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2020年8月5日 (水) 09:40時点における版

ルー大柴
本名 大柴 亨
生年月日 (1954-01-14) 1954年1月14日(70歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都新宿区富久町
血液型 A型
身長 172cm[1]
言語 日本語
方言 共通語
事務所 Carino
活動時期 1977年 -
同期 小堺一機
所ジョージ
村上ショージ
配偶者 あり(1981年 ‐ )
公式サイト ルー大柴オフィシャルブログ『TOGETHER』
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ルー 大柴(ルー おおしば、1954年1月14日 - )は、日本お笑いタレント俳優、茶人。本名、大柴 亨(おおしば とおる)。茶人名としては大柴宗徹[2]山野美容芸術短期大学客員教授[3]遠州流茶道師範。浅井企画2008年1月末まで)→株式会社Carino所属。

東京都新宿区富久町出身。立教高等学校(現・立教新座高等学校)卒業。

略歴

第二次世界大戦後にシベリア抑留から引き揚げてきた父と日本で知り合った母との間に、東京で生まれた。父親は旧満州ハルビンで生まれ育ち、ロシア語中国語英語に堪能で、幼少の大柴にハグキスをするような人物だった。また、大柴の父方の祖父はロシアウラジオストクで宝石商を営み、ロシア革命後に満州に移り、日本軍に飛行機を一機寄付してしまうほど富裕だった。母親は再婚で、既に2女の親だった[4]。母親の実家は印刷所を営んでおり、父親は婿養子に入っていた。

両親が不仲になったこともあり、高校卒業を機に家を出て独立。欧米各地で、自作のアクセサリーを露天販売しながら数年間放浪。これを機に英会話が特技となる。

帰国したときには両親は離婚しており、一旦は実家が経営する印刷会社に就職するものの即退職。三橋達也付き人を経て、1977年にテレビドラマ『俺たちの朝』で俳優としてデビューする(ただし、一話限りの出演でそれも端役扱い)。1979年勝新太郎が主宰した『勝アカデミー』に第一期生として参加。講師だった岸田森の教えを受けた。この時、同期だった小堺一機と知り合う。この間、俳優業は鳴かず飛ばずで、司会業やモデル業をして雌伏の時を過ごす。また、この時期に関根勤とも知り合う。

折り込みチラシなど、モデル時代の事務所のパンフレットに掲載されていた“カジュアルなスタイルにウエストポーチをつけた格好”が『スーパーギャング・コサキン無理矢理100%』で話題となり、番組内で“ポシェット・ルー”として人気に火がつく。後に番組内でレギュラーとしてポエムコーナー『ルー大柴のパックインミュージック』が出来るまでになった。

1989年、関根の主宰する劇団『カンコンキンシアター』の旗揚げに参加し、その独特のキャラクターが脚光を浴びる。

アデランスのCMでの「トゥギャザーしようぜ!!」のキャッチフレーズで一躍有名になる。その当時、大柴は既に35歳で完全に遅咲きだった。

1992年、第29回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞受賞。

また『浅草橋ヤング洋品店』の司会、『笑っていいとも!』曜日レギュラー、NHK大河ドラマ花の乱』や、舞台『ハムレット』などに出演。またタレントとしてのキャラクターとは裏腹な演技力を発揮する俳優としての側面も持ち、近年では舞台俳優としても多くの作品に参加している。

1990年代前半の短期間のブレイク後、しばらくはカンコンキンシアターをはじめとする舞台演劇に活動の重点を置いていたせいもあり、テレビでの出演機会が少なくなり世間の露出度としては「控えめ」の状態が続いた。

しかし、2007年初頭頃からは「クド過ぎるブログ」と発言自体が「ルー語」と言われ、以前ならば最も嫌われていた女子高生層の間で話題となり、再びブレイク[5]。「寝耳にウォーター(「寝耳に水」の意味)」「藪からスティック(「藪から棒」の意味)」などのギャグで露出が増加する。

みんなのうたにも起用された自身のCDがきっかけで、ワンガリ・マータイが提唱したMOTTAINAIプロジェクトに賛同し、テレビ出演時にはそのTシャツを着ていることが多い。

2008年、所属する浅井企画をマネージャーと共に退社し独立。

2010年4月遠州流より準師範を許可され、当代家元小堀宗実より、宗徹(そうてつ)の名前をいただく。

2012年10月、「ルー語」の英語と日本語が混ざった独特の口調でナビゲートしてくれるAndroid™端末用カメラアプリ「ルー大柴のCameraでLet's TOGETHER」をリリース

2013年4月 遠州流より師範を許可される。茶道当代家元小堀宗実お家元より貫庵(かんあん)大柴宗徹(そうてつ)の庵号を与えられた。

芸名の由来

  • 役者活動を始めた22歳の頃は大柴允人(まさひと)、新劇に参加し始めた1983年からは大柴亨介と名乗っていた[6]。しかし、「大柴亭」「大紫亭」などのように、落語家の様な名前で誤表記される事が多く、「インパクトのある名前を」と言う事で「ルー大柴」という芸名にした。「ルー」は、本名の「(とおる)」から。大柴曰く、自身が幼い頃に家の中で暴れていたところ、それを見た父親が「ルー台風」と呼んでいたのが由来とのこと[7]。テレビに出始めたころは、新聞見出しに「ノレー大柴」や「ルール大柴」「ルー大紫」「ルー太柴」「ルー芝浦」「ルー犬柴」と誤表記されたことがあった。また、初めて書いたサインに対しては、「ノレー大紫(のれーおおむらさき)さんですか?」と聞かれたという逸話もある。
  • クイズ!ヘキサゴンII』内の「日本列島クイズの旅」コーナーにおいて、町人から「ルーキー大島」「ルーキー柴」「ルー大島」「大ルー柴」「ウー大柴」と答えられるなど、一般に芸名が浸透していない事をうかがわせている。しかし、2008年春に放映の『島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!』内において、一般人へのアンケートの結果、知名度が出演者の中で最も高い97%であった事に、本人も島田紳助も驚嘆すると共に喜んだシーンがOAされた。

人物

  • 自称「職業は旅人」。愛車は2代目トヨタ・プリウス。1981年に結婚した妻の万規[8]との間に2人の息子がいる。
  • 俳優を目指して研鑚を積み、数々の舞台・テレビでは一般庶民も含めた様々なキャラクターを演じ、ミュージカルタイトル・ロールもこなして見せるなど、演技者としての力量は高い。完全に抑制した、地味な脇役もこなせる。しかし大柴と言えば、くどくてアクと押しが強くやや空回りしたようなキャラクター、またうるさすぎるタレントとしての顔の方が有名である。本人は自分の芸風を「西川のりおをおしゃれにしたような芸風」と、テレビ番組で語っている。
  • 小堺や関根が指摘するように、常識がないというわけでもない所も特徴的である。実際、テレビに出演している時は絶えずモニターをチェックし、モニターチェックが終わった後にはスタッフに「今のよかっただろ?」と、確認するほどである。
  • タレントとしてはキャラクター作りとして「Togetherしようぜ!」「この間department storeで」「Januaryで50歳になるんだよ!」など、会話の中に簡単な英単語を入れるのが特徴(しかも我流当て嵌めで文法にも適っておらず正しくない)。その発端は、高校生時代に帰国子女の同学年生と交際していて、どうしても言葉の端々で英単語が出てしまうから、と述べている[9]。また、実父が満州生まれで日本語は無論の3カ国語をも自由に話せるマルチリンガルであったという、幼少時の体験も少なからず影響していた。
  • 一方でラジオで共演した伊集院光に対して、それまで英単語を混ぜてしゃべっていたにも関わらず、別れ際に「さらば!」と日本語であいさつしたことを、後で突っ込まれていた。また関根勤のことを「トム」、関根の娘・麻里のことを「メァ〜リ〜」と呼び、前述の伊集院光のラジオ番組内では、恩師・勝新太郎のことを「“ビクトリーNEW太郎”」と呼んでいた。
  • また俳優を目指していた経緯から演劇指向が強く、舞台に生きる自らの事を「板人(いたじん)」、また『カンコンキンシアター』では、後輩達に自身の事を「板長(いたちょう)」と呼ばせようとしている。業界でもそんな呼び名はないが、板=舞台の長として団員をまとめあげる、座長の直下のポストであるという自負から来た造語であると推測される。実際、『カンコンキンシアター』では、年齢的にもキャリアも座長の関根に次ぐ年長者でもあり、舞台公演時にカーテンコールで座長を紹介できる唯一の人物でもある。
  • 小堺や関根は、普段の素顔はテレビのキャラクターは必ずしも当てはまらず、実像はよく気がつく人柄のいい人物だと評価している。
  • 水辺の生き物が好きで、趣味の一つに“ローチ”の飼育があり、川などに出て採集したり、白変種などを観賞魚店で買い求めている。現在まで続いている“ローチ”との出会いと付き合いは、1998年頃、大柴のテレビ出演が激減しスケジュール帳はいつも真っ白の時期に、息子が通う自然教室についていった際「どじょうってかわいい」と開眼したのがきっかけ。当時の大柴は自ら「人生の“バッドタイム”」であったと思っていたが、今思えばそれは必要な時間だったかもしれないと語っている[10]。2006年11月に観賞魚雑誌の月刊アクアライフ2006年12月号で、インタビューを受け、飼育風景の一部が掲載され、その後同誌2007年5月号から連載を開始した。記事の内容は川や用水路での採集や、珍しい“ローチ”の紹介、時には大学の研究室(“ローチ”関係の研究を行っている研究室である)を取材することもあり、独特な文章と裏腹にかなり専門性が高い内容となっている。愛魚には10年以上飼育したヒドジョウのチャッピーなどがいる。2007年6月に『ゆうどきネットワーク』にゲスト出演し、密着取材でオフの日に多摩川で小魚採取に興じる大柴を特集した。『どうぶつ奇想天外!』でも、魚部の子供たちと魚捕りをした。
    自宅でくつろぐ方法の1つに、愛する“ローチ”たちを眺め、バッハG線上のアリアを聴きながら“ポテト焼酎”をゆっくり飲むスタイルであると語っている。
  • 横浜が好きで、コサキンではよく横浜好きをアピールしていた。

交友関係

  • 福山雅治とは、福山の新人時代からの交友関係で、当時まったくの無名だった彼に親身になって相談に乗ったりアドバイスしたりしていた。彼のアルバムの帯にタイトルバックして欲しいと頼まれて快諾し「僕のようにビッグになりなよ!」と書き込んだこともあるが、大柴曰く「今じゃ福山君の方が遥かにビッグになってしまった」。
    福山からは今も定期的に電話が掛って来るらしく、一度「ルーさんの自宅にお邪魔していいですか?」と言われたが、大柴の妻が彼の大ファンで妻曰く「恐れ多い」との事で流れてしまった。
  • 関根の娘・関根麻里とも長い付き合いがあり、クリスマスの日にルーがサンタクロースに変装し、関根家に来たことがある[11]
  • 石田純一とは生年月日・血液型が全く同じでよくネタにしており、これまでに二人は『快傑!ドクターランド』や『ダウンタウンDX』等で顔合わせをしており、後者によるところでは生年月日も血液型も同じなのに生き方が違っていることを羨ましく思っているが(例えば石田に離婚歴と再婚歴があっても自身にはない)、実際には以前から仲がよいことを自身のブログで語っている。
  • 2007年5月18日に『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に登場した際には、福山雅治から花が届いた。大柴は次の回お友達として、谷原章介を紹介している。また、ブレイク前の福山とラジオ番組で共演した際には、福山に色々とアドバイスをしていた[12]
  • 1990年代前半の短期間のブレイク後はテレビ出演が激減し舞台活動がメインになっていたところ、「ルーさん最近テレビに出てないね」と“風のボイス”が大柴の耳に入るようになっていた。そんな折2005年に現在のマネージャー(兼所属事務所社長)と出逢い、「今の感じでやっていたら60歳までもたない。もう一度チャンスを掴みたいんだったら今のルー大柴を捨てたほうがいい」と仕事に対する意識変革を促されたことがきっかけで、「50歳になって、今までの自分にないことをしよう」という趣旨で自らのブログを開設する事にした。そのブログに関しての話題が「2006年の“ノーベンバー”頃から、2ちゃんねる経由で火がつき」、世間の人々が注目するようになった[13]。大柴は、この出逢いを「砂浜に落としたダイヤモンドを見つけたくらいのデスティニー」と表現し、浅井企画からの独立以降も二人三脚で新しい芸風に挑んでいる[14]

エピソード

  • 坂上二郎に好かれていた。ゴルフコンペで大柴と坂上がペアになったとき関根は、坂上に「ルーに気をつけて下さい」とあらかじめ伝えた。しかし、コンペ終了後に「ルーはどうでした?」と尋ねたところ「いいね、好きになっちゃったよ」と、坂上は上機嫌だった。この話を披露した後、関根は「俺が坂上さんに心を開いてもらえるまでは30年かかった」と述べている[15]
  • ラッキィ池田が離婚問題で悩んでいたときに心配して『浅草橋ヤング洋品店』に出演させ、「男の涙は屋台で泣け!」というコーナーを設けて未練を断ち切らせた。
  • かつて『森田一義アワー 笑っていいとも!』では、ダウンタウン・関根勤と共に月曜レギュラーとして出演。タモリ・ダウンタウンからかなり鬱陶しがられていたが、近年『ダウンタウンDX』などで再び共演し、ダウンタウンから「久しぶりに絡むと面白い」と再評価された。
  • 『笑っていいとも!』のワンコーナーで、大柴に関する情報やネタが寄せられた際、ピザ・パスタチェーン店『るーぱん』にちなむ「ルーパン」という、大柴の顔に似せた自家製パンにほくろ部分を正露丸を使用したパンが視聴者から送られたことがあった。
  • 大柴が弟分と称している福山雅治は、ルーマニアを公言している。
  • 2003年放映の『探偵!ナイトスクープ』にて「まさか!?祖父がルー!?」の依頼VTRに出演して依頼者宅の亡祖父役を務めた結果、依頼者だけでなく大柴自身も号泣し、スタジオ中が感動に包まれた。この時に探偵を務めていた普段“お涙モノ”に無縁の桂小枝ですら、依頼者と共に涙ぐみ、進行役である局長の西田敏行も感動していた。この依頼を機に顧問として『ナイトスクープ』に出演するようになった。大柴自身も「今まで出たテレビの中で、こんなに素晴らしい番組に出たのは初めて」と語ったほどであり、現在も『ナイトスクープ』出演時には本番収録前後にABCホールの客席を隅々まで回ってパフォーマンスを行うことが恒例となっている。また、依頼に対しても、真面目にコメントしている。
    • 2007年5月18日、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際、この時の孫から電報が届き、大柴はこの時の『ナイトスクープ』のことを話した。また、2007年12月14日放送の『ナイトスクープ』において、「(再ブレイクの)はじまりは、この番組からでした」と語るなど、大柴本人にとっても再ブレイクのきっかけは『ナイトスクープ』視聴者によるイメージアップからと認識していたことがうかがえる。
  • 俳優志望時代に『太陽にほえろ!』(日本テレビ)の出演者オーディションを受験したことがある。その時に、彼は自ら考案したキャラクター「アムステルダム帰りの“アムス刑事”」を選考で提案したが、合格には到らなかった。「アムス刑事」の選考時の提案方法は「ボス、俺を“アムス”と呼んで下さい! アムステルダム帰りの“アムス”です!」。なお、この時の合格者が勝野洋(テキサス刑事)であり、大柴は勝野が『太陽にほえろ!』降板後に主演した『俺たちの朝』に一話だけゲスト出演(ただし、メインではなく端役)して共演。役柄は、勝野演じるうだつの上がらない水泳コーチの職を奪ってしまうエリートの元オリンピック選手。当時の俳優としてキャリアにおいては勝野は超人気者で、一方の大柴は芽が出ない時代で、まさに劇中の境遇はあべこべだった。また、勝野とは大河ドラマ花の乱』でも共演している。
  • 本人のコメントなどから、西川のりおと芸風が似ているという理由だけで『関口宏の東京フレンドパークII』では「友達同士」としてブッキングされ、出演している。ただし、両者にあまり面識はない。
  • 『ダウンタウンDX』などのフリートーク番組などで、しばしば過去の話として勝新太郎のエピソードを話す。中でも『警視-K』の、主人公のに商品を薦める紳士服店員の役の話は、おおむね当時の映像と共によく出ている。
  • 「音痴」なことでも有名で、「ルー節」とも呼ばれる歌い方は、コサキンのラジオ番組ではたびたびネタにされている。『YOKOHAMA』という曲では、気持ち悪い歌い方でコサキンの失笑を買う。
  • 夢はアカデミー主演男優賞受賞だが、『MOTTAINAI 〜もったいない〜』で“レッド・ホワイト歌合戦”出場も夢だと『徹子の部屋』において黒柳徹子に語った。
  • 2007年、森喜朗が会長を務める『ゆうもあ大賞』を受賞・表彰された。表彰式では森が表彰状の文面を何回か噛みながら読み、特に「〜ファンから『ルーマニア』と呼ばれ…ん? ルーマニアは、国名だろう」と言った際には、MCやルー本人からフォローを入れられていた。同時に表彰された太田光は受賞後のスピーチで「〜“サドゥンリー”、僕がユーモア賞を表彰されると“藪からスティック”に聞かされて…」などと発言し、その都度大柴は「おいそれ俺のネタだからさ」と突っ込んでいた。
  • アクの強いキャラクターが災いして、再ブレイク前は出川哲朗江頭2:50とともに「女性が嫌いなタレント」(週刊誌フライデー調べ)の常連であった。
  • 1996年11月6日の「テレフォンショッキング」では登場した際に観客に「いえ〜い!元気かぁ!」と発言し、観客も「いえ〜い!」と応えていた。
  • 若い頃はイタリア人アラブ人に顔が似ていたと発言しており、地中海の顔と認めている。
  • ブログに載せた22歳の頃の写真が嵐の二宮和也にそっくりで猫背気味な姿勢まで似ており、インターネット上で話題になった。番組で本人と見比べる企画があり、二宮は「似てないよ」と否定したが、共演者からは「瓜二つ」と言われた。
  • 1990年代にテレビの企画でジャッキー・チェンのオフィスを訪れ、彼と対談してオフィスを案内してもらった。

出演

テレビ番組

ラジオ番組

テレビドラマ

映画

オリジナルビデオ

ゲーム

声の出演

CM

その他

舞台

著書

雑誌連載

  • 月刊アクアライフ(毎月11日発売 株式会社エムピージェー)「ルー大柴PRESENTS リバーとトゥギャザーキャッチキャッチキャッチ!」

音楽

DVD

  • 楽しい夜遊び STEPPER'S PARADICE with ルー大柴 2007年5月30日発売
  • ルー大柴革命 〜ルー語でトゥギャザーしようぜ!〜 2007年8月24日発売
  • 爆笑アニメ版!問題な日本語 2008年5月15日発売
  • ルー語で覚えるお手軽クッキング 2008年5月21日発売
  • ルー大柴のイングリッシュTOGETHER!!~ハワイ篇~ 2009年2月11日発売

受賞歴

脚注

  1. ^ http://www.carino-models.com/lou/index.html
  2. ^ ルー大柴公式ブログ2010年4月13日「頂きました!」
  3. ^ ルー先生からひとこと 山野美容芸術短期大学
  4. ^ 文藝春秋』 - 2007年10月
  5. ^ ルー大柴ブログが人気 「トゥギャザーしようぜ!!」J-CASTニュース 2006年12月25日 11時42分
  6. ^ シンコー・ミュージック 『ルー大柴のLIFE IS ONCE』より
  7. ^ 『文藝春秋』2007年10月
  8. ^ シンコー・ミュージック 『ルー大柴のLIFE IS ONCE』P69より
  9. ^ 『ろみひー』『英語でしゃべらナイト』で本人談
  10. ^ 2008年6月、株式会社ユートシャルム発行「からころ」内のコーナー『わたしの気分転換』インタビューによる。その際、テレビから遠ざかっていた頃を支えてくれた“ワイフ”と、その後「ブログを始めてみては?」と勧めてくれたマネージャー・増田に感謝していると語っている。
  11. ^ 『コサキン無理矢理100%』にて勤が言及。
  12. ^ サンデージャポン』SONYの近藤プロデューサーのWEBラジオのゲストとして登場。その後夕食を、近藤プロデューサーと彼が手がけている歌手YUIも誘って行った。その際、大柴の息子がファンで息子にサインをお願いされたため、YUIにサインをお願いした。YUIには人間性に共感し、その場でファンになった。家ではそのときもらったCD「YUI CAN'T BUY MY LOVE」を聴いて感動して泣いた、と自身のブログで綴った。その後、大柴のブログはYUI効果でコメントが殺到した。
  13. ^ 読売新聞』2007年12月26日
  14. ^ 『My振袖』インタビュー特集内
  15. ^ 雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』にて、関根
  16. ^ ルー大柴さんですよね…? 「いいえ、貫庵大柴宗徹でございます。」”. TBSラジオ (2017年10月26日). 2017年10月27日閲覧。
  17. ^ ルー大柴一人芝居 『ライスカレー』
  18. ^ 過去のMen of the Year受賞者たち【国内編】”. GQ JAPAN. 2014年11月21日閲覧。

関連項目

外部リンク

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