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他に考えられる理由としては、[[簒奪]]という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために、他国の[[朝貢]]を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。政治的な理由よりも、中国艦隊が[[南シナ海]]や[[インド洋]]における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。 |
他に考えられる理由としては、[[簒奪]]という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために、他国の[[朝貢]]を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。政治的な理由よりも、中国艦隊が[[南シナ海]]や[[インド洋]]における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。 |
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なお、上記の説とは別に、永楽帝期の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝本人による[[モンゴル高原]]への親征をはじめ、[[ベトナム]]を支配していた[[陳朝]]を[[1400年]]に[[ |
なお、上記の説とは別に、永楽帝期の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝本人による[[モンゴル高原]]への親征をはじめ、[[ベトナム]]を支配していた[[陳朝]]を[[1400年]]に[[胡季犛]]が簒奪して成立した[[胡朝]]の成立を認めず、[[1407年]]に軍事侵攻を行って胡朝を滅ぼしベトナムを支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。[[チベット]]、[[ネパール]]、[[ベンガル]]といった西南部諸国には侯顕が繰り返し派遣され、とくにベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は[[東チャガタイ・ハン国]]や[[トルキスタン]]に4回派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興は[[シャム]]へと派遣され、女真人の亦失哈(イシハ)は軍とともに[[アムール川]]地方へと派遣されてこの広大な地方を明の支配下に組み込んだ<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p66-67</ref>。鄭和の南海遠征も、この動きの一環としてとらえることができる。こうした周辺諸国への朝貢要請に、軍事遠征の要素もある亦失哈や鄭和も含めてすべて宦官が用いられたことは、永楽帝政権の宦官重用を示す好例ともなっている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p69-70 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。 |
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== 鄭和の大航海 == |
== 鄭和の大航海 == |
2020年8月28日 (金) 05:07時点における版
鄭和 | |
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生誕 |
1371年 元・中慶路昆陽州 |
死没 |
1434年 明 |
職業 | 武将、航海者、宦官 |
鄭和 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 鄭和 |
簡体字: | 郑和 |
拼音: | Zhèng Hé |
和名表記: | ていわ |
発音転記: | ヂォンフォ |
英語名: | Zheng He |
鄭 和(てい わ、拼音: , 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えた。軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
前半生
生い立ち
馬三保、すなわち後の鄭和は、1371年に馬哈只の子として中慶路昆陽州宝山(現在の雲南省昆明市晋寧区)でムスリム(イスラム教徒)として生まれた[1]。姓の「馬」は預言者ムハンマドの子孫(サイイド)であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来する。父および先祖は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴル帝国に帰順し、元の世祖クビライのとき雲南の開発に尽力した、元王朝の色目人の政治家サイイド・アジャッル(賽典赤 Sayyid Adschall Schams ad-Din Umar (1211–1279))につながる。馬三保は、サイイド・アジャッルから数えて6代目の直系の子孫に当たる[2]。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝が鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
宦官・鄭和
鄭和が生まれた1371年には、雲南はいまだ元王朝系の梁王国の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土は朱元璋の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているのみとなっていた。1381年、鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1382年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、1383年ごろに宦官として当時燕王だった朱棣(後の永楽帝)に献上された[3]。
朱元璋の死後、1399年から1402年にかけての靖難の変において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに1404年には鄭の姓を下賜され[4]、以後彼は鄭和と名乗るようになった。
大航海の計画
唐代の貨幣が東アジアアフリカで出土していることから、この時期には既にアフリカまでルートがあったらしい。宋代から元代にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建国した洪武帝は1371年に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商を禁じた[5]。この法は明王朝一代を通じて守られ、これは永楽帝の代においても例外ではなかった。一方で永楽帝は洪武帝時代の消極的な対外政策を改め、周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。こうして1405年6月、鄭和は南海船団の指揮をとることを命じられた[6]。
船団
鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれ、『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われる[7]。出土品や現代の検証から、全長50メートル前後という説もある[8]。またこのほか、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている[9]。
艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ27000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官などさまざまな職種からなっていた[10]。
2006年9月に南京では全長63.25mの鄭和の宝船が復元された[11]。
大航海の理由
なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通りである。
- 靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたかも知れないので、それを捜索するためとする説。
- 西のティムール朝の伸長を恐れた永楽帝が、ティムールの後ろの勢力と結んで挟撃するためという説。
- 朱元璋が明建設の際に滅ぼした張士誠の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。
1の説はあり得ない話ではないが、主目的だったかには疑問がある。2の説についても、ティムールは第1次航海の年に死んでおり、ティムール個人の権威に基づいたティムール王朝は彼の没後、急速な分裂に向かっていたうえ、彼の後継者たちは明との友好路線を選択したためこれも理由とは考えづらい[12]。3の説は朱元璋が張士誠を破ってから長い時が流れすぎており、さらに残存勢力は当時の明の国力からしてまったく脅威となる存在ではなかったため、これも考えにくい[13]。
他に考えられる理由としては、簒奪という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために、他国の朝貢を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。政治的な理由よりも、中国艦隊が南シナ海やインド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。
なお、上記の説とは別に、永楽帝期の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝本人によるモンゴル高原への親征をはじめ、ベトナムを支配していた陳朝を1400年に胡季犛が簒奪して成立した胡朝の成立を認めず、1407年に軍事侵攻を行って胡朝を滅ぼしベトナムを支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。チベット、ネパール、ベンガルといった西南部諸国には侯顕が繰り返し派遣され、とくにベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は東チャガタイ・ハン国やトルキスタンに4回派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興はシャムへと派遣され、女真人の亦失哈(イシハ)は軍とともにアムール川地方へと派遣されてこの広大な地方を明の支配下に組み込んだ[14]。鄭和の南海遠征も、この動きの一環としてとらえることができる。こうした周辺諸国への朝貢要請に、軍事遠征の要素もある亦失哈や鄭和も含めてすべて宦官が用いられたことは、永楽帝政権の宦官重用を示す好例ともなっている[15]。
鄭和の大航海
第1次航海(1405年-1407年)
1405年6月15日、鄭和34歳の時、永楽帝に諸国への航海を命じられ[16]、その年の年末には第1次航海へと出発した。『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれる[17]。船団は、全長42丈余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊だった[18]。
蘇州から出発した船団は泉州→クイニョン(チャンパ王国、現在のベトナム南部)→スラバヤ(マジャパヒト王国、ジャワ島)→パレンバン→マラッカ→アル(現北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(現アチェ州)→セイロンという航路をたどり、1407年初めにカリカット(コーリコード)へと到達した。
ジャワ島のマジャパヒト王国に滞在中には、宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦(パルグルグ戦争)に巻込まれた。東王宮の所に滞在していた鄭和の部下が西王宮の襲撃時に死亡した為、鄭和が抗議し、西王宮に賠償金の支払いを約束させた。マラッカ海峡に近いスマトラ島のパレンバン寄港中には、同地における華僑間の勢力争いに巻き込まれた。当時パレンバンには梁道明およびその後継者である施進卿と陳祖義の2派の華僑の有力者が存在し、抗争を続けていた。施進卿派は鄭和と協力関係を結び、陳祖義を牽制したが、これに対し陳祖義は鄭和艦隊を攻撃したものの大敗し、陳祖義は捕らえられて南京まで連行され、その地で斬首された。一方、施進卿は朝貢を約して明によって官位を与えられ、パレンバンは明の影響下に置かれることとなった[19]。
この航海により、それまで明と交流がなかった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。中でも朝貢に積極的だったのが建国間もないマラッカ王国であった。マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進を阻んだ[20]。こうしてマラッカは鄭和の保護下で力を蓄え、鄭和艦隊が派遣されなくなるころには地域強国として自立を果たし、東西貿易の中継港として成立した。
第2次航海(1407年-1409年)
鄭和38歳。1407年9月に帰国後すぐに再出発の命令が出され、年末には第2次航海へと出発した。艦隊はまず1407年の明胡戦争で第四次北属時期に入ったチャンパ王国へ寄港し、巴的吏が鄭和を迎えた。チャンパでいったん艦隊を分割し、本隊はマジャパヒト王国(ジャワの現スラバヤ)へ直行する一方、分隊がアユタヤを訪問したのち再集結し、カリカットおよびコーチンへ至った。帰路の途中の1409年2月1日、セイロン島のガレに漢文・タミル語・ペルシア語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている[21]。その後同じルートを通って帰国し、1409年の夏に明に到着している。
第3次航海(1409年-1411年)
鄭和帰着時には次回航海の準備は完全に整っており、同年9月には鄭和は第3次航海へと出発した。今度もほぼ同じ航路でカリカットに到達した。帰路のセイロン(ライガマ王国、現コーッテ)で現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃し(明・コーッテ戦争、明-錫蘭山國戰爭)、王アラカイスワラとその家族を虜にして本国へと連れ帰り[22]、1411年7月に帰国した。王の権威が失墜したセイロンでは、ライガマ王国からコーッテ王国へと政権が移った。
第4次航海(1413年-1415年)
これまでの3回の航海の成功を受けて、永楽帝はカリカットよりさらに遠方に船団を送ることを決定した。このため入念な準備が必要となり、それまでの航海が帰着後2カ月から3か月程度で再度出発していたのに対し、第4回の航海は帰着後1年半後に行われることとなった。この準備期間の間に鄭和は故郷の雲南省昆陽に戻って祖先の祭祀を行っている。また、その途中立ち寄った西安においてペルシア人通訳を雇っている[23]。またこの航海に参加した馬歓により、のちに「瀛涯勝覧」が編まれることとなった。
1413年冬に出航した鄭和艦隊はカリカットへ至るまではそれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから本隊はさらに西へ航海してペルシャ湾のホルムズに到着した。鄭和が訪問したのはこのホルムズまでであり、ここで外交と通商を行った後同一ルートをたどって帰路につき、1415年7月に帰国した。一方スマトラで別れた分遣隊はさらに西へと向かってモルディブに到着し、さらにインド洋をまっすぐ突っ切ってアフリカ大陸東岸のモガディシオへと到着した。さらに分隊は南進し、ブラバ、ジューブといったスワヒリ都市を経由してマリンディ(スワヒリ文明の中心都市のひとつだった、現ケニア)にまで到達した。ここで分隊は北へと転じ、ラスール朝の統治下にあったアラビア半島南部のアデンに向かい、そこからラサやドファールといったアラビア半島南岸の港湾都市を経由してホルムズに到着し、そこから往路を通って中国へと帰着した。分隊の帰着は本隊よりも1年遅れ、1416年の夏となった[24]。
帰路の途中、サムドラ・パサイ王国(インドネシア語: Samatrah サマトラ、現アチェ州北部)で、反逆者セカンダルに王位を簒奪されていた現地の王ザイン・アル=アビディンの要請を受け、鄭和は兵を使って反逆者セカンダルを捕らえてザイン・アル=アビディンに王位を取り戻させた[25]。
明代以前、中国商人の活動範囲の西限は慣例的にインドのマラバール海岸にある交易港クーラム・マライ(クイロン)とされていたが、この第4次航海以降、ホルムズを主な拠点としインド洋西海域に進出するようになった[26]。
第5次航海(1417年-1419年)
5回目の航海は鄭和46歳、1417年の冬に出発した。この艦隊には第4回の時の各国使者が乗船しており、各国へ彼らを送り届けることも任務の一つとなっていた。本隊は前回通りのルートを通って、セイロンから前回と同じくホルムズまで到達し、1419年8月に帰国した。途中で分かれた分隊も前回と同様モルディブ諸島を経由しアフリカ大陸東岸のマリンディまで到着し、アデンなどを経由して、本隊から一年おそい1420年夏に帰国した[27]。
この第5回航海のときに、ホルムズからライオンやヒョウ、ブラワからダチョウ、モガディシオからシマウマなどの珍しい動物を連れ帰っている[28]。特に永楽帝を喜ばせたのはアデンから贈られたキリンであり、これは王が仁のある政治を行うときに現れる瑞獣「麒麟」として紹介されたからである(麒麟#麒麟とキリン)。
第6次航海(1421年-1422年)
6回目の航海は、鄭和50歳の1421年2月になる。それまでとは異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送ることが主目的となっており、このため期間も短かった。今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は1422年8月だった。ただし、この航海で鄭和がどこまで行ったかについては論争があり、サムドラ・パセーまで鄭和が向かったことはほぼ確実とされているものの、そこで鄭和本人は引き返したとの説[29]と、従来通りホルムズまで向かったとの説がある[30]。いずれにせよ、前回同様分遣隊がスマトラから別れ、モルディブ、アフリカ東岸、アデンを経由し、1423年に中国へと帰着した[31]。またこの時、鄭和艦隊の一部はベンガルを訪れている[32]。
航海の中断
1424年、鄭和は中国からパレンバンまでの短い航海を行った。パレンバンにおいては1406年の第1回航海の時に鄭和が介入して施進卿による政権が確立しており明とも友好関係にあったが、施進卿の死後その息子と娘による後継者争いが勃発し、勝利した息子の施済孫が地位の継承を明に求めたため、鄭和が使者となってその世襲を認めたのである[33]。
鄭和は8月に中国に帰着したが、その前月の1424年7月に永楽帝は死去しており、帝位についた子の洪熙帝は民力休養を目指し、大規模な外征の中止を布告した。この布告の中には大航海の中止も含まれており、鄭和の航海はいったんここで止まることとなった[34]。
鄭和は帰着すると、1421年に北京への遷都が行われ副都となっていた南京の守備隊の長に任ぜられた。洪熙帝は在位わずか1年で1425年に没したものの、永楽帝末期の遷都や軍事遠征の頻発によって明の財政は疲弊しており、航海は中断されたままとなっていた。1428年には洪熙帝の子の宣徳帝によって、鄭和は南京にある大報恩寺の修復を命ぜられ、壮大な伽藍を建設した[35]。この大報恩寺は南京の奇観として再建後長くランドマークとなっていた[36]ものの、太平天国期の1856年に焼失し[37]、2015年12月16日に再建された[38]。
第7次航海(1430年-1433年)
宣徳帝統治下で国力の回復が進むと、皇帝は1430年に7回目の航海を計画し、鄭和にその指揮を命じた。9年ぶりの艦隊派遣であり、既に鄭和は60歳の老齢だったが、彼に代わる人材はいなかった。出発は1431年12月で、前6回と同じくチャンパ、スラバヤ、パレンバン、マラッカ、サムドラ・パセーと寄港していき、ここで本隊と分遣隊に分かれた。本隊は前回同様セイロン・カリカットを経由し、1432年12月にホルムズに到着し、50日間滞在してから往路の逆をたどって1433年6月に帰国した。一方分遣隊も前回同様モルディブ経由で東アフリカ、南アラビアの諸港を巡り帰国の途に就いた。またこの時はカリカットで本隊からさらに馬歓らを含む一隊が分派され、メッカに至ったという。この一隊はホルムズで本隊と合流して帰国した[39]。
最期
最後の航海から帰国後ほどなくして、鄭和は死去した。おそらく1433年から1434年ごろと考えられている[40]。鄭和は南京の牛首山に葬られ、その墓は現在でも南京市江寧区牛首山に鄭和墓として残っている。
航海の意義と影響
第1回から第3回の航海に関しては、いくつか変更がある場合があるものの、基本的には中国出航後クイニョン、スラバヤ、パレンバン、マラッカ、サムドラ・パサイ王国、セイロン、カリカットといった一定のルートを往復する形を取っている。これは中国商船の往来の頻繁であった海域内であり、この地域を巨大な鄭和艦隊が頻繁に行き来することは、海禁政策によって明の影響力が衰えていたこの地域の国々に、あらためて明の国威を示し国際秩序を組み直すとともに、私貿易を抑制して朝貢貿易を盛んにする目的を持っていた。第1回航海の時にこのルートの要衝であるパレンバンにおいて陳祖義を討伐し施進卿に官位を与えたことなどは、これをよくあらわしている。
それに対し、第4回以降はカリカットまではほぼ同じコースをたどっているが、そこからさらに遠方へと艦隊を進出させている。これはそれまでの中国商人の交易範囲の限界点であったカリカットなどのインド西海岸を越え、より遠方の、イスラム商人の海域であるインド洋やアラビア海をも朝貢の範囲内に組み入れようとしたことを示している。この航海では本隊はイランのホルムズに到達し、分遣隊はアラビア半島やアフリカ東海岸にまで到達しており、膨大な地理情報を中国にもたらした。ただしこの中国人にとって新たなる海域は、すでに季節風貿易が紀元前後からおこなわれている開発の古い海域であり、イスラム商人による貿易ネットワークがすでに確立していて、それ以前の中国にも断片的な情報はすでに届いていた。鄭和艦隊の派遣はこのルートにはじめて直接的に参入し、既存のネットワークに沿って政治的な影響力を及ぼそうとする試みだった[41]。
また、鄭和の航海はいずれも年末に中国本土を出港し、夏ごろに中国に帰着するスケジュールとなっているが、これは南シナ海に吹く季節風を考慮したものであり、当時中国から東南アジア方面に向かう商船はどの船も同様の行程で航海を行っていた[42]。
鄭和艦隊は後のヨーロッパの大航海時代とは対照的に基本的には平和的な修好と通商を目的とし、到着した土地で軍事行動を起こすことは少なかったが、艦隊には多数の兵員が乗船しており、泊地で攻撃を受けたり現地の勢力争いに巻き込まれた場合、軍事行動に出ることもあった。第一回航海時のマジャパヒト王国における内乱や、同じくパレンバンにおける施進卿と陳祖義の争いへの介入、第三回航海時のセイロンとの戦争、第四回航海時のサムドラ・パサイ王国の内紛への介入などがその例である。
鄭和死後
鄭和の死の翌年、1435年に宣徳帝が死去すると明は再び鎖国的になり、国力も衰退に向かって航海は行われなくなった。第7回航海の時に諸国から来航した使節たちは帰国の途を失って中国の地でむなしく3年を過ごし、1436年にジャワの使節の船に便乗して帰国することとなったが、この船は遭難して56名の死者を出した。1457年には天順帝によって再度の航海が計画されたが、廷臣の反対にあって断念している[43]。また成化帝の時代にも「再び大航海を」という声が上がったが、航海にかかる莫大な費用と儒教的モラルから官僚の反対にあい、沙汰止みとなった。
鄭和の大航海の記録は、第4次航海と第7次航海に同行した馬歓の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』や費信『星槎勝覧』・鞏珍『西洋番国志』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料となっている。
これらは民選のもので、鄭和の航海の公式記録は「鄭和出使水程」という記録に編纂され、宮中の資料庫に保管された。これは船団の編成、名簿、航海日誌、会計などの記録を網羅した膨大なものだったといわれる。しかし数十年後に成化帝が調査させたところ、そっくり紛失しており、理由は現在も謎となっている。一説には、航海の巨額の費用が民を苦しめ国を衰退させることを憂慮した劉大夏という役人が、同様の大航海の準備資料とされないよう密かに持ち出して焼却したともいう[44]。しかし鄭和艦隊の使用した海図の一部は民間に流出しており、その海図は1621年に茅元儀の著した「武備志」に収録され現代まで伝えられている[45]。
上述の通り、大航海自体の経費に限らず、朝貢貿易において明は多額の出費を必要とする。永楽帝以後の明は財政緊縮の観点から朝貢貿易に制限・制約を加え、結果として朝貢国は激減している。またこれに伴って、インド洋交易においてはそれまでの中国船に代わりイスラムの商船隊が台頭してくるようになった[46]。
その他
鄭和を祀った寺院は華僑の多い東南アジアにいくつか存在し、なかでもインドネシア・ジャワ島のスマラン市にある三保洞(Sam poo kong)寺院は観光名所として知られている[47]。また、スラバヤには鄭和清真寺があり、中国の駐インドネシア大使が揮毫を行っている[48]。
鄭和は中国を代表する海の英雄であるため、艦船や島嶼などを中心に彼にちなんで名づけられたものが多数存在する。中国大陸では1987年に就役した中国人民解放軍海軍の練習艦が「鄭和」と命名され、世界各国を親善訪問しており、日本にも2009年に江田島と呉市に寄港した[49]。台湾でも、1994年に就役した成功級ミサイル・フリゲートの2番艦が「鄭和」と命名されている。また、南沙諸島北部にあり周辺各国が領土主張を行っているティザード堆は、中国側からは鄭和群礁と呼ばれている。
俗説
中国側の一部資料[50]に、鄭和が1404年に皇帝の特使として10万人を率い、日本に派遣されたとの記述が見える。日本側にはこれを裏づける記録はない。
イギリスの作家ギャヴィン・メンジーズは、2002年に刊行した『1421:中国が新大陸を発見した年』で、鄭和艦隊がコロンブスよりも以前にアメリカ大陸に到達し、マゼランよりも以前に世界周航を成し遂げたと主張した。この書籍は世界各国でベストセラーになったが、歴史学者からは偽史とみなされている(ギャヴィン・メンジーズの項参照)。
脚注
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p74
- ^ Shih-Shan Henry Tsai: Perpetual Happiness: The Ming Emperor Yongle. University of Washington Press 2002, ISBN 978-0-295-98124-6, S. 38 (eingeschränkte Online-Version, p. 38, - Google ブックス)
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p80-82
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p85
- ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p46-47 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
- ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p74 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
- ^ http://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/common/images/q_and_a1.pdf を参照。ちなみにヴァスコ・ダ・ガマの船団は120t級が3隻、総乗組員は170名、コロンブスの船団は250t級が3隻、総乗組員は88名である。
- ^ 山形 2004, pp. 71–75.
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p101-102
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p92-96
- ^ “鄭和の大航海支えた船を復元、南京で落成式”. 人民網. (2006年9月25日) 2019年10月24日閲覧。
- ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p164-165 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
- ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p164 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
- ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p66-67
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- ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p158 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
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- ^ “防衛駐在官の見た中国 (その6)-練習艦「鄭和」で海を渡った海上自衛官-”. 海上自衛隊幹部学校. (2011年10月27日) 2018年9月6日閲覧。
- ^ 鄭鶴声 鄭一欽編『鄭和下西洋資料』1146頁。鄭和は足利義満に倭寇取締りを要請し、義満はこれを受諾するとともに勘合貿易に同意したという。
参考文献
- 寺田隆信『鄭和 中国とイスラム世界を結んだ航海者』 清水書院、1981年 『中国の大航海者 鄭和』清水新書
- ルイーズ・リヴァーシーズ『中国が海を支配したとき 鄭和とその時代』君野隆久訳、新書館〈Shinshokan history book series〉、1996年5月。
- 宮崎正勝『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』中央公論社〈中公新書〉、1997年7月。
- ギャヴィン・メンジーズ『1421 中国が新大陸を発見した年』松本剛史訳、ソニーマガジンズ、2003年12月。 のちヴィレッジブックス
- 太佐順『鄭和 中国の大航海時代を築いた伝説の英雄』PHP研究所〈PHP文庫〉、2007年11月。ISBN 978-4-569-66812-3。
- 山形欣哉『歴史の海を走る:中国造船技術の航跡』農文協〈図説 中国文化百華〉、2004年。ISBN 4540030981。
- 家島彦一『海が創る文明:インド洋海域世界の歴史』朝日新聞社、1993年。ISBN 4022566019。
関連書籍
関連項目
- 鄭和墓
- 馬歓 - 通訳(第4次航海、第6次航海、第7次航海)
- 世界一周#著名な世界一周
- ラスール朝
- 真珠の首飾り戦略