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「野球界の永久欠番」の版間の差分

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||22||[[李萬洙]]||野手||2003年||チーム一筋の捕手で韓国史上に残るスラッガー。三星ライオンズで'''22'''を使用した唯一の人物である。
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2020年8月13日 (木) 02:40時点における版

野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、野球の競技者・関係者などに対して適用される永久欠番について述べる。

概要

野球界における永久欠番の歴史は1939年MLBアメリカン・リーグニューヨーク・ヤンキースルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされのちに「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる筋萎縮性側索硬化症で引退を余儀なくされたが、戻ってくるまで他の誰にも使わせずに開けておくとする事でチームに居続けることができるとして歓喜した[注 1]

当初はあくまでもゲーリッグだけの措置であったが[注 2]ナショナル・リーグニューヨーク・ジャイアンツ1944年カール・ハッベル11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となった事で、徐々に広がり各チームが永久欠番を導入していった。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスなど多くチームは、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。

1997年4月15日20世紀以降での初の黒人選手としてメジャーリーグでプレー[注 3]し、その後の黒人選手がMLBでのプレーできる道を切り開いたジャッキー・ロビンソンを顕彰し、MLBはマイナーリーグを含めたMLB傘下すべてのチームで42をロビンソンの番号として永久欠番に指定した。従来から使っていた選手のみが引退まで移籍時も含めて継続して使用することを認められ、制定当時は選手・コーチを含めて該当者が20人前後いたが、MLBで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった。

その他マイナー・リーグにおいても永久欠番が独自で制定されている[注 4]

日本のプロ野球においてもかなり早い段階で導入している。読売ジャイアンツでプレーしていた黒沢俊夫が1947年6月23日に腸チフスにより33歳の若さで急死。それを受けて1947年7月9日に沢村栄治の「14」とともに「4」が日本プロ野球として初めて永久欠番に指定された。なおこの時点でMLBで永久欠番に指定されていたのは上述のゲーリッグの「4」とハッベルの「11」のみである[2]

メジャーリーグベースボールの永久欠番

日本プロ野球(NPB)の永久欠番

現在の永久欠番

dagger 野球殿堂表彰者
チーム 番号 欠番対象者 ポジション 制定年月日 備考
読売ジャイアンツ 1 王貞治dagger 内野手 1989年3月16日 1980年の現役引退後、助監督・監督時代(1981年 - 1988年)も使用している。
3 長嶋茂雄dagger 内野手 1974年11月21日 第2期監督時代の2000年 - 2001年にも使用している[注 5]
4 黒沢俊夫 外野手 1947年7月9日 日本野球界初の永久欠番の一つ。1947年のシーズン途中に現役のまま腸チフスで急死。
14 沢村栄治dagger 投手 1947年7月9日 日本野球界初の永久欠番の一つ。引退する1943年まで使用していたが翌年に戦死。1946年今泉勝義坂本茂が使用。
16 川上哲治dagger 内野手 1965年1月18日 1958年の現役引退後、コーチ・監督時代(1959年 - 1964年)も使用している[注 6][注 7]
34 金田正一dagger 投手 1970年4月2日
阪神タイガース 10 藤村富美男dagger 内野手 1958年11月30日 球団創設メンバーとして10を着用しその後引退とともに永久欠番とされた。
選手の背番号としてはNPB史上唯一、阪神で背番号10を着用した経験を持つ選手は藤村のみである[注 8]
11 村山実dagger 投手 1972年11月2日 第2期監督時代の1988年 - 1989年にも使用している[注 9]
23 吉田義男dagger 内野手 1987年10月13日 1969年の現役引退以降、相応しい人物の入団まで欠番とされたが、
結局使用した選手がいないまま、1987年の第二次監督退任に伴い正式に永久欠番に制定された[注 10]
中日ドラゴンズ 10 服部受弘 投手 1960年3月20日 二軍監督時代の1977年にも使用している。
15 西沢道夫dagger 内野手 1959年3月15日 ヘッドコーチ・監督時代の1963年 - 1966年にも使用している[注 11]
広島東洋カープ 3 衣笠祥雄dagger 内野手 1987年9月21日 [注 12]
8 山本浩二dagger 外野手 1986年10月27日 第2期監督時代の2001年 - 2005年にも使用している[注 13]
15 黒田博樹 投手 2016年11月1日 2008年のMLB移籍から、2015年に広島に復帰するまでの間も欠番となっていた[3]
埼玉西武ライオンズ 24 稲尾和久dagger 投手 2012年7月4日 1970年の現役引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付けていた[注 14]
その後、40年の時を経て欠番に指定された[注 15]
北海道日本ハムファイターズ 100 大社義規dagger オーナー 2009年2月1日 2009年度の野球殿堂入りを記念し、永久欠番に制定した[注 16]
東北楽天ゴールデンイーグルス 10 その他 2004年12月17日 スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人の意味[注 17][注 18][注 19]
77 星野仙一dagger 監督 2018年3月26日 NPB初の「監督」の永久欠番である[注 20]
解消した永久欠番
  • 近鉄バファローズ鈴木啓示の現役引退を機に、1985年7月31日に1を永久欠番に指定したが、2004年の近鉄とオリックスとの合併を受けて、相談された鈴木本人が永久欠番継続を辞退したために[4]2004年限りで解消された。
  • 横浜ベイスターズは1997年11月11日に球団に対して貢献のある複数の著名人として100を著名人の番号として制定したが、すぐに有名無実化してしまい、2013年に経営権がDeNAになった際に、育成選手の今井金太が使用するなど解消された。

名誉番号(準永久欠番)

偉大な功績をあげた選手が退団する際、その功績を讃え着用していた背番号を「名誉番号」「準永久欠番」として、前任選手や球団の「預かり」という形で一定の期間空き番号としておく場合がある。MLBにおいては「Honored(Honouerd) Number」と称されている。

名誉番号については、移籍によって退団した選手が再び球団に戻ってきたときに備えて欠番としておく場合や、その番号を「継承」するにふさわしい選手の台頭を待つことを目的とする場合、永久欠番とすることを検討したものの前任選手本人に固辞されたり反対意見があったりなどして正式決定に至らなかった時や、不慮の死などに見舞われた選手やコーチへの追悼の意味を込めてその背番号を凍結する場合などがある[5]

また球団によっては、その「継承」に関して一般的な名誉番号とは一線を画す一定の明確な条件を持つ背番号も存在する(横浜DeNAベイスターズ18[注 21]東京ヤクルトスワローズ1[注 22]など)。

継続中の名誉番号(通算5年以上のみ)

対象番号が現役球団関係者より「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」と公式に表明され、かつ通算5年以上欠番状態が続く番号、もしくは長期間欠番状態が続く、事実上の永久欠番の番号を記載。

チーム 番号 欠番対象者 ポジション 欠番期間 備考
読売ジャイアンツ 55 松井秀喜dagger 外野手 2003年 - 2003年MLBに移籍後、2009年から13年まで大田泰示が着用。その他の期間は2012年に現役を引退した後も、
正式な永久欠番にはなっていないが[9]、現在も欠番状態が続いている[10]
阪神タイガース 6 金本知憲dagger 外野手 2013年 - 2012年の現役引退の際に永久欠番にすることが検討されたが、金本が固辞した事もあり見送られた[注 23][11]
2016年に金本が監督就任した際に再び着用したが、2018年限りで退任した後は再び「ふさわしい選手が出てくるまで」欠番となっている[12]
東京ヤクルトスワローズ 6 宮本慎也 内野手 2014年 - 2013年で現役引退後、ふさわしい選手が出るまで欠番指定された。
27 古田敦也dagger 捕手 2008年 - 2007年での現役引退後、正捕手の番号[注 24]として、球団と古田本人のいずれかが推薦する捕手が出るまで欠番となった。
2009年に相川亮二が移籍した際に提示されたが本人が辞退し、現在でも10年以上に渡って欠番状態が続いている。
オリックス・バファローズ 7 福本豊dagger 外野手 2017年 - コーチ・二軍監督時代の1989年 - 1990年にも使用。その後は2000年まで欠番となっていたが、
2001年に横浜から移籍した進藤達哉が福本公認の下で着用したことをきっかけに、2016年まで断続的に使用された[注 25]
2017年に着用していた糸井嘉男が移籍して以降は、再び特別な番号として「ふさわしい選手が現れるまで」欠番状態が続いている[13]
51 イチロー 外野手 2001年 - MLB移籍後、そのまま誰も使用しないまま、2019年シアトル・マリナーズで現役を引退。
それを受け、球団は改めて「事実上の永久欠番」としての扱いを継続する事を表明した[14]
北海道日本ハムファイターズ 11 ダルビッシュ有 投手 2017年 - ダルビッシュのMLB移籍後、1年空けて新入団の大谷へ継承された。
大谷のMLB移籍後、球団は「2人に匹敵するスター選手が登場するまで」として連名での半永久欠番とすることを表明した[15]
大谷翔平 投手・指名打者
86 大沢啓二 監督 1995年 - 2010年に死去した際に永久欠番にすることも検討されたが[10]、球団方針の「選手や監督らの恒久的な永久欠番を制定しない」もあり見送られたものの[16]
現在も欠番状態が継続中である。なお東急、東映などの前身球団を含めて、球団史上86は大沢しかつけていない。
福岡ソフトバンクホークス 15 藤井将雄 投手 2001年 - 2000年10月に現役のまま病死。その後も15を使用した選手は一人もおらず、チーム名がソフトバンクに変わった現在も欠番のままである[17]
89 王貞治dagger 監督 2009年 - 2008年限りでの監督退任後、永久欠番化も検討されたが王本人が辞退[10]。その後も10年以上に渡って欠番状態が続いている。
東北楽天ゴールデンイーグルス 18 田中将大 投手 2014年 - 2014年にMLB移籍後、ふさわしい選手が現れるまで欠番となった[18]

かつて欠番指定されていた番号

  • 31 - 掛布雅之(内野手)2014年 - 2015年、2018年
    • 1988年に引退した後、背番号については欠番に指定することなく萩原誠広澤克実濱中おさむ林威助の4人が着用していたが[注 26]、2014年に林威助の退団と同時に掛布がゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)として阪神に復帰したことを機として、掛布の後を継ぐに足る選手の台頭するまで31を凍結する方針を固めた[19]。2016年に掛布が二軍監督に就任した際に着用し、2017年シーズン限りでの退任後再び欠番となった後、2019年からはジェフリー・マルテが着用している[注 27]
  • 53 - 赤星憲広(外野手)2010年 - 2013年、2015年 - 2017年
    • 赤星の引退は試合中の怪我による電撃的な引退であったこともあって欠番としていたが[20]、2014年途中に入団した投手の建山義紀が着用[21]。建山が同年限りで引退した後は再び欠番となり、2018年からは赤星と同じく「ドラフト4位で入団した左打の俊足外野手」である島田海吏に継承された[22]
  • 13 - 岩瀬仁紀(投手)2019年
    • 2018年の引退後、「後継者にふさわしい選手が台頭するまで空き番号とする」こととなり1年間欠番となったが[23]、2020年からは新入団の橋本侑樹に継承された。
  • 2 - 城島健司(捕手)2006年 - 2009年
    • 城島のMLBへの移籍と共に将来的な復帰を想定して凍結していた。しかし2010年に日本球界復帰の際に城島がソフトバンクではなく阪神に移籍した事で球団として欠番指定を解消し、城島の高校の後輩に当たる今宮健太が着用[24]
  • 9 - 小久保裕紀(内野手)2004年 - 2006年
    • 2003年シーズン終了後に巨人へ無償トレードした際に、将来的な復帰を想定して「監督預かり」としており[17]、小久保がホークスに復帰した2007年から引退する2012年まで再び使用した。引退後は3年間欠番になった後、2015年に柳田悠岐が継承した。
  • 3 - 大下弘(外野手)1960年 - 1967年
    • 1959年限りで引退した際「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。またその際には大下選手の同意を求める」という当時の西亦次郎球団社長の意向で当分の間欠番としていたが[25]、 1968年に大下が古巣・東映フライヤーズの監督に就任し、さらに背番号3をつけた事で自ら背番号を返上、その年に中日から移籍した広野功が使用する事になった[注 28]
  • 6 - 中西太(内野手)1970年 - 1973年
    • 1969年の引退後、相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1972年暮れに西鉄から福岡野球株式会社(「太平洋クラブライオンズ」)への売却後に「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と、当時の稲尾和久監督の推薦で菊川昭二郎33から変更)が使用した。
  • 27 - 伊東勤(捕手)2004年 - 2006年、2011年
    • 2003年の現役引退及び監督就任に伴い、自らが後継者として認める正捕手が出るまで欠番とした。その後、2006年に細川亨、細川の移籍後、1年の空白を置いて2012年に炭谷銀仁朗が継承。しかし、2019年に炭谷のFA移籍に伴う人的補償で巨人から加入した投手内海哲也がそのまま着用したため、現在は事実上捕手の背番号ではなくなっている。
  • 1 - 前田智徳(外野手)2014年 - 2018年
  • 7 - 野村謙二郎(内野手)2006年 - 2012年
  • 9 - 緒方孝市(外野手)2010年 - 2013年
  • 20 - 北別府学(投手)1995年 - 2002年
    • 4人共、引退時に球団の「名誉番号」として預かり番号の指定をされ、本人推薦の元で継承されたもの。
    • 20は2003年に永川勝浩7は2013年に堂林翔太9は2014年に丸佳浩1は2019年に鈴木誠也[26]にそれぞれ継承された。
    • その後、20は永川の引退・コーチ就任(74に変更)で、9は丸の巨人への移籍で再び空き番となっている。
  • 8 - 大杉勝男(内野手)1984年
    • 引退時の1983年11月9日に「保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた」と発表[注 29]。1年の期間をおいて、1985年から広沢克己に継承された。
  • 19 - 野村克也(監督)2010年 - 2016年
    • 2009年限りで監督を退任した際に名誉監督というポストで永久欠番とすることが提案されたものの[27]、正式な発表がなされないまま欠番扱いの状態が続いたまま、2017年から藤平尚真が着用している[28]

その他

  • 90 - 景浦安武(外野手)1973年 - 2015年、2020年 -
    • 景浦は水島新司の野球漫画『あぶさん』に登場する南海ホークスの架空の主力選手。
    • 背番号90を着用していたことから、1973年の連載開始とともに連載に合わせる形で球団は南海からダイエーを経てソフトバンクに至るまで90を凍結していた。2014年の連載終了後、永久欠番にすることも考慮されていたが、水島の了解を得た上で2016年からロベルト・スアレスが着用[29]、40年以上にわたる欠番状態が解消された。スアレスが2019年限りで退団して以降は再び空き番となっている。
  • 26
    • 2005年よりファンのための番号として事実上の永久欠番にしている。これはベンチ入り25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味[30]。試合中、ベンチには26のユニフォームが飾られており、ホーム開幕戦での始球式で登板した人物が着用することがある。またロッテのファンクラブの名称も「TEAM 26」である。

韓国プロ野球界の永久欠番

韓国では、1986年にOBベアーズ(現・斗山ベアーズ)に捕手として在籍していた金栄伸54を制定したことに始まる。

チーム 番号 欠番対象者 ポジション 制定年月日 備考
サムスン・ライオンズ 10 梁埈赫 野手 2010年 韓国プロ野球初の2000安打達成者で、安打などの個人通算記録を複数保持。
22 李萬洙 野手 2003年 チーム一筋の捕手で韓国史上に残るスラッガー。三星ライオンズで22を使用した唯一の人物である。
36 李承燁 一塁手 2018年 韓国最年少で300本塁打とシーズン56本塁打のアジア記録(当時)を樹立。2004年に千葉ロッテマリーンズ移籍により指定。2012年、チーム復帰により再使用し、2017年限りで現役を引退した。
ロッテ・ジャイアンツ 11 崔東原 投手 2011年 1983年 - 1990年に韓国プロ野球で活動。1984年韓国プロ野球最優秀選手、韓国シリーズ4勝記録。通算103勝26セーブ、1019奪三振記録。2011年9月14日に大腸癌のため53歳で逝去。同月30日に指定。
LGツインズ 4 金龍洙 投手 2011年 通算227セーブ、251セーブポイントはともに当時の韓国記録。
9 李炳圭 外野手 2011年 LGツインズ史上初めて通算2000安打(韓国プロ野球のみの記録)を達成。「赤兎馬」のニックネームで看板打者として活躍。
斗山ベアーズ 21 朴哲淳 投手 2002年 長年チームを支えたエースで、韓国プロ野球初年度に樹立した22連勝は韓国記録。
54 金栄伸 捕手 1986年 ロサンゼルス五輪韓国代表で出場経験を持つ期待の若手捕手であったが、1986年水難事故により逝去した事をきっかけに韓国球界初の永久欠番に指定された。
起亜タイガース 7 李鍾範 内野手 2012年 ヘテタイガース・起亜タイガースの主力選手としてのみならず、中日ドラゴンズやWBC韓国代表でも活躍した。2012年4月、引退を機に指定。
18 宣銅烈 投手 2002年 韓国史上最高投手と呼ばれ、1999年の中日ドラゴンズでの現役引退後、欠番となっていた。2001年途中のヘテからの身売りの際に「宣銅烈の18を返上、新人投手に与える」と発表したが、猛反発を招き撤回を経て、2002年1月28日に正式に指定。
ハンファ・イーグルス 21 宋津宇 投手 2009年 21年間韓国プロ野球で活動。通算最多である3003イニング、210勝、2048奪三振記録。2009年9月22日に指定。
23 鄭珉哲 投手 2009年 宋津宇に次ぐ通算記録2位の161勝を挙げる。読売ジャイアンツにも在籍。引退と同時に宋津宇と共に指定。
35 張鍾勲 内野手 2005年 3シーズン連続本塁打王(1990 - 1992)、通算340本塁打を記録。テスト生から這い上がったその生い立ちは「練習生神話」と呼ばれた。2005年9月15日の引退試合と共に指定。
SKワイバーンズ 26 朴勍完 捕手 2014年 サンバンウル・レイダース現代ユニコーンズ、そしてSKワイバーンズの正捕手として韓国球界最長の23年間選手生活を続けた。2014年4月、引退を機に指定。

台湾プロ野球界の永久欠番

チーム 番号 欠番対象者 ポジション 制定年月日 備考
中信兄弟 67 曽紀恩中国語版 監督 2012年 初代監督。球団社長も務めた。2012年3月25日指定。
富邦ガーディアンズ 85 徐生明中国語版 監督 2013年 台湾史上初の700勝を挙げる名監督であったが、2013年前期優勝の後、後期の試合後に心筋梗塞で急逝。

2012年シーズン前に、中信兄弟の前身である兄弟エレファンツの林易増中国語版の4(2001年~)、王光輝中国語版内野手の26(2008~)、統一ライオンズ曽智偵中国語版捕手の10(1999~)の永久欠番指定を一斉に解消している。その後兄弟エレファンツは2012年3月25日に初代監督である曾紀恩の番号「67」を改めて永久欠番を制定。

同じく富邦ガーディアンズの前身である、興農ブルズ時代に10がファンの番号、17黄忠義中国語版二塁手の番号として2009年に永久欠番に指定されていたが、2012年に義大ライノズに買収された際にチーム一新として消滅した。

日本の独立リーグの永久欠番

四国アイランドリーグplusベースボール・チャレンジ・リーグでも永久欠番を制定している球団が存在する。また、日本独立リーグ野球機構に所属していないが、関西独立リーグ (2代目)(旧・BASEBALL FIRST LEAGUE)の球団についてもここで取り扱う。

四国アイランドリーグplusの永久欠番

高知ファイティングドッグス
愛媛マンダリンパイレーツ
  • 77弓岡敬二郎(監督)[34] 2016年11月25日
    チーム初のリーグ総合優勝、独立リーグ日本一、前後期優勝とリーグ総合優勝を合わせた完全優勝を達成。2016年監督退任並びにオリックス・バファローズへのコーチ復帰時に永久欠番に指定された。

ベースボール・チャレンジ・リーグの永久欠番

リーグ全球団
  • 10
    リーグ発足前年、急死した新潟県在住の少年野球選手が生前「新潟のプロ野球球団を応援したい」という思いを抱いていたことを遺族の手紙でリーグ創設者の村山哲二が知り、それを励みにリーグを実現させたことから、少年が所属していた野球チームでキャプテンが使用する番号(少年が付けることを望んでいた)をリーグ全球団の永久欠番としている[35]。リーグ発足当初は新潟アルビレックス・ベースボール・クラブだけが永久欠番としていた[36]。2014年の時点では欠番に指定していたのは新潟と信濃グランセローズであった[37]。この段階では10番を付けた選手が在籍する球団があったが、2015年の開幕前に石川ミリオンスターズ[38]および群馬ダイヤモンドペガサス[39]の該当選手が番号を変更したことで、このシーズンよりリーグに10番の選手はいなくなった[40]
新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ
石川ミリオンスターズ
  • 12木田優夫(投手) 2014年9月14日
    プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
  • 34森慎二(監督・コーチ・投手)[41] 2017年9月2日
    監督としてチームを初の独立リーグ日本一に導く。2017年、西武コーチ在任中に急逝し、永久欠番指定された[41]

関西独立リーグ (2代目)の永久欠番

兵庫ブルーサンダーズ
  • 17山川和大(投手)[42] 2016年12月28日
    2016年のドラフト会議で巨人に育成選手指名され、入団決定。
  • 27薬師神真之(内野手)[42] 2016年12月28日
    2016年のシーズン中に現役のまま急逝[43]。「活躍、ならびに志と高い人間性に敬意を表して」決定された[42]
  • 50向谷拓巳(内野手)[42] 2016年12月28日
    2016年のドラフト会議で楽天に育成選手指名され、入団決定。
  • 66山崎章弘(監督)[42] 2016年12月28日
    チーム創設以来指導に携わり(当初はコーチ、2013年より監督)、監督時代は毎年優勝またはそれに準じる成績をあげた。なお、2019年の再任に際して再度着用した(同年限りで退任)。
  • 77田中耀飛(外野手)[44] 2017年12月25日
    2017年のドラフト会議で、リーグ史上初の支配下登録枠で楽天に指名され、入団決定。

日本のアマチュア野球の永久欠番

日米大学野球選手権大会日本チーム(現・侍ジャパン大学日本代表)

國學院大學東都大学野球連盟

  • 38彬子女王皇族三笠宮家)
    2016年に同学の特別招聘教授に就任し、同年9月21日の秋季リーグ戦(対東洋大学)にて始球式を務めたことによる。38は「宮(ミヤ)家」にちなむ。

創価大学東京新大学野球連盟

  • 15:鳥居輝之(投手)1992年 - 2015年
    3年時の1992年2月10日に病没。2015年秋季より田中正義がつけるまで監督の岸雅司が欠番としていた[45][46]

女子プロ野球の永久欠番

埼玉アストライア

野球ナショナルチームの永久欠番

野球中華民国代表
野球アメリカ合衆国代表
野球プエルトリコ代表
野球ベネズエラ代表

脚注

注釈

  1. ^ 引退の際、 "Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth."(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している
  2. ^ ベーブ・ルースの「3」は1934年の退団から13年間で合計7人の選手が着用していた。
  3. ^ ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグ最初の黒人選手であると誤解されがちだが、実際にはアフリカ系アメリカ人のモーゼス・フリート・ウォーカーが1884年にトレド・ブルーストッキングスでプレーしているのでこちらが確認できる最初の黒人選手である。
  4. ^ 例えば読売ジャイアンツでプレーしたこともあるジェフ・マントトロント・ブルージェイズ傘下AAA級チームであるバッファロー・バイソンズにおいて優れたリーダーシップによって優勝に貢献したとして、彼が着用していた「30」が永久欠番に指定されている[1]
  5. ^ 第1期監督時代は90、第2期監督時代の1993年 - 2000年33を着用。
  6. ^ 監督時代の1965年 - 1974年77を着用。
  7. ^ 1946年の一時期のみ水野忠彦が着用。
  8. ^ MLBではヤンキースの4が同様にゲーリッグのみの番号となっている他、NPBでは大沢啓二日本ハムファイターズの監督に就任した際に球団史上初めて86を着用し退団後より準永久欠番扱いされているという事例がある。
  9. ^ 第1期監督時代は選手兼任だったため、背番号はそのまま11背番号11にまつわるエピソードも参照。
  10. ^ 第1期監督時代は1を、第2期監督時代は81を、第3期監督時代は83を着用。永久欠番に制定されている球団の監督を務めながら、その番号は使用しなかった。
  11. ^ 1967年68を着用。また、現役時代の1938年 - 1946年17を着用。
  12. ^ 1975年に変更されるまでは28を着用。
  13. ^ 第1期監督時代は88を着用。現役時代に1971年に変更されるまでは27を着用。
  14. ^ 1973年 - 1974年の監督時代は81を着用。
  15. ^ 稲尾の退団から欠番指定までに24を着用したのは古賀正明トニー・ミューサー小川史秋山幸二ジョージ・ブコビッチ平野謙小野和義金村義明眞山龍松永浩典ライアン・マルハーンの11人。
  16. ^ それまでは日本ハムファイターズ時代の1993年から2005年までは、マスコットの「ファイティー」が付けていた。また前身の東映フライヤーズ時代では、1962年に初優勝した時、当時のオーナー・大川博が「100」の背番号を付けたユニフォームを着用し、パレードなどに参加したことがあった。なお、東映製作による記録映画として『東映優勝 背番号100』が同年制作・公開されている。
  17. ^ 球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。なお、球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチはいない。なお、マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの1人として背番号10を着用している。
  18. ^ ちなみに日本のサッカークラブにおいては同様の発想でスターティングメンバーの11人に続く12人目のメンバーという意味である「12」をサポーターのための番号として欠番としているチームが多い。サッカー界の永久欠番を参照。
  19. ^ 当初は「東京六大学野球での主将の番号だった」という理由から西谷尚徳の背番号に内定していたが、「ファンのための欠番」となったことで入団発表直前に6に変更となった( 広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面)。
  20. ^ 川上哲治の「16」など、現役引退後に専任監督やコーチなどによる残留や復帰した時に当該人物が着用した例は上記のように複数あり、王貞治の1は巨人時代に選手・監督を通して一貫して着用していたが、「監督」としてのみ着用した背番号が永久欠番になった例はこれが初となる(星野は現役時代は中日で2220を着用していた)。
  21. ^ 2016年の三浦大輔の現役引退に際し、背番号「18」を「横浜ナンバー」と称して「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき存在の選手が付ける番号[6]とし、その後はDeNAに投手コーチとして復帰した三浦自身が、2019年から再び着用している。
  22. ^ 1989年の若松勉の現役引退に際し、原則として「球団生え抜き、かつそれに見合う実績を挙げた選手」が「ミスタースワローズ」の称号とともに継承する番号とした[7][8]。その後、池山隆寛(1992 - 99)、岩村明憲(2001 - 06)、青木宣親(2010 - 11)、山田哲人(2016 - )と引き継がれている。
  23. ^ 金本の固辞の他にも、本拠地球場である阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では「栄光の背番号」として紹介され、金本以前にも景浦將藤田平和田豊など歴代の名選手が代々背負ってきた番号である事から球団内外でも6を金本「のみ」の番号にする事に対して反対意見が多かったことも理由である。
  24. ^ 国鉄時代の根来広光以後、加藤俊夫大矢明彦、古田と歴代の正捕手が継承してきた。
  25. ^ 使用したのは進藤、日高剛水口栄二濱中治赤田将吾、糸井の6人。
  26. ^ 特にヤクルト・巨人で主軸打者として実績のあった広澤は球団から「掛布のイメージを払拭して欲しい」という要望を受け着用している。
  27. ^ マルテが「31」を希望した際には、掛布自身はあくまでも「背番号は僕のものでもなんでもなく球団のもの」であるとして判断を球団に委任している(阪神の新外国人マルテに掛布氏背番号「31」で賛否
  28. ^ 当時の西日本スポーツ(1968年1月21日)は、「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が(昭和)36年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まった」と報じている。
  29. ^ 後年の文献・資料では「永久欠番」と記述している物も見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)の記事では「保留欠番」と記述されているため、本項もそれに従う。

出典

  1. ^ 大リーグ永久欠番物語 p69
  2. ^ プロ野球背番号を楽しむ小事典 p16
  3. ^ “広島が黒田背番号「15」半永久欠番に”. 日刊スポーツ. (2007年12月1日). http://hiroshima.nikkansports.com/baseball/professional/carp/p-rp-tp0-20071201-290023.html 2012年7月13日閲覧。 
  4. ^ 背番号にまつわるエトセトラ『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 31頁。
  5. ^ 西武が森慎二の「89」を準永久欠番に!!6月多臓器不全で急死「功労者。当分はそういう流れになる」
  6. ^ “【DeNA】引退・番長の背番号18は「横浜ナンバー」の準永久欠番に”. スポーツ報知. (2016年9月20日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160920-OHT1T50072.html 2016年10月26日閲覧。 
  7. ^ ヤクルト山田がミスター燕の「1」継承 出世番号「23」はひとまず空き”. ベースボールキング. 2016年10月26日閲覧。
  8. ^ フリーエージェントで加入した選手(大引啓次など)にも球団が誠意として提示したことがあるが、本人の側が辞退している(燕、大引に最大の誠意!“ミスタースワローズ”背番号1を提示 2ページ目 サンケイスポーツ (2014年11月14日) 2019年11月19日閲覧。)。
  9. ^ “永久欠番案”にG大田「55は僕の番号」 東スポweb 2013年4月6日
  10. ^ a b c プロ野球 永久欠番のタブー真相
  11. ^ 金本「6」永久欠番見送り…「誰が付けてもいい」本人の意向尊重 Sponichi Annex 2012年10月29日
  12. ^ 阪神 金本前監督の背番号6来季欠番に 球団幹部「ふさわしい選手が出てくるまで」 Sponichi Annex 2018年11月13日
  13. ^ オリックス 来季も背番号「7」は空き番 デイリースポーツ online 2017年11月14日
  14. ^ オリックス、イチローの「51」は事実上の永久欠番 日刊スポーツ 2019年3月22日
  15. ^ “ハム、大谷「11」は“半永久欠番” 次のスター登場まで空き番号”. スポーツニッポン. (2018年1月17日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/17/kiji/20180117s00001173053000c.html 2018年3月21日閲覧。 
  16. ^ “エースの象徴がたった1年で…ダル父 ハムの背番号“管理”疑問”. スポーツニッポン. (2012年12月10日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/10/kiji/K20121210004746600.html 2018年3月21日閲覧。 
  17. ^ a b 西日本スポーツ2005年1月30日付、スポーツ報知2005年1月30日付
  18. ^ 楽天 マー君背番号「18」半永久欠番に「重みは感じている」 スポーツニッポン 2014年1月9日
  19. ^ 【阪神】背番「31」15年ぶり欠番! 掛布DC自ら「2世」育てる - スポーツ報知、2013年11月11日付
  20. ^ スポーツニッポン2009年12月11日付
  21. ^ 背番号は赤星氏の53 建山「お断りしたいと伝えたんですが…」 スポーツニッポン 2014年6月26日
  22. ^ ドラ4島田、背番号は「53」 赤星二世に意欲「1つでも多く盗塁を」 デイリースポーツ online 2017年12月4日
  23. ^ 岩瀬の背番号「13」準永久欠番に ふさわしい後継者出るまで 中日スポーツ、2018年11月28日(2019年3月23日閲覧)。
  24. ^ ソフトB城島と決別!背番号「2」を解禁
  25. ^ 西日本スポーツ(野口正明『大下君ご苦労さん』)・西日本新聞読売新聞。1960年3月2日。
  26. ^ 広島鈴木誠也が背番1へ、前田智徳氏の引退後空き番
  27. ^ ノムさん背番「19」楽天の永久欠番に
  28. ^ 楽天ドラ1・藤平に栄光の背番「19」決定でボヤキ炸裂
  29. ^ 【ソフトB】新助っ人スアレス、球団初あぶさんの「90」背負う! - スポーツ報知2015年11月4日
  30. ^ 26番目の戦士たち | 千葉ロッテマリーンズ
  31. ^ 梶田主将「幸せな10年間」 - 読売新聞高知版2014年9月14日
  32. ^ FD・梶田宙選手の引退式にファン続々 - 高知新聞2014年9月14日
  33. ^ 10年目梶田が今季で引退 - 高知新聞2014年9月7日
  34. ^ 愛媛マンダリンパイレーツ球団初! 弓岡監督の背番号「77」を永久欠番に!!【チームからのお知らせ】 - 愛媛マンダリンパイレーツ(2016年11月21日)
  35. ^ MIKITO AED PROJECT - ベースボール・チャレンジ・リーグ
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  38. ^ 【2015年新入団監督・ヘッドコーチ・新入団選手背番号及び既存選手背番号変更】”. 石川ミリオンスターズ (2015年2月9日). 2017年10月13日閲覧。
  39. ^ 背番号変更のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2015年3月7日)
  40. ^ 出場選手登録 (PDF) - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2015年4月13日)
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  42. ^ a b c d e 永久欠番について - 兵庫ブルーサンダーズ(2016年12月28日)
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  44. ^ 永久欠番について - 兵庫ブルーサンダーズ(2017年12月25日)
  45. ^ “創価大・田中正義、あるぞ史上初の12球団競合”. ニッカンスポーツ. (2015年12月31日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1586132.html 2016年10月22日閲覧。 
  46. ^ “田中正義が背負う特別な背番号「15」”. デイリースポーツ. (2016年1月9日). http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2016/01/09/0008709045.shtml 2016年10月22日閲覧。 

関連項目