瑞応麒麟図
瑞応麒麟図 | |||||||
繁体字 | 瑞應麒麟圖 | ||||||
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簡体字 | 瑞应麒麟图 | ||||||
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『瑞応麒麟図[2]』(ずいおうきりんず)は、中国明代の永楽12年(1414年)に描かれた絵画[1]。1405年に始まった鄭和の航海をきっかけに、インド東部のベンガル地方から贈られてきた、当時未知の生物(キリン)を写生したもの。職貢図の一つ[3]。
『明人画麒麟沈度頌軸[1]』『榜葛剌進麒麟図[2]』などとも呼ばれる。オリジナルは台湾の国立故宮博物院に収蔵されている。それとは別に、複数の模写が伝わっている。
概要
[編集]ベンガル地方(現在のバングラデシュおよびインド東部の西ベンガル州)にあたる国「榜葛剌国」(バングラこく、拼音: )からやって来た朝貢使節の人間と、その贈り物である当時未知の生物(キリン)が描かれている[4]。同国の朝貢は、6年前の1408年から始まっていた[1]。
題名にある「瑞応」は「瑞兆」「瑞祥」と同義。「麒麟」は瑞獣の一種で、太平の世に現れるという伝説の生物。つまり、外国から来た未知の生物が、太平の世に現れる「麒麟」と同定されている。そのような同定をするということは、当時の皇帝永楽帝の治世を絶賛することに等しい[5]。
絵画は、当時の宮廷画家(無名)によって描かれた[1]。その絵画の上部には、当時の宮廷書家で翰林院官僚の沈度[6] による文章が添えられている。文章の内容は、『瑞応麒麟頌』と題された頌詞であり[1]、序文として「永楽12年に榜葛剌国に麒麟が出た」という旨が記されている[7]。
同じ出来事は『明史』成祖本紀などにも記されている[1][8]。同書ではさらに、ケニア沿岸のマリンディ(麻林)などからも「麒麟」が進貢されたとしている[9]。また、鄭和艦隊の報告書にあたる書物『瀛涯勝覧』では、アラビア半島南端のアデン(阿丹国)をはじめとして[10]、各地に「麒麟」がいたとされる[11]。
その背景として、当時のインド洋では、アラブ人[8]や東アフリカのソマリ人によって盛んに海上交易が行われていた(ソマリアの海事史)。その中で、マムルーク朝からベンガル・スルターン朝にキリンが贈られ、そのキリンが1414年にベンガル・スルターン朝から中国に贈られたと推定される[12]。
後世の中国の学者たちは、この生物が「麒麟」ではないことを理解していたが[13]、日本においては、江戸時代の蘭学者の桂川国瑞・大槻玄沢・森島中良らが「麒麟」と同定した後[14]、明治時代の博物学者の田中芳男らが訳語制定のなかで「麒麟」を訳案として持ち出し、最終的に「麒麟」が採用された[15]。詳細は湯城 2008を参照。
模写
[編集]後世の模写として以下がある。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “四方来朝─職貢図特別展_展示作品解説”. 国立故宮博物院 (2020年1月1日~3月25日). 2020年6月20日閲覧。
- ^ a b c 張 2009, p. 42.
- ^ 国立故宮博物院 (2020年1月1日). “四方来朝─職貢図特別展”. 国立故宮博物院. 2023年6月20日閲覧。
- ^ ただし、明代より前に書かれた『続博物誌』や『諸蕃志』に、キリンを指すと思われる動物の記述が既にある。(ベルトルト・ラウファー著、福屋正修訳『キリン伝来考』博品社、1992年、48頁)
- ^ 湯城 2008, p. 71.
- ^ “筆に千秋の業あり-書道の発展_展示作品解説”. 国立故宮博物院 (2013年10月8日). 2020年6月20日閲覧。
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:瑞應麒麟頌序
- ^ a b 張 2009, p. 39.
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:明史/卷7
- ^ 湯城 2008, p. 72.
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:瀛涯勝覽
- ^ 張 2009, p. 39(陳國棟の見解).
- ^ 湯城 2008, p. 73.
- ^ 湯城 2008, p. 72-76.
- ^ 湯城 2008, p. 78-82.
参考文献
[編集]- 湯城吉信「ジラフがキリンと呼ばれた理由: 中国の場合、日本の場合(麒麟を巡る名物学 その一)」『人文学論集(26)』、大阪府立大学、2008年 。
- 張之傑「傳世麒麟圖考察初稿」『中華科技史學會學刊 第13期』、中華科技史學會、2009年 。
関連項目
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