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その後、蜀に仕官して州の書佐・[[尚書令]]史を歴任した。
その後、蜀に仕官して州の書佐・[[尚書令]]史を歴任した。


[[238年]]、[[劉禅]]の長男であった[[劉セン|劉璿]]が立太子されると、李譔は太子庶子に任じられ、次いで太子僕となった。
[[238年]]、[[劉禅]]の長男であった[[劉璿]]が立太子されると、李譔は太子庶子に任じられ、次いで太子僕となった。


その後、中散大夫・右[[中郎将]]となったが、引き続き劉璿に近侍した。劉璿には寵愛されたが、軽薄な性格でふざけるのが好きであったため、世間からは重んじられなかった。
その後、中散大夫・右[[中郎将]]となったが、引き続き劉璿に近侍した。劉璿には寵愛されたが、軽薄な性格でふざけるのが好きであったため、世間からは重んじられなかった。

2020年8月24日 (月) 09:27時点における版

李譔
蜀漢
中散大夫・右中郎将
出生 生年不詳
益州梓潼郡涪県
拼音 Lǐ Zhuàn
欽仲
主君 劉禅
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李 譔(り せん、生没年不詳)は、中国三国時代の学者・政治家。欽仲益州梓潼郡涪県の人。父は李仁。

事績

父の李仁はかつて尹黙とともに荊州へ留学し、司馬徽宋忠に師事した。李譔は父の学問を受け継ぎ、さらに尹黙に教えを乞い、字義の解釈に留まらない学問の道理を学んだ。また、五経諸子のほか、算術・占術・医学・弩・ばね仕掛けといった実学も修めた。

その後、蜀に仕官して州の書佐・尚書令史を歴任した。

238年劉禅の長男であった劉璿が立太子されると、李譔は太子庶子に任じられ、次いで太子僕となった。

その後、中散大夫・右中郎将となったが、引き続き劉璿に近侍した。劉璿には寵愛されたが、軽薄な性格でふざけるのが好きであったため、世間からは重んじられなかった。

』・『尚書』・『毛詩』・『三礼』・『左氏伝』・『太玄指帰』に関する著述をしたが、賈逵馬融に準拠するものであり、鄭玄の説とは異なっていた。遠く離れた王粛の著述を目にする機会はなかったが、考え方や結論の多くは一致していたという。

景耀年間 (258年 - 263年)に没した。

陳寿は李譔について「許慈孟光来敏と並んで徳行での評判は芳しくなかったが、博学多才な一代の学者であった」と評している。

参考文献