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成粛皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
謝皇后
南宋の皇后
成粛皇后謝氏
在位 淳熙3年8月8日[1] - 淳熙16年2月2日
1176年9月12日 - 1189年2月18日

別称 成粛皇后、寿成皇后
寿成恵慈皇太后、寿成恵聖慈祐太皇太后
出生 不詳
鎮江府丹陽県
死去 開禧3年5月16日[2][3]
1207年6月13日
臨安府、寿慈殿
埋葬 永阜陵
配偶者 孝宗
父親 謝寧
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成粛皇后(せいしゅくこうごう)は、南宋孝宗の皇后。姓は謝氏

生涯

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鎮江府丹陽県の人[4]。実父の謝寧[3]を早くに亡くし、翟氏の養女となった。その後、後宮に入り、高宗の皇后呉氏の侍女を務めた[4]

紹興31年(1161年)、建王趙伯琮(後の孝宗)に側室[5]として与えられ、咸安郡夫人に封ぜられた[3][4]。孝宗が即位すると、婉容に封ぜられた[3]隆興2年(1164年)、貴妃に上った[3]。質素だが細やかな性格で、夏皇后と死別した孝宗に誠実に仕えた。淳熙3年(1176年)8月、太上皇(高宗)の薦めにより皇后に冊立され、元の姓氏を戻した[4]

淳熙16年(1189年)2月、孝宗は子の光宗に譲位して太上皇となった。紹熙元年(1190年)正月、謝氏は寿成皇后と呼ばれた[3]慶元元年(1195年)11月、寿成恵慈皇太后と加号した[6]。慶元6年(1200年)8月、寿成恵慈太皇太后となり[3]嘉泰2年(1202年)10月、寿成恵聖慈祐太皇太后と加号した[7]

開禧3年5月16日1207年6月13日)、寿慈殿にて崩御。「成粛」とされ[8]、孝宗の永阜陵に合葬された[3][9]

脚注

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  1. ^ 『宋史』巻34, 孝宗紀二 淳熙三年八月庚辰条による。
  2. ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年五月辛卯条による。
  3. ^ a b c d e f g h 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 成粛謝皇后の項より。
  4. ^ a b c d 『宋史』巻243, 后妃伝下 成粛謝皇后伝より。
  5. ^ これより少し前、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の郭氏は、郡王時代に早世した。
  6. ^ 『宋史』巻37, 寧宗紀一 慶元元年十一月戊戌条による。
  7. ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 嘉泰二年十月乙亥条による。
  8. ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年八月己巳条による。
  9. ^ 『宋史』巻38, 寧宗紀二 開禧三年九月乙酉条による。

伝記資料

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  • 宋史』巻243 后妃伝下 成粛謝皇后伝
  • 『宋会要輯稿』巻12 后妃一 成粛謝皇后