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[[1882年]]、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の[[袁世凱]]と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の[[天津]]に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は[[凌遅刑]]に処されて壊滅した([[壬午軍乱]])。1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した([[甲申政変]])。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国と日本と[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。 |
[[1882年]]、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の[[袁世凱]]と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の[[天津]]に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は[[凌遅刑]]に処されて壊滅した([[壬午軍乱]])。1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した([[甲申政変]])。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国と日本と[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。 |
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1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する([[露朝密約事件]])と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の[[李 |
1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する([[露朝密約事件]])と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の[[李埈鎔|永宣君]]を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、[[全琫準]]を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、[[東学党]]が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める([[甲午農民戦争]])と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。 |
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反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった<ref>アジア歴史資料センター 2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告 [https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html]</ref>。 |
反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった<ref>アジア歴史資料センター 2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告 [https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html]</ref>。 |
2020年8月13日 (木) 02:42時点における版
韓国併合(かんこくへいごう、英: Japanese annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国(日本)が大韓帝国[1]を併合して統治下に置いた事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦などとも表記される[2]。厳密には日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。
概要
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 |
沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 |
百済 |
高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 |
安東都護府 668-756 |
渤海 698-926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901-918 |
遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、日本は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮半島の領有は終了した。
条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、条約締結の結果、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実を指すこともある。
冊封体制下の秩序と開国
当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた[3]。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」とする照会を米国だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約締結の交渉の際にも行った[4]。
開国後から日清戦争まで
開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、明治維新に倣って朝鮮の近代化を進めようとする朝鮮青年貴族(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。
1882年、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の袁世凱と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した(壬午軍乱)。1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した(甲申政変)。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国と日本と天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。
1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。
反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった[5]。
1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。
三国干渉後と大韓帝国の成立
日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として甲午改革が推進した。しかし、1895年(明治28年)にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、高宗の妃閔妃はロシア帝国に接近して復権を果たすが、失脚した大院君が開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こされて殺害された。残された事大党(李範晋ら)は、妻を殺害された高宗を味方につけ、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して復権を果たす。高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)[6]。朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した[7]。
1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)の要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた[8]。また、1898年1月には釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)[9][10]。開化派の運動組織独立協会は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた[11]。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された[12]。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。
光武改革
1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した[13]。
イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。—イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f
財政問題及び偽白銅貨の流通
当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた[14]。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[15]。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった[16]。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた[16]。
兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる[17]。金亨燮によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相潗や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる[18][19]。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁徳天、李聖烈、洪淳学や、洪秉晋などが逮捕されている[20][21]。
また、当時、白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた[22][23]。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した[24]。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行し[22]、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった[22][25]。
1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[26]、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。
ロシアの南下と日露戦争
ロシア帝国は南下政策の一環として、東アジアの領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた(三国干渉)。同時にロシアは清と露清密約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の旅順港と大連湾、威海衛を租借して植民地化を進めていった。また、露館播遷以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。ロシアの南下政策に対して、日本は満州でのロシア帝国の優越権朝鮮半島での日本の優越権を相互に認めあう満韓交換論を主張する元老の伊藤博文と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の山縣有朋が対立したが、1902年に日英同盟が成立するとロシアとの軍事的な緊張が高まった。
1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた(日韓議定書)[27]。8月22日には第一次日韓協約を締結して、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスを推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。1904年(明治37年)9月5日、日露戦争が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた[28]。
日露戦争後の朝鮮半島を巡る国際情勢
英国のランズダウン外相はロシアの南下を阻止するため、韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。ジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたが、日露戦争の終結時になると、ジョーダンはマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、ここ 10 年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告した。ランズダウン、バルフォア首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認された[29]。
米国は高宗の厚遇を得ていた駐韓公使ホレイス・ニュートン・アレンが日本の干渉に抵抗を続けていたが、セオドア・ルーズベルトによる日露戦争の仲介が始まると、1905年6月に駐韓公使を更迭された。1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[30]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
- 日本は、アメリカ合衆国の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
- 極東の平和は、日本、アメリカ合衆国、イギリス連合王国の3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
- アメリカ合衆国は、日本の韓国における指導的地位を認める。
会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。
ロシアは日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で韓国に対する日本の優越権を認め、1906年に駐日公使(1899年-1903年)を務めたアレクサンドル・イズヴォリスキーがロシア帝国の外務大臣に就任すると日露関係の緊張は解けていき、朝鮮半島への干渉から撤退していく、その後も、フランスが1907年の日仏協約で日本の韓国における優越的地位を認める[31]など、日本の朝鮮半島に関する支配権は欧米列強の協調外交に組み込まれていった。
第二次日韓協約とハーグ密使事件
ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し[32][33][34]、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。
実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配の糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。(ハーグ密使事件)
密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し[35][36]、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。
第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり[35]、1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
伊藤博文の暗殺
1909年(明治42年)10月26日、ロシア帝国のハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されると、韓国の併合は決定的になった。
ロシア帝国は欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であったが、ロシア領内で事件が勃発されると関与の疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して、日本との協調路線に転じた[37][6]。また、伊藤博文は征韓論政変以来、韓国併合反対派の重鎮であり、国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていた[38]が、伊藤の暗殺により、軍閥の発言力は高まった。それまで韓国統監は文官である伊藤博文・曾禰荒助が務めたが、寺内正毅以降は朝鮮総督も含めていずれも武官が就任するようになる。
大韓帝国の統治時代
民間の政治団体・一進会の上奏声明
12月4日には大韓帝国にあった民間の政治結社・一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また、日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり外交権が奪われ、保護条約に至ったのは我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明を発表した。
ただし、「韓日合邦を要求する声明書」は日本と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の両国の時勢・国力比から考えて日本側には受け入れられない提案であったために拒絶した。[39]
併合
1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、[要出典]8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、日本は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
朝鮮総督府による政策
身分解放
統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[40]。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった[40]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[41]。
土地政策
朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた[42]。その他に隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地なども)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている[43]。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする[44]。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し[45]、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ[46]、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
教育文化政策
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した[47]。
1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した[48]。
年表
年 | 出来事 | |
---|---|---|
韓国 | 北朝鮮 | |
1895年(明治28年) | 下関条約 閔妃暗殺(乙未事変) | |
1896年(明治29年) | 露館播遷 | |
1897年(明治30年) | 大韓帝国に国号変更 | |
1904年(明治37年) | 日露戦争開戦 日韓議定書 第一次日韓協約 | |
1905年(明治38年) | 日露戦争終結 第二次日韓協約 韓国統監府設置 | |
1907年(明治40年) | ハーグ密使事件 純宗即位 第三次日韓協約 | |
1909年(明治42年) | 適当の時期に韓国併合を断行する方針を閣議決定 伊藤博文暗殺 | |
1910年(明治43年) | 韓国併合 朝鮮総督府設置 | |
1911年(明治44年) | 朝鮮教育令発布 | |
1919年(大正8年) | 三・一独立運動 | |
1945年(昭和20年) | 分割占領、朝鮮総督府解体 | |
北緯38度線以南 アメリカ合衆国が占領 | 北緯38度線以北 ソビエト連邦が占領 | |
1948年(昭和23年) | 大韓民国建国 | 朝鮮民主主義人民共和国建国 |
1952年(昭和27年) | サンフランシスコ平和条約発効 日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄 |
|
1965年(昭和40年) | 日韓基本条約調印 発効 日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認 |
呼称について
日本国内における呼称
韓国併合と呼称されることが大半であるが、日韓併合や、日韓合邦、日韓合併などと呼ばれることもある。
韓国内における呼称
韓国側では、併合そのものについては韓日併合や庚戌国恥(庚戌は1910年を意味する)と呼び、日本による朝鮮半島統治時代については、日帝強占期(近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代、対日抗争期などと呼んでいる。
「植民地」という呼称が使われることについて
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、植民政策学等の社会科学における講学上の概念にすぎない[49]。
ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[50]ことが事実上の慣例となっていた。
(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。—小熊英二、『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月、第5章、pp.142 f ISBN 4-7885-0648-3
我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。
- 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[51]。
- 1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[52]。
- 1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[53]。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。
帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った[54]。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した。[54]
国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、深水六郎君委員長は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した。[55]
2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。
実際の使用事例
前述の通り朝鮮を植民地と明示する日本の法令は存在しないが、その他の公文書においては朝鮮を植民地と称するものも見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている[56]。
戦前から研究者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があった。憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。民本主義を最初に主張したとされるジャーナリストの茅原華山は、1913年の著書『新動中静観』の中で、台湾及び朝鮮を日本の「投資的植民地」であり「生産的植民地」であると述べたものの、その意味で朝鮮は大きな価値が無いとした[57]。経済学者の福田徳三は、朝鮮の人口が既に過密なことから、「民を植(う)える地」という「植民地」及び「民を殖(ふや)す地」という「殖民地」という単語は不適切だとした[58]。全国経済調査機関連合会は、朝鮮を「各般の事情が植民地乃至それに準ずべき立場に在る」としながらも、朝鮮の財政は地方財政(府県財政)と同様の地位にあるとした[59]。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において明治憲法の適用に保留があったこと[60]、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(日本)臣民の権利に国籍条項など制限があった[61]ことをもって、植民地であったとする主張がある。
小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。
評価と争点
日本側では、韓国併合を否定的に評価する見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。一方で韓国側では、併合を否定的に評価する見方が多数であり、肯定的な意見は容認されないケースが多い。
争点と評価(歴史認識)の相違については下記節「歴史認識の比較表」を、韓国における併合への肯定的な見方については下記節「大韓民国における日本統治時代の評価」を参照。
大韓民国などにおける日本統治時代の評価
独立後の韓国の歴史学者は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある[62]。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」[63]として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した[64]。
一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判するなど、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。
- 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している[65]。これらの言動・著作から彼は親日派として弾圧を受けている[66]。
- ソウル大学名誉教授の安秉直や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。
- ソウル大学教授の李栄薫は、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示する[67]が、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派として糾弾されている。
- 崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている[68]。
- 元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している[69]。
- 当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している[70]。
- 2004年に東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は、新しい歴史教科書をつくる会による教科書について、特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述について「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している[71]。
- 漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした[72][73]。また、「代案教科書[74]」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し[72]、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした[75]。
- 高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また日本による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した[76]。この論文は韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任した[77]。
- 元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている[78]。
- 第4代台湾総統の李登輝は2012年3月、日本の保守系団体のインタビューに答えた。これはBS11『INsideOUT』で4月に放送された。日本統治時代は韓国人より台湾人のほうが差別されていたのに不満はないのか、という問いに対し、韓国は併合と言われていたのに、そしてほとんど原野だった台湾と違って元々ちゃんとした国だったのに、植民地の様にあつかわわれ、国名も「日本」のままだったのだから、インフラをあの程度、整えたぐらいでは彼らは不満だ、と答えた[79]。もっと人々の意識が低かった時代、200年以上前に行われたイングランドのスコットランド併合ではイングランドはグレート・ブリテンなどに国名を変えていた。そして国旗も変えていた。
資本主義萌芽論
日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定した。またハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、日本の近代化政策を模したものであるとした[80]。またエッカートは、日本による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事政権の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている[81]。
これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[82]。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる[83]。
ほか韓国においても、その後の実証的研究の進展により、若い研究者からはこの資本主義萌芽論は採用されなくなってきている[84]。
日本内地への影響
日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。[85][86]。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている[87]。
訪れた外国人の評価
1912-1913年の駐日アメリカ大使アンダーソン(en: Larz Anderson)の妻で作家のイザベル(en: Isabel Weld Perkins)が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」[88]
歴史認識の比較表
この節の内容の信頼性について検証が求められています。 |
韓国併合について、以下のような歴史認識の相違、対立がある。
韓国併合を肯定的に捉える歴史認識 | 韓国併合を否定的に捉える歴史認識 | |
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日本による統治は朝鮮に近代化をもたらしたか | 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、日本による統治が朝鮮の近代化をもたらした(カーター・エッカート[89]、安秉直[90]、李大根[91]、李栄薫[92]、崔基鎬[93])。韓国における資本主義萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、李氏朝鮮において近代化の萌芽を発見することはできない(C・エッカート[89])。ステファン・ハガードはエッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[82]。しかしハガードの研究においても戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性は弱められている[83]。日本による朝鮮の近代化によって食料生産も順調となり、人口は倍増し、日本資本による百貨店の隆盛など消費社会化ももたらした(林廣茂[94]) | 李氏朝鮮末期の朝鮮には近代化や資本主義の萌芽が存在していた(資本主義萌芽論という)(梶村秀樹[95]、姜在彦[96])。資本主義萌芽論では、李氏朝鮮後期には資本主義の萌芽が存在したが日本の植民地支配により芽が摘まれてしまったとされる。(この理論は1950年代後半に北朝鮮で唱えられ、日本には1960年代に紹介、1970年代に力を持った。韓国には1980年代に日本経由で広まった。しかし、その後の実証的研究の進展により否定されてきている[84]) |
併合の目的、意義 | 日本は自国の独立と安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った(金完燮[97])。朝鮮を近代化することにより日本の防波堤となるよう援助や支援を行ったが、朝鮮では改革派は失脚し反動勢力が政権を掌握して、朝鮮自身による近代化は絶望的となったので、日本が直接近代化を行うための併合。仮に日本が朝鮮を併合しなければ、帝政ロシアが併合していた(崔文衡[98]、韓昇助[99])。ソ連時代における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が日本に統治されたことは肯定できる。当時改革派の朝鮮人にとって清とロシアは反動的で、米国は無関心であり、日本のみが自国の改革を推進していたため期待した(グレゴリー・ヘンダーソン[100])。朝鮮が自力で近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本による統治がなければ近代化もなかった(金完燮[101])。韓国併合は搾取・虐殺・略奪・収奪する支配としての植民地支配(Colonization)ではなく、イングランドがスコットランドを併合したように現地人の生活向上を目的とした併合・合邦(アネクゼーション annexation)であった(呉善花[102])
イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは当時同盟国である日本が日露戦争で勝利したことに並び、韓国併合と中国や太平洋諸島に一定の権益を持ったことを歓迎し[103]、1932年にも韓国併合は「厳しいけれども良好」と評価している[104]。 |
朝鮮の富を収奪する為の併合である。ロシア併合は仮定の話でしかないので、この点はほとんど論じられない。日本が併合しなければ帝政ロシアに併合されると言う設定も、また日本の統治のほうが帝政ロシアやソ連による統治より善いとする論拠のいずれも日本側のみの言い分にすぎない[要出典]。 |
韓国併合の合法性 | 李朝末期では最大と日本がみなしていた政治団体・一進会も、併合に賛成していた。韓国併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。国際法学者J・クロフォードは韓国併合は国際的に認められていたもので手続きに不備があったとしても無効とはならないと李泰鎮の不成立論を斥け[105]、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではない」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」としている[106]。伊藤博文は高宗に対して「承諾されるのもお拒みなさるのも皇帝のご勝手です。もしお拒みなさるならば、日本は決心するところがありますので、その結果は条約締結以上の困難をもたらすでしょうと述べており[107]、これは外交交渉でよく用いられるセリフであって、脅迫(強制)とはいえない、また軍や憲兵による脅迫は伝聞に依拠したもので確実な証拠はない(原田環[108])。第二次日韓協約の調印者朴斉純が外部大臣であり権限を有しており有効である、また条文に批准条項がないから批准書の交換が行われなかった、条約名のない条約のケースは広く見られるため、合法であった(海野福寿[109]、坂元茂樹[110][111])。条約は締結国間で決定するもので、条約形式が固定されているわけではない(原田環[112])。また高宗は第二次日韓協約締結に反対したと戦後主張されてきたが、実際には締結に積極的であった[113]。 | 日本キリスト教協議会と韓国キリスト教教会協議会の認識によれば、韓国では朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたとする認識が多数を占める[114]。国家から国家への強制や脅迫があっても条約は無効にはならないが、国の代表者個人に対して加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となるということは、第二次日韓協約締結当時の国際慣習法として成立していた[115]。国際法学者フランシス・レイは「第二次日韓協約締結時に国家代表たる高宗に強迫が使われた」ことと「日本の韓国に対する保証義務」をあげて第二次日韓協約が無効と主張している[116]。1935年のハーバード草案や1963年の国連ILCのウォルドック特別報告書は第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例として例示した[117]。大元の第二次日韓協約が無効である以上は韓国併合に関する全ての条約は締結時から無効であり、国際法上も無効となるとの認識から締結前の日韓協定に遡及して日本側の責任を問う者もいる。李泰鎮は条約は全権委任状や皇帝の批准書がないことから不成立としている[118]。
また海野福寿[119]や小川原宏幸(同志社大学)の様に併合条約が「たとえ合法でも不当」という立場をとり植民地化の不正義を遡及して追及すべきとする者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ日本への吸収合併ではなく対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合への民間レベルでの抵抗は、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことが示している。 併合は日本軍の占領、王后の殺害、王への脅迫によって実現されたもので、力によって朝鮮民族の意志を踏みにじったもので、韓国皇帝が同意したのは神話であり、全文も本文も偽りであり、併合条約は不義不当である(2015年知識人声明より。発起人は石坂浩一、上野千鶴子、内海愛子、太田修、小田川興、粕谷憲一、高崎宗司、田中宏、外村大、中塚明、林博史、水野直樹、宮田節子、山田昭次、矢野秀喜、和田春樹。賛同者には鹿野政直、姜尚中、李成市ら270人[120])。なお、元々の原文の声明は2010年に韓国の研究者と共同で発表したものであるが、古田博司は、この声明を「韓国で日韓併合条約無効論が盛りあがりを見せ、日本の非良心的・反進歩的知識人が5月に、それに同調する声明を出した。」と評している[121]。 |
独立運動 | 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は独立に向けて熱烈に活動していたわけではない。当時の朝鮮人の知識層の47.2%が独立を諦め、28.1%がどちらでもよいと回答し、9.3%が独立すべし、15.4%が有利な時期に独立すべしと回答していた[122]。農民と労働者は68.3%がどちらでもよい、6.5%が独立すべしと回答していた[122]。別の調査では日本による統治に対して朝鮮の知識人は44.9%が満足、朝鮮全体の37.7%は満足し、朝鮮全体の36.1%は興味がない、朝鮮全体の14.9%は改革を要求、11.1%が反日的であった[122]。こうした調査を日本政府が実行し、またそのなかで「独立すべし」と回答しても危険ではなかったことに留意すべきである[122]。
国内の共産主義運動は地下に潜伏しており、大きな影響力を持たなかった。満州の共産主義運動は中国共産党の影響下で行われたもので朝鮮独立ではなく中国革命を目指すのが本義とされていた。しかし、その実態は無差別に民衆から略奪を行う匪賊と大差がない。匪賊とゲリラの違いについては論じないが、論じる必要がない。 |
日本の統治に対して朝鮮の民衆は併合前から激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が日本政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧迄に数ヵ月を要している。その中では治安当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民を教会ごと焼き払い皆殺しにして鎮圧する事件まで引き起こした(堤岩里事件)が、これは欧米諸国の非難を招き、以後キリスト教会を弾圧対象にできなかったため却って独立運動の拠点を作り出してしまう結果にもなった。独立運動に対する植民地下の法による処罰は全面的に「人道主義に反する植民地犯罪」であった[114]。また共産主義運動に対する弾圧への評価では日本統治に批判的な人々の間においても、日本革命または中国革命など単に他国の共産主義化運動に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったとする評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を日本へ与えられなかったという評価や、むしろゲリラであるかぎり匪賊と(犯罪行為はともかく)見分けがついてはならないのが当然とするものまで様々である。 |
大韓民国臨時政府 | 上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。また日本軍と直接対決に至る以前に日本の降伏によって大韓民国として独立を迎えており、大韓民国臨時政府が独立したわけではない。 | 上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には日本に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとった。 |
植民地化による搾取の実態 | 日本はその開国直後から、帝政ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、日本の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目に京城府(ソウル)に設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、日本からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに日本は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きい。これらを「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作であり、うけいれられない。朝鮮半島が、帝政ロシアや清国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことができなかったという状況下での選択としては、韓国併合はもっとも妥当なものに近い。ジョージ・アキタとブランドン・パーマーによれば日本による統治は、欧米宗主国による強制労働や人種差別政策とは比べようのないほど緩やかなものであったし、オランダ領東インド、英仏ベルギー、ポルトガル領アフリカ植民地での強制労働に日本は頼らなかった、インフラ建設には他の植民地保有国よりもはるかに多くの努力を払ったとしている[123]。朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力も併合を推進した。ヒルディ・カンによるサンフランシスコ在住の韓国系住民51人への聴き取り調査では、「辛いことは何も体験していない」と前置きをして回想する場合は多く、「ほとんどのひとは日本の統治に順応していた」という発言の頻度が高かった[124]。元韓国空軍大佐の崔三然は諸外国の植民地支配が一方的に搾取するだけであったのに対して日本は国内の税金をインフラ整備に投入したと評価した[125]。朴贊雄は希望が持てる時代だったと回想している[126]。金儀遠は、日本の朝鮮での鉄道・港湾・学校などのインフラ建設について搾取によるという主張があるが、朝鮮で徴収した税金は農地税程度で、日本政府が予算を使って建設したのが事実としている[127]。 | 朝鮮は植民地化によってあらゆる搾取(七奪)に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではない)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。多くの人々やその子孫たちを、中国、ロシア、日本などに移住させるという苦痛を負わせた[114]。産米増殖計画においては、日本内地への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって日本の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された。朝鮮の植民地化によって、日本は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。マーク・R・ピーティは初代総督寺内正毅による朝鮮統治は武断政治で過酷であったとする[128]一方で、日本による土地調査や登録は「徹底的に正直なものであった」としている[129]。アンドレ・シュミットは日本の朝鮮支配は過酷であったとする[130]。 |
差別 | 経済的平等については併合直後の、日本内地と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から日本は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかったため改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)。政治的平等については、朝鮮人に対しても内地に居住してさえおれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。朴春琴の様に朝鮮人として衆議院議員に選出された事例もある。かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた(ただし、あくまでも制限選挙ではあった)。日中戦争から太平洋戦争にかけては日本内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本側はその要望に答えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、改名は任意だった。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また共産主義者の弾圧にしても朝鮮人のみならず日本人に対しても行われており、これも差別はなかった。 | 日本人は朝鮮人を蔑視していた。その象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。日本の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく朝鮮人の反乱を恐れた為である。政治的平等については外地には選挙区が設置されず朝鮮から本国への議員選出は不可能だった。内地の選挙区から出馬すれば国政に参加出来るがそれには内地の住人からの支持を受ける必要があったので、朝鮮人の代議士が存在したとしても本国の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮の民意を国政へ反映させる事は制度的に不可能だった。外地の朝鮮人は国政への参政権を持たない代わり兵役の義務を負わなかったが労役の義務は負っていた。国政に関与出来た内地の日本人にとって国民徴用令に基づく労役は正当な義務だったが、関与できない外地の朝鮮人には不当だった。1945年4月の改正選挙法で外地からも国政に出馬出来る様になったが、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名と大きく制限されていた。官公庁や軍に朝鮮人が採用されても多くは下級職であり昇進の道は日本人と比較にならないほど狭かった。これらは総動員体制下で唱えられた一視同仁や内鮮一体などの美麗字句が単なる建前だった証拠である。朝鮮人への蔑視は継続して様々なメディアに現れており激化する一方だった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に朝鮮において根強かった。この差別思想は総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国に対して朝鮮に植民した日本人(本国にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を具体的に報告することで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。 |
解放後 | 日本は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政のプロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は日本国政府が関与しないところで金日成の奇襲によって起きたのだから、何もかも日本統治が原因だとするのは筋違いである。また1965年(昭和40年)の日韓基本条約には過去の賠償責任問題については「完全かつ最終的に解決した」とする条文があり、同条約によって日本は朝鮮に投資した資本及び個別財産の全て(GHQ調査で52.5億ドル)を放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助した。同条約を韓国国民に周知しなかったのは当時の韓国政府の側に責任がある。また韓国政府はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)を支払っている[131]。補償金の額については日本政府は関与していない。
→詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
半島の分断については、当時日本は連合国軍最高司令官総司令部に占領統治されていて、国家主権をもっておらず、分断にはまったく関与していない。1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印による日本の朝鮮半島統治は終了直後から北緯38度線以南を米国に、38度線以北をソ連に占領され、両国の軍政支配を受けたのであり、その後、米ソ両国が朝鮮の信託統治実現を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を開始した結果、1948年(昭和23年)8月15日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁軍政下地域単独で大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立したのである。 |
南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農および知識人層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。日本帝国による植民地支配の結果、朝鮮半島は1945年(昭和20年)の解放と同時に分断された。日本は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功した。朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。日本は朝鮮半島分断の原因となると共に、朝鮮半島分断により恩恵を蒙った。それゆえ日本は朝鮮半島の分断と朝鮮戦争に歴史的な責任を負う[114]。日本の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本国人もいる。北朝鮮は戦後の日本国の行為について謝罪と償いを求めており、1990年(平成2年)には金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党の三党間で「南北朝鮮分断後45年間についての補償」が約束された」[132]。日本国内の革新派・韓国内の左派ともに、日本国政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓基本条約締結によって日韓問題は全て解決済み」として一方的に現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している。 |
日韓基本条約による諸問題の清算
1965年(昭和40年)、日韓両国にて交わされた日韓基本条約において、1910年(明治43年)8月22日以前に両国において交わされたすべての条約、協定はもはや無効であることが「確認」され、日韓併合は無効化された。また、同条約において日本は巨額の資金協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、いずれも1965年(昭和40年)当時額)を韓国に対して行い、それと引き換えに下記の点が確約された。
- 両締約国は、両締約国及びその国民(法人含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。(個別請求権の問題解決。)
- 一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。(相手国家に対する個別請求権の放棄。)
しかし、事後も韓国からの「賠償要求」は発生しつづけている(以下の#近況を参照)。
近況
2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した[133][134]。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。
2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った[135]。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た[136]。
2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた[137][114]。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている。[138]
併合条約の合法性
日韓両国の見解
- 第二次世界大戦後の日本側は韓国併合に関しては韓国併合ニ関スル条約の締結自体合法であったと考えている。
- 第二次世界大戦後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として成立した両政府とも、「韓国併合ニ関スル条約は日本と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、日本による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効である」と主張している。
この点について、日本国と大韓民国の間で1965年(昭和40年)の国交回復時に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に日本と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。しかし、両国でこの条文に関する解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない[139]。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。他方、韓国側ではこの日韓基本条約さえも無効とする勢力もある。
国際法からの観点
英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている[106]。
注釈
- ^ 今日の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域。旧韓国、朝鮮国(李氏朝鮮)領域。間島については一部に領有権について主張がある。
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- ^ 李氏朝鮮時代も土地売買は可能であり経国大典(1460年)や続大典(1744年)で届出制を規定していたが、これら官許方式は衰退し民間同士での私的売買が横行しており公証機能が衰退していた。『最新韓国実業指針』岩永重華(宝文館明治37年)や雑誌『韓半島』第2年2号(明治35年)などは朝鮮末期の不動産売買や制度の混乱について記録している。
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- ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば(植民地の)此文字の我國で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、外國の政治、經濟や、植民に關した學説の輸入されて以來であらう。其れ故新しい教育を受けた青年は兎に角、明治以前の空氣に多く包まれた人の頭には、植民地と云ふ文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。隨て、植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた處で、
虻 が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは、二十七八年、三十七八年に於ける、二大戰役の賜物で、此戰役以前、新領土といふ文字は、あまり繰返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先づ植民的知識をいへば、其は北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本國民に、植民の意味を、朧氣ながらも、先づ教へた處の鐘の音であるのである。—全國新聞東京聯合社編、『日本植民地要覧』日本経済新誌社、1912年11月、p.2 - ^ a b 矢内原(1926)、pp. 17-25
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- ^ 朝鮮総督府官制により、内閣総理大臣を経て天皇に直奏すれば良いとされていた。統治権は朝鮮総督府が総攬しており、「協力的朝鮮人」や朝鮮在住日本内地人においても朝鮮での参政権は付与されなかった(ただし1931年(昭和6年)から地方議会開設)。朝鮮総督府は独自の立法権(課税権を含む)と限定的な課罰権を付与されていたが(朝鮮総督府官制4条)、その他は内地の帝国議会による立法その他が適用された。内地の行政庁は朝鮮総督府への指揮権限を持たないとされたが、実務においては拓務省や内務省、あるいは陸海軍省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。
- ^ 参政権については内地に居住していれば内地戸籍者と同等であった。しかし徴兵に関する義務(徴兵に応ずる権利)や朝鮮籍女性が米国人や中国人など第三国国籍の男性と結婚して日本国籍を離脱する権利などが制限されていた(規定が存在しなかった)。
- ^ 後述。高麗大学名誉教授・政治学者韓昇助の事例など。
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関連項目
- 韓国併合再検討国際会議
- 国家の独立における白紙の原則
- 条約に関する国家承継に関するウィーン条約
- 朝鮮の歴史観 - 歴史教科書問題
- 日本統治時代の朝鮮
- 日本の戦争賠償と戦後補償
- 韓日合邦を要求する声明書