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2020年8月16日 (日) 14:04時点における版
ロッテ・ジャイアンツ | |
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Lotte Giants | |
創設 | 1975年 |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
KBOリーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
収容人員 | 28,500人 |
釜山広域市 | |
永久欠番 | |
11 | |
獲得タイトル | |
シリーズ優勝(2回) | |
1984・1992 | |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
2012 | |
シリーズ出場(4回) (太字は勝利した年) | |
2勝2敗 | |
プレーオフ出場(5回)(太字は勝利した年) | |
3勝2敗 | |
準プレーオフ出場(8回)(太字は勝利した年) | |
2勝6敗 | |
Aクラス(14回) | |
| |
Bクラス(24回) | |
| |
球団組織 | |
オーナー | 辛東彬 |
運営母体 | ロッテ |
監督 | 許文會 |
ロッテ・ジャイアンツ | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 롯데 자이언츠 |
漢字: | - |
発音: | ロッテ ジャイオンチュ |
英語: | Lotte Giants |
ロッテ・ジャイアンツ(朝鮮語: 롯데 자이언츠、英語: Lotte Giants)は、KBOリーグに所属する大韓民国のプロ野球チームである。ホームタウンは釜山広域市で、本拠地は同市内の社稷(サジク)野球場。 日本及び韓国の有力な企業グループ・ロッテの傘下。ロッテは日本でもプロ野球チームを持つ(千葉ロッテマリーンズ)。KBO創設メンバー6球団の一つ。1982年のリーグ開始から現在に至るまでにリーグ優勝の回数は2回にとどまる。しかし、世界の全プロスポーツリーグの中で3位の年間観客動員数を誇るKBOリーグの中でもその人気・知名度共に突出しており、韓国全域にファンを抱え、チームの順位がKBOリーグ全体の観客動員数を左右するほどの人気球団である[1] 。2020年現在、日本のオリックス、ソフトバンク、MLB・マリナーズでも活躍した李大浩が在籍している。
概要
1980年代
ロッテグループのオーナーで在日韓国人一世である重光武雄(韓国名・辛格浩(シン・キョクホ))は日本で1969年に東京オリオンズの経営に参加し球団名を「ロッテ・オリオンズ」と改称、1971年に経営権を全面獲得した。その後、「将来は母国・韓国でもプロ野球が発足する」と見込んで、1975年、韓国のロッテ製菓の傘下で社会人野球チームを作った。そして、日本の球団にはつけられなかった憧れの「ジャイアンツ」の愛称を、この社会人チームにつけて、当時の韓国アマチュア球界で最強の戦力を構築、「ロッテ・ジャイアンツ」の名はプロ野球開始以前でも韓国では確実に認識された。
1982年韓国プロ野球の発足時、ロッテグループも参入を表明した。チーム名はアマチュア時代の「ロッテ・ジャイアンツ」の名をそのまま維持して、重光オーナーの故郷である釜山・慶尚南道地域をフランチャイズ保護地域・釜山市を本拠地とするプロチームに作り替える形で参加した。
しかしアマチュア時代にかき集めた好選手たちは、プロリーグ発足時に定められた地元高校出身の選手に対する保有権の原則によって手放さざるを得なくなり、釜山・慶尚南道地域の出身選手だけでチームが構成された。さらに追い討ちを掛けるように、釜山出身の豪腕エース崔東原(チェ・ドンウォン)の入団が、1982年秋にソウルで開かれた世界野球選手権大会参加のため1年間見送られ、プロリーグ発足前からチームの戦力は弱体化していた。結局1982年はシーズン5位で終了。翌年の1983年は崔東原が正式加入したものの、早くも球団史上初最下位を記録した。
1984年の前期までは下位を抜け出せなかったが、後期はエースの崔東原の力投をバックに優勝を達成し、韓国シリーズの出場権を獲得。前後期の総合成績では4位だったが、韓国シリーズでは一人で4勝をあげる崔東原の超人的な活躍で、巨大戦力を擁する強豪の三星ライオンズを下して初優勝を飾った。
1985年は6チーム中2位だったがこの年前後期優勝を果たした三星に大差をつけられた。1986年は7チーム中5位とやや低迷したが、1987年と1988年は7チーム中3位と上位には残った。
1980年代はエースの崔東原に対する依存度が高すぎ、多投を強いられた彼のコンディションによってチーム成績が浮沈を繰り返すようになっていった。また当時は恒例行事のように繰り返された年俸闘争にかまけてシーズンオフのトレーニングに身が入らず、崔東原の力量も若くして衰えを見せ始めた。さらに追い討ちを掛けたのが崔の主導によって展開された選手会結成の動きであった。選手会は球団側のプロ野球廃業の脅しに屈して頓挫させられる形で収拾されたものの、ロッテ球団は選手たちに対する報復措置としてエースの崔東原と中心打者の金容哲(キム・ヨンチョル)を放出し、三星ライオンズから投手の金始眞(キム・シジン)と張孝祚(チャン・ヒョジョ)を受ける大型トレードに乗り出した。
このトレードを拒否した崔東原は半年間を三星からの任意脱退の身分で送り、またトレードに巻き込まれた他の当事者たちもショックからか軒並み不振に陥った。前後期制が廃止され1シーズン制となった1989年は序盤から低迷し、ついに球団史上2度目の最下位で1980年代を終えた。
1990年代
1990年、三美スーパースターズの監督を歴任した金振栄(キム・ジニョン)を監督に迎え、また、スーパールーキーと言われた朴東熙(パク・ドンヒ)の入団で巻き返しを図った。しかし、成績は6位に終わり、1年も満たせず金振栄をシーズン途中解任、都偉彰がシーズン終了まで指揮を執った。
韓国プロ野球が本格的に8球団制となった1991年、1984年の優勝監督である姜秉徹(カン・ビョンチョル)を再び監督に起用した。姜秉徹は思い切った世代交替に乗り出し、停滞ムードを刷新。復帰初年度にチームをレギュラーシーズン4位に引き上げ、1984年以来8年ぶりにポストシーズンへ出場し、韓国プロ野球史上初の観客100万人動員の立役者になった。
翌年の1992年は新人の廉鍾錫(ヨム・ジョンソク)の大活躍で順位をレギュラーシーズン3位と前年より順位を上げ、2年連続ポストシーズン出場を果たした。ポストシーズンでは前評判を覆して、強豪のヘテ・タイガースとビングレ・イーグルスを連破。準プレイオフから這い上がって韓国シリーズを制覇する最初のチームになると同時に2度目の優勝を飾った。また2年連続でシーズン観客100万人を超える快挙も達成した。
しかし、戦力に合わない優勝は選手たちの慢心を誘い、1992年シーズン終了後、多くの選手が年俸闘争に突入。契約更改に気が向いた分、チームの戦力の低下を招き、もともとレギュラーシーズン3位が妥当だった戦力から滑り落ちたチームは1993年6位に後退した。シーズン終了後、姜秉徹監督を解任した球団は、球団OBで1980年代の中心打者であった金用熙(キム・ヨンヒ)を監督に招いたが、1994年シーズンは2年連続6位に終わった。
1995年、チームは立ち直り、レギュラーシーズン3位に返り咲いた。シーズン終了まで、熾烈な争いを通じて4位のヘテ・タイガースを3.5ゲーム差で突き放し、準プレイオフを消滅させ、プレーオフ直行を決めた。プレーオフでは上位チームのLGツインズを4勝2敗で下し、韓国シリーズに進出したが今度は第5戦で先に王手をかけながら、第7戦まで行く接戦の末にOBベアーズに敗れ準優勝に終わった。
1996年は、故障者続出で5位に止まる。金用熙は選手の自律性を重視して、一切のトレーニングを選手に任せる方針を取っていたが、時間が経つにつれ、この放任主義が選手たちの怠惰を招き、ついに1997年シーズンは1989年以来、8年ぶりの最下位に転落。
1998年も不振が続き、2年連続最下位の屈辱を味わった。しかしマジックリーグ、ドリームリーグの8球団2リーグ制に変更となった1999年は、故障で喘いだ投手陣の復調と外国人選手のフェリックス・ホセの活躍が打線の連鎖反応を起こし、シーズン序盤から飛び出した。夏場までドリームリーグの1位の座を守っていたが、シーズン終盤、猛追を見せた斗山ベアーズにリーグ首位の座を明渡し、2位でシーズンを終了した。だが、プレーオフで1勝3敗の劣勢を覆して三星ライオンズを下す大逆転劇を演出、4年ぶり韓国シリーズ出場を決めた。シーズン終盤の順位争いに白熱したプレーオフで疲れきったチームは、韓国シリーズでハンファ・イーグルスに1勝4敗で敗れ、また準優勝に終わった。この年はレギュラーシーズンで2位とチーム史上最高の成績を記録した。
2000年代
2000年、成績は前年より落ちたものの、比較的に弱いチームが集まったマジックリーグに所属が変わったお陰で何とかリーグ2位の座は保つことは出来た。マジックリーグ2位の座は守ったが、ドリームリーグ3位の三星ライオンズに年間勝率で劣り、両チームが準プレーオフをする羽目になった。結局、準プレーオフで三星に敗退。これを最後に、2008年までポストシーズンに姿を現すことはなく、長い暗黒時代が到来した。
再び1リーグ制に戻った2001年、チームは早くから最下位に低迷。チームを2年連続ポストシーズンに導いた金明星(キム・ミョンソン)監督が成績低下からくるストレスによる心筋梗塞でシーズン途中急逝する事態が起こってしまい、ヘッドコーチの禹龍得(ウ・ヨンドゥク)が監督代行を務めたが、チームは最下位を免れなかった。2002年は監督代行の禹龍得を正式監督に昇格させたが、チームの統率が取れず勝率2割台の惨憺な成績でシーズンの半分も消化していない62試合目で同監督を解任。日本時代からロッテ球団と縁があった白仁天を監督に迎えたが、精神力を強調する白仁天の方針は選手たちの反発を招き、2002年はシーズン100敗寸前の97敗を記録するほど情けない戦いぶりを見せた。翌シーズンも状況は変わらず、91敗で2年連続90敗で3年連続最下位。
結局、2001年から2004年まで4年間でシーズン途中監督交代4度、代行を含め6人の監督を座らせる迷走で4年連続最下位。一時は年間120万人も集まった本拠地釜山のファンにもそっぽを向かれ、1試合あたりの観客動員が2000人台を切るまでに凋落し、観客動員は全盛期の10分の1にまで縮んでいった。
このような事態に直面したチームは、整然な理論家で知られていた球団OBの楊相汶(ヤン・サンムン、양상문)に2004年から指揮を取らせた。2004年も最下位を脱出できなかったが、2005年は最下位を脱出して5位に浮上。チームは夏場までポストシーズン争いをするほど健闘を見せ、チームから離れていったファンも戻り始めた。
ところが、この年の健闘ぶりについ色気を出した球団は、その年限りで同監督との契約を打ち切った。その後、2006年は周辺の厳しい見込みにもかかわらず、チームを2度の韓国シリーズ優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)監督を復帰させて上位進出を図ったが、結果は7位に終わった。
2007年は序盤の善戦で本拠地釜山を始め、全国的な野球人気復活の先導役になったが、中盤以降に失速し前年と同じ7位に低迷した。結局、チーム史上唯一の優勝監督だった姜秉徹監督の3度目の采配は2年で幕を下ろした。
2008年からは大リーグのミルウォーキー・ブルワーズで監督経験のあるジェリー・ロイスター(Jerry Royster)が、韓国プロ野球史上初の外国人の正式監督[2]として新監督に就任し、レギュラーシーズンを3位で終え、8年ぶりに悲願のポストシーズンに進出した。準プレイオフ開幕直前では前年よりチーム力が落ちていると言われた公式戦4位の三星ライオンズより優位の前評判だった。しかし、12年連続でポストシーズン出場の貫禄を誇る三星ライオンズに力を出せず、3連敗で完敗。特に、自信を持っていた先発陣が総崩れした上、得点圏での拙攻が目についた。
2009年はレギュラーシーズン4位で2年連続ポストシーズン進出に成功し、準プレーオフに出場したが、斗山ベアーズに敗れた。
2010年代
2010年は2年連続レギュラーシーズン4位で、球団史上初となる3年連続ポストシーズン進出を決めたが、斗山ベアーズに第1,2戦と連勝したものの、第3戦以降3連敗し3年連続準プレーオフ敗退となった。またこの年限りでロイスター監督も退任し、梁承虎監督が就任した。2011年は8球団1リーグ制となった1991年以降(2リーグ制だった1999-2000年を除く)最高となるレギュラーシーズン2位の成績をおさめ、ポストシーズン連続出場を4年連続に伸ばし、12年ぶりにプレーオフへ進出した。2勝3敗でSKワイバーンズに敗れ、4年連続でポストシーズンの次のステージに進めなかった。同年オフには主砲の李大浩がFA(フリーエージェント)となり、日本プロ野球・オリックスへと移籍していった。
2012年はレギュラーシーズン4位で、斗山ベアーズとの準プレーオフを勝ち抜き、ようやくポストシーズンで次のステージに進むことができたが、次のプレーオフで2年連続SKワイバーンズに敗れた。プレーオフ敗退から1週間後の10月30日に梁承虎監督が辞任し、翌11月には金始眞が監督に就任した。韓国シリーズに出場できなかったが、本拠地の社稷野球場でシーズン終了後に開催されるアジアシリーズには「地元枠」にて参加。権斗祚首席コーチが監督代行として指揮を執ったが、グループリーグで敗退した。
韓国プロ野球が本格的に9球団制へ拡大した2013年は5位で、2007年以来6年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。総観客動員数も約77万人と2012年比で44%も減少してしまった。2014年は7位で金始眞監督も辞任した。2014年10月、李鍾雲監督が就任した。プロ野球が10球団制へ拡大した2015年は8位、低迷から抜け出すことはなかった。同年限りで李鍾雲監督は解任され、2015年10月、趙原佑監督が就任した。2016年は2年連続8位で4年連続ポストシーズン進出に失敗した。2017年はレギュラーシーズン3位で5年ぶりにポストシーズンへ進出したが、準プレーオフでNCダイノスに敗れた。2018年は7位でポストシーズン進出に失敗し、趙原佑監督は更迭され楊相汶が2005年以来13年ぶりに監督に再任された。2019年シーズンは途中から最下位に低迷し、7月19日、楊相汶監督が辞任し孔聖弼主席コーチが監督代行に就任するも、10球団制以降では初、15年ぶりの最下位となった。2019年10月、許文會監督が就任した。
備考
2019年シーズン終了時点で、サムスン・ライオンズとともに、1982年の韓国野球委員会発足時から名称変更を行っていないチームである。韓国野球委員会発足当時から存続する5球団(サムスン・起亜・斗山・LG・ロッテ)の中では唯一、レギュラーシーズン1位ないし年間勝率の1位の経験がない。
2度の優勝の内、1度目の1984年は前後期通算では4位に相当する成績でありながら、後期優勝チームとして韓国シリーズで前期優勝のサムスン・ライオンズに勝利した。2度目の1992年はレギュラーシーズン3位で準プレイオフ、プレイオフを勝ち抜いて、韓国シリーズでレギュラーシーズン1位のビングレ・イーグルスに勝利した。
2010年まで、本拠地・釜山広域市の近隣である慶尚南道・昌原市の馬山総合運動場野球場を準本拠地として年間何試合か主催試合を行っていたが、同球場を本拠地とするNCダイノスの創設により行わなくなった。2014年より、同じく近隣の蔚山広域市に開場した蔚山文殊野球場を準本拠地とし、時折主催試合を開催することになった。
チームの特徴
熱烈なファンサポート
2000年以降長い間、球団は低迷したが、ファンのポストシーズンへの願望は衰えることなく、ファンの間では「(プレイオフが行われる)秋にも野球をしよう(가을에도 야구하자!)」というのが非公式的なチームのスローガンとして定着し、「優勝はともかく、(準プレイオフ出場が可能な)4位さえすれば毎試合社稷球場を満員にさせてやる」とまで豪語してきた。
そして2008年以降2011年まで4年連続ポストシーズンに進出し、そういったキャッチフレーズは現実のものになっていた。チームが好調だった1990年代前半は韓国プロ野球では初めて年間観客動員100万人突破を達成し、2008年もチームは公式戦3位に終わったが、1チームとしては韓国プロ野球史上最多の年間観客動員数である137万9735人を記録した。2009年も終盤まで激しい4位争いをしたことや、全国的なプロ野球人気の高まりと主催試合数の増加(63試合から67試合)により、前年の記録を更新する138万18人の年間観客動員数を達成した。
しかし、低迷期には球団側がチーム復活の手応えを見せなかったため、本拠地釜山のファンは「神はなぜ釜山に最高のファンと最悪のチームを同時にもたらしたのか(신은 어찌하여 부산에 최고의 팬과 최악의 팀을 주셨나이까?)」とインターネット掲示板などで嘆くのもよく見られた。
ファンの声援の熱さは韓国で随一と言われている。本拠地の社稷球場を訪れるファンは、他球場では見られない、周辺でよく手に入れられる日常用品を用いた独特な応援でも有名である。たとえば、ナイターの試合でライターに火をつけながら点滅効果を見せる「ライター応援」(2000年代からは見られなくなった)、新聞紙を細かく裂いてポンポンを作って振らす「新聞紙応援」、試合終盤にゴミ回収用に観客に配られるオレンジ色のビニルバッグを膨らませて振らす「ビニルバッグ応援」などがある。 これらの応援は誰が始めたのは確かではないが、今は本拠地社稷球場の名物として定着していて、一部の応援は他球団のファンも真似たりする。また、2万を超える観衆が球場を囲んで全方位からホームチームへの一方的な声援を送る球場は社稷球場しかないため、ビジターチームの選手は相当なプレッシャーを感じているという。 ちなみに、同じ2万人以上受容のソウルの蚕室球場や仁川の文鶴球場は他地域出身者が少なくない土地柄の影響で、ビジターチームの応援団の数も相当存在する。たまに、この熱烈な応援が度を越して、観客がグラウンドに乱入して試合進行に支障を来たすこともある。
年一回のプロ野球オールスター戦もロッテの選手がもっとも選ばれやすく、2012年のオールスター戦(7月21日開催予定)はロッテが属するイースタンリーグ(その他は斗山、SK、サムスン)の指名打者を含めたファン投票選出選手10名全員がロッテの選手となった。(韓国プロ野球オールスター戦のファン投票で同一チームの選手がすべてのポジションで選ばれるのは史上初) しかし2013年、相次ぐスター選手の流出や5位に終わったチームの成績不振もあり、年間観客動員数は770681人と最盛期だった4年前の約55%にまで減少した。2014年は前年より増加したが、それでも830820人にとどまった。2015年は主催試合数が前年の64試合から72試合に増加したが、成績不振で800962人と減少した。2016年は852639人に増加し、2017年は5年ぶりにポストシーズンへ進出したことで1038492人と100万人台を回復した。2018年は7位に低迷したことで901634人と減少した。
ファンの間では、韓国歌謡の「釜山港へ帰れ」と「釜山カルメギ(※カルメギは韓国語で「カモメ」の意)」がコンバットマーチとして定着しており、試合前などによく歌われている。
千葉ロッテマリーンズとの関係
日本の千葉ロッテマリーンズとは、同じ重光オーナーの下にあるため姉妹球団として社会人球団時代から緊密な関係を持っている。2000年代序盤までは、日本(オリオンズ/マリーンズ)と同じデザインのユニフォームを着用していて、日本側がユニフォームの変更に乗り出すとその2、3年後に韓国もそのユニフォームデザインを受け入れていた。
この名残りで、独自のデザインのユニフォームを着用している今も、ペットマークは日本のロゴとマスコット「マーくん」のユニフォーム・キャップなどを韓国向けに変更したものを起用している。韓国のマスコットは日本のマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんに相当するものがそれぞれヌリ・アラ・ピニと命名されている[3]。
ロッテオリオンズのユニフォームと類似したオールドユニフォームがある。このデザインは社会人球団時代から始まって、プロとして発足した1982年から1995年にかけて着用したもので、「LOTTE」のロゴもオリオンズと同じであった。帽子のマークはロッテの「L」とジャイアンツの「G」の組み合わせだがこれもオリオンズのものに類似している。2019年時点で、このオールドユニフォームを着用して試合に出場することがあり、ファンたちの間でもよく着用されている[3]。
また、定期的に千葉ロッテ側と選手やスタッフの交流を行っており、ロッテジャイアンツの選手が千葉ロッテのキャンプや練習に参加することもある。因みに千葉ロッテとロッテジャイアンツの間で直接FA移籍した選手は2019年時点まで誰もいない[4][3]。
日本プロ野球との関係
古くは社会人球団時代からロッテオリオンズを通じて日本のプロ野球と緊密な関係をもっていた。ロッテオリオンズのコーチを歴任した土居章介は社会人球団時代からコーチングスタッフとして貢献して、1990年は監督代行でありながら、韓国プロ野球で史上初めてチームの指揮を執った外国人コーチングスタッフとして記録されている。
時折日本人指導者も在籍している。2003年には石井丈裕が投手コーチ、2006年は柳田聖人が作戦コーチ、2012年は勝崎耕世がコンディショニングコーチ、2014年から2015年まで本西厚博が一軍作戦走塁コーチ・二軍打撃コーチとして在籍していた。
その他
2016年には日本の漫画『ドラえもん』とのコラボ企画として、ドラえもんの絵が入った限定ユニホームでプレイする試合を設定している。
主な在籍選手
投手
捕手
・44 金準兌(キム・ジュンテ)
内野手
- 6 ディクソン・マチャド
- 7 辛本基 (シン・ボンギ)
- 10 李大浩(イ・デホ)
- 13 安致弘(アン・チホン)
外野手
永久欠番
崔東原 |
- 11 崔東原(チェ・ドンウォン、韓国語: 최동원)
主な退団・引退選手
- 崔東原(チェ・ドンウォン、在籍年度1983-1988)
- ロッテ草創期のエース。球威とコントロールを併せ持った彼はアマチュア時代から『鋼鉄の豪腕』と呼ばれた。1984年、公式戦で27勝、韓国シリーズで一人で4勝を挙げる大活躍で、チームを優勝に導く。この年、打撃三冠王の李萬洙(イ・マンス)を押し退けてシーズンMVPを受賞。韓国シリーズでの4勝は2017年まで唯一の記録である。しかし戦力を彼に大きく依存したチーム事情のために多投を強いられ続けたこと、さらに毎年のように契約更改で球団と揉めたためシーズンオフのトレーニングに専念できなかった事情が重なった結果、やがて実力を落とすこととなる。1988年シーズンオフ、選手会創設に向けて主導的役割を果たしたが、プロ野球興行を廃業するという球団側の脅しに屈して頓挫。半ば報復的な措置として1989年シーズン前、三星ライオンズにトレードされる。三星ライオンズ移籍後は精彩を欠き、1990年シーズン後に32歳という若さで現役を引退した。ハンファ・イーグルスの二軍監督を経て、韓国野球委員会で個別試合の開始・中止の決定、審判団の監督などを務める試合監督役に就いていたが、癌により2011年に逝去(享年53歳)。彼の死後ロッテは現役時代の背番号11を、2012年シーズンより永久欠番に指定した。
- 尹學吉(ユン・ハッキル、在籍年度1986-1997)
- 崔東原に続いて、1980年代後半から1990年代前半に掛けて活躍したロッテのエース。打線の援護にも恵まれず、崩壊した投手陣を一人で支えた活躍は、チームの屋台骨を支え続けた(皇帝にたとえられた)崔東原の後継者という意味で「孤独の皇太子」という別名がつけられた。韓国プロ野球の通算最多完投(100試合)および完投勝利(74完投勝利)の記録を持っているタフネスが目立った。引退後は指導者となり、ロッテのみならず尚武、ヒーローズ、LGツインズの投手コーチを歴任し、2011年シーズンから1軍首席コーチとしてロッテに復帰。2012年より二軍監督となったが同年限りでロッテを退団。
- 朴東煕(パク・ドンヒ、在籍年度1990-1996)
- 高麗大学時代から時速150km/hを超える速球で鳴らし、1989年オフ地域優先ドラフトで入団。入団当時、崔東原の後を継ぐ将来のエースとして注目された。デビュー戦で当時の韓国プロ野球最速の時速153km/hの速球を披露し、6者連続三振を奪う。しかしストレート中心の単調な投球術と制球難で伸び悩み、当初の期待には応えられなかった。新人の年は10勝7セーブ、翌年14勝を挙げたが、内容的に物足りなく、闘争心の不足を指摘されたりした。結局2ケタ勝利を挙げたのは2年目が最後で、3年目の1992年は7勝に留まった。しかしその年の韓国シリーズでは優勝に貢献し、シリーズMVPにも選ばれた。持ち味の速球を生かすため1993年からはリリーフに転向し、1994年まで抑えを務めたが、これも制球難がネックとなった。その後は度重なる故障で思ったような活躍はできなくなり、現役時代の終盤は崔東原と同様、三星ライオンズにトレードされた。2002年に現役引退。引退後は野球界から離れ、個人事業を営んでいたが、2007年シーズン開幕直前、交通事故により死去。
- 朴正泰(パク・チョンテ、在籍年度1991-2004)
- バットを片手だけで握るバッティングフォームで知られた。1990年代後半、チームのリーダーを務めた。1993年シーズン、スライディング途中負った両足首の複合骨折という大怪我を克服。1999年プレイオフの最終戦で後述の「大邱大乱闘」でプレーが再開された際、敵地観客の罵声が飛び交わる中でナインに向け「今日は何が何でも勝つのみ」と鼓舞激励したと言われる。そして、チームは延長戦の末、1勝3敗の劣勢を覆しプレイオフを制し、韓国シリーズ進出を果たした。2009年11月から2年間ロッテの二軍監督を務め、2011年11月1軍打撃コーチに就任した。
- 田埈昊(チョン・ジュンホ、在籍年度1991-1995)
- 朴正泰と入団同期で1992年の優勝の主役の1人。アマチュア時代は無名だったが俊足巧打を生かして1年目からレギュラーの座を奪い取った。 文東煥(ムン・ドンファン)の社会人野球チームの現代フェニックスとの契約の解除の条件に現代ユニコーンズへ無償トレードされ、4度の韓国シリーズ優勝に貢献した。現代解散後2008年から、現代の選手が大半移籍した新球団ヒーローズでプレーし、同年史上初の2000試合出場、史上2人目の2000本安打の記録を達成。2009年自由契約となりそのまま現役引退し、すぐにSKワイバーンズの走塁コーチに就任。2010年シーズン終了時点で、韓国プロ野球史上最多盗塁(550)、最多三塁打(100)の記録保持者。
- 廉鍾錫(ヨム・ジョンソク、在籍年度1992-2008)
- 高卒ルーキーだった1992年17勝で新人王を獲得してチームの優勝に貢献したが、以後は故障に悩まされ思うような成績をあげられなかった。100勝を目前にした2008年シーズン終了後、球団の勧告を受けて引退。2009年に日本の千葉ロッテマリーンズでコーチ研修を受け、帰国後は韓国ロッテの二軍コーチに就任。
- 1999年に首位打者になるなど、1990年代後半にチームの主砲として活躍した。しかしFA制度導入を求める選手協会の急先鋒だったこともあり、球団と対立し2001年開幕前に三星ライオンズへトレードに出される。三星でも主砲として活躍し、2003年オフにFAで起亜タイガースに移籍。しかし2004年以降、成績が急激に下降線をたどり始めた。05年オフにLGツインズにトレードされたが、ここでも活躍できず2007年オフに解雇された。LGを解雇された後、現役引退の危機に直面したが、テストを経て2008年は8年ぶりに古巣へと復帰。しかし年齢による衰えもあり結果を残すことができず、1年で自由契約となった。精彩を欠いた技量は復調の気配を見せず、シーズン開幕直後に二軍落ち。この年オールスター戦に指名打者でファン投票選出され、3打点をあげる活躍を見せたのが唯一の見せ場だった。
- 文東煥(ムン・ドンファン、在籍年度1997-2003)
- 社会人の現代フェニックスを経て、1997年に入団。翌年からローテーションの一角を担ったが、以後で故障で出場機会が減少した。鄭守根がFAで移籍してきた時、補償選手として斗山ベアーズにトレードされ、すかさずハンファ・イーグルスに再トレードされた。FA移籍に伴うトレードでFA選手の元所属チームではなく、別チームに再トレードされたのはこれが初めてである。
- フェリックス・ホセ(在籍年度1999、2001、2006-2007)
- 1999年、2001年、2006年から2007年の計4年間在籍した外国人打者。1999年、三星ライオンズとのプレーオフ第7戦の6回表に反撃の口火を切る本塁打を打った際、観客から物を投げつけられバットを投げ返し、後述の「大邱大乱闘」の引き金となった。その他暴言や乱闘などによる退場を何度も繰り返した。また2002年には大リーグのモントリオール・エクスポズとの二重契約問題が発覚し、ロッテからの契約を打ち切られ、韓国野球委員会から永久除名選手の処分を受けた。その後永久除名は解除され、何度かロッテへの復帰の話が持ち上がっては消えていたが、2006年5年ぶりに復帰した。2007年シーズンはキャンプ中の故障で出遅れ活躍できず、5月に成績不振で退団した。
- 盧長震(ノ・ジャンジン、在籍年度2004-2006)
- 剛速球を放る抑え投手であるが、私生活でトラブルが多く見られる。三星ライオンズ在籍時、韓国シリーズ出場をかけたプレーオフ最終戦でロッテのフェリックス・ホセから反撃ののろしとなるアーチを被弾、「大邱大乱闘」(試合の流れを変えられる一打で逆転への不安を感じて暴徒化した観客とロッテの選手が乱闘を起こした事件)を引き起こした原因となる。この乱闘劇は鎮圧のために警官隊が出動し、米国のCNNでも報道された。2004年シーズン途中にロッテへ移籍し、抑えとして活躍したがチームから無断離脱するなど、トラブルメーカーぶりは相変わらずだった。2006年オフFAを行使したが、ロッテを含むどの球団とも契約できず、2007年以降プロ野球選手としてどの球団にも所属していない。
- 鄭守根(チョン・スグン、在籍年度2004-2008、2009)
- 2000年シドニーオリンピック韓国代表に選ばれ、3位となり銅メダルを授与された。 現役時代は酒に関するトラブルが多く、2009年の現役引退も度重なる酒での乱行にも関わらず飲食店で飲酒していたことを店員に通報されたことがきっかけだった。
- デビッド・コルテス(在籍年度2008)
- 2008年に抑えを務める。
- 孫敏漢(ソン・ミンハン、在籍年度1997-2011)
- 高い制球力と機敏な守備技術とを武器とし2001年には最多勝、2005年には最優秀防御率、シーズンMVPを獲得。ロッテは慢性的に低迷する中、孤軍奮闘しチームを支えた。国際大会にも縁があり、シドニー五輪・2006 ワールド・ベースボール・クラシック・2009 ワールド・ベースボール・クラシックに代表選手に選出されるもいずれの大会も際立った活躍はなかった。2009年ごろから怪我に悩まされ、2010年・2011年とも登板機会がなく生え抜きの若い選手に押される形にもなり、オフに自由契約。2013年4月、NCダイノスと契約し4年ぶりの1軍登板を果たした。現在はNCのコーチ。
- 金周燦(キム・ジュチャン、在籍年度2001-2012)
- 洪性炘(ホン・ソンフン、在籍年度2009-2012)
- 斗山ベアーズからFA(フリーエージェント)で移籍し、2009年から2012年までクリーンアップを任され活躍した。2013年より2度目のFAで斗山へ復帰。
- スコット・リッチモンド(在籍年度2013)
- キャンプ中に膝を故障し、一度も登板しないまま3月に退団。
- 趙晟桓(チョ・ソンファン、在籍年度1999-2014)
- キャプテンとして長くチームに貢献してきた。
- 朴基赫(パク・キヒョク、在籍年度2000-2010,2013-2014)
- 現KTウィズコーチ。
- 張元準(チャン・ウォンジュン、在籍年度2004-2011,2014)
- 2004年に入団し、2006年から先発の柱として活躍。2014年オフにFA権を行使して斗山ベアーズに移籍した。
- シェーン・ユーマン(在籍年度2012-2014)
- 主に先発として活躍。2014年にハンファに移籍。
- 張盛好(チャン・ソンホ、在籍年度2013-2014)
- 強打のベテランとして入団するも大きく期待を裏切って2年で退団。
- 黄載鈞(ファン・ジェギュン、在籍年度2010-2016)
- 現KTウィズ。
- 姜珉鎬(カン・ミンホ、在籍年度2004-2017)
- 現三星ライオンズ。
- 孫勝洛(ソン・スンナク、在籍年度2016-2019)
- ジョシュ・リンドブロム(在籍年度2015-2016、2017)
- ジム・アドゥチ(在籍年度2015-2016)
- 1番打者として活躍するも薬物服用が発覚し解雇される。
- ジャスティン・マックスウェル(在籍年度2016)
- アドゥチの代役として入団するも同年限りで退団。
- フェリックス・ドゥブロン(在籍年度2018)
- 先発を務めるが6勝しかあげられず9月に解雇される。
- アンディ・バーンズ(在籍年度2017-2018)
- 守れる外国人選手として入団。主にセカンドでプレー。
- ジェイク・トンプソン(在籍年度2019)
- 入団してからわずか2か月で戦力外になり退団した。
- カルロス・アスアヘ(在籍年度2019)
- バーンズの代役として入団するも活躍できず退団した。
過去に在籍した日本球界出身選手
- 徳山文宗(在籍1984-1988)
- 菊村徳用(在籍1984)
- 金井正幸(在籍1985 - 1988)
- 金沢信彦(在籍1990 - 1991)
- 鴻野淳基(在籍1994)
- デリック・ホワイト(在籍2000)
- 元阪神タイガース。
- オジー・カンセコ(在籍2001)
- 李大浩(在籍2001 - 2011)
- 元 福岡ソフトバンクホークス, オリックス・バファローズ, 2016年のシアトル・マリナーズを経て2017年シーズンから復帰した。
- 森一馬(在籍2003)
- 社会人野球一光出身。2002年オフ、テストを経て契約。プロの経歴のない非韓国系日本人選手として初めての選手として注目されたが、オープン戦で期待以下の投球で2003年シーズン開幕前に解雇され、韓国プロ野球公式戦での出場はなかった。
- 光山英和(在籍2003)
- ボイ・ロドリゲス(在籍2003)
- ロベルト・ペレス(在籍2003-2005、2007)
- 元オリックス・ブルーウェーブ、2003年シーズン途中入団し、主軸打者として2004年まで活躍したが、2005年に負傷のため公式戦に1試合も出場せずに退団した。2007年7月に復帰したが目立った成績を残せず、同年限りで退団。
- 天野勇剛(在籍2006)
- 元千葉ロッテマリーンズ、登録名は金勇剛(キム・ヨンガン、김용강)。韓国で二軍暮らしが続き、一軍の公式戦出場は1度もないまま、1年で解雇。
- カリーム・ガルシア(在籍2008 - 2010)
- 元オリックス・バファローズ。2008年の韓国1年目で打点王のタイトルを獲得し、チームの3位進出に貢献。その後も主軸として活躍したが、成績が下降してきたこともあって2010年限りで退団。球団史上初めて3年連続で在籍した外国人選手となった。
- ブライアン・コーリー(在籍2011)
- 元千葉ロッテマリーンズ
- クリス・ブーチェック(在籍2011)
- 元横浜ベイスターズ
- クリス・オクスプリング(在籍2013-2014)
- ルイス・ヒメネス(在籍2014)
歴代監督
前任監督の辞任や解任の後、空席の状況で就任した監督代行まで含む。
- 朴永吉(パク・ヨンギル)1982-1983.7.5.
1983年シーズン途中、成績不振で解任。 - 姜秉徹(カン・ビョンチョル)1983.7.6.-1986
1983シーズンは監督代行。 - 成基泳(ソン・ギヨン)1987
- 魚友洪(オ・ウホン)1988-1989
- 金振栄(キム・ジニョン)1990開幕-1990.8.28.
- 土居章助、1990.8.29-1990シーズン終了
監督代行。韓国での登録名は都偉彰(ト・ウィチャン、ハングル:도위창)。代行を含めると韓国プロ野球で初めて監督として指揮を執った外国人である。 - 姜秉徹【第2期】1991-1993
- 金用熙(キム・ヨンヒ)1994-1998.6.16.
1998シーズン途中、成績不振で解任。 - 金明星(キム・ミョンソン)1998.6.17.-2001.7.24.
1998年は監督代行。2001年7月24日、心筋梗塞で急逝。 - 禹龍得(ウ・ヨンドゥク)2001.7.24.-2002.6.21.
2001年は監督代行。2002年シーズン途中成績不振で解任。 - 金用熙、2002.6.22.-2002.6.24.(監督代行)
- 白仁天(ペク・インチョン)2002.6.25.-2003.8.5.
2002年シーズン途中、監督代行の金用熙の後をついで正式監督として就任。2003年シーズン途中、成績不振で解任。 - 金容哲(キム・ヨンチョル)2003.8.6.-2003シーズン終了(監督代行)
- 楊相汶(ヤン・サンムン)【第1期】2004-2005
- 姜秉徹【第3期】2006-2007
- ジェリー・ロイスター(Jerry Royster)2008-2010
- 梁承虎(ヤン・スンホ)2011-2012
- 権斗祚(クォン・ドゥジョ)2012アジアシリーズ(監督代行)
- 金始眞(キム・シジン)2013-2014
- 李鍾雲(イ・ジョンウン)2015
- 趙原佑(チョ・ウォヌ)2016-2018
- 楊相汶【第2期】2019.2 - 2019.7.18
- 孔弼聖(コン・ピルソン)2019.7.19.-2019.10.1(監督代行)
- 許文會(ホ・ムンフェ)2020-
脚注
- ^ 1リーグ、10球団が覇権を競う韓国プロ野球リーグ 日本の好敵手の歴史を振り返る
- ^ 監督代行を含めると1990年シーズン、途中で解任された金振栄(キム・ジニョン)の代行として土居章助がシーズン終了まで指揮を執ったことがある。
- ^ a b c “楽天が台湾・ラミゴ球団を買収 日韓ではロッテが両リーグで球団所有の事例あり”. Yahoo!ニュース(2019年9月19日作成). 2019年9月19日閲覧。
- ^ 海外FA宣言で千葉ロッテに移籍したイ・スンヨプはKBO時代はサムスン、キム・テギュンはKBO時代はハンファに所属していた。逆に韓国ロッテ在籍時に海外FA宣言したイ・デホはNPB時代はオリックスと福岡ソフトバンクに所属していた。
関連項目
外部リンク
- 公式サイト(韓国語)
- 公式サイト(英語)
- 公式 Facebook Page (韓国語)
- ☆Strike Zone☆ロッテ・ジャイアンツ