コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朴範集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴範集
박범집
生誕 1917年
咸鏡南道新興郡
死没 1950年11月12日
咸鏡南道咸興市
所属組織 大日本帝国陸軍
大韓民国空軍
最終階級 少佐(日本陸軍)
少将(韓国空軍)
墓所 国立ソウル顕忠院将軍第1墓域1号
テンプレートを表示

朴 範集(パク・ポムジプ、박범집1917年-1950年11月12日)は大日本帝国陸軍軍人及び大韓民国の軍人。韓国空軍創設者の1人。創氏改名時の日本名東林益範[1]

経歴

[編集]

1917年3月、咸鏡南道新興郡に生まれる。1939年9月、陸軍士官学校第52期砲兵科卒業。同年11月1日、陸軍砲兵少尉[2]。1940年6月、陸軍航空士官学校卒業[1]。航空兵大尉として服務[1]立川陸軍航空整備学校教官として在任中の1943年9月20日、武山(崔鳴夏)大尉など朝鮮人航空将校戦死者の追慕と航空兵志願の勧誘が毎日新報に掲載された[1]第2次世界大戦終戦時は岐阜陸軍航空整備学校中隊長[3]

解放後は韓国空軍の創設に参加。1948年4月に航空幹部要員として歩兵学校に入校。同年5月に卒業して任少尉(軍番50002番)。1948年7月20日、陸軍航空司令部参謀長[4]。1949年6月28日、陸軍本部航空局長(中領[5]。1949年10月1日、空軍本部参謀副長[4]。空軍参謀総長になる機会があったが、自分は整備出身だからと金貞烈に譲ったという[6]

朝鮮戦争が勃発すると、1950年7月に陸海空軍合同戦闘指揮所長[1]。1950年11月に故郷を訪問[6]。故郷を去る際に乗機が墜落して死亡(敵地で死亡したため戦死扱いとなる)[6]。少将に昇進。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 886.
  2. ^ 官報.1937年11月2日9コマ
  3. ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1777頁。 
  4. ^ a b 韓国国防部 1971, p. 477.
  5. ^ 金暻綠 (2009). “6⋅25전쟁 이전 공군의 창군과 전력증강”. 軍史 (国防部軍史編纂研究所) 73: 65-99. 
  6. ^ a b c “<291>제3話 빨간 마후라 -41-박범집 공군참모차장의 전사” (朝鮮語). 국방일보. (2005年5月24日). http://kookbang.dema.mil.kr/kookbangWeb/view.do?ntt_writ_date=20050524&parent_no=1&bbs_id=BBSMSTR_000000000228 2018年2月1日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 裴淵弘『朝鮮人特攻隊「日本人」として死んだ英霊たち』新潮新書、2009年。 
  • 韓國戰爭史第4巻 總反擊作戰期(1950.9.15~11.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2018年10月27日閲覧。
  • 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 1. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-03-2 
軍職
先代
-
大韓民国の旗 大韓民国空軍本部参謀副長
初代:1949.10.1 - 1950.11.28
次代
崔用徳