明達皇后
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明達皇后(めいたつこうごう、元祐2年(1087年) - 政和3年7月22日(1113年9月3日))は、北宋の徽宗の寵妃。皇后を追贈された。姓は劉氏。明節皇后(同じく劉姓の追尊皇后)とは別人。
生涯
[編集]低い身分に生まれ、大観4年(1110年)に侍女として宮中に入り、寵愛を受けた。顕粛皇后と「母娘」の契りを結んだ。寿安郡君、才人、美人、婕妤となり、嬪、妃に進み、貴妃にいたった。
政和3年(1113年)7月、死去した。生前、芭蕉を庭院に植えて、「これが長くなる時、私はもういません」と言った。彼女が病に倒れた際、徽宗は気がつかず、見舞いに行かなかった。死後に徽宗は後悔し、哀泣してやまなかった。
諡は初め、明達懿文貴妃であった。まもなく明達皇后を追贈され、徽宗の父の神宗の永裕陵に従葬された。
子女
[編集]伝記資料
[編集]- 『貴妃劉氏追冊皇后御筆手詔』政和三年八月十九日
- 『宋会要輯稿』