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「小笠原長興」の版間の差分

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| 氏族 = [[小笠原氏]]
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| 父母 = 父:[[小笠原長円]]
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
正徳2年(1712年)2月26日、[[豊前国|豊前]][[中津藩]]の第4代[[藩]]主・[[小笠原長円]]の次男として生まれる。[[享保]]元年([[1716年]])、第5代中津藩主で兄の[[小笠原長さと|長邕]]が早世したため、中津藩は無嗣[[改易]]となった。ただし、小笠原氏祖先の[[小笠原秀政|秀政]]・[[小笠原忠脩|忠脩]]親子の功績([[大坂の陣]]・[[天王寺・岡山の戦い]]で戦死)を考慮した幕府によって特別に、長邕の弟・長興が同年10月12日、[[宍粟郡]]や[[佐用郡]]など播磨安志藩1万石に減知・移封の上で、家の存続が許された。
正徳2年(1712年)2月26日、[[豊前国|豊前]][[中津藩]]の第4代[[藩]]主・[[小笠原長円]]の次男として生まれる。[[享保]]元年([[1716年]])、第5代中津藩主で兄の[[小笠原長|長邕]]が早世したため、中津藩は無嗣[[改易]]となった。ただし、小笠原氏祖先の[[小笠原秀政|秀政]]・[[小笠原忠脩|忠脩]]親子の功績([[大坂の陣]]・[[天王寺・岡山の戦い]]で戦死)を考慮した幕府によって特別に、長邕の弟・長興が同年10月12日、[[宍粟郡]]や[[佐用郡]]など播磨安志藩1万石に減知・移封の上で、家の存続が許された。


藩政としては、[[安志陣屋]](現在の[[姫路市立安富中学校]])の建設や学問の奨励によるのちの[[明倫堂]]創設、講師を招聘するなどの事跡がある。
藩政としては、[[安志陣屋]](現在の[[姫路市立安富中学校]])の建設や学問の奨励によるのちの[[明倫堂]]創設、講師を招聘するなどの事跡がある。

2020年8月17日 (月) 07:34時点における版

 
小笠原 長興
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 正徳2年2月26日1712年4月1日
死没 天明6年6月24日1786年7月19日
改名 長興、純覚
別名 喜三郎
戒名 清隠紹貞謙光院
墓所 東京都練馬区桜台の円満山広徳寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
播磨安志藩
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長円
兄弟 長邕長興、妹(小笠原長逵正室)
側室:松室氏
養子長逵、妹(養女、小笠原長逵正室)
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小笠原 長興(おがさわら ながおき)は、播磨安志藩の初代藩主。忠脩系小笠原家6代。

生涯

正徳2年(1712年)2月26日、豊前中津藩の第4代主・小笠原長円の次男として生まれる。享保元年(1716年)、第5代中津藩主で兄の長邕が早世したため、中津藩は無嗣改易となった。ただし、小笠原氏祖先の秀政忠脩親子の功績(大坂の陣天王寺・岡山の戦いで戦死)を考慮した幕府によって特別に、長邕の弟・長興が同年10月12日、宍粟郡佐用郡など播磨安志藩1万石に減知・移封の上で、家の存続が許された。

藩政としては、安志陣屋(現在の姫路市立安富中学校)の建設や学問の奨励によるのちの明倫堂創設、講師を招聘するなどの事跡がある。

生来から病弱で継嗣もなかったため、享保15年(1730年)3月29日に幕府に対して所領の返還を申し出た。しかし、幕府は特別に養子を取ることを許し、同年12月11日に一族の第3代小倉藩主・小笠原忠基次男長逵に家督を譲って、長興は隠居した。その後は純覚と号した。

天明6年(1786年)6月24日に死去した。享年75。墓所は東京都練馬区桜台の円満山広徳寺