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「恭淑皇后」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
韓同卿([[高宗 (宋)|高宗]]の皇后[[憲聖慈烈皇后|呉氏]]の妹の姻戚)と正妻の荘氏の次女。寧宗の下で権勢を振るう[[韓タク冑|韓侂冑]]の従兄の孫にあたる。
韓同卿([[高宗 (宋)|高宗]]の皇后[[憲聖慈烈皇后|呉氏]]の妹の姻戚)と正妻の荘氏の次女。寧宗の下で権勢を振るう[[韓侂冑]]の従兄の孫にあたる。


姉と共に後宮に入り、太上皇(高宗)と太上皇后(呉氏)の側にはべり、おっとりした従順な性格だったために可愛がられた。[[淳熙]]12年(1185年)8月に平陽郡王趙拡(のちの寧宗)と娶わせられ、新安郡夫人に封ぜられた。同16年(1189年)5月、趙拡の父の[[光宗 (宋)|光宗]]が即位すると、趙拡は郡王から親王に上ったので韓氏は崇国夫人に進んだ。[[紹熙]]5年(1194年)、寧宗が即位すると、皇后に冊立された。寧宗の寵愛を受け、また[[韓タク冑|韓侂冑]]の後盾になった。韓侂冑は皇后より2世代上の[[親族#尊属と卑属|傍系尊属]]であったが、年齢は近く、[[外戚]]として権勢を高めて人々の注目を集めた。対照的に実父の韓同卿は、おとなしく慎み深い性格で目立ったことはしなかった。
姉と共に後宮に入り、太上皇(高宗)と太上皇后(呉氏)の側にはべり、おっとりした従順な性格だったために可愛がられた。[[淳熙]]12年(1185年)8月に平陽郡王趙拡(のちの寧宗)と娶わせられ、新安郡夫人に封ぜられた。同16年(1189年)5月、趙拡の父の[[光宗 (宋)|光宗]]が即位すると、趙拡は郡王から親王に上ったので韓氏は崇国夫人に進んだ。[[紹熙]]5年(1194年)、寧宗が即位すると、皇后に冊立された。寧宗の寵愛を受け、また[[韓侂冑]]の後盾になった。韓侂冑は皇后より2世代上の[[親族#尊属と卑属|傍系尊属]]であったが、年齢は近く、[[外戚]]として権勢を高めて人々の注目を集めた。対照的に実父の韓同卿は、おとなしく慎み深い性格で目立ったことはしなかった。


韓皇后は2人の男子を産んだが、みな夭折した。後年、[[恭聖皇后|楊貴妃]]と寵愛を争ったといわれる。[[慶元]]6年11月7日(1200年12月14日)、崩御した。「淑」と[[諡]]された。
韓皇后は2人の男子を産んだが、みな夭折した。後年、[[恭聖皇后|楊貴妃]]と寵愛を争ったといわれる。[[慶元]]6年11月7日(1200年12月14日)、崩御した。「淑」と[[諡]]された。

2020年8月12日 (水) 06:33時点における版

韓皇后
南宋の皇后
在位 1194年7月25日 - 1200年12月14日

別称 恭淑皇后
出生 乾道元年(1165年
死去 慶元6年11月7日
1200年12月14日
配偶者 寧宗
子女 趙埈
趙坦
父親 韓同卿
母親 荘氏
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恭淑皇后(きょうしゅくこうごう、1165年 - 1200年)は、南宋寧宗の最初の皇后。姓は韓氏

生涯

韓同卿(高宗の皇后呉氏の妹の姻戚)と正妻の荘氏の次女。寧宗の下で権勢を振るう韓侂冑の従兄の孫にあたる。

姉と共に後宮に入り、太上皇(高宗)と太上皇后(呉氏)の側にはべり、おっとりした従順な性格だったために可愛がられた。淳熙12年(1185年)8月に平陽郡王趙拡(のちの寧宗)と娶わせられ、新安郡夫人に封ぜられた。同16年(1189年)5月、趙拡の父の光宗が即位すると、趙拡は郡王から親王に上ったので韓氏は崇国夫人に進んだ。紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、皇后に冊立された。寧宗の寵愛を受け、また韓侂冑の後盾になった。韓侂冑は皇后より2世代上の傍系尊属であったが、年齢は近く、外戚として権勢を高めて人々の注目を集めた。対照的に実父の韓同卿は、おとなしく慎み深い性格で目立ったことはしなかった。

韓皇后は2人の男子を産んだが、みな夭折した。後年、楊貴妃と寵愛を争ったといわれる。慶元6年11月7日(1200年12月14日)、崩御した。「淑」とされた。

男子

  • 趙埈 (1196年生没)
  • 趙坦 (1200年生没)

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『建炎以来朝野雑記』