今泉勝義
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1926年1月2日[1] |
没年月日 | 2009年10月31日(83歳没) |
身長 体重 |
168[1] cm 60[1] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右[1]投左[1]打 |
ポジション | 遊撃手、外野手[2] |
プロ入り | 1944年 |
初出場 | 1944年4月29日[3] |
最終出場 | 1944年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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今泉 勝義(いまいずみ かつよし、1926年1月2日 - 2009年10月31日[4] )は、東京都出身のプロ野球選手(遊撃手、外野手)。
来歴・人物
[編集]旧制日本大学第三中学校在学中に、1940年夏[5]の甲子園に出場し、チームをベスト8に導く活躍を見せた。当時の監督に藤田省三(のち近鉄初代監督)、チームメイトに、坂本茂(のち巨人などでプレー)がいた。
中学卒業後の1944年に巨人に入団。4月29日の阪急戦(甲子園球場)で9番・遊撃手として先発出場した[3]。しかしプロの壁は厚く、この試合を含め2試合にしか出場できず、ヒットを打つことも出来なかった。終戦後の1946年に沢村栄治(1943年に現役引退。翌1944年に台湾沖で戦死)の後を引き継ぎ、背番号14を付けた。しかし、出場機会は無く6月3日までに退団した[6]。中学時代のチームメイトだった坂本茂が今泉の後を受けて、背番号14を着用。巨人軍で最後に背番号14を着用した選手になった(翌1947年7月9日、日本プロ野球初の永久欠番となった)。
巨人退団後は、社会人野球のいすゞ自動車と山形ハッピーでプレーした[7]。山形ハッピー在籍中、1950年の都市対抗野球に出場している。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1944 | 巨人 | 2 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 2 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:1年 | 2 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 2 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号
[編集]- 14 (1946年)
※1944年は、全球団で背番号なし。
脚注
[編集]- ^ a b c d e わたしはかめ・Data館(今泉勝義)
- ^ 野球回廊(巨人軍入団選手)
- ^ a b スタメンアーカイブ・1944年東京巨人
- ^ “OB NEWS Vol.62” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2014年7月). 2015年7月5日閲覧。
- ^ こだわり高校野球・東京都代表校の足跡(1940年)
- ^ 野球回廊(東京巨人軍登録選手(1946年))
- ^ 高校野球人国記・東京(1)日大三
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 今泉勝義 - NPB.jp 日本野球機構