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「瓜州」の版間の差分

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*晋昌県…[[漢代]]の冥安県で、敦煌郡に属した。冥とは、川の名である。晋昌郡及び冥安県を置き、[[北周]]が晋昌郡を改めて永興郡とした。隋では瓜州と改名、冥安県を改めて常楽県とした。武徳7年([[624年]])、再び晋昌県となる。
*晋昌県…[[漢代]]の冥安県で、敦煌郡に属した。冥とは、川の名である。晋昌郡及び冥安県を置き、[[北周]]が晋昌郡を改めて永興郡とした。隋では瓜州と改名、冥安県を改めて常楽県とした。武徳7年([[624年]])、再び晋昌県となる。


*常楽県…漢代の広至県で、敦煌郡に属した。[[魏 (三国)|魏]]が広至県を分けて宜禾県を置く。[[西涼]]の[[李コウ (西涼)|李暠]]はここに[[涼興郡]]を置く。隋代は廃止して常楽鎮を置く。武徳5年(622年)、鎮を改めて県とする。
*常楽県…漢代の広至県で、敦煌郡に属した。[[魏 (三国)|魏]]が広至県を分けて宜禾県を置く。[[西涼]]の[[李暠]]はここに[[涼興郡]]を置く。隋代は廃止して常楽鎮を置く。武徳5年(622年)、鎮を改めて県とする。


'''瓜州晋昌郡'''…武徳5年(622年)、沙州の常楽県を分割して設置。土貢:野馬革,緊鞓,草鼓子,黄礬,絳礬,胡桐涙。
'''瓜州晋昌郡'''…武徳5年(622年)、沙州の常楽県を分割して設置。土貢:野馬革,緊鞓,草鼓子,黄礬,絳礬,胡桐涙。

2020年8月20日 (木) 00:51時点における版

中国地名の変遷
建置 北魏
使用状況 瓜州県
南北朝瓜州
瓜州
敦煌郡
瓜州
晋昌郡
瓜州
五代瓜州
北宋/瓜州
鎮夷郡(西夏)
宣化府(西夏)
瓜州
南宋/瓜州
瓜州
瓜州
瓜州
安西衛
中華民国安西県
現代安西県
瓜州県

瓜州(かしゅう)は、中国にかつて存在した。現在の甘粛省瓜州県一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

北魏孝明帝(在位:515年 - 528年)の時代に瓜州(現在の敦煌市)が設置された。

隋代

隋代が成立すると当初は3郡3県を管轄した。607年大業3年)、郡制施行に伴い敦煌郡と改称され、下部に3県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
瓜州 敦煌郡
敦煌郡 常楽郡 永興郡 敦煌県
常楽県
玉門県
鳴沙県 涼興県 会稽県

唐代

瓜州都督府…隋代の敦煌郡の常楽県であり、武徳5年(622年)に瓜州を置き、総管府を立てて瓜州(現在の瓜州県)・西沙州(元瓜州)・粛州の3州を管轄する。武徳8年(625年)、都督府を廃止。貞観年間(627年 - 649年)、再び都督府となる。天宝元年(742年)、晋昌郡となる。乾元元年(758年)、再び瓜州となる。

旧領県2、戸数:1164、人口:4322。天宝時は戸数:477、人口:4987。京師(長安)の西3310里にあり、東都(洛陽)までは4306里ある。

  • 晋昌県…漢代の冥安県で、敦煌郡に属した。冥とは、川の名である。晋昌郡及び冥安県を置き、北周が晋昌郡を改めて永興郡とした。隋では瓜州と改名、冥安県を改めて常楽県とした。武徳7年(624年)、再び晋昌県となる。
  • 常楽県…漢代の広至県で、敦煌郡に属した。が広至県を分けて宜禾県を置く。西涼李暠はここに涼興郡を置く。隋代は廃止して常楽鎮を置く。武徳5年(622年)、鎮を改めて県とする。

瓜州晋昌郡…武徳5年(622年)、沙州の常楽県を分割して設置。土貢:野馬革,緊鞓,草鼓子,黄礬,絳礬,胡桐涙。

戸数:477、人口:4987。県数:2、府数:1。

  • 大黄府…西北千里には墨離軍あり。
  • 晋昌県…中下。もとの常楽県で、武徳4年(621年)に更名。東北には合河鎮あり、また120里には百帳守捉あり、また東150里には豹文山守捉あり、また7里には寧寇軍があり、甘州と路合。
  • 常楽県…中下。武徳5年(622年)に別置。抜河帝山あり。
唐代の行政区画変遷
区分 武徳3年 区分 天宝元年 区分 乾元元年
瓜州 晋昌郡 瓜州
晋昌県
常楽県
大黄府 晋昌県
常楽県
晋昌県
常楽県

宋代

宋代には西夏の版図とされ、当初は鎮夷郡、後に宣化府と改められた。

参考文献