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[[1930年]](昭和5年)1月、小説『ミス・ニツポン』を書き下ろして「世界の動き社」から出版、装幀は村山知義が手がけた<ref name="春陽堂" />。つづいて『ミスター・ニッポン』、『マダム・ニッポン』を出版<ref name="春陽堂" />、これらはいずれも翌[[1931年]](昭和6年)に映画化された。[[村田実]]監督の『ミスター・ニッポン』前・後篇が[[日活撮影所#太秦撮影所|日活太秦撮影所]]で、[[高見貞衛]]監督の『マダム・ニッポン』が[[帝国キネマ]]でそれぞれ製作され、前者は同年3月20日、後者は4月1日に公開された。『ミス・ニツポン』も同年、小説の発表順を前後して映画化された。
[[1930年]](昭和5年)1月、小説『ミス・ニツポン』を書き下ろして「世界の動き社」から出版、装幀は村山知義が手がけた<ref name="春陽堂" />。つづいて『ミスター・ニッポン』、『マダム・ニッポン』を出版<ref name="春陽堂" />、これらはいずれも翌[[1931年]](昭和6年)に映画化された。[[村田実]]監督の『ミスター・ニッポン』前・後篇が[[日活撮影所#太秦撮影所|日活太秦撮影所]]で、[[高見貞衛]]監督の『マダム・ニッポン』が[[帝国キネマ]]でそれぞれ製作され、前者は同年3月20日、後者は4月1日に公開された。『ミス・ニツポン』も同年、小説の発表順を前後して映画化された。


同年4月、25歳で執筆した『侍ニッポン』が雑誌『[[大衆文学 (雑誌)|大衆文学]]』5月号誌上に掲載されるや、日活太秦撮影所はさっそくこれを企画採用、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]が脚本を執筆し、[[大河内伝次郎]]を主演に伊藤が監督した。同作は[[サイレント映画]]で、前篇が同年4月8日、後篇が4月15日に公開された。小説『侍ニッポン』は、「黒船来の巻」、「安政大獄の巻」、「桜田門の巻」、「坂下門の巻」、「文久三年の巻」の連作である<ref name="春陽堂" />。同作をテーマにした同名の歌謡曲が[[徳山たまき|徳山璉]]によって歌われ、一世を風靡、同曲の影響ははるか40年後、[[1970年]]代の[[テレビアニメ]]『[[侍ジャイアンツ]]』([[1973年]] - [[1974年]])の主人公の定番鼻歌<ref>『侍ジャイアンツ』では、メロディが同一でアレンジまで似ているが、歌詞を一部変更(「人を斬る」⇒「球を打つ」、「侍」⇒「野球屋」)して歌われた。</ref>にまで及ぼした。また同タイトルのインパクトの強さは、[[朱里エイコ]]『SAMURAI NIPPON』(作詞マルコ・ブルーノ、補作詞エイコ&バーバラ、作編曲[[大野雄二|ピーター・ストーン]]、1978年)、あるいは[[1980年代]]の[[シブがき隊]]『サムライ・ニッポン』(作詞[[売野雅勇]]、[[後藤次利]]、1984年)にも遠く影響を及ぼした。
同年4月、25歳で執筆した『侍ニッポン』が雑誌『[[大衆文学 (雑誌)|大衆文学]]』5月号誌上に掲載されるや、日活太秦撮影所はさっそくこれを企画採用、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]が脚本を執筆し、[[大河内伝次郎]]を主演に伊藤が監督した。同作は[[サイレント映画]]で、前篇が同年4月8日、後篇が4月15日に公開された。小説『侍ニッポン』は、「黒船来の巻」、「安政大獄の巻」、「桜田門の巻」、「坂下門の巻」、「文久三年の巻」の連作である<ref name="春陽堂" />。同作をテーマにした同名の歌謡曲が[[徳山璉]]によって歌われ、一世を風靡、同曲の影響ははるか40年後、[[1970年]]代の[[テレビアニメ]]『[[侍ジャイアンツ]]』([[1973年]] - [[1974年]])の主人公の定番鼻歌<ref>『侍ジャイアンツ』では、メロディが同一でアレンジまで似ているが、歌詞を一部変更(「人を斬る」⇒「球を打つ」、「侍」⇒「野球屋」)して歌われた。</ref>にまで及ぼした。また同タイトルのインパクトの強さは、[[朱里エイコ]]『SAMURAI NIPPON』(作詞マルコ・ブルーノ、補作詞エイコ&バーバラ、作編曲[[大野雄二|ピーター・ストーン]]、1978年)、あるいは[[1980年代]]の[[シブがき隊]]『サムライ・ニッポン』(作詞[[売野雅勇]]、[[後藤次利]]、1984年)にも遠く影響を及ぼした。


いっぽう、戦前当時の映画は無声時代であり、フィルムに[[サウンドトラック|音声トラック]]は存在しなかったが、主題歌があり、また、「小説主題歌」というものが流行った。そのうち数曲を郡司自身が作詞している。{{See|#ディスコグラフィ}}
いっぽう、戦前当時の映画は無声時代であり、フィルムに[[サウンドトラック|音声トラック]]は存在しなかったが、主題歌があり、また、「小説主題歌」というものが流行った。そのうち数曲を郡司自身が作詞している。{{See|#ディスコグラフィ}}
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== ディスコグラフィ ==
== ディスコグラフィ ==
最初の1作を除き、すべて「作詞」である。
最初の1作を除き、すべて「作詞」である。
* [[徳山たまき|徳山璉]]『侍ニッポン』 : 作詞[[西條八十]]、作曲[[松平信博]]、[[日本ビクター]]、1931年 - 小説および映画『侍ニッポン』主題歌(群司の著作物ではない)
* [[徳山璉]]『侍ニッポン』 : 作詞[[西條八十]]、作曲[[松平信博]]、[[日本ビクター]]、1931年 - 小説および映画『侍ニッポン』主題歌(群司の著作物ではない)
* [[新居富久子]]『南子の唄』 : 作曲[[奥山貞吉]]、[[日本コロムビア]]、1932年 - 小説『処女刑』主題歌
* [[新居富久子]]『南子の唄』 : 作曲[[奥山貞吉]]、[[日本コロムビア]]、1932年 - 小説『処女刑』主題歌
* [[淡谷のり子]]『処女刑の唄』 : 作曲[[井田一郎]]、日本コロムビア、1932年 - 小説『処女刑』主題歌
* [[淡谷のり子]]『処女刑の唄』 : 作曲[[井田一郎]]、日本コロムビア、1932年 - 小説『処女刑』主題歌

2020年8月25日 (火) 05:14時点における版

群司 次郎正
ぐんじ じろうまさ
ペンネーム 郡司 次郎正 (ぐんじ じろまさ)
誕生 郡司 次郎 (ぐんじ じろう)
1905年11月27日
日本の旗 日本 群馬県伊勢崎市
死没 (1973-01-10) 1973年1月10日(67歳没)
言語 日本の旗 日本語
最終学歴 旧制・茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校
代表作侍ニッポン
デビュー作 『ミス・ニツポン』
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群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ[1][2][3]1905年11月27日 - 1973年1月10日)は、日本の小説家作詞家である[1][4]郡司 次郎正(ぐんじ じろまさ)とも表記する[4]。1931年(昭和6年)に発表された『侍ニッポン』で知られ、同作は多数映画化・リメイクされた。同作の主題歌(作詞西條八十、作曲松平信博)もヒットしたが、同作を除く、自らの「小説主題歌」を作詞した。本名郡司 次郎(ぐんじ じろう)[1][4]

来歴・人物

1905年(明治38年)11月27日群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)に生まれる[1][4][5]。やがて茨城県東茨城郡大貫町舟渡(現在の大洗町大貫町舟渡)に移り育つ。旧制・茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業する[1]。上京し、本郷の映画俳優学校に学ぶ。新劇俳優を志望し、四代目 河原崎長十郎今日出海村山知義らが1925年(大正14年)に結成した劇団「心座」に参加している[1]。「心座」第3回公演、フリードリヒ・ヘッベルの戯曲『ユーディット』を村山が演出した際には、出演もしている。

1930年(昭和5年)1月、小説『ミス・ニツポン』を書き下ろして「世界の動き社」から出版、装幀は村山知義が手がけた[4]。つづいて『ミスター・ニッポン』、『マダム・ニッポン』を出版[4]、これらはいずれも翌1931年(昭和6年)に映画化された。村田実監督の『ミスター・ニッポン』前・後篇が日活太秦撮影所で、高見貞衛監督の『マダム・ニッポン』が帝国キネマでそれぞれ製作され、前者は同年3月20日、後者は4月1日に公開された。『ミス・ニツポン』も同年、小説の発表順を前後して映画化された。

同年4月、25歳で執筆した『侍ニッポン』が雑誌『大衆文学』5月号誌上に掲載されるや、日活太秦撮影所はさっそくこれを企画採用、伊藤大輔が脚本を執筆し、大河内伝次郎を主演に伊藤が監督した。同作はサイレント映画で、前篇が同年4月8日、後篇が4月15日に公開された。小説『侍ニッポン』は、「黒船来の巻」、「安政大獄の巻」、「桜田門の巻」、「坂下門の巻」、「文久三年の巻」の連作である[4]。同作をテーマにした同名の歌謡曲が徳山璉によって歌われ、一世を風靡、同曲の影響ははるか40年後、1970年代のテレビアニメ侍ジャイアンツ』(1973年 - 1974年)の主人公の定番鼻歌[6]にまで及ぼした。また同タイトルのインパクトの強さは、朱里エイコ『SAMURAI NIPPON』(作詞マルコ・ブルーノ、補作詞エイコ&バーバラ、作編曲ピーター・ストーン、1978年)、あるいは1980年代シブがき隊『サムライ・ニッポン』(作詞売野雅勇後藤次利、1984年)にも遠く影響を及ぼした。

いっぽう、戦前当時の映画は無声時代であり、フィルムに音声トラックは存在しなかったが、主題歌があり、また、「小説主題歌」というものが流行った。そのうち数曲を郡司自身が作詞している。

第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、群司は、大宅壮一北原武夫らとともに陸軍報道班員として徴用され、スマトラジャワなどに派遣された。帰国後疎開し、戦後は、大洗町の涸沼川河畔で船宿を営み暮らした[5]。1948年(昭和23年)12月には、『じやぱん物語』を書き下ろし、1957年(昭和32年)7月には、『侍ニッポン』の続篇を書いた[2][3]

1973年(昭和48年)1月10日、午後10時23分、大洗町の自宅で食道がんのため死去した[1][4][7]。満67歳没。没後の同年3月、講談社が刊行した『大衆文学大系 23 群司次郎正・片岡鐵兵・濱本浩・北村小松・藤澤桓夫』に、片岡鐵兵濱本浩北村小松藤澤桓夫の作品とともに、『侍ニッポン』が掲載された[2][3]

ビブリオグラフィ

国立国会図書館蔵書を中心とした著書の一覧である[2][3]

  • 『ミス・ニツポン』、世界の動き社、1930年1月
    • 世界社、1931年
    • 日本小説文庫72, 春陽堂、1932年 - 改題『日本嬢』
  • 『マダム・ニツポン』、アルス、1930年7月
  • 『ミスター・ニッポン』、アルス、1930年10月 - 雑誌『婦人公論』連載
  • 『侍ニッポン』、尖端社、1931年 - 雑誌『大衆文学』連載
  • 『泥の子・太陽の子』、雄文閣、1932年9月
  • 『処女刑』、1932年 - 雑誌『婦女界』連載
  • 『恋の金字塔』、1932年
  • 『ハルピン女』、雄文閣、1933年1月
  • 『アメリカン・セックスノクラシイ 恋愛新哲学』、太陽社、1933年7月
  • 『発声満州』、東光書院、1933年7月
    • リバイバル「外地」文学選集 14, 大空社、2000年10月 ISBN 4756804101
  • 『じやぱん物語』、江戸書院、1948年12月
  • 『新編侍ニッポン』、洋々社、1957年7月 - 『侍ニッポン続』とも
  • 『大衆文学大系 23 群司次郎正・片岡鐵兵・濱本浩・北村小松・藤澤桓夫』、講談社、1973年3月
  • 『侍ニッポン・幕末ニッポン』、中央公論社、1973年
  • 『失業出稼風景』、『政界往来』第45巻第7号所収、政界往来社、1979年7月、p.73-85.
  • 『南方徴用作家叢書 ジャワ篇』大宅壮一北原武夫・群司次郎正、編木村一信龍溪書舎、1996年10月 ISBN 4844714473
  • 『踊子オルガ・アルローワ事件』、『外地探偵小説集 満州篇』所収、編藤田知浩せらび書房、2003年12月 ISBN 4915961036

フィルモグラフィ

すべて原作である。

サイレント
トーキー
テレビ映画

ディスコグラフィ

最初の1作を除き、すべて「作詞」である。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 群司次郎正デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク、2012年7月3日閲覧。
  2. ^ a b c d 群司次郎正国立国会図書館、2012年7月3日閲覧。
  3. ^ a b c d 群司次郎正国立情報学研究所、2012年7月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 武蔵野次郎春陽堂書店、2012年7月3日閲覧。
  5. ^ a b 群司次郎正茨城県、2012年7月3日閲覧。
  6. ^ 『侍ジャイアンツ』では、メロディが同一でアレンジまで似ているが、歌詞を一部変更(「人を斬る」⇒「球を打つ」、「侍」⇒「野球屋」)して歌われた。
  7. ^ 『出版年鑑 1974』、p.174.
  8. ^ 侍ニッポン, テレビドラマデータベース、2012年7月3日閲覧。

参考文献

  • 『春陽文庫の作家たち』新訂版2刷、武蔵野次郎春陽堂書店、1972年 / 春陽堂の作家たち 郡司次郎正
  • 『群司次郎正の恋愛新哲学と選手』、『常総文学』第7号、永瀬純一、常総文学会、1973年
  • 『出版年鑑 1974』、出版ニュース社、1974年
  • 『群司次郎正と侍ニッポン』室伏勇、『茨城のこころ 3』所収、編茨城新聞社昭和書院、1974年
  • 『群司次郎正』武藤正、『茨城の文学』所収、編堀江信男塙作楽笠間書院、1975年
  • 『日本の一九二〇年代 - 都市と文学5 群司次郎正「ミスター・ニッポン」』海野弘、『』第14巻第5号通巻157号所収、中央公論社、1982年5月、p.208-219.
  • 『昭和、アヴァンギャルドのダイナミズム - 村山知義、飯島正、群司次郎正』波潟剛、『水声通信』第2巻第1号(特集「村山知義とマヴォイストたち」)所収、2006年1月

関連項目

外部リンク