「朝鮮人日本兵」の版間の差分
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2020年8月8日 (土) 07:35時点における版
朝鮮人日本兵(ちょうせんじんにほんへい)は、大日本帝国陸海軍(旧日本軍)に所属し軍務に服した、朝鮮人の軍人。俘虜監視員など軍人に近い任務を行った軍属も含むことがある。
経緯
概要
最初に陸軍に朝鮮人が大量採用されたのは1910年に創設された憲兵補助員制度においてである。憲兵補助員は陸軍一等卒、二等卒に準じる処遇を受ける軍属とされた。1919年に憲兵警察制度が廃止されると憲兵補助員は朝鮮総督府警察の警察官に転官した。1938年に陸軍特別志願兵制度、1943年に海軍特別志願兵制度が導入された。
特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできず、朝鮮人の日本軍人は洪思翊に代表される、陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、李秉武のように旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者に限られていた[要出典]。また、海軍兵学校、海軍機関学校などの海軍の士官養成諸学校は、終始朝鮮人の入校を認めなかった[要出典]。1944年からは徴兵も行われた[1]。
日本統治下で軍務に関係する職に就き戦没者となった朝鮮半島出身者のうち、朝鮮人日本兵を含む約2万1000人が靖国神社に合祀されている[2][3]。
略年表
- 1872年(明治6年) 徴兵制度はじまる
- 1910年 日韓併合(韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号))
- 1917年 7月20日軍事扶助法(軍事救護法施行ニ関スル件(大正6年勅令第205号))
- 1918年 朝鮮軍人及朝鮮軍人遺族扶助令(大正7年勅令第299号)
- 朝鮮軍司令部条例(大正7年軍令陸第4号)
- 1921年 朝鮮軍軍法会議ニ関スル法律(大正10年法律第86号)
- 1938年
- 3月3日 陸軍特別志願兵領施行細則(陸軍政令第11号)
- 4月1日 国家総動員法(昭和13年法律第55号)→国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)抄録
- 4月2日 朝鮮総督府・陸軍病気志願者訓練所規定
- 朝鮮総督府・陸軍兵志願者訓錬所生徒採用規則→陸軍兵特別志願
- 5月4日公布(5月5日施行)国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件(昭和13年勅令第316号)
- 1941年 朝鮮総督府傷痍軍人療養所官制(昭和16年勅令第313号)
- 1943年 戦時行政特例法及許可認可等臨時措置法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件(昭和18年勅令第242号)
- 7月 27日 海軍特別志願兵令(昭和18年勅令第608号)
- 1944年
- 10月28日 軍需会社法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和19年勅令第605号)←軍需会社法(昭和18年10月31日法律第108号)
- 1945年 軍事特別措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第256号)
- 軍事特別措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第256号)
- 戦時緊急措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第377号)
- 1946年 朝鮮人、中華民国人、本島人及本籍ヲ北緯三十度以南(口之島ヲ含ム)ノ鹿児島県又ハ沖縄県ニ有スル者登録令(昭和21年厚生、内務、司法省令第1号)
- 1951年(昭和26年)
- 9月8日 対日平和条約調印(於:サンフランシスコ)
- 1965年 日韓基本条約調印(同年12月18日発効)
- 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定調印(同年12月18日発効)
- 同上協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律(法律第144号)公布(同年12月18日発効)
- 1987年 台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律(法律第105号)公布・施行
処遇
旧日本陸軍は朝鮮出身兵の処遇について次のような通達を出している。
- 食習慣の欠点は品性の陶冶と相俟ち漸を以て慣熟せしむるを要す。飲食物に対しては特に関心深く分配の分量、副食物等に対し淡白ならず且野外演習等に際し野卑なる行動を暴露することあり[4]。
- 朝鮮の歴史、伝統、風俗、習慣、生活様式、一般民度、思想傾向等を正常に理解すると共に学校其の他入隊前における教育の実情を把握しこれを教育指導上に利用すること極めて緊要なり而して之等事項の要点を下級幹部迄徹底せしめ置く事必要なるも此等特質を直ちに内地人的尺度を以て是非し或は先入主及蔑視感となさしめざる如く注意せざるべからず[4]。
- 朝鮮出身兵を中隊及内務班等に配当するに方りては広く内地兵間に稀散せしめ郷土的集結配当は極力之を避くるを要す又戦友の選定には特に意を用いるを要す[4]。
- 公文上必要あるもの以外にして特に区別して称呼する場合には半島(の人)(出身者)の語を用ゆるを可とす。また日本人と朝鮮人とを対立せしむるか如き使用は絶対に避け内地人と朝鮮人(又は半島人)と対せしむるを要す。「鮮人」の語は先入主的に蔑視の意に聴く風あり但し朝鮮人と称呼する場合に於いても発言者の気持ちを十分理解せしめ置くの要あるべし[4]。
- 賞罰の行使は特に公平厳正なるを要するも褒賞の実施に方りては性格上の通有的弱点に基く心情の機微を洞察すると共に懲戒に方りては一般の軍紀、風紀的見地のみならず民族的潜在意識との相関を重視し且懲戒後の指導に関し注意する事肝要なり[4]。
朝鮮人志願兵
選抜条件
志願者数
年度 | 志願者 | 入所者数 | 選抜率 | 志願倍率 |
---|---|---|---|---|
1938年 | 2946人 | 406人 | 16.2% | 7.3倍 |
1939年 | 12,348人 | 613人 | 4.9% | 20.2倍 |
1940年 | 84,443人 | 3,060人 | 3.6% | 27.6倍 |
1941年 | 144,743人 | 3,208人 | 2.2% | 45.1倍 |
1942年 | 254,273人 | 4,077人 | 1.6% | 62.4倍 |
1943年 | 303,394人 | 6,000人 | 1.9% | 50.6倍 |
志願の背景
1940年頃には日本に非協力的であった朝鮮人の大半が協調的に転向していた[9]。当時、朝鮮人による日本軍入隊のための血書提出は流行しており、1939年には45名、1940年には168名が血書を提出している[9]。後に第5-9代韓国大統領となる朴正煕も血書を提出し満洲新聞1939年3月31日付に掲載されている[9][10]。
また、内務省警保局保安課発行の『特高月報』には、次のような当時の人々の認識や背景が見受けられる。
- 「朝鮮独立の為奮つて陸軍特別志願兵となり、武力を体得して将来の革命蜂起の際に献身すべきなり」[11]
- 「朝鮮人を志願兵にする事は非常に良いことだ。即ち我々は将来志願兵を逆用すれば良い。志願兵は内地人より優秀と聞く。之の優秀なる部隊に呼掛くれば彼等は必ず祖国の為に銃を執つであらう。此の意味に於いて志願兵は忌避すべきではない」[12]
- 「応募者は真に志望するものにあらずして警察より半強制的に勧誘せらるる為止むなく応募するものなり」「応募者は淳朴なる農村青年のみにして有識者は殆ど之に応ぜず、寧ろこれを忌避し居る現状なり」「好条件に釣られ、功利的に走り、除隊後自己の立場を有利に導かんとする輩あり」[13]
陸軍士官学校・陸軍幼年学校
日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校では、朝鮮人へも門戸を開放していた。また、 満州国軍の朝鮮人軍人も陸軍士官学校に派遣留学することがあり、朴正煕韓国大統領は満州国軍の士官任官後、同校で教育を受け卒業している[14][15][16][17]。
第11期生
第15期生
第23期生
第26期生
第27期生
第29期生
第30期生
第42期生
第45期生
第49期生
第50期生
- 李龍文
- 池麟泰 - ノモンハン事件で戦死
第52期生
第53期生
- 申應均
- 朴在興
第54期生
- 金貞烈
- 姜錫祜 - アドミラルティ島で戦死
- 盧泰順 - ビルマで戦死
第55期生
第55期相当生
第56期生
第56期相当生
第57期生
- 金泳秀 - フィリピンで戦死
- 金鎬梁
- 鄭祥秀 - 沖縄で戦死
第57期相当生
第58期生
第58期相当生
- 崔周鍾
- 姜泰敏
第59期生
- 張昌国
- 洪承華
- 金光秀雄 - 本名不明
第59期相当生
- 姜文奉
- 黄澤林
- 李容述
- 金泰鍾
第60期生
- 張志良
- 李連洙
- 趙炳乾
- 金泰星
- 李成九
- 李在鎰
第60期相当生
- 金潤根
- 金世鉉
- 鄭正淳
- 金鶴林
- 金基濬
- 金錫権
- 李遇春
第61期生
- 鄭萬永
- 趙炳夏
- 金銀銖
- 金次経
- 崔鎔基
- 金仲煥
- 趙哲衡
- 呉一均
軍人軍属の内訳
日本の厚生労働省(1990年、1993年返還名簿・当時厚生省[18])の統計によれば、朝鮮人の軍人軍属は24万2,341人であり、そのうち2万2,182人が第二次世界大戦で死亡または不明となり帰国していない。
民族 | 分類 | 動員 | 復員 | 不明又は 戦没 |
不明又は 戦没率 |
---|---|---|---|---|---|
朝鮮人 [19] |
全体 | 242,341人 | 240,159人 | 22,182人 | 9.2% |
軍人 | 116,294人 | 110,116人 | 6,178人 | 5.3% | |
軍属 | 126,047人 | 110,043人 | 16,004人 | 12.7% | |
台湾人 | 全体 | 207,183人 | 176,879人 | 30,304人 | 14.6% |
軍人 | 80,433人 | 78,287人 | 2,146人 | 2.7% | |
軍属 | 126,750人 | 98,590人 | 28,160人 | 22.2% | |
日本内地人 | 全体 | 7,814,000人 | 5,514,000人 | 2,300,000人 | 29.4% |
民族 | 有罪 | 死刑 |
---|---|---|
朝鮮人 | 129人 | [21] 14人 |
台湾人 | 173人 | 26人 |
日本内地人 | 5369人 | 922人 |
補償と諸問題
弔慰金等の給付内容
対象 | 名目 | 金額 | 給付者 |
---|---|---|---|
戦没者遺族 | 弔慰金(一時金) | 260万円 | 遺族 |
重度戦傷病者 | 弔慰金(一時金) | 260万円 | 遺族 |
重度戦傷病者 | 見舞金(一時金) | 260万円 | 本人 |
重度戦傷病者 | 重度戦傷病者老後生活設計支援特別給付金 (一時金。見舞金と同時に支給) |
260万円 | 本人 |
重度戦傷病者とは
- 一眼の視力が、視標0.1を2メートル以上では弁別できないもの
- 一耳の聴力を全く失い、他耳が通常の話声を1.5メートル以上では解し得ないもの
- 一側の腎臓を失ったもの
- 一側のおや指を全く失ったもの
- 一側のひとさし指から小指までを全く失ったもの
- 一側の足関節が、直角位で強剛したもの
- 一側のすべての足ゆびを全く失ったもの
サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、日本国籍を離脱した朝鮮人日本兵(軍属を含む)に対しては、1965年 「日韓基本条約」及び「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」「同上協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」に従い、本来大韓民国がその補償の義務を負うが、様々な歴史的経緯と政治的事情を鑑み、平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律(法律第百十四号(平一二・六・七))により以下の内容で弔慰金、見舞金を支給した。なお、在日韓国人旧日本軍軍人軍属等に対する補償の問題については、1965年(昭和40年)の日韓請求権・経済協力協定により、法的には日韓両国間で完全かつ最終的に解決済みとされ全ての訴訟(次節参照)は原告敗訴となっている。
裁判
1991年11月12日 韓国・朝鮮人元BC級戦犯者7人は日本政府・日本軍が負うべき戦争責任を肩代わりさせられたとして日本政府を相手取り提訴した。
- 1996年9月9日 東京地裁で第一審判決 請求を全面棄却
- 1998年7月13日 控訴審判決――原告側請求棄却
- 1998年10月19日 最高裁判所に上告
- 1999年12月20日 最高裁判決言渡――上告棄却・判決確定
著名な朝鮮人日本兵
旧日本軍出身の韓国人は、日本統治終了後、韓国軍の主力として朝鮮戦争などでも指導的役割を果し、第18代(1969年)までの韓国陸軍参謀総長は全て旧軍出身者で占められていた。21世紀になると、日本軍の将官、高級将校を務めたものは貴族院議員、衆議院議員、道知事、裁判官、朝鮮総督府高官などを務めた朝鮮人と同様に親日反民族行為者と認定されている。他方、北朝鮮においては、旧軍の将校以上の地位にあった者は対敵協力者としてほとんどが粛清され、ソビエト連邦の士官養成教育を受けた者たちが朝鮮人民軍将校団の主軸となった。
将官
- 洪思翊 - 中将(戦犯処刑)
- 趙東潤 - 中将
- 李秉武 - 中将(丁未七賊)
- 趙性根 - 中将
- 魚潭(西川潭一) - 中将
- 李垠 - 中将(李王)
- 李煕斗 - 少将
- 金應善(宇都宮金吾) - 少将
- 王瑜植 - 少将
佐官以下
- 李應俊(香山武俊) - 大佐(韓国軍中将、初代参謀総長)
- 金錫源(金山錫源) - 大佐(金鵄勲章、韓国軍少将)
- 安秉範(亀村貞信) - 大佐(韓国軍准将、朝鮮戦争で自決)
- 李鍝 - 大佐(広島市への原子爆弾投下により被爆死)
- 李鍵(桃山虔一) - 中佐(李王家、日本に帰化)
- 衛喨 - 満州国軍中佐[22]
- 蔡秉徳(大島秉徳) - 少佐(韓国軍少将、参謀総長、朝鮮戦争で戦死)
- 白洪錫(徳川英一) - 少佐(韓国軍准将、韓国在郷軍人会初代会長)
- 金貞烈(香川貞雄) - 大尉(韓国軍大将、第19代首相)
- 丁一権(中島一権) - 満州国軍憲兵大尉(韓国軍参謀総長、第9代首相)
- 崔貞根(高山昇) - 中尉(所属していた第66戦隊から「特攻戦死」を認定され、陸軍第六空軍から感状も出された)[23]
- 金擎天 - 中尉(抗日パルチザン、ソビエト連邦の大粛清により粛清)
- 池青天 - 中尉(抗日パルチザン、韓国無任所大臣)
- 朴正煕(高木正雄) - 満州国軍中尉(韓国軍少将、韓国大統領)
- 白善燁 - 満州国軍中尉(韓国軍大将、韓国軍連合参謀会議議長)
- 張都暎 - 少尉(韓国軍中将、参謀総長、国家再建最高会議議長)
- 崔慶禄 - 少尉(韓国軍中将、参謀総長、交通相、国会議員、駐日大韓民国大使)
- 安光鎬 - 少尉(ko)(韓国軍准将、大使、大韓貿易振興公社社長)[1]
下士官兵
- 李厚洛(駐日大韓民国大使、KCIA部長、軍人、政治家)
- 金永吉(歌手)
- ヤン・キョンジョン(実在については諸説あり)
- 麗羅(小説家)
- 金寿煥(のち枢機卿、学徒兵だが朝鮮人差別に抗議したことで候補生資格剥奪[24])
- 李根晳 - 准尉(韓国空軍准将)
- 李仁錫 - 上等兵、志願兵初の戦死者[25]
脚注
- ^ 延世大研究教授の辛珠柏は朝鮮人への徴兵制適用(徴兵検査開始)が、1944年と遅かった理由について、「植民地の軍人に武器を与えて軍事訓練をさせることは、支配者側から見れば相手に最高の信頼感を持って初めてできる。日本語や日本文化をかなり習得していないと都合が悪い」と語っている“【あの時代 韓国発 日本統治と私】<7>収奪論 近代化論”. 西日本新聞. (2009年8月14日) 2010年12月10日閲覧。
- ^ “Chosun Online|朝鮮日報”. 朝鮮日報. (2015年7月26日) 2015年8月21日閲覧。
- ^ “Chosun Online|朝鮮日報”. 朝鮮日報. (2015年8月17日) 2015年8月21日閲覧。
- ^ a b c d e 「朝鮮出身兵取扱教育の参考資料送付に関する件陸軍一般へ通牒」 アジア歴史資料センター Ref.C01007778900
- ^ 宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」
- ^ “半島人志願兵制度愈々きょうより実施”. 神戸大学 電子図書館システム・神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(45-009). 満州日日新聞 (1938年4月4日). 2018年11月6日閲覧。
- ^ 1937年11月24日朝鮮軍参謀長加納誠一「朝鮮人志願兵問題ニ関スル回答」
- ^ 「朝鮮及台湾ノ現状/1 朝鮮及台湾ノ現況 1」 アジア歴史資料センター Ref.B02031284700
- ^ a b c 「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(2) 中央日報 2012年04月04日
- ^ 『血書、軍官志願 半島の若き訓導から』満洲新聞1939年3月31日付
- ^ 1938年11月、内務省警保局保安課「特高月報」
- ^ 1941年9月、内務省警保局保安課『特高月報』
- ^ 1941年12月、内務省警保局保安課『特高月報』
- ^ “일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개” (韓国語). ハンギョレ 2009年12月30日閲覧。
- ^ “朴正煕 満州軍官学校 志願の時 "命捧げて忠誠" 血書は事実”. ハンギョレサランバン (2009年11月6日). 2009年12月30日閲覧。
- ^ “박정희 만주군관학교 지원때 “목숨바쳐 충성” 혈서 사실로 민족문제연구소, 당시 신문 공개” (韓国語). ハンギョレ 2009年12月30日閲覧。
- ^ “日本陸軍士官学校卒業後 抗日連合軍を攻撃”. ハンギョレサランバン (2009年11月5日). 2009年12月30日閲覧。
- ^ 第071回国会 社会労働委員会 第16号 昭和四十八年七月三日(火曜日)午前十一時十五分開会 (参議院)議事録 政府委員答弁より作成
- ^ 1990年厚生省
- ^ 中国とソビエト分を除く
- ^ ここでは軍人軍属だけを計上している。その他の定義によれば、23人
- ^ “満洲国の邦人武官をも襲撃 身をもって免かる”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年9月19日). 2011年10月2日閲覧。
- ^ 木村幹 (2015年6月5日). “朝鮮半島の「英霊」達:日本の戦争のために死んだ人々への礼遇と敬意について考える”. ハフィントン・ポスト 2015年8月21日閲覧。
- ^ “8.戦場で(上)”. カトリック平和新聞. (2003年7月6日) 2018年3月2日閲覧。
- ^ “発掘沃川現代史- 「兄が利用されたこと...」”. 沃川新聞. (2003年9月27日) 2018年3月2日閲覧。
参考文献及び外部資料
- 近藤釼一編 太平洋戦下の朝鮮及び台湾 朝鮮の治政 友邦協会朝鮮史編纂会 合本版 (1961).
- 篠原正巳著 台中 日本統治時代の記録 台湾区域発展研究院台湾文化研究所 (1996) .
- 高木健一 戦後補償の論理 れんが書房新社 (1994) ISBN 4846201554
- 特高月報 「特高月報」昭和16年2月分-17年1月分 政経出版社 複製版