コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小林正 (脚本家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こばやし まさし
小林 正
生年月日 1901年
没年月日 1946年
職業 脚本家
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1940年
主な作品
仇討選手
テンプレートを表示

小林 正(こばやし まさし、1901年 - 1946年)は、日本の脚本家である。

来歴・人物

[編集]

1901年(明治34年)に生まれる。

のちの映画監督の山本嘉次郎とは慶應義塾普通部(現在の慶應義塾高等学校)時代の同級生で、山本にシリアル・フィルム『名金』やブルーバード映画等、最新のアメリカ映画の存在を教え、ともに享受した[1]

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、京都に移り、日活大将軍撮影所の現代劇部門である第二部で、1924年(大正13年)、久米正雄の小説『冷火』を脚色して映画化、脚本家としてデビューする[2]。1926年(大正15年)には旧友の山本嘉次郎らと共同で溝口健二監督の『海国男児』の脚本を執筆している[2]。1927年(昭和2年)には東京に戻り、松竹蒲田撮影所牛原虚彦斎藤寅次郎のコメディに脚本を提供している[2]。1928年(昭和3年)には、京都に戻り、太秦に移転した日活で内田吐夢とタッグを組み、『生ける人形』、『仇討選手』等を連打し、溝口とは『都会交響楽』等の脚本を提供している[2]

トーキー以降も脚本を執筆し、1940年(昭和15年)に斎藤寅次郎監督の『ハモニカ小僧』の脚本を執筆した後は、事実上の引退となった[2]

1946年(昭和21年)、病気により死去する[3]。満44-45歳没(享年46)。

フィルモグラフィ

[編集]

特筆以外はすべて脚本である[2]

日活大将軍撮影所第二部
松竹蒲田撮影所
日活太秦撮影所
フリーランス
松竹下加茂撮影所
東宝映画京都撮影所
東宝映画東京撮影所

[編集]
  1. ^ 『カツドウヤ紳士録』、山本嘉次郎大日本雄辯会講談社、1951年、p.33-38.
  2. ^ a b c d e f 小林正、日本映画データベース、2010年7月6日閲覧。
  3. ^ 『映画五十年史』新版、鱒書房、1947年、p.261.

外部リンク

[編集]