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2020年8月26日 (水) 05:25時点における版
陽平郡(ようへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から隋初にかけて、現在の河北省南東部と山東省西部にまたがる地域に設置された。
概要
221年(黄初2年)、魏郡の東部を分割して陽平郡が立てられた[1]。陽平郡は司州に属した。
晋のとき、陽平郡は元城・館陶・清淵・発干・東武陽・陽平・楽平の7県を管轄した[2]。
北魏のとき、陽平郡は館陶・清淵・楽平・発干・臨清・武城・武陽・陽平の8県を管轄した[3]。
580年(大象2年)、北周により屯州が置かれ、陽平郡は屯州に転属した[4]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、陽平郡は廃止されて、屯州に編入された。605年(大業元年)、屯州が廃止されて、魏州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、魏州は武陽郡と改称された[5]。
僑置陽平郡
南北朝時代の南朝においては、陽平郡の本土が北朝の統治下にあったため、幾度か僑郡の陽平郡が置かれた。いずれの地もやがて北朝に奪われた。
徐州の陽平郡
南朝宋のとき、徐州に陽平郡が立てられた。陽平郡は館陶・陽平・濮陽の3県を管轄した[6]。北魏がその地を奪うと、南陽平郡と改めた。南陽平郡は襄邑・陽平・濮陽の3県を管轄した[7]。
兗州の陽平郡
457年(南朝宋の大明元年)、兗州に陽平郡が立てられた[8]。南朝斉のとき、陽平郡は北兗州に属し、泰清・永陽・安宜・豊国の4県を管轄した[9]。北魏がその地を奪うと、東陽平郡と改めた。東陽平郡は兗州に属し、元城・楽平・頓丘・館陶・平原の4県を管轄した[7]。
楚州の陽平郡
南朝梁のとき、北徐州に陽平郡が立てられた。東魏がその地を奪い、北陽平郡と改めた。549年(武定7年)、北徐州が楚州と改められると、北陽平郡は楚州に転属した。北陽平郡は陽平・濮陽の2県を管轄した[7]。
淮州の陽平郡
南朝梁のとき、淮州に陽平郡が立てられた。東魏がその地を奪った。この陽平郡は泰清県1県を管轄した[7]。