University College Cork and Donnchadh Ó Corráin 2017年5月25日閲覧
- ^ Tyntes Castle. The Families of Tynte’s Castle . 2017年5月25日閲覧
- ^ a b c d e f John Lodge (英語版) , Mervyn Archdall (英語版) . "The peerage of Ireland; or, A genealogical history of the present nobility of that kingdom .." Dublin, J. Moore (1789) vol.1 2017年5月26日閲覧
- ^ ランダムハウス英和大辞典 custos rotulorum 2017年5月26日閲覧
イングランド議会 (en) | ||
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先代 1629年から議会停会 |
アップルビー選挙区選出庶民院議員 1640年 - 1642年 同一選挙区同時当選者 リチャード・ラウザー:1640年 ジョン・ブルック:1640年 - 1643年 |
次代 リチャード・サルウェイ ヘンリー・アイアトン |
公職 | ||
空位 最後の在位者 初代コーク伯爵
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アイルランド大蔵卿 1660年 - 1695年 |
次代 第3代コーク伯爵 |
名誉職 | ||
先代 バッキンガム公 |
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監 (英語版) 1667年 |
次代 バッキンガム公 |
先代 ダンビー伯 |
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監 (英語版) 1679年 - 1688年 |
次代 トマス・ハワード |
先代 バッキンガム公 |
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー主席治安判事 (英語版) 1679年 - 1685年 |
空位 次代の在位者 トマス・ハワード
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イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | バーリントン伯爵 1664年 - 1698年 |
次代 チャールズ・ボイル (孫) |
レーンズボローのクリフォード男爵 (繰上勅書による承継) 1644年 - 1689年 |
次代 チャールズ・ボイル (子) | |
アイルランドの爵位 | ||
先代 リチャード・ボイル |
コーク伯爵 1643年 - 1698年 |
次代 チャールズ・ボイル (孫) |
ダンガーヴァン子爵 (繰上勅書による承継) 1643年 - 1663年 |
次代 チャールズ・ボイル (子) | |
先代 ルイス・ボイル |
キナルミーキーのボイル子爵 1642年 - 1698年 |
次代 チャールズ・ボイル (孫) |